「赤き者・黒き者・白き者」
について、「赤き者 先の見える者 教祖」「黒き者 我が身思案で先の見えない者」「白き者 そのどちらへも行ける者 世界の者」と思えた資料が見つからない事が気になり、それを探していた。
すると、見つかったのである。
「山田伊八郎文書」に書かれていたおさしづであった。
これは、公刊本には掲載されていない。
そこで、その資料を提示して、どうしてそのように思えたか書いておきたいと思う。
まず、教祖が赤着を召されて、月日の宿る証拠とされた。
どうして赤と親神様がつながるのかと、この「赤」という意味がずっと分からずにいた。
そして、公刊本 明治20年3月19日午後12時 陰暦2月25日『刻限御話』で「赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ」との言葉を見ており、同じ色の者が同じ色の者に連れられて行くのだ、色のに意味は気にかけず、ただ分れるのだと理解していた。
そんな中、「山田伊八郎文書」に次のような「おさしづ」があった。
このおさしづは、本席様おさしづお言葉と書いてあるが、公刊本にはなかった。
文字にしておく。
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明治20年11月2日(旧9月17日)
本席様おさしづお言葉
明治20年旧9月15日頃より、こいそ右の目の玉うずきだし、同17日朝になりそうらえば、目に星がかかり、同17日午前10時頃より、神様に参詣致す。神様のお話し。左に
1,さあさあ案じる処、さああんじるところ、一時、今のあんじる処、
1,心で思っては道、聞いては道、見ては道。
1,さあ道は一つやで。さあしっかり家内へ伝えにゃならんで。
1,さあ家内中の中に、不自由している者がある、さあ不自由なる者の身がわかろうまい。
1,さあ我が身に不自由なるところが出来たらならば、さあその不自由なる者の身が分かろう。
1,さあここを、しっかり家内へ伝えよう。神は世界中は我が子に、難儀させたい事は決してない。
心までにちょっと話しておくによって、よく思案。
赤き道、黒き道、白き道、これでは分かろうまい。
(写真では、223頁の上半分に書かれてある。)
赤き道というは、分りかけた心、赤き道なり。
黒き道というは、何事も我が身思案の心、黒き道なり。
白き道というは、世界なみの心、これを白き道というなり。
以上である。
これは、明治20年11月2日(旧9月17日)であるが、その8カ月ほど前に、以下のおさしづが公刊本にある。
そこに赤き者・黒き者が出てくるのである。それを以下に記しておく。
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No.1 :(1巻23頁13行)
明治20年3月19日午後12時 陰暦2月25日
『刻限御話』
さあ/\思やん/\、今一時直ぐ、早く/\。これからだん/\刻限話。さあ/\もうその場踏んで、後はあちらこちら聞きに来るよう、いつまでも同じ事をする。たゞこうきという。それ/\の処より刻限、赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ、さあ/\だん/\早や/\。たゞ仕事場、それと言うは、元々より聞き込み足らん。今に聞いてる者もある。これを聞いて置け。一度二度何にもならん。又つとめ一度二度、大抵方はよい。元の方は言うてる場何やら分からん。これまでというは、日日守りを付くというは、幾度も早く守りのさしづあれども聞き遁がし。これは磨き立て、掃除を行き届き。さあ/\何を尋ね聞いてくれ。あちら静か、何でも理に適う事なら、何時にても尋ね変え、二度三度も尋ね。一言聞きて銘々の事を忘れ。
・・・・・
これらを見た時、明治20年11月2日(旧9月17日)の赤き道、「分りかけた心」という言葉が、おふでさきに出てくる「分ける・分けたい」という言葉と重なり、善悪の入り混じった心が、泥と清水と分かれて、先が見えるほど澄んだ清水、心となる道、と思えたのである。
空でも、曇っていてはいくら高い所から見ても、遠くまで見通せないのである。
先が見えるまで澄み、明るい道が、赤き道。
先まで見えるから、将来の事も察しが付く。予測が出来る。
だから教祖は予言が出来る人々のひながたとも言えると思えたのである。
また、
お屋敷の理について、これは「赤・白・黒」の言葉がでてくる。
これもとても重要なおさしづだと思うので、記しておく。
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No.2 :(4巻2788頁7行)
明治30年7月7日
『永尾よしゑ身上願』
さあ/\尋ねる事情/\、さあ尋ねる事情もうこれさしづ、だん/\前々事情知らしてある。よう聞き分け。このやしきという。一つ澄んで一つの理が世界々々、鏡一つの理が四方正面、どれ一つ諭し幾重事情、幾重諭しある。心得ん事情尋ねる。詳しう諭す。長らえて/\、こうして一日々々日を重ねて一つの理、いかな世界だん/\と中に一つどんな理どんな事情、世界言う程、成程の理、誰さしづの理と思うな。一手一つの理を諭す。この難しうてならん。何で難しい。めん/\そも/\の心が難しい。皆心の理が難しい。一戸中(いっこなか)一村中(ひとむらなか)濁らば濁る、澄まば澄む。濁り世界事情せっかくににをい掛かり、清水なら頂く、濁り頂く事出来ん。最初成程さしづ通り成り、たすけ一条後々ほのかの理が移り変わり、神が変わらすのやない。めん/\心変わる。万事一つの理諭し置く。これから又一つ/\夫婦中一つの理、今日一日に心定め。清水一つの理を働くか働かんか見よ。どういう事晴天もあれば中に曇る理もある。十分聞き取れ。或はいかん/\でいかん。一寸心あちらへ働く心を受け取る。守護どういう事、その中又事情一度又二度又三度という。たゞ一つの理を諭する。今日一日の日の諭しは末代。一代の理でない、末代までの理。鏡やしき濁りた心は持たん。黒きは黒き、白きは白き、赤きは赤きが映る。こんな事こんな事ぐれ/\やで。中に一つや二つ、めん/\鏡やしきの中の理の無い事した。生涯心を治めるなら受け取る。身の処案じてはなるまい、子供小人に乗って長らえて事情、三十年皆分からんの理でどういう事も同じ事、中連れて通りて先々諭し聞きた理は神が欺す(だます)でなき。一日の日より生涯の心を定めてみよ。身上は案じる事は要らんで/\。
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(参考までに、1は、飯降伊蔵先生が本席様に定まる時の関連するおさしづであり、2はこの前後の日に、飯田岩次郎に神様が降りて、それが道具衆なのかと事情について伺うおさしづがある。また2については、刻限とせず身上から刻限と思えるさしづをしていることから、重要な人々へのさしづとも思われる。)
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