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9月11日の祈祷会の内容です。

2024-09-10 17:32:00 | 日記
祈祷会      士師記9:42~57「人の罪とキリストの十字架」    2024.9.11

 旧約聖書を読んでいますと、人間の罪が、人間の現実が嫌と思うくらいに出て来ています。時には目を背けたいと思うこともあります。でも、目を背けず直視することによって、大切なことを学ぶことができると思いますし、イエス・キリストの十字架の意味をより深く知ることができるのではないかと改めて思うのです。士師記9章は、士師ギデオンの子どもたちの物語です。ギデオンは神を信じて大切な士師としての役割をしてきました。しかし、晩年は違う面を見ることになります。ギデオンには多くの妻たちがいて、70人の子どもたちがいました。また、シケムの町に側女からアビメレクが生まれました。このことがギデオンの子どもたちが悲劇につながってまいります。アビメレクは側女の子として、他の兄弟たちからいじめを受けていたと考えられます。アビメレクは大人になると、自分の母親の出身であるシケムの町に来て、町の人たちに、「私の父ギデオンは、あなたたちをミディアン人の脅威から救い出した。それで、ギデオンの70人の息子たちに治められるのと、私に治めされるのとどちらが得か、考えてください。ただし、私はあなたたちの肉親です。」と聞きます。すると、シケムの町の人々はアビメレクに気持ちが動いていきます。シケムの町の人々は、バアルの神殿から銀70を取って、それをアビメレクに渡します。アビメレクは受け取ったお金で、命知らずのならず者を数名雇い入れて、自分に従わせました。そのならず者と共に、ギデオンのいた家で、70人の息子たちを殺してしまうのです。末の子ヨタムだけが生き延びて、身を隠しました。

 ヨタムは、シケムの町の人たちに「アビメレクを王としたことは誠意ある正しい行動だろうか。私の父ギデオンはあなたたちをミディアン人の手から救い出した。それなのに、あなたたちはその息子70人を殺し、自分たちの身内だからというだけで、王とした。その行為はアビメレクから火が出て、シケムをなめつくす。またシケムから火が出て、アビメレクをなめつくす」という呪いをかけています。ヨタムは逃げ去り、アビメレクを避けて生きていきます。アビメレクはシケムで3年間、王として歩みます。ここで神は、アビメレクとシケムの町の人々の間に、険悪な空気を送り込まれたのです。シケムの町の人々はアビメレクを裏切ることになります。ここで、問題をされていることはアビメレクが70人の兄弟たちを殺したこと、そのアビメレクを身内ちということでシケムの王にしたシケムの町の人たちです。こうして、アビメレクとシケムの町の人々の戦いが始まります。結果的に、アビメレクが勝利し、シケムの町の人々は敗北していきます。そして今日の聖書の箇所です。アビメレクは、シケムの町の人々に対する本格的な攻撃を開始しました。野で待ち伏せして、町から出て来る人々を見つけしだい襲います。アビメレクは1日中、シケムの人々と戦い、町を破壊し、塩をまきます。ミグドル・シケムの首長はこのことを聞いて、エル・ベリトの神殿の地下壕に入りました。そのことを知ったアビメレクは、自分の率いる人々を伴って山に登ります。斧を手に取って木の枝を切り、持ち上げて肩に担います。人々に向かって、自分と同じようにすることを呼びかけます。人々はその通りにしました。地下壕の上に枝を積み、火を付けます。こうしてミグドル・シケムの人々、約1000人が亡くなったと書いています。

 アビメレクはまたテベツに向かい、陣を敷き、制圧します。この町の中には堅固な塔があり、男も女も皆、その中に逃げ込んで立てこもり、塔の屋上に上りました。アビメレクはその塔の所まで来て、攻撃しました。塔の入り口に近づき、火を放とうとしました。その時に、1人の女性がアビメレクの頭を目がけて、碾き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕きます。アビメレクは急いで武器を持つ従者を呼び、「剣を抜いてわたしにとどめを刺せ。女に殺されたといわれないために」といいました。従者はアビメレクを刺し、死にました。イスラエルの人々は、アビメレクが死んだので、それぞれ自分の家に帰って行くのです。この時に、ヨタムの呪いが成就したということができます。アビメレクは自分の兄弟たち70人を殺した罪、シケムの町の人々は、そのアビメレクを自分たちの身内ということでシケムの王としたことの罪、それが問われた結果です。これはギデオンの晩年の行為、多くの妻がいて、息子が70人いたこととシケムの側女がいて、アビメレクが生まれたことに起因していると思います。これは神の問題ではなく、人間自身の問題だと思いますが、士師記9:56~57では、神はアビメレクが70人の兄弟を殺して、父に加えた悪事の報復を果たされたとあります。また神は、シケムの人々の行ったすべての悪事にもそれぞれ報復を果たされたとあります。このようにしてシケムの人々は、エルバアルの子ヨタムの呪いをその身に受けることになったと書いています。

 申命記28章には、神の祝福と呪いのことが書かれてあります。これは神の教えを守ることによって、神から祝福を受けること、実際には平和に幸福に生きることができる。日々の生活がよりよいものとなっていくとあります。反対に、神の呪いとは、神の教えを守らないことで、様々な災いを受けることがあります。地上で人間が行う行為が、神の目に届いているということだと思います。

ヘブライ9:26~28
ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 ここには、人は一度死ぬこととと、その後に最後の審判を受けることが決まっていると書かれてあります。この時に、イエス・キリストは、一度目には多くの人の罪を負うために十字架についたこと、二度目にはキリスト者に救いをもたらすために来てくださると書いてあります。私たちの罪とイエス・キリストの十字架のつながりを知ることができます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記を学んでいます。ここには人間の罪の現実が書かれてあり、時にはとても辛い思いになってしまいます。どうして、人間はこんなにも罪を犯してしまうのかと、でもそれが人間の罪の現実であり、そのためにイエス・キリストの十字架が必要なのです。イエス・キリストの十字架を見上げて、信仰生活を送ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。


9月8日の礼拝の内容です。

2024-09-07 19:53:00 | 日記
9月8日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.200.402.433.25です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/oChocp44qiM?feature=shareです。

礼拝説教     使徒11:11~18「命を与えてくださる方」  2024.9.8

 「イエス・キリストを信じる人は前に出て来てください。」このような呼びかけがあって、私は前に出て行きました。今から約50年前のことです。高校1年生のクリスマス、教会に行って2日目でした。2人の姉妹と共に、着替えて、礼拝堂の前にあるお風呂に入り、洗礼を受けました。どうして前に出て行ったのだろうか。今でもよく分かっていません。何か大きな力に導かれたような思いがありました。教会に行って2日目ですから、キリスト教のことは何も分からない状態といってもいいと思います。洗礼を受けた後、何か、うれしい気持ちだったと思い出すことができます。この時から、約50年後に、今私は瀬戸永泉教会の牧師として、礼拝で説教を語っています。振り返ってみると、今までいろいろなことがありました。悲しいことも辛いことも、どうしていいのか分からない時もありました。それでも神は、この私をこのように導いてくださったのです。

 洗礼を受けた喜び、ここにいる皆様も、それぞれの時に、それぞれの場所で、洗礼を受けたのです。(申し訳ないですが、これからの人もおります。)その時を思い出すことができると思います。洗礼を受けた後、どのような気持ちだったのでしょうか。神に愛されている。イエス・キリストの十字架によって、私の罪は赦された。いつか自分の人生を終える時がやって来ます。その時には、神の御手にすべてを委ねることができているのでしょうか。神の国への期待と、復活の命への希望を持っていくことができるのでしょうか。皆様1人1人に、洗礼を受けた時の、救われたことを思い出して欲しいと思います。神の御手によって導かれて、神の救いに預かることができているのです。大いなる喜びです。その喜びをもう一度、思い出して欲しいのです。

考えてみれば、ユダヤ人ではなく、異邦人の私たちが、当然のように洗礼を受けるということは、使徒言行録の時は当たり前ではありませんでした。今日の聖書の箇所は、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくことをエルサレムの教会が承認した内容が書かれてあります。ペトロによって、異邦人にもイエス・キリストの福音が伝えられ、異邦人が、イエス・キリストの十字架を信じて、洗礼を受けているのです。

 実は、それまで洗礼を受けたのはユダヤ人だけでした。異邦人はまだ受けることができなかったのです。それが使徒10章で、異邦人への伝道が始まっていきます。その働きは、神ご自身が天使を送ってしてくださっています。まず、異邦人への導きがありました。次に、ペトロに、イエス・キリストの福音が異邦人にも伝わっていくために、幻を見せます。その幻は、ペトロの目の前に、食べてはならない動物たちが用意されていました。天使は、ペトロに「この動物を屠って食べなさい」といいます。ペトロは当然のように「私は、律法で禁じられているものは食べることはできません。今まで一度も食べたことはありません。だから、食べることはできません」と答えています。すると、天使は「神が清めたものをけがれたものといってはいけない」といいました。このようなことがペトロに3度も起ったのでした。それは、旧約聖書のレビ記11章にある清いものと汚れたものに対する規定がずっと、ユダヤ人によって守られてきました。それが、イエス・キリストの十字架によって、破られる時が来たことを意味しています。

 天使は、ペトロと異邦人を丁寧に導いて、出会わせています。ユダヤ人であるペトロが異邦人を受け入れていきます。それまで、ユダヤ人は異邦人と交際することも訪問することは許されていませんでした。それが、ペトロが見た幻によって、その壁が壊されて、家に招いたり、招かれたりしています。ぺトロはこのようにして、天使の導きによって、異邦人と出会い、イエス・キリストの福音を語り、神のみ言葉から説教しています。すると、突然に、異邦人の上に聖霊が降っていくのです。

 使徒11:19を読んでみると、ステファノの事件をきっかけにして起ったキリスト者への迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きましたが、ユダヤ人以外の誰にもみ言葉を語っていなかったと書かれてあります。それが、ローマ人コルネリウスの伝道をきっかけに、異邦人の伝道が本格化していくのですが、そのためには、エルサレム教会の承認を得る必要がありました。そのために、コルネリウスらの伝道が終ったペトロは、エルサレムに戻り、教会の人々に、異邦人伝道のことを伝え、そして承認を得る必要があったのです。ユダヤ人キリスト者は、それまでユダヤ教徒として割礼を受けて、律法を守って来ました。ユダヤ人キリスト者にも、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人がいました。ここで問題を提起したのはヘブライ語を話すユダヤ人でした。この時に、多くギリシャ語を話すユダヤ人は迫害のために、エルサレムを離れていたからです。そのヘブライ語を話すユダヤ人でも、割礼を受けることが必要を考えていた人たちでした。ペトロの異邦人伝道のことを聞いた教会のその人たちはある問題を感じた人々がいました。

 それまで、異邦人がイエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わったことではありませんでした。その大きな問題というのは、割礼を受けていない者たちの所に行って、一緒に食事をしたということです。ヘブライ語を話すユダヤ人は、それまで厳格に、自分自身が割礼を受けて、律法を守って来ました。長い伝統といいますか、そのようなことをずっと守って来たのです。それが、神に従う者として、当然の歩みと信じていました。ペトロは教会の代表者なのに、その習慣を平気で破るということは何事かということになっています。

 この割礼を受けたユダヤ人キリスト者の批判に、ペトロは割礼の意味や律法の意味を語り、彼らと論争をすることはありませんでした。ここでペトロが語るのは、神が、イエス・キリストの福音を伝えるためにしてくださった神の御業そのものです。あった事実です。使徒2:1~4で、起った聖霊降臨の日です。

使徒2:1~4
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

五旬祭の時でした。イエス様の弟子たち一同が1つになって集まっていました。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、弟子たちが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、1人1人の上にとどまったのです。聖霊降臨は突然に起りました。このことによって、イエス様の弟子たちに、イエス・キリストの福音を理解することができるようになり、教会が誕生しました。この使徒2:1~4の聖霊降臨の時は、突然、やって来ました。弟子たちの意志ではなく、人間の意志ではなく、神の意志によって、一方的に神によって行われたものです。この出来事に対して、弟子たちは何もいうことはできません。神の行った事実だけを受けるしかないのです。この聖霊降臨の出来事が、弟子たちを強くしました。教会を誕生させました。弟子たちは、初めて、イエス・キリストの福音を知ることができました。教会に集っていたユダヤ人キリスト者たちは、この聖霊降臨の出来事を思い出していたのでしょう。

ペトロはコルネリウスとその家族に、すべての者を救う神の言葉を語っていました。ペトロが話しているうちに、聖霊が、ペトロたちが経験した最初の聖霊降臨の時と同じく、彼らの上に降ったのです。この時に、ペトロは「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたは聖霊によって洗礼を受ける」といっておられたイエス様の言葉を思い出しています。このようにイエス・キリストを信じるようにしてくださったと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私たちのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができるでしょうか。

使徒10:44~45
ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。

 ここに異邦人の上に聖霊が降った様子が描かれています。ここにはペトロと一緒に割礼を受けている信者もいたことが分かります。そして、異邦人の上に聖霊が注がれているのを見て、大いに驚いているのです。この言葉を聞いた割礼を受けたユダヤ人キリスト者たちは、静まりました。あった事実を受け止めるしかないのです。神の行ったことの前に、静かにするしかなかったのです。そして、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったといって、神を賛美しています。このようにして、異邦人伝道がエルサレム教会で承認されていくのです。ここから本格的な異邦人伝道が始まっていきます。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと伝わっていくことをみてきました。エルサレム教会で、異邦人への伝道の承認が行われていく、これから本格的な異邦人伝道、すべての人々への伝道が始まっていきます。その流れで、日本にも福音が伝えられて、教会が誕生し、多くの人々が教会に加わっていくことができていきました。これからも、イエス・キリストの伝道が、この教会を通して行われていきます。1人でも多くの人々が、この神の救いに預かることができますようにと祈り願います。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


9月4日の祈祷会の内容です。

2024-09-03 13:45:00 | 日記
祈祷会    士師記9:21~41「自分の蒔いた種を刈り取る」  2024.9.4

 士師ギデオンは仲間300人で敵のミディアン人13万5千人と戦い勝利しました。多くの困難があってもイスラエルの人々の危機を救ったのです。イスラエルの人々は、ギデオンに敵から自分たちを守ってくれたことで王になることを求めます。しかし、ギデオンはそれを拒否し、神ご自身が王であることを確認していました。しかし、ギデオンはイスラエルの人々に敵との戦いで勝利したことで分捕り品として得た金の耳輪を求めました。多くの金が集まり、それでギデオンはエフォド(大祭司の祭服の前掛け)を作り、自分の町に飾ってしまうのです。ギデオンは多くの妻を持ち、70人の息子たちがいました。それとシケムの側女からアビメレクが生まれたのです。このことが後で悲劇になっていきます。ギデオンは亡くなり父の墓に葬られました。ギデオンの死から、イスラエルの人々は神へ罪を犯し、バアルに従い、バアル・ベリトを自分たちの神とします。イスラエルの人々はミディアン人の苦しみから救ってくれた神のこともギデオンのことも忘れてしまうのです。

 アビメレクはシケムに来て、首長たちに会い「あなたたちにとってエルバアルの息子70人に治められるのと1人の息子に治められるのとどちらが得か考えてください。ただし、私はあなたたちの肉親であることを心に留めてください」といいますと、シケムの首長たちはアビメレクを自分たちの肉親として王になって欲しいと願うようになります。シケムの首長たちはバアルの神殿から銀70をアビメレクに渡します。その金でアビメレクは命知らずのならず者を数名雇い入れ、自分に従わせます。アビメレクはそのならず者と共に、父の家で、自分の兄弟である70人を1つの石の上で殺してしまいます。末の子ヨタムだけは身を隠して生き延びました。シケムの首長たちはアビメレクをシケムの王としました。ヨタムが知ると、ゲリジム山の頂に登り、大声で叫ぶのです。その叫びはシケムの首長たちから火が出て、アビメレクをなめ尽くすと預言します。ヨタムは逃げ去り、べエルに行きアビメレクを避けて生きていきます。アビメレクは3年間、イスラエルを支配下においていましたが、神はアビメレクとシケムの首長たちの間に険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切るようになっていきます。これはエルバアルの70人の息子たち対する不法がそのままにされず、70人を殺した兄弟アビメレクと、それに手を貸したシケムの首長たちの上に、血の報復が果たされることになります。シケムの首長たちは、山々の頂にアビメレクを待ち伏せる者を配置します。彼らは側を通る旅人を誰かとなく襲いました。そのことはアビメレクの知ることになりました。ここでガアルという人物が登場してきます。シケムの首長たちはガアルを信用します。首長たちは野に出て、ぶどうを取り入れて踏み、祝宴を催し、神殿に行って飲んで食べ、アビメレクを嘲りました。ガアルは「アビメレクとは何者か。なぜ我々が彼に仕えねばならないのか。私はアビメレクを片付けてやる。アビメレクよ。お前の軍隊を増強して出て来い」と強気でいっています。

 町の長ゼブルはガアルの言葉を聞いて激しく怒り、使者をアビメレクのもとに送って「ガアルがシケムに来て、この町をあなたに背かせようとけしかけています。早速夜のうちに行動を起し、民を率い、野に待ち伏せして、明朝、日の出とともに町に攻撃をかけてください。ガアルとその仲間があなたを迎え撃とうとして出て来るはずです。あなたは、思いのままにガアルをあしらうことができます」といいます。アビメレクとその軍隊が夜のうちに行動を起し、4隊に分かれてシケムに向かい、そこで待ち伏せします。ガアルが出て来て、町の門の入り口に立ちます。アビメレクは率いる軍隊と共に待ち伏せの場所から立ち上がると、ガアルはゼブルに「見よ、山々の頂から民が降りて来る」といいます。ゼブルは「あれは、山々の影なのに、あなたには人間の影のように見えるのでしょう」と答えます。ガアルはもう一度「見よ、地の高みから人が下りてくる。1部隊がやって来る」といいます。そこでゼブルは軽蔑したように「アビメレクとは何者か、その彼に我々が仕えねばならないとは、と述べたあなたの口はどこに行ったのですか。あれは、あなたが軽蔑した民ではないですか。すぐに出て行って戦ったらどうです」といいます。

 ガアルはシケムの首長たちの先頭になって出て行き、アビメレクと戦います。しかし、アビメレクが追い上げ、ガアルは敗走することになったのです。切り倒された者は数多くいました。アビメレクはアルマに留まり、ゼブルはガアルとその仲間を追い払い、シケムに留まれないようにしました。ここでは町の長ゼブルがいいように立ちまわっている様子を見ることができます。最初には、ガアルにつき、形勢が悪くなると、アビメレク側についています。生き延びるためには何でもするという感じです。ここではシケムの首長たちが身内ということで王にしましたが、状況が変わって、アビメレクを裏切るようになっていきます。ここでは、神がアビメレクとシケムの首長たちとの間に、険悪な空気を送り込んだとありますが、それは70人の息子を殺したアビメレクとの罪と、それに手を貸したシケムの首長たちの上に、血の報復が果たされることになるという理由をあげています。

 「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ6;7)この聖書の言葉がある通り、人は自分が蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分が犯した過ちを、そのまま見逃されることはないということです。現実の問題として、どのように私たちは考えればいいのでしょうか。その上でイエス・キリストの十字架の意味を考えてみたいと思います。

ローマ8:32~34
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。
 私たちの罪を、イエス・キリストが身代わりとなってくださり、十字架についてくださいました。人は自分が蒔いた種を、イエス・キリストが十字架で刈り取ってくださったという理解になります。これが、イエス・キリストの福音です。

祈り 神よ、あなたの恵みによって、聖書の学びと祈りの時を持つことができました、感謝します。人は自分が蒔いた種を刈り取ることになります。しかし、私たちの罪は重く、刈り取ることができません。それを、イエス・キリストが十字架の上で刈り取ってくださいました。ここに私たちの罪の赦しがあります。神の愛に深く感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


9月1日の礼拝の内容です。

2024-08-31 20:14:00 | 日記
9月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.57.81.197.91‣1です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/0C4sKERSIts?feature=shareです。

礼拝説教      使徒11:1~10「3度あったこと」    2024.9.1

 9月の最初の日曜日を迎えました。今日は9月1日です。防災の日でもあります。関東大震災から101年目を迎えました。日本に住んでいるといろいろな災害が起って来ます。地震や台風などによる被害です。台風10号の影響がまだまだ残っています。地球温高化の影響で、今年の夏は異常な熱さが続きました。台風のおかげで少しは涼しくにはなりましたが、まだまだ熱さは続くのでしょう。雨も台風も今まで以上に強く激しくなっているように感じます。そのような災害に対する意識を持つことも大切なことです。

 使徒言行録の10章では、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくことが書かれてありました。ペトロがコルネリウスに伝えていくということでした。ここで大切なことは、使徒2章で起ったペンテコステの出来事が、ここでも起っているという事実です。ユダヤ人に起ったことが異邦人でも起っているということです。今日の使徒言行録の11章の最初の部分は、ペトロがエルサレムに戻って、教会の人々に異邦人が神の言葉を受け入れたということを報告しています。ペトロが行く前に、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人が神の言葉を受け入れたことを耳にしていました。

 ペトロがエルサレムに上って来た時に、割礼を受けている者はペトロを非難して「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行き、一緒に食事をした」といいます。問題は、ペトロが異邦人にイエス・キリストの福音を伝えたことではなくて、割礼を受けていない者たちと交わり、一緒に食事をしたことです。エルサレム教会ではもともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人が洗礼を受けて、教会に加わっていました。いわゆるヘブライ語を話すユダヤ人でした。一方でギリシャ語を話すユダヤ人もいました。この人たちは、ステファノの殉教の時の迫害で、多くの者がエルサレムを脱出し、サマリヤやアジアの方に逃げて行くのです。もともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人は、それまでユダヤ教を熱心に守ってきた人々でした。割礼を受けて、律法を熱心に守っていました。

 イエス様の使徒たちが聖霊を受けて、イエス・キリストの福音を理解することができたとしても、それまでの慣習をどのように受け止めたらいいのか、ある意味で過渡期だったということができます。割礼を受けたユダヤ人で、イエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わったとしても、今までの慣習と、新しいイエス・キリストにある新しい信仰生活をどのように過ごしていいのか戸惑うことになっていくのです。それで、イエス・キリストを信じて生きていく生活は、イエス様の十字架を信じることと、割礼を受けて、律法を守る必要があると考えていました。ペトロに対して、割礼を受けた信仰者たちは、異邦人と一緒に食事をしたことを問題にしています。それは、ペトロ自身がいっていますが、「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」(使徒10:28)のことです。

 割礼を受けた信仰者は、まだまだ律法の中に生きていたことが分かります。イエス・キリストの福音を信じることと、割礼を受けることと律法を守ることが大切だというのです。ペトロは、ここで自分が見た幻のことを話します。自分が見た幻をそのまま話しています。内容的には、使徒10:9~16とまったく同じです。ペトロは、この幻を3回見ることになりました。この3回というのがとても大切なキーワードになっています。ペトロはヤッファにいました。ペトロは祈るために屋上に上がっていきます。昼の12時ごろ、ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思いました。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下り来るのを見たのです。その中には、あらゆる動物、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使が「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいました。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清きない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えています。すると、天使は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたはいってはならない」と答えました。このようなことが3回起っているのです。

 レビ記11章には、清いものと汚れたものに関する規定が書かれてあります。地上の動物の中で、食べてよい動物は、これであると具体的に指名されています。ここで食べてよいものと食べてはならないものがはっきりと分けられています。旧約聖書の中では、神の前で、何が清いものか。何が汚れているものかをはっきりと区別することが求められていました。この食べ物に関する規定を破ることことは、律法を破ることと同じです。ある人々が神の前に汚れているものをささげた時に、その人々は神のから出た火で焼かれてしまいました。ペトロをはじめ、ユダヤ人はこの食べ物に関する規定をずっと守って来ました。その流れで、ユダヤ人は清いもの、異邦人は汚れたものと区別するようになっていて、ペトロがいったように、ユダヤ人は外国人である異邦人と交際したり、訪問したり、することは許されていないとされてきたのです。

