祈祷会 士師記9:42~57「人の罪とキリストの十字架」 2024.9.11
旧約聖書を読んでいますと、人間の罪が、人間の現実が嫌と思うくらいに出て来ています。時には目を背けたいと思うこともあります。でも、目を背けず直視することによって、大切なことを学ぶことができると思いますし、イエス・キリストの十字架の意味をより深く知ることができるのではないかと改めて思うのです。士師記9章は、士師ギデオンの子どもたちの物語です。ギデオンは神を信じて大切な士師としての役割をしてきました。しかし、晩年は違う面を見ることになります。ギデオンには多くの妻たちがいて、70人の子どもたちがいました。また、シケムの町に側女からアビメレクが生まれました。このことがギデオンの子どもたちが悲劇につながってまいります。アビメレクは側女の子として、他の兄弟たちからいじめを受けていたと考えられます。アビメレクは大人になると、自分の母親の出身であるシケムの町に来て、町の人たちに、「私の父ギデオンは、あなたたちをミディアン人の脅威から救い出した。それで、ギデオンの70人の息子たちに治められるのと、私に治めされるのとどちらが得か、考えてください。ただし、私はあなたたちの肉親です。」と聞きます。すると、シケムの町の人々はアビメレクに気持ちが動いていきます。シケムの町の人々は、バアルの神殿から銀70を取って、それをアビメレクに渡します。アビメレクは受け取ったお金で、命知らずのならず者を数名雇い入れて、自分に従わせました。そのならず者と共に、ギデオンのいた家で、70人の息子たちを殺してしまうのです。末の子ヨタムだけが生き延びて、身を隠しました。
ヨタムは、シケムの町の人たちに「アビメレクを王としたことは誠意ある正しい行動だろうか。私の父ギデオンはあなたたちをミディアン人の手から救い出した。それなのに、あなたたちはその息子70人を殺し、自分たちの身内だからというだけで、王とした。その行為はアビメレクから火が出て、シケムをなめつくす。またシケムから火が出て、アビメレクをなめつくす」という呪いをかけています。ヨタムは逃げ去り、アビメレクを避けて生きていきます。アビメレクはシケムで3年間、王として歩みます。ここで神は、アビメレクとシケムの町の人々の間に、険悪な空気を送り込まれたのです。シケムの町の人々はアビメレクを裏切ることになります。ここで、問題をされていることはアビメレクが70人の兄弟たちを殺したこと、そのアビメレクを身内ちということでシケムの王にしたシケムの町の人たちです。こうして、アビメレクとシケムの町の人々の戦いが始まります。結果的に、アビメレクが勝利し、シケムの町の人々は敗北していきます。そして今日の聖書の箇所です。アビメレクは、シケムの町の人々に対する本格的な攻撃を開始しました。野で待ち伏せして、町から出て来る人々を見つけしだい襲います。アビメレクは1日中、シケムの人々と戦い、町を破壊し、塩をまきます。ミグドル・シケムの首長はこのことを聞いて、エル・ベリトの神殿の地下壕に入りました。そのことを知ったアビメレクは、自分の率いる人々を伴って山に登ります。斧を手に取って木の枝を切り、持ち上げて肩に担います。人々に向かって、自分と同じようにすることを呼びかけます。人々はその通りにしました。地下壕の上に枝を積み、火を付けます。こうしてミグドル・シケムの人々、約1000人が亡くなったと書いています。
アビメレクはまたテベツに向かい、陣を敷き、制圧します。この町の中には堅固な塔があり、男も女も皆、その中に逃げ込んで立てこもり、塔の屋上に上りました。アビメレクはその塔の所まで来て、攻撃しました。塔の入り口に近づき、火を放とうとしました。その時に、1人の女性がアビメレクの頭を目がけて、碾き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕きます。アビメレクは急いで武器を持つ従者を呼び、「剣を抜いてわたしにとどめを刺せ。女に殺されたといわれないために」といいました。従者はアビメレクを刺し、死にました。イスラエルの人々は、アビメレクが死んだので、それぞれ自分の家に帰って行くのです。この時に、ヨタムの呪いが成就したということができます。アビメレクは自分の兄弟たち70人を殺した罪、シケムの町の人々は、そのアビメレクを自分たちの身内ということでシケムの王としたことの罪、それが問われた結果です。これはギデオンの晩年の行為、多くの妻がいて、息子が70人いたこととシケムの側女がいて、アビメレクが生まれたことに起因していると思います。これは神の問題ではなく、人間自身の問題だと思いますが、士師記9:56~57では、神はアビメレクが70人の兄弟を殺して、父に加えた悪事の報復を果たされたとあります。また神は、シケムの人々の行ったすべての悪事にもそれぞれ報復を果たされたとあります。このようにしてシケムの人々は、エルバアルの子ヨタムの呪いをその身に受けることになったと書いています。
申命記28章には、神の祝福と呪いのことが書かれてあります。これは神の教えを守ることによって、神から祝福を受けること、実際には平和に幸福に生きることができる。日々の生活がよりよいものとなっていくとあります。反対に、神の呪いとは、神の教えを守らないことで、様々な災いを受けることがあります。地上で人間が行う行為が、神の目に届いているということだと思います。
ヘブライ9:26~28
ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
ここには、人は一度死ぬこととと、その後に最後の審判を受けることが決まっていると書かれてあります。この時に、イエス・キリストは、一度目には多くの人の罪を負うために十字架についたこと、二度目にはキリスト者に救いをもたらすために来てくださると書いてあります。私たちの罪とイエス・キリストの十字架のつながりを知ることができます。
祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記を学んでいます。ここには人間の罪の現実が書かれてあり、時にはとても辛い思いになってしまいます。どうして、人間はこんなにも罪を犯してしまうのかと、でもそれが人間の罪の現実であり、そのためにイエス・キリストの十字架が必要なのです。イエス・キリストの十字架を見上げて、信仰生活を送ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございました。