Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

これもある種の終活?(古い写真やビデオをデジタル化して保存してみました)

2024-11-19 16:30:35 | 日記

【自分流、昔のビデオや写真の保存方法のご案内】

 

1989年のほぼ大晦日前にフィリピンから帰国して諸手続きを済ませ

その時には年明け早々渡米して

双発のプロペラ機&ヘリコプターの免許を取るつもりだったのが

 

業務用免許でも30代後半での取得となると

就職先はないと知らされ

 

将来の計画が音もなく崩れ

愕然としてとりあえずチャンカーの実家の奈良で暮らすことを決め

 

帰国から約2月半後の1990年3月に第一子が生まれ

喜び勇んでビデオ撮影機を購入し

 

 

嬉しくて子供がらみの行事やイベント、家族旅行と

主に子供達が高校生の頃まで

まめにビデオ撮影していたテープが山ほど溜まっていたものの

 

さて、これを子供達にも残してやろうと思ったものの

長年放置してテープは劣化してるしカビも生えてどうしようかと悩んでいたところ


ダビングサービスがあることを知り
 
VHSCと
miniDVも全てDVDにして

DVDとして子供達に渡すことにしたところ

 

 

トンガ王国で暮らしていた当初の1982年~1984年の間に撮影した

こちらも膨大なスライドフィルムもカビが生えたり

プロジェクターを使うのが面倒になってほとんどお蔵入りで

 
もう帰国報告会やいろんな場所でお見せする機会はないだろうなと思いつつ
還暦を過ぎて若い頃を思い出す懐古趣味に喜びを感じるようになっていたところ
 
桜井研次さんが急逝してご遺族にトンガの写真をお見せしようと四苦八苦していた時に
ネガ、ポジ、スライド、プリント写真をスキャンできる装置があることを知り
 
すかさず購入
 

フィルムのサイズ別のトレイがあり

そこに挟んで

セッテイング

画像を確認してSDに取り込むだけ
(↓は、1983年にSamoaで同期隊員の配属先(高校)を訪れた時のスライドフィルム)



ネガフィルムも簡単にデジタル化できちゃうんですよ
(↓ NZ旅行の時のネガフィルム)
(

 
写真プリントも中に置いてデジタル化できちゃうんです
因みに、古い昭和のアルバム写真もこれでデジタル化しちゃいました。
 
ほんの一部をご紹介すると・・・
 
 
1979年 運輸省航海訓練所練習船”青雲丸”の遠洋航海実習で
環太平洋航路でトンガに寄港した時の写真
(Ministry of Tourismの観光案内所にて)
 
(王宮近くを歩いていたたぶん公務員の女性達と)
 
名所のひとつBlowholls(潮吹き岩)にて珍しい日本人を見に集まってきた小学生たちと
 
1973年商船学校に入学後の一年生の時に
三重国体が開催され全日本陸連の役員だった父と伊勢神宮を参拝した時の写真
(当時、一年生は制服以外での外出ができない時代でした)
 
夏の高校野球大会へ応援に行った時の写真や
(右端の赤い鉢巻がわたくし
 
古い父の写真もデジタル化して取り込み
(大正3年生まれだったので、たぶん昭和一桁時代)
 
たぶん父が高校を卒業して鐘紡の実業団選手となった頃
 
生家で二歳上の兄と
(ムッチャ昭和でしょ~(笑)
 
小学校6年生の修学旅行
 
小学校5年生の林間学校
 
 
などなど
とりあえず身近にあったフィルムや写真をデジタル化してSDに保存して

 

更に、テレビで簡単に観られるようにと

ハードディスク【バッファローの”おもいでばこ”2TB】と

バックアップ用のSSDでこちらも2TBメディアを購入し

この”おもいでばこ”2TBもあるため

たぶん1万枚以上の画像と数十時間分のビデオを入れても

まだディスク容量の15%程度

 

 

デジカメやスマホであれば撮影日時別にしっかり保存してくれるので

とっても便利

(ネガやポジフィルムとプリント写真は日付登録する必要がありますが)

 

いつでも簡単に観られるので

もっぱら一人で目を細めながら昔の画像やビデオを鑑賞しては

思い出に浸ってる次第です。

 

 

最近、昔を回顧した記事を残すようになったのも

実は、この”おもでばこ”のおかげなんですよ。

 

とりあえず、同じように昔のビデオや写真等を残すことをお考えの方の

ご参考になれば幸いです。

 

 

まだスキャナーで取り込まないといけない古い写真が山ほどありますが

 

とりあえず一旦満足しちゃってるので

スキャナーいつでもお貸ししますのでお気軽にご連絡くださいね。

特にネガフィルムからの取り込みは簡単でとっても便利ですヨ

 

※終活だったら断捨離で処分しないといけないのかなぁ と思いつつ

 

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万年浦島太郎【後悔先に立たず】を痛感させられた旅の備忘録

2024-11-12 14:56:05 | 日記

 

約一月前の10月中旬

伊勢湾フェリーの蒲郡航路実証実験の乗船と

豊橋の戦後の歴史的建造物”水上ビル”の老舗居酒屋”カク一”他

忘年会の下見を兼ねて旅した時に

 

これまた前々から気になってた元養鰻場の直売鰻を試食がてら買って帰ってみたところ

これがまた超美味

 

すっかり虜になってしまい

早速文化の日の三連休を使って

まだ訪れてみたかった居酒屋と

食料品の買い出しに出掛けようとホテルを探すと

 

何故かまたまた超高額設定で

普段なら7ー8,000円で泊まれるホテルが20,000円弱

 

いつもの安宿が最後の一室だけ残っていたので

すかさず予約を入れようとすると

何故か『システム障害』で受け付けてくれず

 

やり直してみると、既に”空室なし”(要するにクリック遅れ)

 

仕方なく、何かイベントでもあるのかなと検索してみると

11月2日(土)に”炎の祭典”なる手筒花火の催しが見つかり



 

ガックリ

 

それなら仕方ないなと翌週に順延したのですが

今度はホテルから確保しようと宿泊サイトを開いてみると

特に目立ったイベントはなさそうなのに

またまた土曜日は普段の倍以上

 

ABホテルごときがなんと土曜日は17,800円 

 

 

全く同じ部屋が平日なら7,200円

 

 

田原のABは、もっとひどくて

土曜日が21,000円 

 

土曜日だったからなのか、秋の行楽シーズンだったからなのか

もう待てないな 

と金曜日に休みを取って

11月8日(金)の朝

 

名古屋方面への奈良公園向きは

朝9時までは県庁や市役所の通勤ラッシュで大渋滞するのでと

9時半に家を出たところ

 

まだ阪奈道路が大渋滞

よくよく考えたら紅葉の季節は奈良観光のハイシーズンで

あれこれと迂回路を探してようやく名阪国道、東名阪、湾岸線、国道23号バイパスを抜けて

蒲郡ICを下りれたのは13:00過ぎ

 



 

13:30 ようやく豊川のメガモールにできた”あんかけスパ”の新店舗に到着

いつもの”バイキング(チキンカツとミニソーセージ)”鉄板Lサイズを注文したのですが

粉チーズを口頭で伝えると

タッチパネルで操作しろと面倒臭そうにあしらわれ

その上、あんの味もどうにも昔とは異なり

”空腹は最高のスパイス”の筈なのに全く美味しく感じられず

期待を裏切られてガッカリ

以前は本店で食べてたのですが

この店もTVで紹介されてから全国から客が訪れるようになって

昼時ともなると大行列でウンザリしてしまい

 

その上、どうやらオーナーも代替わりして経営方針も変わった感じで

何十年も働いてた熟練のオバチャンウエイトレスも定年になったのか

それ以外の顔馴染みのスッタフも居なくなり

まだ20代そこそこの若いスタッフだらけ

 

それなりにテキパキと働いているのですが

愛想もなくまるでロボットを相手にしているような感覚

 

今時はどこに行ってもこんななのかなぁ

 

その後、両親が眠る墓に手を合わせてから

今回の旅で一番楽しみにしていた居酒屋を開店時から訪れるために

ホテルにチェックインして荷物を放り込み

 

その居酒屋の”口コミ”を調べてみると

『人気のお店なので事前に予約した方がいい』とあったので

16時半に電話して予約を入れ

期待に胸膨らませながら

時間調整しながらお店に向かいました。

 

豊橋駅の西口は、東海道新幹線ができて改札口もできたのですが

長年”裏側”の存在で怪しげな戦後のバラック時代から残る

少し怪しげな飲み屋(たぶん売春とかも残ってた)街だったのですが
最近は、”わんぱく通り”と呼ばれる若者にも人気のグルメ通りになってるんです。

豊橋駅には、南北に走る線路の両端にそれぞれ古い跨線橋があって

実は、この跨線橋のおかげで 

たしか東海道新幹線では三つしかない地上にある駅のひとつなんです。

(品川と米原がその残りで、その他はみんな高架駅)

元々は1930年に伊勢電気鉄道の宮川を渡るための鉄橋だったのが

1942年に鉄道が廃止されて橋梁も不要となったのですが

大部分は近鉄名古屋本線の揖斐川、木曽川、立田川に転用され

その一部が豊橋にも転用されたもので

以前は、この高架下にも古い飲み屋(座布団売春してる店だったとか)が並んでいたのですが

支柱の耐震補強工事をした時に全て撤去されちゃいました。

 

そうこう想い出探ししながら時間潰しして17:00に店に到着

喜び勇んで暖簾をくぐり

とりあえず瓶ビールを注文

 

オススメの1000円セットを注文して

店内を眺めてみると酒も肴も凝ったメニューだらけ

いや~、最高だなぁと喜びながら

四種の利き酒セットを飲んでから

お刺身の盛り合わせ、焼き鳥とツクネの串焼き

 

そしてこの日のマスターのオススメの鳥ハムで

 

よし、焼酎を飲もうとボトルで注文

続けてとろとろレバーと砂肝の串

砂肝はさておき、レバーは最高に美味しかった~

そして鯵フライを頼み、マスターと常連さんとの会話を楽しんでいたのですが・・・

そこそこ酔いが回ってきた頃

常連らしき女性客(たぶん50前くらい?)が来店し

カウンターの中でマスターのヘルプとフロア係の同じような年頃スタッフ2名との会話が聞こえ

 

なにやらつまらない世間のネタ(マスゴミに踊らされたデマ)を大声で

話だしたのに我慢ができなくなって

つい焼酎を注いでは飲み続け

 

とうとう空になってしまい

堪忍袋の緒が切れて『くだらない馬鹿な話ばっかするな』と大説教

 

すると、マスターにとっては大切な店のスタッフと常連の方が大切なんでしょう

こちらが咎められてすっかり興醒め

 

浦島太郎なので

三河人はそんなミーハーで薄っぺらい人間じゃない筈だぞ‼️

と怒りが収まらず

 

仕方なく清算して店を出て

前回気に入った居酒屋に向かってみると

既に時刻は9時半を過ぎていて「もう閉店です」と告げられてしまい

(10時閉店なので)

 

それならお酒はもういいやと

〆のラーメンが食べたくなって、いつもの裏駅の町中華に向かうも

同じく「すみませんもう閉店です」とのことで
また表駅に戻り

餃子の王将でタンメンと餃子でお腹を満たしてから

 

すっかり泥酔状態でホテルに戻ったものの

この辺りから記憶が定かではなくなってしまい

 

気がついたら服を着たままでベッドに横になってました。(深夜2時ごろ)

 

記憶が無くなる状態まで泥酔するなんて

ほぼ67年間の生涯で片手も経験無かったのですが

 

この時ばかりは大後悔

 

とても素敵な居酒屋だったのに

もう行けなくなっちゃったなぁ と大反省

 

実は、つい最近、団塊の世代のマスターが脳塞栓になってしまったらしく

営業は週にたった二日の金曜日と土曜日だけ

 

よくよく考えたら店内のポップも全て女性のもので

あの女性スタッフが書いたんだろうなと気づき

 

あれだけ毒づいちゃったら”出禁”で当然だし

何よりこちらの言動で不快な思いをさせてしまったと思うと

もう暖簾を潜るのも遠慮しなきゃダメだよなぁ。。。

 

その後も、その時のことを思い出し頭を抱えて溜息ばかり

 

『覆水盆に返らず』な事をしてしまいました。。。

 

そんな出来事もあり

用事を済ませて家に帰ろうと

 

チェックアウト時間ギリギリまでホテルで酔いを醒ましてから

牛丼屋で朝ごはんを食べ

小学校同級生の女子の職場でカレンダーを渡してから

田原城跡の近くにある異母姉の墓参をすませ

鰻をたっぷり買い込んでから

実家に立ち寄って焼きたて鰻を渡しほんの少しだけ雑談してから

小学校同級生の家に立ち寄ってカレンダーを投函し

御年たしか93歳になる小学校高学年時代の恩師のお宅に立ち寄って

カレンダーを手渡すと

とても嬉しそうだったので

「先生、それではまた年末に同級生の有志を連れてご挨拶に伺わせていただきますね」と伝えると

ご夫婦で「是非お願いします。楽しみに待ってます。」と笑顔で答えられ

年末に再訪する楽しみができました。

 

 

その後、城下町時代からの東海道脇の魚町にあるスーパーで生鰹と

豊橋名産のちくわ屋でオデンネタを土産用に買い

8月上旬に断食センターから戻ってからも

朝は茶粥、昼もお茶漬けと粗食で体重を維持しているため

老舗の佃煮屋にも立ち寄り

 

その後、この日は何故か口が”うどん”になってたので

老舗のうどん屋に向かうと駐車場が満車で諦め

 

帰り道にどこかで入ったらいいやと思っていたのですが

どうにも近場で見つからず午後2時近くとなってお腹ペコペコ

 

ようやく一軒のうどん屋がみつかり

最初は、味噌煮込みうどんを食べるつもりだったのに

ついガッツリのカキフライ丼のセットを注文しちゃいました。

 

その後、またまた国道23号線バイパスで帰ろうと蒲郡に向かい

IC近くのG.Sでガソリンを満タンにして(なんとリッター159円なんですよ)

 

豊明ICから湾岸線、東名阪、亀山から名阪国道をひた走り

早く家に着けたらいいなと西名阪で帰ろうと思っていた矢先

 

福住ICを過ぎたところで

”事故 福住~天理東 7キロ渋滞”との表示にガックリ

 

福住の前だったら下道で帰れたのにと、

地団駄を踏みたい気分でしたが

名阪国道の名所(?)魔のオメガカーブの難所で

とうとう抜けるのに1時間以上かかってしまいました。

 

今回の旅は 距離にして約500km 時間にして34時間弱

 

今回のお買い物は

伊賀上野のギュートラ(伊勢志摩のスーパーマーケット)で

のりの佃煮

豊橋 魚町の佃煮屋 濱金であさりとしじみの佃煮3種

生鰹

そして会社の社員さんと我が家でワケワケのお土産

 

そして焼きたて鰻(白焼きと蒲焼)を各3尾と

 

真空パックを各4尾

 

 

つい最近、薬師寺の近くにできたチェーンの鰻屋が安いと耳にして

それまでは年に一度食べるか食べないか程度だった鰻を

月イチから隔月くらいで食べていたのですが



 

 

正直に打ち明けると

価格は上うな重(一匹分)2,800円

上白焼膳(一匹分)2,800円

でも他と比べてリーズナブルで良いなと思いつつ

蒲焼のタレがどうにも安っぽいのと

国産鰻が売りだけど 泥抜きが足りないのか

臭みを感じていたものの

それくらいは我慢しなきゃいけないかなと思っていたのですが

 

 

今回みつけたこの元養鰻場のうなぎは

サイズも大きくて肉厚で臭みは皆無なうえに

タレも尾を引く美味さで

白焼き(一匹)1,800円

蒲焼き(一匹)1,900円

 

食べてる間じゅう『美味しいねぇ』と何度も呟いてしまい

食べ終わってからもまだ食べたいほど尾を引く美味さで

この値段だったらもっとちょくちょく食べたいなと

保存のきく真空パックを買い込んでしまった次第です。

 

店のまわしものではありませんが

コンビニ後払いや代引き、銀行振り込みもあるので

興味あれば一度ご賞味してみてくださいね。


 

さて、それにしても返す返すも、我が身の愚かな所業で

楽しみにしていた居酒屋に金輪際訪れられない

とても残念な結果となってしまい大反省

 

酒に飲まれるようなっちゃあダメですよねぇ

 

そんな失敗を忘れないように

備忘録として残しておきたいと思います。

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑧再赴任とそれから】

2024-11-07 13:30:46 | 日記

【その⑦からの続き】

初回の任期を満了し日本に帰国して僅か約2・5ヵ月後の1984年5月

青年海外協力隊シニア隊員としてTONGA王国に再赴任させていただいたのですが

 

その前に

このタイトルにしてるのは、昨年末に桜井研次さんが急逝したのを知り

協力隊員としてトンガに派遣されて以来

大恩人の一人だったので

桜井さんの知り合いや遺族の方々に

桜井研次さんがどんなところで青春時代を送っていたのか

知っていただこうと思った次第

 

また、想い出写真の一枚が見つかったので

先にその説明をさせていただきますね。

 

1982年10月

桜井研次さんの送別会と官舎への引継ぎを済ませた後

転勤先のVava'u島に戻るのにオセアニア航路の貨物船を使ったのですが

 

と言うのも、一般のトンガ人が船酔いし易かったのか、船の構造が悪かったのか

1981年にドイツで建造され国内フェリーとして

首都Tongatapu島のNuku’alofaとHa’apai諸島のNomuka島とPangai島

そしてVava’u島のNeiafuの間を週一で運航していたMV Olovahaがあったのですが

 

一般のTONGA人が船酔いし易かったのか

はたまた船の構造の問題で横揺れ縦揺れが酷すぎたのか

要するに”ゲロ船”だったので

 

耐えきれずNuku'alofaからNeiafuまで直行で移動時間も少ないこの船の存在を知り

その後Vava’uへの移動はこの船を利用

 

夕方出航してNeiafuには翌早朝に到着するのですが

なんせ乗客は貨物と同じ扱いで、座席もない雨ざらしの甲板で過ごすので

それを不憫に思ったのか、桜井研次さんがニンジンでキンピラをおかずにしたお弁当を作ってくれて

届けがてら見送ってくれた時の写真

(後日、桜井さんが日本に帰国してから郵便で送ってくれたもの)

桜井さんも米どころ、酒どころの新潟生まれだったので

お酒は好きでしたが、私のようなアル中ではなかったのと

 

しっかり自己管理できる人だったので

任期中の手当を貯めて、たしか任国外旅行はNZ

帰路変更では、Tongaからどこを経由したのか

Tahitiに飛び、アメリカ本土のLAの知人に会いにゆき

その後PhilippinesのManilaにも立ち寄ったと聞いたのですが

たぶんもっといろんな国を周ったんじゃないかな

 

生前にもっとその時の話も聞いとくんだったなぁ

 

 

さて、それでは話を元に戻しますね

 

協力隊員として赴任した時は

FijiのNadiからSamoaのApiaに飛び

駐在員(着任時は伊藤英明という人物)への赴任前の挨拶とブリーフィングを済ませてから

Tongaに飛んだのですが

 

この短い間に(たぶん1984年4月から)

Fijiの首都SuvaにJICA事務所が開設されたため

Samoaで赴任の挨拶をする必要が無くなり

 

更に、SuvaからNuku’alofaへの直行便があったので

日本出発から僅か4日で着けたんじゃなかったかな

 

当時Tongaに就航していた海外からの航空機は

FijiのAir Pacific、SamoaのPolynesian Airway, NZのAir Newzealandがそれぞれ週3便ほどと

American SamoaのSPIA(South Pacific Island Airways)

そして当時はリン鉱石の輸出で大金持ちの国だったNauru共和国からのNauru Airlines

 

面白かったのは、Air PacificとPolynesian Airwayが

Fiji, Samoa, Tongaの三ヵ国を

トライアングルで飛ぶ便があって

(時計回りと反時計回りがありました)

 

時としてFijiからTongaに帰るのに

いちいちSamoaを経由しなければならない事もありましたが

せいぜい半年に一度程度しか飛行機に乗れなかったので

むしろ喜んでましたねぇ。

↑これはTongaのFa’amotu airportのある日の風景

偶然、Air pacificとAir Newzealandのフライトが重なった時でした。

 

1984年の5月はシニア隊員として着任したのですが

あまりの短期間で決まったため住居の準備ができず

 

しばらくは、アメリカ平和部隊と協力隊員用に水産局が建てた

木造、ブリキ張の平屋で暮らすこととなりましたが

まだ大恋愛中だったチャンカーと一緒に過ごせるだけで幸せでしたねぇ

 

鮪延縄実習船LOFAの乗組員も

遠洋漁業から戻ってまたまたすぐに歓迎会をしてくれ

Tongaに戻るために尽力してくれた大恩人の漁労専門家の増本さんに

同期の漁具漁法隊員と後任の隊員、そしてチャンカーも勿論ご招待

(我が家の掘っ立て小屋の空き地でBBQ)

 

少しして、またLOFAに乗り込むこともありましたが

(漁労長の増本さんと船長のHene)

その頃は、後任の船舶機関隊員が気を遣ってくれたのか

積極的に船に乗り込んでくれていたため

その船に乗るのはFIJIでのドック入りの時くらいになりました。

 

前にも書いたかな

鮪延縄では、平均1日に35匹程度のビンチョウ鮪と

それ以外のバチ、イエローフィン、ブルーフィン、カジキ鮪が獲れるのですが

 

鮫は、その倍以上かかるので

(↓延縄にかかってる間に鮫に食べられたカジキマグロ)

 

可哀相に生きている時は角が怖くて近寄らないだろうに

縄で身動きが取れないとわかるのか食べられ放題

鮫は、利用できる

肝臓(病院の入院食にしてました)と鰭を切り取って

鰭は天日干しして乾燥させ、水揚げ地にいる中国人ブローカーが

買い取ってくれるので乗組員の副収入源になっていました。

 

これは、これまた大恩人のAisea Tuipulotu(右端)が

家に呼んでくれた時の一枚

 

再赴任から数か月後

ようやく水産局の官舎(日本政府がODAで水産局の施設を建てた時のもの)が空き

ブリキの掘っ立て小屋からお引っ越し

主にチャンカーと二人で暮らしていましたが

2ベッドルームもあって贅沢だなと、その後ようやくトンガにも調整員が赴任することになって

彼の住居が決まるまで、三食昼寝付きで居候させてましたねぇ(笑)

 

 

お隣さんが、水産局長のSemisi Fakahau氏の住居(Government house)だったので

彼の家族ともとっても仲良しで

長男のPitaとは伯父さんと甥っこのような間柄でした。

Semisi Fakahauは、その後農林省から水産局を独立させ水産省となってから

大臣まで務めた優秀な人物だったのですが

若い頃にPNG(パプアニューギニア)で研修を受講していた時に知り合った

看護師さんと結婚していたので

良く肝炎ワクチンの接種などもお願いしてましたねぇ

 

仕事は、前述のとおり、LOFAへは後任隊員が乗り込んでくれていたため
その他の船の整備と

当時、開始されたばかりのFAO(国連の世界食糧機構)とJICAの

小型漁船建造プロジェクトの様子を観察していたところ

(船体等の合板や接着剤等はFAOが、エンジン、無線機その他の艤装品は日本のODAで

漁業者は開発銀行からのソフトローンで購入して長期で返済するシステム)

この水産局のBoatyardには

長年、FAOの専門家として英国人とVSO(イギリス版平和部隊)の若者Devid

そして新たにイギリス流木造船の欧州人の技師がいたのですが・・・

一見良さげな設計(沖合ではポールとセールで帆走して燃費を節約する)でしたが

セーリングするための帆柱まで合板を接着剤で張り合わせたものだったり

数日間沖合での漁を過ごせるようにキャビンがあるものの

エンジンは簡単な箱を被せるだけ

 

私の天敵である大滝某は、ヨットが趣味でどうやらこの設計にも助言した模様

遊びの船ならそれで良いけど漁をするための漁船で

沿岸警備隊も海上保安庁もない絶海の島々で

気象庁も天気予報もできない場所で

もし荒天に遭遇したら

こんな船じゃあもたないだろうなと想像したとおり

 

引き渡されたばかりの一隻が嵐に遭遇し

浸水してエンジンは停止し海に放り出され乗組員全員行方不明

この↓中心の黒い丸いのが手動の排水ポンプ

こんな船体で浸水したら沈没するのがわかりきってるだろ

と、私の所掌ではありませんでしたがどうにも我慢できず

船体からエンジンの設置その他もろもろ大改造をする陣頭指揮をとってしまいました。

 

それからも大滝某

ど素人のクセに馬鹿な提案ばかり

 

ある日、水産局長のSemisiが相談に来て

どうしたのかと話を聞くと

欧米人とばかりと仲良くしていた大滝が

Vava’uにできたヨーロッパ人が始めたヨット用のスリップを

水産局の船のドックで使って欲しいと頼まれ

安請け合いしたものの、私を信頼しているSemisiには言えないので

農林省の上層部にドック経費を軽減できると進言し

農林省からSemisiに指示があったらしく

『Masa, 本当に大丈夫だろうか?』との問合せだったので

 

「現地で調査してくるから待ってて」と伝え

Vava’uへ飛び 確認したらこの有様↓ 

狭くて、短くて

満ち潮になったら海水に浸かってしまうので

プロペラ軸を抜くこともできないし

喫水下の船体塗装も勿論無理

 

その上、こんなチャチな船台が重量に耐えられるわけがなく

たぶん転倒してクレーンもないVava’uではそのまま廃船になるだろうなと

ど素人の浅慮な発想にビックリ

水産局に戻って

使えない理由を箇条書きにして渡し

ことなきを得ましたが

 

もし自分が戻ってなかったらどうなってただろうかと

背筋が凍る思いにさせられました。

 

因みにそのスリップに入れようとしたのが この鰹一本釣り漁船

 

この大滝某は、延長を続けてトンガに居座るつもりだったので

その後、JICA事務所長に『使えないどころか大問題を起こしそうな専門家は不要です』

と進言してたしか3年ほどで帰国させたのですが

 

縁故で専門家にさせたJICA職員(伊藤英明元駐在員)が

何を思ってかSAMOAにまた専門家として派遣したのですが

(現地に専門家派遣要請を無理やりさせた様子)

 

私がその昔、船会社で働いていた頃に

大型貨物船の船尾管のパッキン交換をするために

潜水士を頼んで船尾管に防水処理を施し

接岸中に交換したことがあったと話していたのを思い出したのか

 

↑の鰹一本釣り船と同型船を

岸壁に係留したままで聞きかじりだけの知識で防水処置して

パッキンを取り外したところ浸水して沈没

そのまま廃船にしてしまったと伝聞したのですが

 

ど素人を専門家にして派遣した伊藤英明氏にも責任があるし

糾弾されなければならないと思ったものでした。

 

 

おっと、つい怒りに燃えて吐露してしまいました。

 

 

【ここからはランダムにトンガでの生活風景を貼り付けさせていただきますね】

その後の現地での生活に話を戻すと

長年、日本からのODAは水産局関係の援助だけだったのが

チャンカーの教育関係も始まり

その後、国立病院の臨床検査センターのプロジェクトも開始して

厚生省の臨床検査技師の専門家も数名赴任して

その家族も暮らすようになって賑やかになりました

(医療プロジェクトの調整員の子供と)

↓は、チャンカーと黒い服の女性がトンガ外務省のキャリア

日本へも高級研修員として受講していたため少し日本語も話せてとっても助かりました

こちらはまたまた仲良しだったトンガ警察の交通課

FIJIのJICA事務所長の河西さんとその後ろが医療プロジェクトのリーダー(ホダテさん)

元東京大学医科学研究所の院長で協力隊の顧問医だった大谷さんが来トンした時の記念写真

(Capt. Cock landing tree碑にて)

右端から家政隊員の西澤範子さん、理数科教師の千田さん

大谷さん、調整員の小野チンと私

 

チャンカーと同じ、小学校教師への再教育で派遣されていた理数科教師の深谷さん

調整員が派遣され、隊員の連絡事務所にした建物と敷地

調整員の小野チン

シニア隊員で再派遣されて約1年後の1985年4月

またまたLOFAに乗船してた時

乗船中は海水シャワーしか浴びれられないため

針路に雨雲を見つけると

石鹸とシャンプーを手に甲板に上り

急いで洗髪して身体を洗って髭剃りをと凌いでいたのですが

 

ある日雨雲が小さすぎて途中で雨が止んでしまい

仕方なく甲板に溜まった水で髭剃りをしたのが悪かったようで

傷口から黴菌が入ったらしく左顎が化膿してしまい

腫れあがって抗生物質を飲んでも治らずにいたのですが

 

半年毎の健康診断でFIJIへ行く予定があり

現地で懇親会にご招待していただいていたところ

 

レストランのトイレで在FIJI大使館の書記官だった穴田浩一さんと

すれ違ったところ、シルエットで私の顔が変形しているのに気づき

『大丈夫ですか?』と心配されたのに驚き

 

その時に専門家としてFIJIへ派遣されていた協力隊OBの高野さんの家にお呼ばれした時に
看護師OGだった奥さんに相談したところ

針を焙って中の膿を出すのが良いかもとのアドバイスで

その施術をしてもらったのですが

化膿している場所が奥深すぎて膿が出ず

仕方なく健康診断を終えてTONGAに戻り

 

国立病院の外科で簡単な切開手術をしてもらうことになり

当初、手術室でと言われたのを

「この程度だから外来の施術室で大丈夫」と断って

注射器で麻酔をしてからメスで切開して膿を取り出して

一安心して、前々からチャンカーと予定していた任国外旅行に出発し

 

約一月、NZをほぼ一周して旅行を楽しんだのですが・・・

(当時のNZの公共交通機関は国鉄のみだったので、決めた期間内乗り放題のチケットがありました)

この時は、2週間乗り放題のチケットで有効的に周遊しようと

Aucklandから首都のWerringtonまでの寝台列車とWerringtonからChrist church経由でMt. Cockに飛び

Queens' Townからパスを使ったんだったかな?

いずれにしても、丸々1ケ月NZの隅から隅まで堪能させてもらいました。

南島の田舎では、何度もこんな場面に出くわし

定期バスの運転手が新聞配達も兼ね

窓から放り投げて配達する光景に目が点(笑)

 

そんな楽しい時間を過ごしてからTONGAに戻り

また普段の日常生活を送っていたのですが

 

たしか8月末だったか

また海に潜ってLOFAのプロペラ軸に絡まった枝縄を除去して

連絡事務所で”おつかれさま”ビールを飲もうとしたところ

口元まで缶を持っていってるのに

どうにも唇をつける気(飲む気)になれず

 

『おかしいなぁ』と思ったところ

居合わせた隊員から「長坂さん、目が真っ黄色ですよ!」と言われ

大焦り

 

その頃、何人かA型肝炎にかかっていたので

てっきりA型肝炎だろうから急性期を過ぎたら治るだろうと高を括っていたのですが

 

【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑦任期満了で帰国するつもりが】

2024-10-29 17:39:00 | 日記

いつまでも思い出話ばかりですみません。

 

最近、友人や知人もこのブログを閲覧してくれてるようなので

当時の事を知ってもらいたいなと

備忘録を兼ねて記事を続けさせていただきますね。

 

さて、鮪延縄実習船に乗船していた時の様子

(↓操舵室の隣の機関長室での執務風景)

前述したとおり、寄港した時に船の保守整備を徹底していたので

操業中にトラブルが発生することはなく

機関室での当直業務はエンジニアに任せて

乗船中は、専ら部屋でドックオーダー作り

こちらは、またまた前述のとおり

トンガ王国は憲法で日曜日は安息日として労働が禁止されているため

沖では操業を休止して趣味と実益を兼ねて乗組員個人の底釣り日

そもそも広い海域にもかかわらず沖合に出る漁師も漁船もないため

延縄で使った餌のサンマを使うからかいつも豊漁

首都に戻った時の家族へのお土産や市場での販売用に売れて個人収入となるため

みな喜喜として底釣りに励んでました。(安息日なのにいいのかな?と思いつつ

その後、現地での活動と生活を送りながら 

派遣された翌年の1983年の8月にも

当時交際していたGFがその年はFIJIまで来てくれて

私も年に1月与えられる休暇を利用して

隊員に許されていた任国外旅行としてFIJIに飛び

首都Suvaのアパートメント式ホテルに滞在して

久しぶりの再会を楽しんだのですが・・・

 

実はこの時、GFのふるまいから自分が覚えている様子と異なることを不審に思い

更に、ある日どうにも寂しくなって高額な電話代を払って国際電話をかけた時に

なぜか彼女の代わりに普段別居している妹が出て

(彼女は)どこにいるのかと尋ねると、即答できずに狼狽した時があったのを思い出し

直感で別の男性と付き合ってるなと気づいてしまい

問い質すと「(あなたが)居なくなって寂しさを紛らわすためだった」と白状したものの

「それだったら、なんでわざわざFIJIまで来たんだ。」と突然の告白に呆然自失

 

「旅の予定をキャンセルして、もうトンガに帰るから日本に帰れ」と告げたものの

泣いて謝る彼女をそのまま見捨てられず

「しばらく時間を置いて考えよう」と結論を先延ばし予定の日まで過ごしたのですが

 

実は、協力隊で派遣されることとなった時に

「私たちの関係はどうなるの?」と聞かれ

「2年の任期が満了するまで付き合っていられたら結婚しよう」

と話していたのですが

 

たぶん何かのキッカケで将来諍いとなったら

このことを苦々しく思い出して責めちゃうだろうなと

「やはり無理だったか。。。」と諦めをつけ

 

トンガに帰国してから日本へ別れの手紙を送り

彼女の送ってくれたAir Mail、たぶん百通以上ありましたが

未練を残さないようにと全て燃やし

辛い別れとなって傷心の日々を送っていたのですが

 

 その心の傷を癒やすように

現地では超可愛子ちゃんで有名だった

鰐淵晴子似の娘と恋愛したり

精神的な安らぎを求めて

彷徨っていた最中

 

トンガ🇹🇴王国初の

女性隊員として赴任してきたのが

いまのチャンカー🤣 

 

これは前にも載せた乗組員が食べ物を持ち込んでくれての

我が家での懇親会の一日(たぶんクリスマスかな?)

チャンカーと、何度も鮪延縄船に一緒に乗船していて仲良しだった専門家の増本さんと

この時はご馳走の子豚の丸焼きも持って来てくれた時の写真の一枚

 

実は、私の最初の任期が満了する3月前の1983年10月

トンガ教育省へ小学校の教師向け理数科教師として派遣されてきた

(なんせ当時は学校の先生も”数の概念”を理解しておらず
算数も指導要領を黒板に板書するだけで、子供達への理解ができていなかったため

日本政府のODAで首都のあるTongatapu島の東西二箇所に小学校を建設し

併せて教師を再教育するプロジェクトが開始)

その数学教師隊員と恋に落ちてしまい

 

公然と付き合うようになっていたのですが・・・

 

それでも任期がきたら帰国するしかないなと思っていたところ

[↓この辺り、もしかしたら自分に良いように記憶変えちゃってるかも

[チャンカーと大恋愛してるの知ってたアイセアが慮って次長に延長の話を持っていってくれたような

[いずれにしても、延長を申請しなかった経緯を話した記憶はありますねぇ]

 

ある日、水産局の次長のTaniela Koloaが話があるとのことで部屋に行ってみると

「Masa, もうすぐ任期満了だけど、MasaはTongaの事が嫌いだったのか?同期のHiromiは延長するのに」と問われ

「ん?今頃どうしたの?1年前に大滝(どうしようもない専門家)から任期延長するのか聞かれた時に

『自分の意志よりもトンガ側がどう思ってるかで決めたい』と尋ねたら

”どっちでもいい”と言われたと聞いて『そんなつもりなら2年で帰る』と答えたんだけど?」と伝えると

 

実は、この大滝明という一応名目は”漁船エンジン専門家”

ただの三流私学大の工学部卒で

船舶の免状も持たず、船舶機関など取扱い経験もないし

全くのど素人のくせにJICA職員の縁故で高給取りの専門家になった人物で

その道のプロを自認していた私が疎ましかったようで

面と向かっては何も言えないので陰で嫌がらせばかりしていた輩

 

「水産局は、Masaが来てとても感謝していてできれば延長して欲しいと願ってるんだよ」と言われ

大仰天

 

実は、兄弟のように仲良くしてたAisea Tuipulotu(通称アイセア)が

チャンカーと大恋愛中してて離れがたい想いでいると察知して

次長に進言してくれたらしく

 

「そこまで言ってくれるなら、延長してもいいよ」と快諾

次長はすぐに外交文書を作成して正式ルートで任期延長の申請をしてくれたのですが

(Tonga水産省=農林水産省→Tonga外務省→在FIJI日本大使館→日本の外務省→協力隊事務局)

 

当時、トンガには大使館もJICA事務所も駐在員も調整員もおらず

隣国のサモアの駐在員(豊島一郎さん)が3月に一度訪れて隊員の様子を窺ったり

トンガ政府との調整をしていたのですが

その要請を受けて確認と状況説明のために来トンしてきて

現場の状況を良く知る専門家の増本さんを交えて面談したところ

 

①交替要員の協力隊候補生が訓練所で、1月末には派遣される予定になっている

②在FIJI日本大使館の担当書記官が、大滝専門家から彼女ができて延長したくなったと聞いていて難色を示している

③いずれにしても時間切れで延長申請は受け入れられない

なので任期延長は諦めてくれとの話だったのですが

 

※この辺りも少し補足説明しますね。

当時、日本側の管轄が複雑で

TONGA王国はFiji大使館の管轄

SAMOAはNewzelandの管轄

但し、協力隊員は派遣人数の多いSAMOAにしか駐在員を置いていなかったため

 

隊員業務(報告書の提出先とか現地との調整)では問題ないものの

そうした外交上のルートではTONGAはFiji管轄だったので

SAMOAの駐在員は口出しができなかったのです。

 

 

同席していた増本さんが、駐在員の豊島さんに

「長坂君がどれほど水産局、ひいてはトンガに貢献してくれてるか説明させてください」

「彼のおかげで鮪延縄船がトラブルなく操業できるようになって、

その上自分達で整備してくれるからドック費用も激減して巨額の外貨収入に貢献してくれてるんです」

「それにも関わらず青年海外協力隊の僅かな手当だけで、遠洋漁業の鮪船に乗り組んでくれているんですよ」

「延長がダメなら、専門家として再派遣してください」

「大滝が邪魔して長坂君が戻ってこれないなんて我慢できないんです」

と、涙ながらに怒りを込めて訴えてくれたこともあって

 

駐在員の豊島さんも、納得してくれて

まだ若干25歳とあって、JICA専門家は無理なので

青年海外協力隊のシニア試験(主に語学試験)を受けてシニア隊員として再派遣できるようと尽力してくれて

 

実は、英語なら英検一級並みの語学力でないとシニア試験にパスできないため

わざわざトンガ語での受験ができるように事務局に話をつけてくれたのですが

 

実は、その漁船エンジン専門家なる輩と

私の交替隊員(船舶機関隊員)が派遣されるため

私が戻ってきたら同じような職種の人間が狭くて小さな国に3名は不要だと

先に述べた在FIJI日本大使館のODA担当書記官が難色を示し
私の派遣要請書を差し戻ししていたんです。

 

駐在員の豊島さんがそれらを含めた状況を

水産局長のSemisi Fakahauにその旨を伝えてくれていたため

水産局全員が参加してのFarewell Party(歓送会)では

「私のいま一番の仕事は、Masaを日本から呼び戻すこと」と宣言してくれ

 

さて、いったいどうなっちゃうのかな  と不安に思いつつ

当時は、任期満了のご褒美のように与えられていた帰路変更をせずに

帰国限度日までトンガで過ごし離任日を迎え

チャンカーと増本さんに見送られての旅立ちとなりました。

(↓は、トンガを離れる日にチャンカーの暮らしていたGovernment house前にて)

 

TongatapuのFaamotu Airportにて再派遣への道を作ってくれた

漁労の専門家増本有三さんと

この時、日本への帰国ルートとして

TongatapuからAmerican SamoaのPagopagoに飛び

そこからHawaiian AirでHonolulu経由で成田から入国するのが

最も移動時間も少なく安価だと勧められ

 

Tongatapuから双発の小型機でAmerican Samoaに飛び

大型ジェット機に乗り換えてPagopagoを飛び立って数時間

2年ぶりに見る眩いばかりの光の洪水の夜景に見惚れながら

Honolulu空港に到着したのですが・・・

チケットを手配してくれた航空代理店で

Hawaiiは乗り換えのTransitだけだからVisaは不要と聞いてたのに

 

Honolulu空港で成田行きの飛行機に乗り換えようと思っていたところ

入管で入国を拒否されて別室に連れていかれ

結局不法入国扱いとなって、飛行機会社負担で成田便に搭乗するまで警備員が貼りつくことに

 

トイレの中まで離れずについてこられたのには困りましたねぇ

たしかJALの747だったと思うけど

ボーディングゲートで日本人観光客が山ほど待ってるその前を

警備員に連れられてCA以外誰も乗り込んでいない機内に移され

『犯罪者の移送?』と訝しそうな視線を浴びながら

成田に到着

 

Honoluluでも突然文明社会に放り込まれたような衝撃だったのに

2年前に出国した成田空港のターミナルビルがあまりにモダンで嬉しくて動けなくなり

数時間、施設内を彷徨ってから東京駅行のリムジンバスに乗り込んだのですが

窓にかじりつくようにして外を眺め続け

 

東京駅に到着してからも、協力隊に参加するまで働いていた船会社が八重洲にあったので

かってはランチで良く使ってた飲食店が懐かしくてまたまた八重洲界隈を徘徊

(この日、東京は大雪で歩道を歩くのも苦労するほどの積雪)

 

ようやく気持ちを落ち着けてタクシーに乗り込み

広尾にあった協力隊事務局に到着したのですが

成田空港に昼頃到着したのに 広尾では既に夜8時頃

それも週末で職員は誰もおらず警備員のみ

 

どこか泊まるところはありませんか?と尋ねると

「帰国隊員は、いろんな病気持って帰ってくるから泊めてくれるホテルなかなか無いんですよ」

と言われたものの

雪の積もった中で放っておくこともできないと思ってくれたのか

直ぐ近くにあった”麻布高知寮(高知県の東京出張者のための宿泊施設)”に連絡を取って許可をもらい

和室の部屋で荷物を広げたのがこの写真↓

その後、とりあえず晩御飯と言うよりも居酒屋に行きたくて

訓練中によく訪れてた広尾商店街の赤提灯に飛び込んだのですが

 

演歌が流れ、お品書きで埋まった壁を眺めながら

全部食べたい衝動に駆られ

「それじゃあ、とりあえず熱燗の大徳利2本とそのお品書きの端から順番にお願いします」

と注文しちゃいましたねぇ(笑)

 

その後、帰国後の健康診断や事務局での報告や再就職の進路相談などの手続きで

数日広尾で過ごしたのですが

 

前述のとおり、私はシニア試験を受ける事となっていたため

進路相談課でその旨を伝えると

 

実は、チャンカーはその隊では有名な女子隊員だったらしく

赴任したそうそう悪い虫がついたと噂されてたようで

「そんな現地語の試験、誰が問題を作ってヒヤリングや採点できるんだ」と

苦々し気に冷たく突き放すように嫌味を込めて言われたのですが

 

 

それでも別部署でトンガ語でシニア試験を受験できると告げられ

トンガを離れる前に急遽手に入れた”トンガ語の教本”

INTENSIVE COURSE IN TONGANで猛勉強

実は、アメリカ平和部隊の語学用に作られたもので

なんとレッスン130を含めて723ページの本なのですが

全て丸暗記してしまうほど何十回も復習したんです。

 

それも実家では子供の頃から宿題を一度もしたことがなかったので

集中できないなと 

上京して都内のビジネスホテルに泊まりこみで猛勉強

私の人生で、あれだけ必死になって勉強したのって

あれが最初で最後だったかも

 

Tonga語は、Polynesia語のひとつで

日本語と同じように母音との組み合わせのため

発音や読みは苦労しませんでしたが

 

なんせ1777年にCapt. Cookによって発見されるまで

文明から取り残された未開の地で

文字もなく口承伝承だけ

 

なのでボキャブラリーも少なくて一見楽そうなんですが

文法は複雑怪奇そのもので

前置詞と後置詞があって

所有代名詞、複数所有代名詞、二重不定詞、

その上人称(一人、二人、三人)で変化と超複雑

更に庶民の一般会話では必要ありませんでしたが

平民語、貴族語、王族語があるんですよ。

 

そしてようやくシニア試験を受験することとなったのですが

実は、たった一人では実施できないとの条件があったため

 

そこで事務局の担当者が既に1年以上前に帰国して

横浜で暮らしていた桜井研次さんに依頼して

一緒に受験してもらうことで実現となったと聞き

 

桜井さんにお礼方々

その後再派遣となるまでの3ケ月

お休みの前日は桜井さんのアパートに泊めてもらい

ほぼ毎週のように歓談しながら居酒屋で盃を交わしていただきました。

 

桜井さんは、新潟の南魚沼の出身で

専門学校で冷凍機技術を習得して

協力隊に参加するまでも横浜の企業で働いていて

 

帰国してからもまた古巣の横浜(浅間台)のアパートに住み

仕事を終えてから

渋谷の鍼灸の夜学の専門学校に通い

数年かけて鍼灸師の資格を取ったのですが

 

結局独立するのが難しいと

資格を取ったものの、その後もずっと空調と冷凍機関係の仕事に従事してました。

 

 

さて、駐在員だった豊島一郎さんのことも少しお話させていただきますね。

 

実は、豊島さんは元広尾訓練所の所長で、大酒飲みで

訓練生達と本音で語り合いたいと訓練所内で酒を飲ませたところ

泥酔した訓練生が宿舎を壊すなどの大事件を起こし

 

それが原因で、訓練所長を辞めさせられ

辞職を覚悟して家に帰ったところ

奧さんから「あなたが信念を持ってしたことでしょう?だったらそれでいいじゃない」と言われ

 

その後、左遷でケニア駐在員となって

普通ではありえない、ケニアからサモアにそのまま転勤となった不遇の人生を送ることになったのですが

”男豊島”と隊員から慕われた人物で

 

1983年に中曽根首相がアセアン諸国を歴訪した時に

『将来の国造りを担う青年をわが国に約1ヶ月間招聘し、友好・協力関係を培う』

”21世紀のための友情計画”を提唱し

豊島さんの実力が認められその初代のアセアン青年招聘室長に任命され

ほぼ私と同時期に栄転帰国していたんです。

 

その前に、トンガ水産局長のSemisi Fakahauに

邪魔をする日本大使館を飛び越えるウルトラCを伝授してくれたようで

 

通常の外交ルートである在FIJI日本大使館を通さなくてもよい

トンガ王国の外務大臣から日本の外務大臣への”大臣親書”を送ってもらい

 

当時の外務大臣”安倍晋太郎氏”から

なんと外務省の特殊法人だった国際協力事業団(JICA)傘下の

青年海外協力隊事務局へ通達がなされていたのでした。

当時の派遣担当部署のトンガ担当者から

「外務大臣から直々に派遣の指示書が送られてきてビックリしたよ」

と聞いて、こちらもそれ以上にビックリ

 

 

実は、豊島さんの奥さんが陰の支援者で

トンガ出張の時や半年毎の健康診断でサモアを訪れた時に

私の事をとても気に入ってくれてたため

豊島さんからトンガ水産局が再派遣を切望してるとの話を聞いて

『絶対に実現してあげて』と頼んでいてくれたのを

後日知ったのですが

 

飛び上がるほど嬉しかったですね~

 

(↓1984年9月定期健康診断のためトンガ派遣中の隊員とサモアに出張した時の一枚)

(私の右隣の車に座っているのが豊島夫人)

とはいえ、シニア試験に無事合格できたのか不安でいっぱいだったところ

 

ある日サモアの協力隊OBとOGの結婚式があり

披露宴に招待していただいていたため会場に向かったところ

 

豊島さんご夫妻もいらしゃって

奧さんの方から歩み寄ってきて

「長坂君、シニア合格おめでとう」と言っていただいたのですが

 

正直、合格に至ることができたのか不安だったので

「いえ、それが合格点に達することができたのか自信がないんですよ」と答えると

 

「あら、心配いらないわよ。あのね、試験前から決まってるのよ

「だって、長坂君のためにトンガ語の試験をわざわざ作ったんだから

と笑いながら話してくれて、目玉が飛び出しそうになりました 

 

数日後、合格通知が届き、即座に派遣日も決まり

帰国から約二月後の1984年5月

 

2年半前と同じ

FIJI経由でTongaに向かいました。

 

青年海外協力隊のシニア隊員とは

現地手当も国内積立金も現地での待遇もその他の条件も(妻帯者は帯同も可能)一般隊員とは段違い

 

この時は、FIJIの首都Suvaでいつか泊まってみたかった

GPH(Grand pacific Hotel)に泊まり

大使館での表敬訪問を終えて

ワクワクしながらトンガ行のフライトを待ちました

 

辛いことも山ほど体験しましたが

それ以上にいろんな人に助けられて

信じられないような幸せな人生を送ることができて

いまでも思い出すたびに

あの時期はこの世の春を謳歌させていただいたなぁと感謝している次第です。

 

【その⑧に続く】

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またどっぷりとドラマの世界に浸り感情移入しちゃいました。【母の待つ里】

2024-10-20 16:19:36 | 日記

 

先日もシリーズで9月末のその旅を記事にさせていただきましたが

 

朝ドラ”あまちゃん”にはまり込み

ロケ地の聖地(袖ヶ浜→小袖海岸)を訪れて

未だ余韻に浸ってるところなんですが

 

実は、あのドラマで特に個人的に気に入ってしまったキャストが

①夏バッパ(宮本信子)

②鈴鹿ひろみ(薬師丸ひろ子)

③海女クラブ弥生さん(渡辺えり)

 

※ 実在してたら訪れてみたかった場所は

喫茶リアス&スナック梨明日と常連メンバー

無頼鮨

 

そんな想いがますます強くなっていたところに

ネットニュースで

宮本信子さん主演のドラマ【母の待つ里】を知り

 

↓ 短い予告編もあるのでよろしければご覧ください。

https://www.nhk.jp/p/ts/L66351K8RG/movie/

 

 

初回の第1話・第2話を見逃していたので

焦って第3話・最終話を録画して

 

精神的にゆとりのできた昨日

ようやく第1話・第2話をU-Nextのトライアルで視聴し

続けて録画しておいた第3話・最終話を観て大感動

今朝も録画している分を何度も観て

涙涙で感涙しながら瞼を腫らしておりました。

 

ネタバレしては申し訳ないので

詳細については書きませんが

いいドラマでしたよ~

 

現実には

”藤原ちよ”さんのような母が存在するわけもなく

あくまでも夢物語とわかっていても


あの里であの母に出会ったら

何度もリピーターになって

移住したくなっちゃうだろうなぁ

 

自分も中学校卒業して生家を離れ

勿論、学生時代の休暇には帰省していましたが

18歳になったばかりで心臓が弱ってた父が急逝

 

その後も学業と卒業後は上京して地元を離れたものの

青年海外協力隊員になってから劇症肝炎で緊急帰国して

再派遣するまでの間、半年近く自宅療養してた時期もあって

母と実家で過ごした期間もありましたが

 

またまた海外派遣となって32歳で帰国したものの

その後は関西で暮らすようになって

盆暮れに帰省する程度となっていたところ

 

42歳の時に母は脳梗塞で倒れ脊髄を痛め

寝たままからそのまま認知症となってしまい

ショートステイ以外は兄嫁のお世話になりながら

家で介護をしてもらっていたため

多い時には月に2・3度とお見舞いに訪れていたものの

まともに会話する機会なく私が50歳の時に亡くなってしまい

 

とうとう親孝行できないままお別れしたなと

心残りだったこともあって

このドラマが心の琴線に触れてしまったようです。

 

 

それにしても

映画”夜叉”といい

5年ほど前には、中国上海からの帰路に

大阪までの客船”新鑑真号”に乗船したところ

船内で放送していた中国のTV番組で観た

”深夜食堂”にハマりこみ

新宿二丁目を彷徨ったもの当然のことながら実在せず

ガッカリと肩を落としたこともありましたし

 

火野正平さんのにっぽん縦断こころ旅で

訪れた”こころの風景”やランチに立ち寄った店にも行きたくなって

これまでにもそこそこ日本各地津々浦々徘徊してきて

 

先日は、記事にもした”あまちゃん”にハマり

ロケ地の聖地巡礼してきたばかり

 

こんな映画やドラマに感情移入してしまう気質、

調べてみたら

HSP(Highly Sensitive Person:敏感気質)
って言うんだとか
 
 
今回は、撮影時期と同じ4月の桜の咲く季節に
ロケ地を歩いてみようと妄想中
 
駅、バス、曲がり家、佐々木酒店、お寺
を航空写真で探して
 
古い民家風の民宿に泊まって
ジンギスカン食べて
浄土ヶ浜に行って
 
ついでにまたまた”にっぽん縦断こころ旅”で訪れた場所や
宮古の居酒屋に立ち寄ろうと
いまからワクワクしてるところなんですよ。
 
 
さて、しばらくドラマで出てきた風景の場所探しで
忙しくなるぞ~
 
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たいした鉄道マニアでもないのに、どうしてそんなに豊橋鉄道に詳しいのか?[種明かし]【加筆】

2024-10-17 15:23:05 | 日記

前回の記事で

豊橋鉄道の市電と渥美線の車輛の型式を

知ったかぶりして書いた[種明かし]

しておこうと思います。

 

まず、私にとって豊橋鉄道は

 

昭和39年、豊橋市立福岡小学校1年生の時の秋の遠足が

当時、市電(路面電車)の支線の始発駅だった”柳生橋”電停から

貸切車両で吉田城にあった動物園までの移動に使ったのがあまりに楽しくて

(ただ柳生橋までどうやって行ったのかは記憶なし

 

柳生橋から市電で動物園に行けることを覚え

翌週、すぐに家の近所の洟垂れ小僧達を引き連れて

1.2km離れた柳生橋まで歩いて向かい

 

市電に乗り、新川電停で本線に乗り換えて動物園まで行き

帰りは豊橋駅に出て丸物百貨店の前を歩いていたところ

 

たぶん仕事帰りだった担任の竹村先生(女)を見かけ

喜んで声をかけたところ

 

「あら長坂君、お母さんと来たの?」と問われ

「ううん、自分たちだけで来た動物園行ってたんだよ」と自慢げに答えたところ

 

先生は驚愕して大慌て

その後、家まで連れていかれたのか覚えていませんが

 

翌日、学校に登校すると

校長室に連れていかれて校長先生直々大目玉

 

実は、父親が当時市役所に勤めていて

市役所は吉田城の隣にあったこともあり

幼稚園児の頃から母や姉、兄と何度も訪れていて

勝手知ったる場所だったので

『なんで怒られちゃったのかなぁ?』と合点がいきませんでしたが

 

 

(因みに、生家から豊橋駅までが2km、市役所まで3kmで

普段家族で外食や駅前の百貨店&繁華街へ出る時は路線バスに乗っていましたが

隣の小学校の校区だったので”遠い”との印象はありませんでした)

 

そんな出来事があったため

市電には特別な思い出があり

 

渥美線も最寄りの路線バスの停留所のすぐ裏を走っていて

当時、路線バスは伊良湖岬行、太平洋側の表浜行、ニチボー行、トピー工業行と

5・6分間隔であったため

駅前へ出る時にあまり利用することはありませんでしたが

ごくごく普段の生活の中で目にする交通機関でした。

 

特に、中学校を卒業して豊橋を離れてからは

帰省してもほとんど利用する機会もなく、あまり気にしていませんでしたが

 

駅前の再開発で渥美線の新豊橋駅が取り壊されると聞いて

愛車のMini Cooperで写真を撮りに行った時の一枚

【平成20年3月14日撮影】

 

更に、レトロ感満載で大好きだった渥美線の柳生橋駅も取り壊されると聞いて

またまた急いで写真に残してきました。

【平成21年2月21日撮影】

これが平成20年代まで残ってたんですよ~

 

 

そんな出来事もありましたが

またまたほぼ”市電&渥美線”のことを忘れかけていたところ

 

ネットで豊橋鉄道100年を記念して

美術館で”市電と渥美線”展が催されることを知らされ

 

以前の記事でも書かせていただきましたが

断食センターへ向かう前に

時間をかけてじっくりと拝観し

図録も購入していたんです。

これが”種明かし” 

 

図録のなかにこれまで使われてた車両の型式や年代

写真まで載せてくれてたので

わかっちゃったって訳です。

 

 

豊橋という土地は

元々が東海道の城下町(吉田藩)で江戸側から数えて34番目の宿場町

 

『吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が』と詠われたところ

(飯盛り女が多かったらしいです。

 

その後、明治維新で近代的な軍隊の整備が進められ

明治17年に名古屋で創設されて第三師団下の豊橋陸軍歩兵第18連隊が

日露戦争後には、陸軍第15師団が増設されることなり

誘致合戦の結果、豊橋への駐屯が決まり

 

師団の司令部が置かれ、高師原、天伯原の広大な台地が

満州の地形に似ていたことから演習場が作られ

 

当時人口4万人ほどの土地に

軍関係だけで2万人が加わって地域経済が活性化してインフラの整備も進み

豊橋のまちは一気に近代化されたんだそうです。

 

(昭和18年には、三河湾の洲を埋め立てて造られた大崎島が

海軍の航空隊の基地となって飛行場もあったんです。

 

そのひとつが1924年に開業した渥美線と市電

 

豊橋駅から北東約1.5kmの吉田城跡に陸軍歩兵第18連隊

 

豊橋駅からほぼ真南2.5kmの高師原に

日露戦争の際に大陸で編成された第十五師団を置くことが決定され

約50万坪の敷地に多くの施設がつくられ

第15師団司令部・歩兵第69連隊・兵器支廠・騎兵第19連隊

騎兵第25連隊・騎兵第26連隊・野砲兵第21連隊・輛砲兵第15大隊

衛生病院・衛生監獄・憲兵隊本部・豊橋陸軍教導学校・陸軍予備士官学校

関連した軍需工場も設置され

 

などと

 

渥美半島の先端伊良湖には

陸軍研究所伊良湖試験場があり

 

更には現伊勢湾フェリーで鳥羽に渡り

伊勢神宮への参拝客を取り込む計画もあり

 

渥美線は国有化して伊良湖の手前”福江・堀切”まで延伸する予定だったんです。

(昭和までレールと電線はないものの、三河田原の先まで線路跡は残ってました)

 

それらの施設や兵舎(兵隊)の交通手段としての

需要が見込まれ計画され作られたもの

 

結局終戦前年の1944年に戦況の悪化と資金難から

三河田原駅以西は不要不急路線として休止されてしまいました。

 

また、人口が流入してきたことから

廓の需要も激増し

江戸時代から東海道の旅人で栄えた宿場町の札木・上伝馬の遊郭では

賄いきれなくなり(一説には性病が蔓延したの移転の理由)

吉田城(歩兵第18連隊)からほぼ真東約2kmの東田に遊郭を移転させ

〔渥美線の小池駅近くにも小池遊郭がありました〕

 

更には競馬場(現競輪場)もあり

それらへのアクセスとして市電が計画され設立されたようです。

 

そんな背景もあって

展示されている資料を見ながら改めて豊橋の生い立ちを再認識

 

 

 

↓ 黄色い部分が陸軍歩兵第18連隊

 

 

 

 

と言うことで、もしかしたら豊橋っ子がブログをのぞくこともあるかもと

 

ご参考までに

図録を貼り付けておきますね。

↓ 第15師団を中心に設置された高師の施設

歩兵第69連隊(現:愛知大学)

第15師団司令部(現:愛知大学

兵器支廠(現:南部中学校、栄小学校)

騎兵第19連隊(現:福岡小学校)

騎兵第25連隊(現:盲学校、以前は製綱工場も)

騎兵第26連隊(現:ユタカ自動車学校 それ以前は紡績工場)

野砲兵第21連隊(現:時習館高校)

輛砲兵第15大隊(現:豊橋工業高校、聾学校)

衛生病院(元国立病院)

衛生監獄(元紡績工場?)

 

 

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欲張り?いえいえだたの貧乏性な旅【③乗り鉄しながら大好物の食材を仕入れて帰路につく】

2024-10-16 13:23:59 | 旅行

今回の貧乏性の小さな旅 3日目(10月13日:日曜日)

 

音花火の段雷がドンドンドンと鳴り響き時計を見ると朝6時

その後も万雷(ダダダッ、パラパラパラ)が続き

 

そう言えば、子供の頃から運動会、お祭りと

催しがある日になると鳴り響いてたなと思いだし

昔は10月10日と言えば 

実家のある橋良神社の例祭日だったなと記憶が蘇り

ネットで調べてみるとやはりそのとおり

ただ、よくよく開催場所を見てみると

神社ではない近くの広場

 

Google Mapsの航空写真を調べてみると

神社は住宅の中に埋もれ 

由緒ある村祭りの名物、手筒花火を奉納することもできない様子

 

私が子供の頃は、神社は田圃や畑に囲まれて

(↓は1961年頃)

 

普段は夜ともなると暗闇の中

ところが祭りになると、豊橋はテキヤの町なので

参道の両側にはいくつもの屋台が並び

煌煌と裸電球で眩しいほどになり

昼は神社の行事と餅投げがあるので山ほど人が集まり

広場には大きな幕が張られ

夜は映画の上演会

(子供向けの東宝のゴジラやモスラ、大映の大魔神と

大人向けは兵隊ヤクザ、森繫の社長シリーズなど)

そしてフィナーレが青年団による手筒花火の奉納

 

↓豊橋のある三河は徳川のお膝元なので

江戸時代禁制だった火薬類を取り扱えたため

花火づくりが盛んで

青年団のメンバーは祭りに備えて竹を切り

竹筒の節を抜いて火薬を詰め、破裂しないように藁縄を巻き

この筒を抱えて火をつけて火柱があがる中耐え続け

最後に底の火薬玉が爆発するまでの度胸試しなんです。

(青年団は朝から神輿を担いで町内を練り歩くのですが

家々で振る舞われる酒に酔ってみなベロンベロンになってました

 

子供達には、近所の集会場で花火のセットが配布され

特に男の子は爆竹を打ち鳴らすのがある種の根性試し

 

導火線に線香で火をつけて

いつまで持っていられるかを競うのですが

爆竹によって火の回りが違うので

指から離す前に爆発してしまい

血豆を作ってしまうのがある種のルーティン(笑)

 

1970年代まではまだ周辺には畑も残っていて

なんとか神社で実施されてたと記憶していますが・・・

 

もう騒音だとか火の粉で火事になるとか

周辺住民からのクレームで

神社ではできなくなっちゃったんだろうなぁ

そんなことを思い出しながら

『もう一泊して祭りも覗いてみようかな』とも、一瞬考えましたが

 

どうせまた、浦島太郎のように現実を知らされて落胆しちゃうだろうなと思い直し

もう奈良に帰ることを決め

 

頭の中でその日の旅程を組立て

 

9時過ぎにホテルをチェックアウト

普段なら最初の目的地には歩いて向かうのですが

この日は、実は大きめな保冷バッグと着替え類を入れた布製バックを抱えていたため

市電(路面電車)を使うことにしちゃいました

この豊橋の市電

駅前からその昔、軍都だった頃に師団や郊外の花街への足として開通したもので

全国各地の市電と比べると距離も支線もほとんどありませんが

沿線にいくつかの私学の高校があって通学での需要と

市役所や警察署、陸上競技場、野球場などの公共施設に

最近の車離れもあるのか、いまでもそこそこの利用者があるため

市民の便利な足となってるんです。

また、豊橋名物にちくわと練り製品があるため

冬には”オデン車” 夏には”納涼ビール電車”なるイベント車両も運行したりするんですよ。

 

この車両は、元都電荒川線の7000形(モ3500型)みたい

 

この日は、駅から3番目の停車場”札木”で下車

 

この札木というところ

東海道の街道沿いにあって、江戸時代以前から旅館や待合茶屋で賑わってた場所で

城下町時代からの商店街(?)もあって

そのひとつ、魚町にあるヤマサちくわの本店と

豊橋っ子の台所、スーパーサンヨネで食材を仕入れるためでした。

ちくわとオデンネタと花かつお&刺身用鰹の柵を買って

すぐさま、またまた市電に乗り込み

(T1000形 ほっトラム H.20)

 

 

 




 

急いで豊橋駅に戻り 豊橋鉄道の渥美線新豊橋駅へ

私にとっては馴染みのない

たぶん東急の中古車両(モ1800形)に乗り込み

(1997年に電圧を600Vから1500Vに昇圧したため昔の車輛が使えなくなったんです

 

田原市のやぐま台駅で下車

 

 駅から約1.5km、早歩きで15分後、次の目的地”千春うなぎ”に到着

実は、これまでは鰻もスーパーサンヨネで生鰻(但し、開いてあるもの)を買ってたのですが

あまり満足していなかったため

 

以前田原に行く途中で、国道沿いで看板を見つけ

航空写真から養鰻場の直営だろうと思い込み

一度味見してみようと

開店時間の9時に電話をかけて10時半頃取りに行きますと伝えていたのですが

移動時間の憶測を誤ってしまったため

焦って向かったのですが

焼きたて鰻を手渡されて万歳三唱

ただ、航空写真からてっきり養鰻場の直売だと思ってたら

養殖池は既にソーラーパネルに覆われて

契約養鰻場から生鰻を仕入れ

加工販売(主にスーパーなどへの卸)にしちゃったらしいです。

まあ、浜名湖周辺も、養鰻130年の歴史を持つ豊橋も

昔のように露天の養殖池では温度管理が難しく

ハウスで温度調整しながらと手間もお金もかかるようになって

浜名湖では養鰻からスッポンに変えたり

養鰻を廃業してソーラーパネルだらけになっちゃいました。

 

そんな事を考えながら”やぐま台駅”への戻り道

このところ渥美半島のほとんどが栽培しているキャベツ畑を発見

このキャベツ、栽培期間が短くて楽とか、年間を通して何度でも栽培できる様子で

収穫前の畑の横に、種なのか苗なのか植えられてばかりの畑も混在していて

驚かされます。

豊橋市内でもキャベツの栽培が盛んなのですが

道を隔てた豊橋市内側はいまも稲作が中心の様子

 

またまた15分ほどでやぐま台駅に到着したところ

渥美線のほとんど駅がパーク&ライドになっているのを発見

 

市電同様、車社会になってローカル線はほとんど存続の危機に陥ってるのに

豊橋周辺では、このパーク&ライドが成功して

市電は通勤・通学のピーク時が9本/時 その他でも7本/時

渥美線も約15分間隔で運行されて

需要と供給のバランスを保っているようです。

 

反面、路線バスはどんどん運行本数が減少し

路線が廃止されたりルート変更したりと惨憺たる状況で

『この先どうなっちゃうんだろ?』と思いつつ

傍観するしかないもんなと寂しい気持ちに

 

そしてまた渥美線に乗り込み

軍都時代の遺跡のひとつ

現在の高師緑地、軍都時代からの松並木が残されてるんです。

これらの松、根元に近いところの樹皮を剥がれ溝が刻まれた木だらけ

戦争末期、松脂を採取していた様子がわかり歴史を実感させられます。

この渥美線での移動の軌跡はこんな感じ↓

千春うなぎまでが↓

11:55 豊橋駅前着

その後、急いで金券ショップに向かい

名古屋までの切符を買ったのですが

 

名古屋では、名鉄が1,100円、JRでも1,010円なのに

豊橋で買うと920円 または830円(名鉄休日キップ)

 

前日、名鉄で豊橋に来てたので

あえてJRで名古屋まで行こうと休日でも高いJRを購入

 

我ながら面倒臭いヤツだなぁと思いつつ

 

さて、新幹線改札口にあったのが

この↓ アニメの聖地巡礼マップ

 

聖地巡礼が大好きだけどアニメには興味ないので

歯牙にもかけず

 

お昼にと立ち食いのお店へ

今でこそプラッチック(関西人風)の容器になっちゃいましたが

その昔は、駅の改札口近くの構内にあった平屋の建物で

各ホームに向かう跨線橋の袂にあって

冬になると開けられた引き戸から湯気がモウモウとあがっていて

素通りできずに暖簾をくぐり「きしめんひとつ」と注文したものでした。

 

浦島太郎は昔の記憶が鮮明に残ってるので

『今はもう別物だな』と思いつつ

ついつい立ち寄ってしまうのであります。

 

あと昔からあるお店としては

豊橋のものではありませんが

昔から人気の”知立名物の大あんまき”

 

あと、立ち食いそば&きしめんの店と同じ経営の壺屋の稲荷寿し

豊橋の名物駅弁と言ったらこの”稲荷寿し”で

豊川鉄道(豊川稲荷へ行くための私鉄で、現在の飯田線)の起点だったので

この弁当が生まれたんだと思います。

『ショボイ弁当だよなぁ』と思っていましたが

この歳になると、あの甘辛い稲荷(油揚げ)が無性に食べたくなったりします。

そしてまたまた豊橋始発の岐阜行快速に乗り込み

名古屋駅では連絡通路で近鉄に移り

13:30発の大阪なんば行アーバンライナーに乗車

お昼がきしめんだけだったので

缶ビールのロング缶2本とアテを買い込み

 

15:20大和八木で下車

京都行特急に乗り換えのため下の橿原・京都線のホームに移動したところ

近鉄の新型車両発見

10月にデビューしたばかりの「8A系」

インバウンド観光客が激増しているからか

優先座席にはキャリーバッグのストッパーがあるんですよ。

 

この新型車両に乗りたい気持ちいっぱいでしたが

乗り換えの特急に追い越されるので

諦めてビスタカーの2Fシートへ

 

15:50 最寄り駅に迎えにきてくれたチャンカーの車に乗り込み

16:00無事帰宅となりました。

この日の移動の軌跡はこんな感じ↓

 

この日、豊橋で仕入れてきた食材は

ヤマサのちくわで

特選ちくわ5本入りx2

半月(はんぺん)

上揚げ半

一口きんぴら

青じそ揚げ

野菜ソフト

(値上げしまくりでこれで約4,000円弱

 

続いて 千春のうなぎ

上から 肝焼き(100g)500円

白焼き2尾 @1,800円

タレ焼き @1,900円

クロッチとわけわけ(?)用

サンヨネのかつお削り 3袋

 

これまたクロッチとわけわけ用に 生鰹 税込み951円

 

 

因みに、今回お試しで買った 千春のうなぎ

身は分厚くて、柔らかくて、タレもメッチャ美味しくて

 

チャンカーも大喜び

 

カク一(かくいち)と言い

帰省する楽しみがまた増えちゃいました

 

ありがたや ありがたや

 

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欲張り?いえいえだたの貧乏性な旅【②時間を無駄にしたくないなと旅程変更して伊勢湾フェリー特別運航】

2024-10-15 15:01:58 | 旅行

実は、今回の旅

一番最初に日程を決めたキッカケが

ネットニュースで知らされたこの↓情報

なんせ、幼少の頃からお伊勢さん詣でと言えば

地元からの団体バス

渥美半島の付け根の故郷豊橋からバスで伊良湖岬へ行き

伊勢湾フェリーで鳥羽に渡り

二見ケ浦の夫婦岩に立ち寄ってから外宮、内宮を周り

また伊勢湾フェリーで帰るのが最もポピュラーなコース

 

なんせ当時は陸路を電車で名古屋回りするにしても

近鉄は宇治山田までしかなく

 

道路では東名しかない時代で

せいぜい国道1号線から名四国道で四日市に出てから延々と下道を走る

 

そんなとてつもなく不便で面倒な時代だったので

豊橋より東方面からの利用者(団体バス)は、東名を三ケ日か豊川ICで下りて

間違いなく伊勢湾フェリーを使っていたため大盛況だったのですが・・・

 

自分自身も中学を卒業して鳥羽の商船学校に入学し

全寮制でしたが、父が大病を患ったこともあって、母から顔を見せに帰っておいでと

月に2度ほど帰省時に利用していたため

学生時代だけでたぶん200回は乗船

 

その後も奈良から豊橋に帰省するのに度々利用してきたフェリー

何だかんだ300回くらい乗ったでしょうか。

 

高速道路も東名名古屋ICから名古屋市内の都市高速に

東名阪に繋がるバイパスができ

東名阪も年々延伸してゆき

更には伊勢自動車道も年を追うごとに延伸し

伊勢までつながったのは2005年だったかな?

 

そうして陸路からのルートも選択肢となっていたところに

あの悪夢の民主党政権時代に

休日高速道路上限1,000円なる愚策によって

 

伊勢湾フェリーの利用者が激減

 

そのうえ、2005年に師崎航路を常滑航路に変更し

伊勢にターミナルを新設する計画が頓挫するなど

経営の失敗もあって立ち行かない状態に追い込まれ

 

2010年に運航を終了して会社を清算すると発表して廃止届を提出したことから

関係自治体(愛知県、三重県、田原市、鳥羽市)が全株式を買収して

航路が存続されることになったものの

 

経営状況は、初詣やGW,夏休み、SW以外はガラガラで

そのため運賃(特に車両の航送)も高めとなってしまい

一時期は6隻もあった船も3隻となって

船齢も29年、20年、19年と老朽船ばかり

 

これからどうなっちゃうんだろう?と不安に思ってたので

このニュースは信じられないような画期的な朗報

と言うのも

蒲郡は、東名なら音羽蒲郡ICから距離にして10km弱

まもなく全通する国道23号線バイパスの蒲郡ICからならたぶん5km以内

鉄道では豊橋で新幹線から東海道本線に乗り換えて蒲郡駅までわずか10分

駅から埠頭まで徒歩5分程度なのでアクセス抜群なんです。

 

今回は、蒲郡市が積極的に動いて実証実験を兼ねた臨時特別運航でしたが

愛知県三河以東、関東方面から伊勢志摩だけじゃなく関西方面へのアクセスにも使えるルートで

勿論反対に関西方面から東海・関東方面へのアクセスも混雑する名古屋周辺を迂回できて

乗船中は身体を休めることができるし

 

乗船運賃や車両の航送運賃が納得できる額であれば

伊勢湾フェリーも復活できるかも

 

と心の底から期待してるんです

 

(現在は、加藤汽船のグループ会社らしいです)

 

そんな背景もあって

この実証実験運航に乗ってみたくて

 

何日にどこから乗ろうか?といろんなパターンで得意の妄想をしていたのですが

 

この特別運航を知ったのが8月26日

京都南座の錦秋喜劇特別公演のチケットを購入したのが9月9日で

観劇日を10月11日午前の部に決め

(稲刈りに気を揉まなくてもよい頃にと思って)

 

乗船は京都から日を置いて三連休の最終日にしようと思っていたところ

YouTubeで観たTV愛知の番組で紹介されていた

名古屋の飲食店(あんかけスパ”コモ”、香蘭園、屋台ラーメンヤムヤム)と
飲み助の投稿で豊橋の飲み屋(”カク一”、”花せん”、”喜喜”)に無性に行きたくなってしまい

 

それならとりあえずと

11日に京都での観劇を済ませてから直接豊橋に向い”カク一”の下見を終え

12日はホテルでのんびりと”母の待つ里”をネットで鑑賞して

夜、”花せん”を訪ねゆっくりと酒と肴を楽しみ

 

13日に豊橋で大好物の食材を買い込んでから蒲郡に移動して

フェリーに乗って鳥羽から奈良に帰ろうと思っていたのですが

 

”カク一”で楽しい時間を過ごせたのに気を良くして

『昼からホテルで缶詰めしてちゃあ勿体ないな』と思いだし

 

急遽、どうせなら蒲郡航路の第一便に乗ってやろうと

朝一で豊橋駅に向かい

東海道本線の岐阜行快速に乗車

蒲郡駅から徒歩数分距離の埠頭に着いたのが

出航時間の9時より30分以上前だったので余裕だろうと思っていたら

この↓大行列 

実は、ほとんどが前売り券を買っていた人達でしたが

ネットで購入するため、その確認作業が遅々として進まず

 

当日券の乗客は後回しとなって

この時すでに時刻は8:57

(中央右のGAMAの前で名刺交換してるのは蒲郡市長)

 

それでも一応8:59には乗船できましたが

船内はこの有様

三谷水産高校の漁業実習船も”賑やかし”に来てました

(↓ 蒲郡のランドマーク、蒲郡クラッシックホテルと竹島)

西浦温泉街と三ヶ根山も遠望でき

佐久島、日間賀島、篠島を横目に伊勢湾に入り

伊良湖沖からはいつもの航路

 

つい最近就航した鳥羽市営船の新造船と行き違い

答志島と菅島の間を抜けるとやがて鳥羽の町が

 

いまや廃墟となってしまった”ニュー美しま”

 

ミキモト真珠島を眺めながら

『海女の実演だけなら久慈まで行かなくてもいいんだけど、北限の海女はまた違うんだよなぁ』 

と先日、海が荒れてて中止となったのを思い出してました

11:00 蒲郡から2時間後 無事鳥羽到着

水族館の入場口へのショートカットを抜けようと思ったら

いまは通れなくなっていて結局大回り

ミキモト真珠島

学生時代の1973年頃には

まだ橋が架けられてなく通船で渡ってたんですけどご存知かな?

 

あと、学生時代の漕艇(カッター)の時間は

学校から漕いできて真珠島を一周してましたねぇ

(夫婦岩の二見ケ浦方面も良く漕いでいってましたが、

当時は団体の観光客だらけで黄色い声援に喜んだりしてました

入場料を見たら1,650円だったかな

学生時代は鳥羽水族館もミキモト真珠島も気楽に入れる料金だったのになぁ

(もしかしたら学割りだったかも

 

こちらは、廃墟となったニュー美しまの本店 ”美しま”

倒産してこちらも廃墟となってしまいましたが

少し年上の美人の娘さん(美しまのエッチャン)に片思いしてたなぁ

こちらは、”喫茶テネシー”

ここのオーナーさん、他所から来た方で

学生時代、居酒屋でアルバイトしてた時に

毎晩のように訪れて常連になっていて

カウンターに座ってはバイトにもビールを注いでくれました

こちらも居酒屋時代の常連さんのお店

いろんな因縁を持った間柄でした

↓この通りが鳥羽のメインストリートで

道路の左の空き地に修学旅行生や団体観光客が下駄履きに浴衣姿でウロウロしてたお土産屋さん

その奥に”国際秘宝館”もできてたんですよ。(結局入ったことなかったけど

 

この↓真珠屋さん、同級生の一人がここの娘に惚れ込まれて追いかけられてましたねぇ

こちらは地元の漁師の嫁さん達が商売している飲食店

その昔、俺たち商船学校の学生の、特に若い低学年が歩いてると

「ほらニイチャン、これ見てみぃ!オ〇コそっくりやろ

とニタリ貝を手にもってからかわれたものでした。

 

それにしても、今時は大あさりが1,100円もするなんてビックリ

学生時代は200円もしなかったと思うんだけどなぁ

そんな想い出探ししながら鳥羽駅に到着

電車の運転士さんに尋ねたところ

名古屋方面の特急の乗り継ぎが宇治山田だったので

停車していた普通電車に乗車

最近、中吊り広告を含めた一切の広告を無くして

テーマでデコレーションした車両が登場していますが

これもそのひとつ

伊勢志摩のマリンリゾート車両で売り込んでいました。

やがて伊勢方面に向かって右手に海が見えたら

その反対側には我が母校が

その昔は学校の敷地ギリギリの海岸線に沿った国道しかなく

 

入り江には旧艇庫と古い大昔には陸上帆船もあったのですが

国鉄の線路ができ、近鉄も延伸して並行する線路ができ

その後線路沿いに直線のバイパスができてしまいました。

 

やがて電車は宇治山田駅に到着

 

↓この宇治山田駅前にある伊勢市民会館

丁度1年生の年(1973年)の秋にキャロルのコンサートがあり

メンバーの誰かと鎌倉出身の上級生に縁故があったとかで

ほぼ無理やりチケットを買わされて観に行きましたが

超絶頂期で痺れちゃいました

この右手の和風の建物は

宮内庁、神宮司庁御用達とも言われてる老舗割烹の”大喜”

まだ古い建物だった時代に

電車でお伊勢さん詣りをした帰りに家族でお昼に立ち寄って 

ビールのアテに伊勢名物の”サメのタレ”を注文したのですが

給仕のオバチャンが目の前で一切れ落としてしまい

 

「新しいのを持ってきます」と厨房に戻ったのですが

すぐに「新しいのお持ちしました」と言ったのですが

実は、厨房で「サッと拭いといたらええやん」と話していたのが筒抜け

 

申し訳ないけど、もう30年近く前のことなのに

すっかり脳裏に刻まれてしまいました

この近鉄宇治山田駅

その昔は修学旅行生だらけでしたが

昨今はガラガラ

でも歴史を感じさせるとても魅力ある建物なんですよ。

ほどなくして到着した特急に乗り込み 一路名古屋へ

 

名古屋駅で地下鉄東山線に乗り換えて

栄の久屋大通を横切って

そう、実は”行きたいところ”のひとつ 

名古屋のあんかけスパ”コモ”へ今回の旅の間に行こうと思いついたのが

日程&旅程を変更した理由でした

なんせ豊橋の人間にとっては

あんかけスパ=オーギヤのすぱげっ亭”チャオ”で

鉄板に溶き卵を敷いた上でジュージュー音を立ててるスパを

ハフハフ、フーフー、ズルズルと食べるものを思っているため

 

ここまで必死になって食べてみたものの

あんかけソースもパスタも、残念ながらわたくしの好みではありませんでした。

14:20 まあ、そんなこともあらーな(味が期待外れ)と思いつつ

前日の飲み疲れ+移動疲れもあって

さっさと豊橋に戻ろうと今度は名城線で金山に出ることに

金山に到着してからは

昔からのクセで、豊橋までの切符は金券ショップでと

駅近の自動販売機で購入

(JRなら1,010円、名鉄は株主優待で1,100円)

往路が蒲郡までJRだったので

子供の頃から乗りなれた名鉄にしちゃいました。

この金山~豊橋の運賃(所要時間)

いまは名鉄が1,270円(45分) JRは1,180円(51分)で

名古屋になると

名鉄1,270円(50分) JR1,340円(56分)

 

国鉄時代は、本数は少ないし所要時間はもっと長く運賃もずっと高かったため

豊橋人の頭には名古屋方面へ国鉄(JR)を使うことは考えられませんでしたねぇ。

そんな他愛もないことを思い出しながら

15:40豊橋到着

そこそこ移動疲れしていたので

とりあえずホテルに戻り

 この日の移動はこんな感じ↓

蒲郡駅前から臨時フェリー乗り場となった埠頭まで


こちらは鳥羽のフェリー乗り場から近鉄鳥羽駅まで

そして名古屋
名駅から地下鉄東山線で栄
栄の久屋大通から大津通&広小路のコモで食事して
地下鉄名城線で金山に出て名鉄に乗車


それにしても
ホテルで缶詰めになってるのがイヤだからって
こんな大回りするかなぁ
 
ああヤダヤダ
貧乏性な我が身が情けない
 
 
その後、

今夜訪れようと考えていた”花せん”に電話したのですが

まだ時間が早すぎて応答がなかったので

お風呂に入って疲れを癒してから5時過ぎに電話すると

「本日はカウンターが埋まってるので、空いたらお電話します」とのこと

 

開店が6時だったので

少なくとも2時間は空かないだろうなと見当をつけて一眠り

そろそろかなと8時過ぎにホテルを出て

繁華街に向けて歩いていると電話が入り
「遅くなりましたけど、いまカウンター空きました。来られますか」と尋ねられたので

「はい、15分くらいで着けると思います」と返事して

駅前の昭和の香り漂う一角にある”花せん”に到着

口コミで魚が美味しいとあったので

またまた鰹の刺身と

マスターが一人で厨房をこなしてると書き込みがあって

時間がかかることがあるとあったので

作り置きのオデンと肉じゃがを注文

続いて 鰆のたたきと

焼き牡蠣を注文

 

実は、この店も年末の同級&同窓会の場所にとお試しで選んだのですが

お刺身類はそれなりのネタを揃えていて合格点でしたが

”オデン”と”肉じゃが”は味が濃すぎたのと

オデンネタが残念すぎて私のクチには合いませんでした。

 

まあ、人ぞれぞれ好みがあるので

もし店主の方がこのブログを読む機会があっても気にしないでくださいね。

 

そしてこの日も疲れからハシゴする気にならなくて

アッサリとホテルに帰りました。

今回泊まったホテル

そこそこ古くからのビジネスホテルで

1泊素泊まり5,500円と超リーズナブル

夜しか使えませんが大浴場もあって

ガテン系の利用者やスポーツ系の団体が

朝・夕の食事付きで人気の宿

 

駐車場もタダなので、お得に泊まろうと思ってる方には重宝すると思います。

 

【③に続く】

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欲張り?いえいえだたの貧乏性な旅【①京都南座で観劇してから豊橋のレトロな居酒屋へ】

2024-10-14 11:39:46 | ハンマーナイフ&草刈り

【2024年10月11日~13日のいつもながらの落ち着きのない旅の記録です

 

一昨年、藤山寛美三十三回忌追善で

藤山直美さん主演の”はなのお六”

(藤山寛美の”はなの六兵衛”の女版)を京都南座で観劇してから

 

すっかり虜になってしまい

わが社の社員さん(♀)にもお母さんと一緒にと

勤続のお礼と福利厚生を兼ねて

昨年も”大阪ぎらい”をプレゼントして喜んでくれた様子だったので

今年も希望日を聞いて販売開始時にネットで席を押さえ

 

鶴橋市場への漬物類の買い出しと上本町での立ち飲みがてら

道頓堀の松竹座でチケットを受け取り

観劇日が異なるのでチケットを渡し

 

いよいよ自分の観劇日(10月11日)となったので

朝からワクワクしながら京都四条の南座へ

 

近鉄大和西大寺から近鉄京都線で丹波橋下車

連絡橋を渡って

京阪電車の出町柳行に乗車

毎度のことながら

ついつい早く到着してしまい

(開演11:00なのに10:00に到着)

ちょっと早すぎちゃったけど

『これはジャンボ宝くじを買いなさい!』との神様の思し召しかと

ハロウィンジャンボを購入し

 

お気に入りの白川沿いのコンビニのイートインで

お茶しようと思っていたら、すでに別の店になってました。。。

奥まってて隠れ座敷的存在が良かったんだけど

目立たないぶん利用者が少なすぎてきつかったんだろうな

今回は、なだ万のお弁当じゃなくていいや

近くの丹波屋で赤飯と山菜おこわと安倍川を買い 

開演30分前に入場

一昨年が一等席で花道横

昨年は特等にして左の桟敷席だったのですが

全体と俯瞰するには同じ特等席で2階席の最前列が良いかな?と

1列20番としたのですが・・・

開演してみるとテレビで観ているような全体が眺めれる席で良かったんだけど

加齢で視力が弱まったのか

ピントが合わず役者さんの表情まで見られず大焦り

最初の幕間に急いでオペラグラスを購入したのですが

千円そこそこの安っぽいのと

ちょっと上のクラスの八千円のものと

一万一千円のを試してみたところ

 

売り場に行くまではその日だけ観れたらいいやと

千円(税別)のでいいやと思っていたのに

バードウォッチングや双眼鏡替わりに使ったらいいんじゃない?と

ついつい最上級のを選んじゃいました

(ただ、藤山直美さんの厚化粧の下の皺までクッキリでした

幕間に丹波屋で買ったお赤飯食べようと思ってたのに

運がいいのか悪いのか、二階席の通路横に

今年の4月から営業を始めたなだ万茶屋を見つけてしまい

ついつい食べちゃいました~

 ただ、当然ながら”なだ万”値段でしたねぇ

 

今年の”太夫(こったい)さん”

これまでなら演目がふたつあったのに

今年は一つだけ

田村亮さんと三林京子さんの方が台詞が多かったような気がします。

 

藤山直美さんも笑わせてくれたけど

もしかしたら体力的に辛いのかも? そんな印象も

 

年齢層が高いからか、今年の錦秋公演は

ほとんどが午前だけだったり、休演日もそこそこあって

あと何年観ることができるのかなぁと、つい寂しい思いも

 

いずれにしても観劇を楽しんでから

急いで四条烏丸までインバウンド観光客だらけの歩道を

競歩で歩き地下鉄で京都駅に出て

大急ぎで15:10発の新幹線(こだま)に乗り込み

おやつに安倍川をいただいて

16:40豊橋駅到着

またまた急いでホテルに向かい

荷物を放り込んで

競歩で子供の頃から自転車で繁華街へ遊びに行く時に

しょっちゅう使ってた跨線橋(何年か前に建て替えられちゃいました)を渡り

豊橋駅は、いまでこそ

新幹線、東海道線、名鉄線、飯田線、豊橋鉄道渥美線だけになっちゃいましたが

子供の頃は、浜名湖の姫街道沿いで掛川まで結び永年SLが走ってた二俣線の始発駅で

更には貨物車の操車場もあって線路が山ほどあり

この跨線橋から電車に汽車、貨物車の操車を眺めていたものでした。

 

ここには、二俣線では昭和48年頃までSLが走っていたため

転車台があって車庫と給水と石炭の積み込みしてた場所

もう知ってる人間もあまり残ってないかもしれませんねぇ

感傷に浸るひまなく

またまた急いで水上ビルへ

この水上ビルというレトロな建造物

実は、下には牟呂用水が流れている暗渠の上に建つ建物で

小学生になりたての頃に建てられ

自分にとってもさまざまな歴史が刻まれた心のランドマーク

(ご参考までにこんな歴史があるんですよ↓)

https://www.pref.aichi.jp/site/toyogawabiyori/suijyo.html

実は、この日焦って豊橋に移動したのは

この古い割烹&居酒屋を訪れ

 

試してみて気に入ったら年末恒例の小学校5・6年の時の同級生との忘年会に

予約しようと思っていたため

(ネットでこの店を知って、いつもながらの猪突猛進)

この店、夕方の開店が17時からで

夜は特に呑兵衛に大人気で、予約しないと席が空いてないかも

と聞いていて

更に日曜日はお休みだったので

なんとしても入ろうと開店早々を狙ったからでした

流石は呑兵衛の聖地(笑)

当然のように赤星がありました。

豊橋と言えば 鰹の刺身

豊橋って土地は、渥美半島の付け根にあり

市街地は三河湾に、南は太平洋に面してるけど

漁港のないところなのに

(実は、浜名湖に舞阪漁港があり、根付きの鰹が豊橋で売られてたのがその背景)

 

なぜか鰹の刺身にはめっぽう舌が肥えていて

魚屋は勿論のこと、スーパーマーケットでも飲食店でもヘタな鰹を置けないというお土地柄

実家でも父も異母姉達も鰹が大好物で

この私もすっかり刷り込まれてるのでどうしても食べたかった一品

 

続いて、気仙沼からの生牡蠣もあると聞いてすかさず注文

続けて牛スジのドテ煮を頼み

カウンターで隣り合わせた常連さんたちとも打ち解け

ビールではお腹が膨らんでしまうなと

先日の三陸の旅からお気に入りのウーロンハイ(芋)にして

名物の出汁巻きと

豊橋なのでうずら玉子の串揚げを注文したのですが

 

さすがにボリュームがありすぎて

後から来店した常連さんにお裾分け

 

なんせ中学校卒業してから豊橋を離れ

既にしっかり半世紀ごえ

 

すっかり”浦島太郎”で昔のことばかり覚えてるのと

生まれ故郷を離れたからこそ

いろんなことを調べて雑学だらになってるため

地元民の知らない(覚えてない)ことを大熱演(笑)

 

たぶん少し年上の常連さんから

日本酒が売りの店なので美味しい日本酒飲んだらいいのに

と誘われましたが

「なんせ生ビール15杯ほど飲むのと、ビール党でなんでもビール飲みして泥酔しちゃうから」

など、会話を楽しんでそこそこいい気分で店を出て

他にも行ってみたい飲み屋をハシゴしようかなとも思ったのですが

実は翌日も朝からやり遂げたいことがあったため

深酒はやめておこうと

結局、いつもの町中華で 生ビールと餃子と〆の天津麺

この日もスマホに入れた

ルートヒストリーのアプリで移動の軌跡を残しておいたのですが

何が悪いのかGPSの受信が悪いとムチャクチャでしたが

移動距離:267.47km となりました。

 

【②に続く】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑥Nuku’alofaでの生活編】

2024-10-08 16:01:45 | 日記

1982年 12月

ようやく鮪延縄漁業訓練船”Lofa”のNuku’alofaの岸壁での保守整備

(エンジン3台をオーバーホール)と

American Samoaでのドック入りを済ませ

 

久しぶりにNuku’alofaでの生活となり

桜井研次さんから引き継いだ家でホッと一息

 

昔の青年海外協力隊は技術を備えたプロ集団で

発展途上国の国造りの手助けできる人材を派遣するとしていたため

受入国側の条件として隊員が暮らす家を提供することなっていて

Tonga政府が協力隊員の住居として準備したのが”Government House”

そのGovernment House(FalePuleanga:官舎)のNo.39でしたが

”39=Tolu Hiva” にはどうやらおかしな逸話があるようで

『どこに住んでるの?』と尋ねられ、『39』と答えると

何故だかいつもみんな大笑い

 

オッとその前にTongatapu島と首都Nuku’alofa

その住居と水産局の位置関係をお知らせすると・・・

 

↓これがTongatapu島

Tonga=南 Tapu=俗にいう”タブー”神聖なるって意味


航空写真ではこんな感じ
(因みにMu’aとは英語で言うBeforeで昔という意味、Fa’amotuは飛行場のある場所)

Nuku’alofaを拡大すると↓
 
こちらの中心部で赤いマーカーの場所に私が暮らしていたGovernment Houseがありました。
上の海岸線の左上に写真スポットとその横に丸く写真のマークがある場所が王宮
Government Houseから勤務先である当時の水産局
(Ministry of Aguriculture and Forestry, Fisheries Division)
赤いマーカー位置までは距離にして4.5km バイク(車)で8分



 

その他、市内にはモダンな鉄筋コンクリートにアルミサッシの新築の官舎がありましたが

主に白人(欧米人)向けの家族持ち用で 

1983年以降に初めて理数科教師の女性隊員も派遣されるようになり

彼女達に提供されていました。(ウチのチャンカーもその一人)

 

それまでは、Tongaの協力隊員は初代が昭和47年で農業機械隊員、

その後はずっと水産局派遣のみで

9年目の私が12人目

この家は歴代の水産隊員が引き継いで使っていました。

 

玄関側に屋根付きのベランダがあり

12畳ほどのリビングと6畳ほどのベッドルーム

広いトイレとバスタブのあるシャワールーム

(電気温水ヒーター付きでしたが、これがまた漏電しててスイッチを入れてから水道栓を素手で触ると痺れるため木片で水量を調節と命懸け)

リビングの後ろには勝手口からも入れる

冷蔵庫とプロパンガスのオーブン付きのクッキングコンロのあるキッチンがあり

コンクリート製の雨水タンクのある中庭の後ろには

元女中部屋があり(歴代の日本人が置いていった書籍類や、

1979年にドラマ撮影があり【太陽は沈まず:竹脇無我主演、坂上忍も子役で出演のドラマ】

で使われたゴムボートを協力隊員のレジャー用に買い取ってくれたのでそれらの倉庫にしてました)

↓ 私の家にはBBQ用の網があり、休日に潜って獲ったサザエやその他貝類を焼いてBBQパーティーしてました。

こちら↓は リビングでわざとらしくポーズをとって写真撮影したもの

(日本の家族や当時のGFに様子を知らせようとカッコつけたりして)

 

↓ 手紙を書いている様子

なんせ文字を書くのが大嫌いだったので

私的な手紙以外では 

結局、合計5年弱の活動中、

レポートを書いたのは着任後と任期満了前の2度のみでしたが

(タイプライターは、日本で船会社で働いてた頃から使ってたOlivette。

主に日本のGFへのAir Mailの封筒と造船所へのドックオーダー用に使ってました。)

私の家の敷地にはココナッツの木が数本あり

たわわにココナッツ🥥が実ると毎月頼んでいた芝刈りの子供達にとって持ち帰らせていました。

↓ こちらは、鮪延縄船の乗組員がビールと食べ物を持ち込んできて

懇親会をした時の様子

 

なんせトンガ人、一人で20缶は飲むので大変でした(笑)

 

こちらは、休日王宮前の埠頭で飛び込みする子供達の様子

海に囲まれてるから泳ぎも上手かと思ったら大間違い

ほとんどのトンガ人は、泳ぎは犬かきしかできず

それでも水遊びは大好きで

こうして岸壁から飛び込んでは大騒ぎしてましたねぇ

 

私は、Tongaに派遣されるようになって

毎年、船の整備を徹底して行い、故障や操業中にトラブルを発生させない

とのポリシーで信念を持って活動していたため

 

船を推進させるエンジン(主機)は勿論

発電機や鮪を水揚げまで保存するための冷凍機も

自分たちだけで分解して清掃して組み立ててと

 

鮪延縄船、鰹の一本釣り漁船、鰯用の巻き網船に

小型漁船まで数隻を整備するのが日課となりましたが

実は、着任した直後(約4月後)

日本からODA(政府開発援助)で8年ほど前に供与された鰹の一本釣り漁船の機器が

それまで全く整備されていないのを知って

 

当時の水産局長(イギリス人)に

オーバーホールすると宣言したものの

水産局のEngineering部門の人間は誰も手伝おうとせず

 

たった一人で岸壁に係留されていたその船に乗り込み

黙々とエンジンを分解しはじめたのですが

 

乗組員の一人がスカイライト(機関室の上にある窓)から

何してるんだろうかと覗き込むだけ

 

我慢強く何日も作業を続けていた期間

水産局に部品や工具を取りに戻ると

機械のことなど何も知らない経理のクラークから

「もう何日も船が動かせなくなってるけど、お前は船を壊しに来たのか」と

多くの水産局のスタッフの面前で罵倒された時には

そんな陰口を叩かれてたのかと流石にショックでしたね~

それでもオーバーホールしてエンジンの調子が良くなった船をみて

乗組員からその様子が伝わり

ようやく整備=保守することの大切さを理解して

私の存在が認められるようになりましたが

 

今から思い出してもあの時は辛かったなぁ

 

それまでにも数名の船舶機関の隊員がいたのですが

ほとんどが船外機か小型のディーゼルエンジンを扱う程度で

大型のエンジンは隣国でのドックで造船所任せにしていたのがその原因

 

その鰹一本釣り漁船は

実は、当時あまり実務経験のなかったJICA専門家が

近隣諸国の真似をしたのか

ODAでSamoaと全く同じ鰹一本釣り漁船を供与されたものの

 

トンガの海域には年間を通して鰹が回遊しないうえ

餌のイワシを入手する術がなく

鰹の一本釣りとしてはほとんど使われず

よってドックに入る予算もなく、ほとんど岸壁で係留されてたから

 

運よく、鮪延縄実習船は

それまでは日曜日が憲法で安息日とされ出漁しても

毎週戻ってくるような操業から

日曜日は沖で流して安息日とすることにして

一度出漁したら、食料が無くなるか、搭載している水が無くなるか

または豊漁で魚倉がいっぱいになるまで戻らず

平均1~1.5月の操業となって大成功

(約3月に一度、American SamoaかFijiのLevuka島の缶詰工場で

水揚げと餌の冷凍サンマを積み込み)

 

更に機械の整備を自分たちですることになって

ドック費用も船体の錆落としと塗装

プロペラ軸の抜き出し点検と

ドックでしかできない船底弁の整備程度で

ドック費用が激減

 

約30名ほどの乗組員も

水揚げした収入から燃料費、食糧費、経費を除き

4割(6割は政府が貯蓄)を歩合制で支払われることになり

 

前述のAmerican Samoaでドック入りした頃には

船長・漁労長の収入は国の大臣クラスより高給取りとなっていたこともあって

 

それまで外航商船で機関士をしていた人物が

二等機関士で乗り込んできて、一緒に保守整備をしたところ

とても優秀な人物で経験も責任感も文句なしだったので

水産局長に進言して彼を機関長に昇格させ安泰

(↓右端がその機関長)

とはいえ、なんせ”お山の大将”気質なので

エンジンの整備では相も変わらず親方気取り(笑)

そんな訳で、若干24歳頃にもかかわらず鮪延縄実習船でも一番偉そうにしてました。

 

彼等は高給取りとなっていましたが

私は青年海外協力隊隊員としての手当のみ(月額30,000円程度)

そんな訳で、船が戻ってくると

彼等の家族がご馳走を作り

ビールもOZかNZの缶ビールを何ケースも運んできて

飲めや歌えの大宴会(笑)

 

これは、ある日の出漁を見送りに行った時の記念写真
(服装からしてトンガの冬、8月頃)

(↓ 右から二等機関士、機関員、船長、機関長、私、一等機関士)

そんな風に彼等から年下なのに兄貴分にように信頼して慕ってもらっていたので

とても幸せな隊員生活を送らせていただいたなと今も感謝しています。 

 

見送りにきていた一等機関士と機関長の嫁さんとその子供

暫く夫と会えないから寂しそうでした。

 

こちらは、ドックから半年後

スクリューとプロペラ軸に巻き付いた延縄の枝縄を切断するために

スキューバした時の写真

放置してしまうとドンドン巻きついたワイヤー製の縄がプロペラ軸の軸受に入り込んで痛めてしまうので

次のドックまでの間に潜水してロープガードを取り外し

ワイヤーカッターで何十本と絡みついたワイヤーを切らなければならず

水深は浅いものの

ボンベ3本以上連続して潜っていると

窒素酔いしてしまい

上下がわからなくなって

そのまま頭から海の底に沈んでった事も良くありました。(笑)

今から考えるとホントに一生懸命だったんだなぁ

 

ここからは日常の風景など

 

こちらはトンガ警察の交通部署

仲良しの水産局のエンジニアの奥さんが勤務していたため

よくアイスクリームの賄賂を渡しては

酒類の購買許可証を発行してもらってました。

(実際には仲良しだったので、暇潰しに雑談相手してもらってたんだけどね)

 

なんの脈絡もなく

突然ですが、ある日 Joes Hotelで開催されたオカマショー

 

気持ち悪いでしょ~(爆)

 

トンガでは馬も結構飼われていて

日曜日には教会のミサへ行くための交通手段のサリオテと呼ぶ馬車を曳いたり

客船が寄港した時には観光客に乗馬させてたりしていましたが

 

子供を乗せた馬をリーフ内の浅瀬で見かけた時の風景

 

↓ こちらは、着任して約1月後の日本人専門家の送別会での一コマ

同じ水産局に派遣されていたアメリカ平和部隊のブライアン

(私よりも先に着任していましたが年齢は一つ下だったので兄貴ぶってました)

 

こちらがFijiの造船所での入渠風景

鰹一本釣り漁船のTakuoと乗組員

鮪延縄実習船LOFAの乗組員と私

 

これはFijiのLevuka島にある缶詰工場での水揚げ風景

ビンチョウ鮪で缶詰を作っていたので

それ以外の鮪(バチ、イエローフィン他)は冷凍のまま日本に送られてました。

 

 

またまた何の脈絡もなく

トンガのハンディクラフトのひとつ

タパクロス(Tapa Cloth 樹皮布)

カジノキというコウゾと同じ木から皮を剥き

水に浸してから干して乾燥させ

硬い木の上で日長一日、水に浸けては叩いて平たくして布にします

これをキャッサバなのを糊にして張り合わせて大きな布にするのですが

あるときは賭け布団だったりジュータンだったり

お葬式では遺体を包む棺桶替わりになったり

また結婚式やお葬式、行事の時は身体に巻いて正装の衣装などなど

 

我が家には、帰国する時にプレゼントしてくれたタパクロスが

たぶん畳20畳分くらいあるかも(笑)

 

鮪延縄実習船のLOFAには、その後もちょくちょく乗り込んでましたが

正直な話、酒が飲めなくて煙草が吸えなくてディスコがないので

理由をつけては陸のサポートに徹するようにしてました。

 

その後は、Vava’uに遊びに行く時は飛行機を使っていたので

よく空からリーフや島々を眺めてましたが

こちらはTongatapuとVava’uの間にあるHa’api諸島

貿易風で基本的に風向が決まっているため

滑走路もその風に向かうように作らなければならないため

小さなHa’apaiでは東西に一番長いところにギリギリに滑走路が作られていて

飛行機が来る時間になると道路を閉鎖してました。

(赤道直下のNauru島はジェット機も離着陸できる滑走路でしたが

やはり島が小さすぎて普通の国道が真ん中を走ってました)

これはいつの写真だったのかな?