 イエス・キリストの福音が、ユダヤ人から異邦人に伝えられている流れで、このような異邦人に対する考えを乗り越えることは容易なことではなかったのです。しかし、ここでは大切なことがあります。キリスト者として生きるために、救われた者としてあるために、どうあるべきかが問われているのです。イエス・キリストの十字架を信じることと、それ以外に求められることはあるかということです。ユダヤ人にとって、ユダヤ教徒にとって大切なことは割礼を受けることと律法を守ることでした。割礼を受けたユダヤ人の信仰者がペトロに問うていることです。彼らは、教会に加わるためには、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるとと、割礼を受けることと律法を守ることは必要であると考えていたのです。

 使徒パウロは、このキリスト者として必要なことを明確にローマ書で論じています。ここからはローマ書を引用しながら考えてみたいと思います。

ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ここでパウロがいっているように、神の教えである律法を守ることは人にはできないということです。律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからですとあります。律法の役割は、人に罪人であることを自覚するためなのだというのです。割礼を受けた人々が、キリスト者として必要なことは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることと割礼を受けることと律法を守ることとなれば、救われることの意味があいまいになってしまいますし、矛盾することが起って来ます。信仰と律法は全く反することだからです。律法を守ることができないから、イエス・キリストの十字架の救いを信じるからです。では、どのように救われるのでしょうか。

ローマ3:21~26
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 人は律法を行うことによっては、神の前では正しい者とされることはできないとありました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けることができないとされていました。しかし、ここに神の義が示されていくのです。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのです。これは神に対する大きな罪です。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活は、すべての人々の罪を贖うものでした。私たちが負うべき十字架の死を、神の子イエス・キリストが代わりに十字架について死んでくださったこと、このことは私たちの罪の身代わりとなってくださったのです。私たちは、そのイエス・キリストが十字架でしてくださったことを信じて、受け入れ、洗礼を受けて、教会に加わることによって、救いに預かることができるようにしてくださったのです。これが、キリスト者としての完全な救いの内容です。イエス・キリストの十字架だけが、救いの根拠となっているのです。このことを聞いている私たちは、私たちが神の前で救われるために必要なことは、イエス・キリストの十字架への信仰のみです。この福音によって、私たちは完全な神の救いを受けることができるようにしてくださったのです。

祈り 私たちが救われるために必要なことは何をみてきました。割礼を受けたユダヤ人とペトロの話の中で、イエス・キリストの救いがユダヤ人から異邦人に伝えられていく中で、信仰と律法の関係をみてきました。律法の役割とは何か、それがイエス・キリストの十字架の救いとどのように関係するかをみてきました。イエス・キリストの十字架のみが、私たちに必要なことであることを確認することができました。ただ、律法の役割をしっかりと受け止めることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月28日の祈祷会の内容です。

2024-08-27 20:23:00 | 日記
祈祷会    士師記9:1~20「アビメレクとヨタム」   2024.8.28

 士師記6~8章にかけて士師ギデオンのことが書かれてありました。イスラエルの人々が、神の目に悪とされたことを行ったがために、神は怒り、敵としてミディアン人を送りました。ミディアン人の支配によって、イスラエルの人々は苦しみ、神に助けを求めて叫びました。神はその叫びを聞いて憐れみ、士師ギデオンを送ったのでした。士師ギデオンは勇者300人と共に敵ミディアン人13万5千人と戦い、勝利します。ギデオンは残ったミディアン人を追撃して行き、イスラエルの人々は一時的な平和を手に入れることができました。

 士師ギデオンは神への信仰者として考えられていましたが、晩年はそうではない面も見られました。イスラエルの人々は、敵ミディアン人を撃退した士師ギデオンとその子どもたちに、自分たちの王になって欲しいと願いましたが、ギデオンは拒否しました。その理由は、神がイスラエルの王であるからだというものでした。その後、ギデオンはイスラエルの人々に戦利品としての金の耳輪などを求めてました。多くの金があつまり、それでギデオンはエフォド(大祭司の祭服の前掛け)を作り、自分の町オフラに置いたのです。ギデオンは多くの妻がいて、70人の息子がいました。また、シケムにいた側女も1人の子を産み、アビメレクと名付けました。こうして、ギデオンは長寿を全うして死に葬られました。ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまた神の目に悪とされることを行うようになってしまいます。バアルに従い、バアル・ベリトを自分たちの神としました。イスラエルの人々は、すぐに神を忘れてしまったのです。ギデオンの行為も顧みることがなくなってしまいました。

