私が病院を訪れた主訴と言うのは
体重が落ち過ぎる事でした。それ
までダイエットしてたので自分の
基礎代謝量と運動による消費Kcal
が摂取Kcalを超えないように注意
して減量してるのに、計算以上に
体重が減っていたのが気持ち悪く
なったからでした。そして病院で
閉塞性黄疸と肝門部胆管癌の疑い
と診断され即日入院。ERBDという
胆道閉鎖の状態を改善する手術を受
けました。術後6日間はビリルビン値
がほとんど低下せず黄疸もひどかった
のですが、身体は元気でした。術後の
入院食はお粥で低脂肪低Kcal食。摂取
カロリーは私の基礎代謝量程度です。
術後は普通に動けるので入院患者用
の談話室にある体重計にのると入院
前より更に減っていました。これが
癌による悪液質という症状かと鏡に
映る黄色い痩せた体を見て嘆いてい
ました。ただ入院前に毎日測ってい
た体組成計では骨格筋の割合はいつ
も高めで落ちていませんでした。癌
だったらこれも低下して来る筈なの
にと疑問に思っていました。そして
入院して7日後には主治医から癌では
なくて炎症性の疾患で、消耗性の体重
減少だと病理検査の結果も踏まえ説明
されたのでした。癌で痩せるというの
は普通に食事をしても痩せてしまうの
で炎症による消耗性によるものとの違
いだそうです。ダイエット中だった私
は食事をセーブしてた時期にこの病気
が出現したと言う事なんでしょう。
入院中はお粥のままで、昨日の昼から
やっと普通のお米に変わりました。
それ迄に12日間を費やしました。
病理所見では激しい炎症所見が見ら
れており私の肝臓近くの胆管は言わ
ば激しい戦争状態で、ここに兵隊を
せっせと送り込むよう命令を出して
る司令部を叩く為に大量に副腎皮質
ステロイドを服用してるのですが、
明日からその量を漸減すると言われ
ました。血液検査で異常髙値だった
IgG4で推測されるように激しい戦争
状態なのにもうステロイド減らして
しまって大丈夫かなァと内心は思い
ました。しかも主治医の治療方針で
は、このまま順調に検査成績が良く
なれば、次にステロイドを漸減する
タイミングで通院治療にしましょう
との事でした。来週木曜日の検査で
問題なかったら翌日金曜日以降いつ
でも退院OKですと言われました。
真珠湾攻撃で米太平洋艦隊の奇襲に
成功した第1次攻撃隊が目的の空母
を発見出来ず第2次攻撃隊を要請し
ましたが、現地艦隊指令官南雲海軍
中将はその要なしと判断して第2次
攻撃は行われませんでした。日米
の歴史家はその判断に疑問を持ってい
ますが、南雲は奇襲は成功したと見な
し、寧ろ陛下よりお預かりした大切
な艦隊を無傷で日本に帰還させる事
を優先しました。連合艦隊司令長官
の山本五十六も現地指令官の判断に
異を唱える事はしませんでした。
山本の目的は太平洋艦隊の空母を叩い
て、米国の動きを止めて早期に講和に
持ち込むといのが作戦の要でした。
従って相手側空母を撃滅出来るなら
日本の犠牲もやむなしの覚悟でした。
時代遅れの大鑑巨砲主義の戦艦を何隻
沈めたところで無意味でした。当時の
南雲は航空機には疎い古い海軍伝統の
戦術に拘る軍人でしたから海軍にとっ
て航空機の重要性の理解が足りていま
せんでした。そういう軍人が指揮官で
あった事は不運と言えるかもしれませ
ん。海軍の年功序列の人事では真珠湾
攻撃の司令官に最適の人選をする事は
不可能でした。日本海軍は伝統的に和
を重んじ、能力主義で適材適所に人を
配置する事が不得意だったのだと思い
ます。勇ましい武士道と無責任主義が
併存する組織の構造的欠陥がその後の
ミッドウェイ海戦の大敗北に繋がり゙、
結局は日本海軍戦力の喪失と向かうの
でした。以上はアメリカの1970年製作
映画「トラ・トラ・トラ」で描かれた
日本海軍の姿です。高1の時に実際に
映画館で見ました。私の胆管の炎症
には第2次攻撃の必要性を感じますが、
私が無論そんな事を主治医に進言する
立場でもありません。主治医の判断で
は入院してやれる事は来週木曜日でも
う全て終わりと言う事なのでしょう。
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