1986年当時の水産局の上層部のスタッフが居るので

たぶん私の送別会のある日の一日だったのかも

青年海外協力隊隊員として最後に帰国した時には

Tongatapu、Vava’u、Ha’apaiと

そこらじゅうで送別会をしてくれましたねぇ

 

これは左端のSiotame Taunaholoという

桜井研次さんを兄のように慕っていた電気エンジニアの家

桜井さんの申請で日本へ研修に送られ、恩人だったので

口を開くといつも”KENJI” ”KENJI”と比較されてばっかでしたが

それくらい恩義を感じていたんだろうなぁ

 

桜井さんが生きてる間に会わせてやりたかったな。。。

 

 

 

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【緊急のお知らせ】“糸の切れた凧”の旅 訂正します。JALの当日シニア割ありました❗️

2024-10-07 11:19:08 | 旅行

このタイトル”糸の切れた凧”で

投稿した記事の内容に

大変な間違いがありましたので

急ぎ訂正の記事を書かせていただきました。

 

誤解を招くような記事でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

 

話が長くなるので、先に要点をお知らせしておくと

【伊丹~花巻のJAL便でも当日シニア割がありました

 

その間違いを生じた背景をご説明すると

 

今回の旅のルートを決める際に

Google Mapsの航空写真で東北地図を眺めながら

『やはり最寄り空港は花巻だな

『なら伊丹か神戸、関空から花巻への便は・・・』と

昔、関空からPeach便があったのを覚えていましたが

現在は就航しておらず

 

それならば、と花巻空港のHPから調べてみたところ

 

伊丹(J-AIR:JAL)

神戸(FDA)

名古屋(FDA)

 

が見つかり

 

 

スマホのアプリで料金を調べてみたところ

 

伊丹からのJALは

最安値で47,640円 

 

 

 

FDAはその日によって違うものの

名古屋便には最安値で16,500円があったので

とりあえず名古屋からFDAに乗ろうと思い込んでしまったのが運の尽き

 

FDAの花巻到着時刻から

当初は盛岡から龍泉洞行のバスがあることがわかり

宿泊アプリでも空きがあって比較的安価だったのと

岩手の代表的観光地の龍泉洞にも行きたいなと決めたのですが・・・

 

前の記事に書いたとおり

直前になったら団体客で満室となってしまい断念

 

それならばと旅程を変更してできるだけ三陸鉄道に乗りたいなと

花巻空港からほぼ真横に移動する釜石に行こうと計画したものの

到着時刻が遅すぎてその日は釜石で泊まるしかないかと考えなおし

盛岡に出てJR山田線で宮古に出れば

翌日には田老や島越を訪れることができるなと宮古泊まりにして

 

あまちゃんのロケ地”小袖海岸の小袖海女センター”と久慈駅に行くことにしたわけなんです。

帰路も、『JALは割引運賃がなく高い!』と決めつけてしまい

FDAで花巻から名古屋か神戸飛ぶことも考えて

ネットで料金を調べてみると

当日なら42,790円(前日でも38,000円超え)

 

そんなら同じルートも嫌いだし青森まで出ようをした次第なんですが

 

 

陸中&三陸海岸の荒々しい海と海岸線に魅了されてしまい

 

まだ視聴してないのですが

夏バッバ(宮本信子さん)の最新出演作

”母の待つ里”に絶対ハマルだろうなと予感して

 

次は”母の待つ里”のロケ地、遠野を中心に旅しようと

またまた旅の妄想をしていたところ

 

花巻は高いから仙台からかなぁ

仙台から遠野までのルートを探していたところ

 

仙台から気仙沼・陸前高田・大船渡を経由して釜石まで行くバスも見つかり

釜石から遠野に行こうとルートを決めて

仙台までならANAのスマートシニア割でいいか

料金を調べてみたところ




待てよ 
ANAがあるなら仙台までだしJALの当日シニア割もあるんじゃないか
と調べてみたところ
またまた高い運賃しかなく
 
おかしいなぁと、ようやくアプリでの設定ミスを発見
 
調べてみたら 花巻便もシニア割なら
たったの18,050円と格安なのを知って愕然としちゃいましたが
 
 
 
 
 
 
 
とはいえ、前回の旅では
めったに使わない小牧空港にも行けたし
FDAなるヘンテコリンな飛行機にも乗れたし
 
JR八戸線で潜水土木科のある種市(高校)の場所を知ることができたし
 
久慈から八戸までの陸中海岸も眺められて
久しぶりに青森駅にも行けたので
 
不幸中の幸い だったかな
 
と、”転んでもただは起きぬ”ヤツなので
思っている次第です。
 
 
みなさんは
わたしのようなオッチョコチョイなことはしないと思いますが
安易に思い込みせずに
石橋を叩いてみてくださいね。
 
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”糸の切れた凧”の旅【その⑤因縁の八戸を経由して青森に出て家路につく&旅の総括】

2024-10-05 13:15:58 | 旅行

久慈駅から9:16発の八戸行に乗り込み

45分後の10:01潜水土木科のある種市高校の種市を通過

 

ということは

高校に通おうと思ったら久慈から6:41発に乗車しないといけないわけで

三陸鉄道がその前に到着するのは始発で

堀内(袖ヶ浜)駅6:05発 久慈(北三陸)6:35着

 

『ほぉ~、あき(あまちゃん)は勿論、足立ユイちゃんは相当早起きしてたんだなぁ』

と勝手に想像して喜んでました。

 

JR八戸線の車両も

2007年の前後数年間、八戸の某造船所の仕事で頻繁に出張していた時に

何度も利用した古いキハ40系からすっかり変わっててビックリ

久慈からしばらくは内陸部を走っていましたが

陸中中野の手前からは

八戸港までずっと陸中らしい荒々しい波に洗われた岩だらけの海岸線や砂浜も眺められました。

 

さきほども書きましたが

2005年頃から2010年の約5年間

八戸の某造船所にフィンランド製の大型機器を納入していたため

頻繁に建造中の作動確認と引渡前の海上試運転の立会で

出張していた土地なので

懐かしい思いもありましたが

なんせ「ウチはこの製品はこれからもずっと〇〇さん(私の会社)ですから」と言われ

それならマンパワーも準備しなければと技術系社員を雇い

事務所を移して社宅も準備して対応していたところ

 

数か月後もたたないうちに競合の会社からの接待攻撃で

たぶん袖の下も受け取っていたのか

舌の根の乾かぬうちに失注

 

新しく雇った社員を抱え、その後数年相当苦労させられたこともあって

”八戸”と聞いただけで虫酸が走る気分

 

本八戸辺りでは苦々しい思いで造船所のクレーンを眺め

11:00 八戸駅に到着

乗り換え時間が4分しかなかったため

結構焦りましたが 無事乗車

陸奥湾沿いではまだ刈り取っていない稲穂を眺め

久慈から3時間21分、八戸から1時間33分後の12:37 青森駅に到着

ここも駅舎がすっかりモダンになって昔の面影はありませんでした。

八戸へ頻繁に出張していた頃

 

急ぎの時は仕方なく東海道新幹線、東北新幹線を乗り継いでいましたが

座りっぱなしの移動にうんざりして

いろんな方法を試していましたが

(伊丹・羽田と飛行機を乗り継いで三沢経由とか、

八戸、盛岡、仙台間を高速バスに乗ってみたりとか

当時まだあった東海道の夜行寝台で東京に出て始発の東北新幹線に乗ったり)

 

一番お気に入りだったのが

寝台特急”日本海”で京都~青森を

ゆったりと車窓を楽しみながらの移動

 

まだ東北新幹線も八戸までしかなく

八戸~青森間の特急も本数が多かったので

早朝、青森から特急で八戸に行けば

朝一から仕事ができてとても便利でした。

 

なので青森での乗り換えで何度か降りたことのある駅でしたが・・・

 

なので、青森は15年ぶりくらいだったかも

青森到着前にネットで調べた食堂に向かうと

な、なんと月曜定休でシャッターが下りたまま

その先に 暖簾の出ていた寿司屋があり

とど肉、エゾジカ、クジラなどのメニューが面白そうでしたが

暖簾の横に「急ぎの方はご遠慮ください」とあり

『なんか面倒くさいかも』と諦めて

それより先に青函連絡船眺めに行くことに

 

実は、私が商船学校を卒業した1979年はまだ就航していて

同窓生が何人も青函連絡船に就職していたこともあって

自分が乗船する機会には恵まれませんでしたが・・・

内部の見学はせず

案内板にエンジンの写真があり

大型のV型エンジンが数台搭載されてたと知り

更に CPP(可変ピッチプロペラ)だったのも面白く眺めてみました。

その後、新しく”ねぷた”を常時展示している施設ものぞいてみました。

その後、駅前で飲食店を探し回ったものの

どうにも気に入った店が見つけられず

 

結局 ランチ営業をしていた居酒屋へ入店(13:45)

2時半までの営業だったので

ビールは中瓶しかなかったので2本注文して

鮭の親子丼みたいなランチセットと

追加で リンゴ酢サワーを飲んだらもう閉店時間前になったたので

迷惑かけないように店を出たのですが

飛行機の時間までどうやって時間潰ししようと

駅前に戻ったところ

 

駅横のビルにこんなお店を発見

大好きな”昼飲み”の文字(笑)

アチャー、この店にしとくんだったぁ~ と思いつつ

真昼間からベロンベロンで飛行機に乗るのもちょっと恥ずかしいかなと諦めて

 

青森空港へ行くことに

(実は、夜中にスマートシニアのチケット購入しときました

バス乗り場に行ってみると

インバウンド観光客も多いようで

紅葉情報や”熊に注意”の注意書きもありました

(十和田湖とか八甲田山とか酸ケ湯温泉とか

奥入瀬やランプの宿の青荷温泉など自然が人気みたい)

ほどなくして

空港行のバスに乗り込み

残念ながら航空会社のラウンジはない空港だったので

クレジットラウンジで休憩

 

伊丹行はプロペラ機でちょっとビックリ

ANA系は、マイナーな航路にはIBEXの小型ジェットか

このプロペラ機なんですよねぇ

 

ということで、17:35発でしたが 定刻前に出発し

19:30には伊丹で荷物を引き取って

20:10の空港バスに乗れ 20:45に家から最寄りのバス停で下車

21:00には無事帰宅できました。

 

ということで

/////今回の”糸の切れた凧旅”の総括/////

 

現地(陸中・三陸)への移動は

 

(往路)

大和西大寺→大和八木→名古屋→名古屋空港→花巻空港

(復路)

青森→伊丹→奈良

 

陸中・三陸周辺の移動

花巻→盛岡→宮古→田老→島越→野田玉川→陸中野田→小袖海岸→久慈→八戸→青森

 

宮古

田老

島越

 

野田玉川

 

陸中野田から小袖海岸へ

 

あまちゃんロケの聖地 小袖海岸

 

久慈駅周辺

 

青森駅周辺

 

【旅の期間】

9月27日07:30出発 9月30日21:00帰宅

3日14.5時間

 

【ウォーキングの距離・歩数】

9月27日 9.7km 13,621歩

9月28日 10.6km 15,982歩

9月29日 9.1km 14,710歩

9月30日 5.2km 8,561歩

合計 34.5km 52,874歩

 

北三陸の津波の被災地を訪れ

被害の現実を知り鎮魂の祈りを捧げることができ

あまちゃんのロケ地聖地巡礼も満喫できて

 

とても有意義かつ至福の時間を過ごさせていただきました。

 

今回は

①龍泉洞温泉ホテル満室で旅程変更

②JR山田線の不通

③小川旅館満室で宿変更

④宮古~新田老 三陸鉄道不通で代行バス

④あまちゃんマラソンで陸中野田からのバス運休でタクシー移動

⑤今年最後の小袖海女センターの素潜り実演のために日程を決めてたのに海が荒れて中止

⑥久慈駅周辺の飲食店定休日

⑦青森駅前の飲食店定休日

 

と、そこそこハプニングに遭遇しましたが

それも私にとっては楽しみのひとつ

 

ハプニング中毒なので、さて次はどこへ行こうかなぁ~

 

 

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”糸の切れた凧”の旅【その④北鉄(北三陸鉄道=三陸鉄道リアス線)の北三陸駅(久慈駅)へ】

2024-10-04 14:46:08 | 旅行

9月29日

”あまちゃん”ロケの聖地【袖ヶ浜(小袖海岸)】を堪能してから

定刻14:00発上り久慈駅行に乗車

↑ 時間帯からも想像つきましたが

基本、地域住民の方のためのコミュティバス

 

朝7:00は通勤通学で

次の9:00はたぶん病院行

土日祝のみ12:00と14:00がありましたが

下りは小袖海岸着が 平日で12:37 15:22 17:56

土日祝が10:30と12:37なので

 

※休日ダイヤの下りは12:00発が7月~9月のみ

14:00発は4月から10月までの期間運行なので

それ以外の季節はタクシーかレンタカーでしか行けないのでご注意ください。

 

あと期間運行の時間設定からも

滞在時間は1時間半もあったら十分ってことなんでしょうね。

 

バスは海岸沿いの険しいワインディングロードとトンネルだらけの道を走るんですが

久慈の市街地近くまで景勝地の連続

あまちゃんのオープニングで岩だらけの小島から

たしか鵜が飛び立つシーンの岩もありました。

 

バスは、久慈駅の東側にある文化会館前を通過するのですが

やはりコミュティバスらしく県立久慈病院と

ドーナツ化現象なのか寂れて空き地だらけの駅前以外で

飲食店などのある”道の駅くじ”を経由してから

JR久慈駅(八戸線)と三陸鉄道久慈駅前に到着(所要時間約30分)

 

これこれ

この潮騒のメモリーズの看板のある駅前デパートも見たかったんだよなぁ

 

そしてドラマでは”北三陸駅”の久慈駅

とりあえず、これもまた旅の目的のひとつだった

夏バッバが作ってたウニ丼の見本となった”うに弁当”

を売ってないかなと覗いてみましたが

すでに完売

オバチャンに翌日の朝来るからと予約しちゃいました。

 

あと、あまちゃんコーナーもあり

 

ただ、残念ながら 軽食&喫茶リアスもスナック”梨明日”はないし

駅長の大吉っつぁんもブティック今野の夫婦も琥珀の勉さんもいませんでしたぁ

 

北三陸観光協会でジオラマ見たかったなぁ(笑)

 

とりあえず、予約していた旅館のチェックイン時間が16:00からだったのと

小袖海女センターの”うにごはん”だけでは足りなかったので

スナック梨明日のモデルと言われてる 喫茶モカへ直行

あまちゃんのロケでは 

クドカンから俳優さん達も入り浸ってたお店だそうで

事前にナポリタンとたまごサンドが美味しいとのクチコミがあったので

早速注文

ナポリタンは、昔の喫茶店風そのもので美味しかったですよ

ただ、愛知生まれなので鉄板で出して欲しかったなぁ

 

たまごサンドは、関東風に甘い玉子焼きタイプ

豊橋生まれで子供の頃はこの玉子焼きがスタンダードだったのに

関西が長くなると、茹で卵をマッシュしてマヨネーズ合えの味に慣れちゃったかな

 

時刻は午後3時頃と

ピーク時を過ぎていたので

店内には、あまちゃんマラソンに参加したらしきジモピーと

あまちゃんの聖地巡礼で訪れてた様子の一人旅風の若い女の子と

喫茶店定番のオシャベリ場に使ってたオバハン達がいましたが

 

マスターとその奥さん(たぶん60代の夫婦)と

ジモピーの会話を聞いてたところ

その日は、開店時間の10:30からずっと大行列で

私が入店した時がやっと一息つけた頃らしく

 

ご夫婦ふたりともヘトヘトのクタクタになってました。(お疲れ様

 

そんな会話を耳にしてたので

長居は迷惑かなと食事を終えてすぐに店を出て

駅前に戻ると 北限の海女さん風の絣姿に赤い鉢巻をしたガイドさんが

数十名の観光客をぞろぞろと連れて案内している光景にであい

 

去年の再放送で 自分同様

あまちゃんブームが再燃してるんだなぁと再認識

 

 

”あまちゃん”関連のイラストの描かれたシャッターを眺めながら

旅館に着いたのですが・・・

時刻は15:30前で入口に (Check in 16:00~)との札が下がっていて

諦めてしばらく周辺を歩いて時間潰ししてから

16:00丁度に戻りようやくチェックイン

実は、近所のビジネスホテルもあまり料金は変わらなかったのですが

(但し、この旅館は朝食付き)

やはり国内の一人旅には旅館が似合うなと決めたのですが・・・

 

今時はインバウンド観光客の需要も多いのか

コロナで感染予防に神経質になったのか

旅館らしい人情味やおもてなしの雰囲気はあまり感じられなかったかな?

(不愛想ではないんですよ。親切なんだけどちょっとビジネスライクな感じ)

冷蔵庫の中には無料のサービスドリンクがありますと案内していただきましたが

夜中にトイレに起きた時に喉が渇いたなと扉を開くと

ミネラルウォーター1本とファンタ2本のみ残ってました。(2階は満室でした)

 

部屋もしっかりリフォームされてるし

お風呂は大きくきれいなユニットバスが三つあり時間帯で貸切るシステムで

快適ではありましたが

部屋数もそこそこ(2階で10部屋かな)で収容人数も多いからか

昔ながらの商人宿風の旅館らしく

夜中でもトイレに行くため廊下を歩く音や隣室の話し声も筒抜けで

耳栓使うべきだったなぁとの印象でしたけど

 

これで朝食まで付けてもらって6,000円だから文句は言っちゃあいけませんよね。

 

この日も朝から移動と、あまちゃんのロケの聖地を

5時間かけて歩き回っていたため

クッタクタ

 

荷物を置いてから早めに飲食を済ませて宿でのんびり休もうと

居酒屋や食堂をネットで探してみると

 

日曜日は休業だらけ

 

旅館で尋ねると、やはり「日曜はあまり開いてないんですよ」と

少し離れた寿司屋や海鮮も置いてある和食の店を教えてくれたのですが

 

翌日、高い”うに弁当”を予約してるし
一昨日からご馳走続きで贅沢しすぎかな?