 ギデオンは仲間300人と共に敵のミディアン人と戦ったことより、信仰者というところがありますが、晩年は悲しいかな、罪と思われることを犯してしまったのです。聖書は人間の弱さをそのまま描いています。このギデオンの弱さが、士師記9章で実際の事件として起こっていくのです。それは、ギデオンの家族の問題から悲劇として展開されていきます。ギデオンの晩年ですが、多くの妻があり、70人の息子たちがいたとあります。また、シケムにいた側女の子アビメレクがいました。このアビメレクは成長する中で、側女の子として、70人の息子たちからいろいろな差別を受けていたと思われます。この9章では、ギデオンではなくて、エルバアルという名前が使われています。

 そのアビメレクですが、シケム(母親の生まれた町)に来て、母方のおじたちに会い、おじたちと母の家族が属する一族全員に「シケムのすべての首長にこう言い聞かせてください。あなたたちにとって、エルバアルの息子70人全部治められるのと、1人息子に治められるのと、どちらが得か。ただし、わたしが、あなたたちの骨であり肉であるということを心に留めてください」といいました。これを聞いた人々は「これは我々の身内だ」と思い、その心がアビメレクに傾いていきます。彼らがバアル・ベリトの神殿から銀70をとってアビメレクに渡します。アビメレクはそのお金で命知らずのならず者を数名雇い入れ、自分に従うようにしました。アビメレクはオフラにある父の家に来て、自分の兄弟であるエルバアルの子70人を1つの石の上で殺してしまいました。末の子ヨタムだけは身を隠して生き延びたのです。アビメレクにとって自分の兄弟70人を殺すことは、仕返しだったのかもしれません。そこまで兄弟を憎んでいたのでしょう。

 シケムのすべての首長とベト・ミロの全員が集まり、赴いて、シケムの石柱のあるテレビンの木の傍らでアビメレクを王としたのです。(ここでは一部地域の王ということで、イスラエル全体の王ということではありません)このことがヨタムに知らされると、ヨタムはゲリジム山の頂に行き立って、大声を張り上げていいます。「シケムの首長たちよ。わたしのいうことを聞いてください。そうすれば、神はあなたたちのいうことを聞いてくださる」と。詩を作り、木々が、だれかに油を注いで、自分たちの王にしようとして、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木に頼んでいきます。これらの木は断っていきます。最後に、すべての木々は茨にお願いします。茨が王となるという話をしながら、アビメレクを王としたことを批判しています。

 ヨタムは「さて、あなたたちがアビメレクを王としたが、それが誠意ある正しい行動だろうか。エルバアルとその一族を正当に遇し、彼の手柄にふさわしく報いることだろうか。わたしの父はあなたたちのために戦い、命をかけて、あなたたちをミディアンの手から救い出した。ところが今日、あなたたちはわたしの父の家に背いて立ち上がり、その息子70人を1つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクを、ただ自分たちの身内だからというだけで、シケムの首長たちの上に立てて王とした。もし今日、あなたたちがエルバアルとその一族に対して誠意をもって正しく行動したのなら、アビメレクと共に喜び祝うがよい。もしそうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの首長たちとベト・ミロをなめ尽くす。またシケムの首長たちとベト・ミロから火が出て、アビメレクをなめ尽くす」といい、逃げ去るのでした。

 ここまで見てくると、ギデオンの罪の結果が出ています。ギデオン、エルバアルが父親であり、その息子たちの争いです。一人生き残った末の子ヨタムと女奴隷(ヨタムの表現)の子アビメレクとの争いです。その争いに、シケムの首長たちが巻き込まれているのです。この問題の根にエルバアルの晩年の罪があるのです。このような問題はいろいろな時代に起っているものです。人間の罪の歴史がここにあります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時をありがとうございます。ギデオンの家族間の問題について見てきました。家族間にいろいろな問題が起って、それが大きくなって、多くの人々を巻き込み、悲劇につながっていきます。人間の罪の現実と、神の教えである律法を守ることに意味を考えていきたいと思います。神の思いを知ることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)