Google Mapsで駅の反対側に”つぼ八”があるのをみつけ

 

またまた駅前に戻り 

ついでに 翌日の移動手段やルートを決めていなかったので

バス停で長距離バスの時刻を調べ

また盛岡に戻って高いFDAかJALで帰るなんて芸がないよなぁ

と思い直し

 

とりあえず帰りのルートは先送りして駅前地下道で久慈駅東口へ

目的地の”つぼ八”はほぼ駅前にあって

その先には大型スーパーマーケットもあって

久慈駅前の再開発は東口を中心にするような雰囲気

まだ開店時間前でしたが

自動ドアが動いて中に入れたので尋ねてみると

大丈夫とのこと

この日も動き回って汗かきまくってアルコールを欲してたので、嬉しかったなぁ

とりあえずで生ビールを頼み

つづけて定番の出汁巻

お刺身の三種盛りで

生ビールをオカワリして

その後、冷凍レモンチューハイと追いチューハイを2杯ほど飲んだら

オヤツのナポリタンとたまごサンドでまだお腹が空いてなく

 

つぼ八に行ったら必ず注文する若鶏の半身揚げが届いたものの

(小樽のナルト本店を真似たメニュー)

もう入る余裕なく、持ち帰りをお願いして店を出たのがまだ17:45

大きなお腹を抱えながら旅館に帰る道すがら

久慈駅前のビックリするような激安の駐車場を発見

 

空き地だらけの駅前がいつ変身するのかなぁとお節介な妄想をしながら

旅館に到着

その直後、18時に時報チャイムで”潮騒のメモリー”が流れてビックリ

『久慈市ってどんだけ”あまちゃん”に依存しとんねん』 って感じ(笑)

他の泊り客は食事で出ていたようで

食休みした後にお風呂を予約して

のんびりと入浴させていただきました

 

気持ちよかった~

 

この時点で、もう早朝出発で三陸鉄道や八戸線に乗る気はなくなっていて

 

翌朝までしっかりと身体を休め

 

朝7時

夕方は”潮騒のメモリー”でしたが朝は”あまちゃんのオープンニングテーマ”の時報チャイムが鳴り響き

部屋に朝食のお膳を届けていただき 美味しくいただきました。

 

この久慈というところ

なんせ三陸鉄道もJR八戸線も 1日数本の運行のみ

 

三陸鉄道は5時代に2本と次は8時代に1本次は12時までなく

(新田老と宮古が不通で一日12本のうち3本が運休中)

 

JR八戸線に至っては1日8本のうえに

5時と6時代の通勤・通学用の次は9時代までなく

 

あとは高速バス(東京・盛岡・二戸)のみ

前日に予約した三陸リアス亭の”うに弁当”が朝7時からと言っていたので

8時代の三陸鉄道でまた宮古に出るのも面白くないし

バスで盛岡に出ても高い飛行機しかないので

 

八戸経由で青森に出て

当日シニア割で伊丹から帰ることにしちゃいました。

 

と言うことで

8時半、旅館を出て 三陸鉄道久慈駅のリアス亭で”うに弁当”を引き取りましたが

このサイズで

2,500円也

あまちゃんの夏バッバを思い出させることがなかったら

絶対に買わないだろうなぁ

 

この時は、次の電車は12:00までないため

ガラガラでしたが、実はこのあと9時過ぎに

またまた観光ガイドに連れられて数十名の団体さんが駅を訪れて

写真を撮ったりお土産を買ったりしている光景に目が点

 

”あまちゃん”が

久慈市にとってはホント貴重な収入源になってるんだなぁ

 

前日の夕方は人気の無かった”あまちゃんコーナー”では

若いオネーチャン二人が”潮騒のメモリーズ”やっていて大笑いしちゃいました。

そして隣のJR駅に入り

時刻を確認して

交通系ICカードが使えるかな?と思っていたら

なんと使えずキップを現金かクレジットカードで買うのみ

(因みに、三陸鉄道もワンマンカーで基本現金のみですが、県北バスはICカードが使えます)

その上、営業時間は朝9時以降午後3時20分まで

この時に知ったのですが

JR東日本では、大人の休日倶楽部パスなるお得なキップがあって

そういえば前日の三陸鉄道でも期間限定で使えるようで

秋の旅行シーズンもあって大盛況だったんだとわかりました。

 

待合室で改札を待つ間

久慈の名物の展示品で”まめぶ汁”をみつけて悔しかったぁ

その後、”あまちゃん”で何度も出てきた三陸鉄道のホームを眺め

”あまちゃん”の聖地巡礼旅に幕を閉じ

八戸行のワンマンカーに乗り込んだのですが・・・

 

車窓を眺めていたところ

青森との県境近くで”種市”なる駅があり

 

種市先輩を思い出してたら

駅前に変わったモニュメントがあるのに気づいたので

急いでスマホで調べてみたところ

あの南部潜りの潜水土木科がある高校が

種市高校だとわかり なんか嬉しかったですねぇ

(↓画像は借り物です)

 

 

【その⑤因縁の八戸から青森に出て家路につく編】

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”糸の切れた凧”の旅【その③いよいよ”あまちゃん”ロケの聖地、袖ヶ浜(現実の地名は小袖海岸)へ】

2024-10-03 17:07:13 | 旅行

9月28日 午後3時半

ようやくその日の宿(国民宿舎えぼし荘)からの送迎車が待つ

三陸鉄道 野田玉川駅に到着

当初は、”あまちゃん”で袖ヶ浜の最寄り駅として何度も登場した

普代村の堀内(ほりない)駅で下車して

漁港や安家川橋梁を眺めながら小野旅館まで歩き、泊まるつもりでしたが・・・

ワゴン車でわざわざ出迎えに来ていただき

それも20分弱遅延したため待たせてしまい申し訳ありませんでした。

 

野田村のマスコット”のんちゃん”は

鮭の稚魚で出っ張ったお腹には幸せがいっぱい詰まってるんだとか(笑)

宿は大きな国民宿舎でそこそこ年季が入っていましたが

結婚式場などにも使われていた様子。

基本、大浴場と共用トイレの部屋でしたがそんなに悪くなかったですよ。

大浴場は露天風呂もあって

日帰り入浴500円(回数券もあり)だからか

家で風呂を使いたくない地元の年寄りだらけ(笑)

畳みの部屋でちゃんとリフォームしてあるので

清潔でエアコンも新しくて良かったです。

料金は、ビジネス、観光、季節の幸と3コースあり

私は観光コース一泊二食9,500円を選択

これだけちゃんとしたお膳で大満足しました

 

お酒は、生ビールと地元の生酒

そしてこれもまた地元のにごり酒を注文

お昼にも発泡酒のロング缶を2本飲んでたので珍しくこれで満足しちゃいました。

 

早起きして田老、島越を訪ねて歩き回ったからか

しっかり熟睡

 

ゆっくりと朝風呂を楽しんでから

バイキングの朝食をガッツリといただいて

地元のお土産を買ってチェックアウト

7時45分に宿を出発して 7時50分には野田玉川駅に到着

前日は観光客がいっぱいで遅延していたため

乗り継ぎ時間15分に間に合わなくならないかとちょっと心配したのですが

定刻通りに発車、到着してホッと一息

”あまちゃん”で使われた古い車両でとても幸せな気分でいたのですが。

 

陸中野田駅で下車したのは、

なんせ”あまちゃん”ロケの聖地【小袖海岸】は

公共交通機関でのアクセスが超不便で

バスを使って海女の実演を見学しようと思ったら

この陸中野田駅8:30発の久慈市市民バス海岸線1便のみ

 

なんとか時間に余裕をもてたなと安心して

駅前のモニュメントを眺めてみると

野田という土地は、昔から塩づくりと牛ベコで東北の山間部まで供給していたと知り

更に岩手の観光案内図を眺めながら、次はどこを訪ねようか?と

のんびりとしていたところ

偶然、駅舎にあったポスターをみつけ

あまちゃんマラソン大会なるイベントがあって

開催日をみるとなんと、その日が当日

 

バスの発車時刻(8:30)となったため

ザックを担いでスタンバイしたのですが

8:40になってもバスが来ず

時刻表にあった連絡先に電話すると

「今日は、あまちゃんマラソンで道路が通行止めのため運休です」

と言われ、一瞬で奈落の底へ

 

駅の切符売り場でタクシーを尋ねると

「久慈から呼ぶしかなくて、回送料がかかりますけど・・・」

と説明され

久慈と小袖までの区間が通行止めとなったら

陸中野田からの路線バスのルートでしか行けないかもと

 

他の選択肢はないなとタクシー会社に電話して

小袖海岸まで行きたいと伝え、迎えを頼んで電話を切って一安心していたところ

 

駅でタクシーの電話番号を教えてくれたオバチャンが走り寄ってきて

「バス会社から連絡があって、迂回運行のバスがあるみたいです」と

そのお知らせの紙を持ってきてくれたのですが(8:39)

 

時すでに遅し

「ありがとうございます。もうタクシー頼んじゃったから大丈夫です」と答え

ほどなくして(15分ほどして)タクシー到着(8:50)

 

陸中野田駅から陸中海岸らしい険しいリアス式海岸を少し走ったのち

集落をつなぐ狭い山道を走り

回送料金が1500円と言われてたので、そこそこの出費を覚悟していたところ

メーターが3,500円になったところで支払いに切り替えてくれ

(ようするに、合計で5,000円までとなるように)

小袖海岸のバス停近くで降ろしてもらい(9:15)

(↓はマラソンで通行止めの起点)

小雨降るなか、歩いて小袖海女センターを目指しました

 

地元の漁協が経営する番屋食堂なる建物もあったのですが

観光客で賑わうシーズン(7・8月)以外はどうやら営業してない様子

バスは運休するわ、雨は降るわで

雨ガッパ代わりのジャケットを着て

少々気落ちしながら海女センターに向かい

それでも、北限の海女のマンホールや

さまざまな石碑や案内板に

ドラマで見た景色が現れて幸せな気分に戻り

素潜り実演(9月は日曜の11:00のみ&9月末で終了)が見られるかな? と

喜び勇んで海女センターに入り(9:27)

海女クラブのオバチャンに

チケットを買おうとお金を渡したところ・・・

「本日は、海が荒れてしまい中止なんですよ」と申し訳なさそうに言われ

 

『この素潜り実演に間に合うようにと

草刈りや仕事を片付けて

ようやく【糸の切れた凧】になれたのになぁ。。。』

と、度重なる我が身の不運を嘆いてしまったのですが

 

それなら、事前に調べておいた海女センターの中で”ウニ丼”を食べようと

海女クラブのオバチャンに尋ねると

「センターの食堂は8月末までで 

今日は”うにごはん”しかないんですよ。」とのこと

 

今日は【天中殺】だったのかぁ

とまたまた落ち込みそうになりましたが

 

そこはこれまで数々の辛苦を味わってきて”打たれ強いわたくし”

「じゃあ、売り切れないうちに”うにごはん”ください」と言うと

「売り切れることはないですけどね」との正直なお言葉(9:50)

 

その後も雨が降り続いていたものの

雨雲レーダーにはそんなに濃い雨雲は見当たらず

そのうち雨もあがるだろうと

海女センターの外のベンチに座って待ち続けていたところ

 

(この間に、東京からや遠く沼津ナンバーの車など、実演を期待して訪れてきた人々が”中止”と知らされ

諦めきれずにウロウロしていましたが、結局落胆して帰っていきました)

 

 

久慈市の軽自動車がセンターの横へ駐車して

女性職員らしき人物が降りてきて

そのほかにも”エフエム岩手”の腕章をつけたお兄ちゃんがきて

”素潜り実演”の看板を片付けだし

 

車から運んでいた大きなビニール袋の中に

小さな花束らしきものが入っているのが目に入り

 

素潜り実演の観光海女らしきオネーチャンも集まりだし

 

これは今年最後の素潜り実演の日だったから

実演は中止になったけど

クロージングセレモニーや写真撮影でもするつもりだな

といつもの勘が働き

 

何気ない素振りで待ち続けていたところ

(10:40)ようやく雨が止んだのを見計らって

ドラマで何度もみた 海女の実演場所、夫婦岩に防波堤

灯台などなど

ゆっくりと時間をかけて聖地巡礼してから

堤防の上や灯台は【立ち入り禁止】となっていたのと

アキ(あまちゃん)が何度も飛び込んだり自転車で海に落ちてましたが

よほど荒波が打ち寄せるのか

いまではテトラポットがギッシリと積まれていて

『今ならあのシーンはなかっただろうな』と

ちょっぴり寂しい気持ちになりました。

 

”あまちゃん”アキが夏バッバから海に突き落とされた

船らしき漁船が戻ってきたため

ヒトデを並べてたので

「写真撮ってもいいですか?」と尋ねると笑ってました。

(11:00) 海女センターの前に戻ると

たぶん広報用の記念撮影の真っ最中(関係者のみで)

ふ~ん、わざわざ最終の実演を観にきたけど

中止になって落胆してる人達には知らせようともしないのか

と、ちょっとオカンムリ

 

『訪問者(観光客)がいて自分たちの仕事があるんだろ』 と

一言いいたい気分でしたが

 

文句言ったら”カスハラ”だとか言うんだろうなぁ

 

まあ、いまどきの気遣いのできない世代の連中なんかどーでもいいや

と、ロケ地巡りを継続することに

 

まずは監視小屋を目指して古道を歩き

監視小屋の手前には、過去に北海道までイカ釣りに出漁していた漁船が

八戸から久慈に向かう途中で嵐に遭遇して遭難

多数の犠牲者がでたとのことでその慰霊碑がありました。

11:11監視小屋到着

実際に使われている監視小屋ではなくて

たぶんロケ用に建てられてものなのか

廃墟になってました。

この監視小屋までの道

なかなかの傾斜で急な坂道だったので

『春子(小泉今日子)がここまで登ってきたのかな?』と

勝手に感心していたのですが

 

実は、監視小屋のすぐ後ろには”小袖”の集落があり

昭和8年の津波の記念碑があってビックリ

(ようするに撮影時のスタッフや俳優さんはこの道を使ったんだろうな)

この小袖には湧泉(井戸)があって15戸の集落があったんだとか

 

ここに陸中野田からの路線バスのバス停があってまたまたビックリ

同じ道を歩くのが嫌いなので

そのバスの走る町道(?)を下ってみました。

 

この間、突然晴天になって汗ダク

せっかくキレイに晴れてくれたしと

海岸に下りて動画で打ち寄せる波を撮影してみましたが

うねりが凄くて驚かされました。

 

 

その後、また海女センターに戻り

お土産を買ったのですが

(あまちゃんのクリアファイルや海藻類、網で作って垢すりなど)

店番をしている海女クラブのオバチャンに

 

「今年は素潜りの実演みられなくて残念だったけど、

『また来なさい』って神様の思し召しだと思ってまた来るわ」と言うと

 

「はい。また来てくださいね。」と笑顔を返してくれましたが

 

やはり、そこは『ジェジェジェとちゃうん?』と突っ込みたかったな(笑)

館内をゆっくりと見学して

 

(12:30)屋上の展望台で

”うにごはん”をお昼に食べ

14:00小袖海岸発久慈行のバスまで、まだたっぷり時間があったので

撮影で使われた衣装や小道具、その他資料がいっぱい展示されているコーナーで

”あまちゃん”の台本をみつけ

じっくりと読ませていただいちゃいました

 

 

そうこうしていたらアラームをセットしていた13:30となり

 

バス停に向かったところ

13:45頃でしたが、少し離れた場所に停車していたのに

待たせては悪いと思ったのか

バス停に停車して乗せてくれました。(優しいなぁ)

 

朝からいろいろと困難や絶望を味わうこととなってしまいましたが

それでも夢にみた”あまちゃん”ロケの聖地を楽しませていただき感謝感謝


 

【その④北鉄(北三陸鉄道=三陸鉄道リアス線)の北三陸駅(久慈駅)へ に続く】

 

 

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”糸の切れた凧”の旅【その②北三陸津波の被災地へ】

2024-10-02 16:27:17 | 旅行

9月27日宮古到着後

にっぽん縦断こころ旅2016年春の旅

541日目のこころの風景”宮古港出崎埠頭”と

東日本大震災直後、津波動画を観てトラウマとなっていた宮古市役所跡を訪れてから

『さて、どこかで夕食でも』と市街地を歩いていたところ

 

いつもの嗅覚で歓楽街の面影が残る一角を発見

昭和な淫靡な雰囲気の漂うとても魅力的な場所でしたが

もはやすっかり時代に取り残された遺跡となってしまっているなと

肩を落としてトボトボと徘徊していたところ・・・

薪を燃やしている匂いがして

見上げてみると高い煙突とたなびく煙が目に入り

これは間違いなく薪炊きの銭湯だな と気づき

『ひとっ風呂浴びよかな』と心惹かれちゃいましたねぇ

後ろ髪を引かれる思いで煙突と煙を目に焼き付けてから

飲み屋探しを続けていたところ

なぜかとても気になる赤提灯の居酒屋を発見

『よしこれは入ってみなければ』と躊躇することなく暖簾をくぐり

大将に断ってカウンターの隅の席に座り

「とりあえず生(ビール)」と注文しながら

お品書きをみてみると

どれもこれも魅力的なメニューだらけ

この、大きな大根と糸コン、つくね団子に

海苔がたっぷり入った”突き出し”

ムチャクチャ美味しくて

『この店、正解だったな』と確信

”生牡蠣”と”しめこはだ”で生ビールを数杯飲んでから

『さて、次は何飲もう?』

と悩みながら

日本酒は飲み過ぎて早起きするのが辛くなりそうだし

甘いチューハイやサワー類じゃ肴に合わないなと思っていたところ

 

突如、あまちゃんで北鉄の駅長”大吉っあん”が頼む

”ウーロンハイ”焼酎抜きを思い出し注文(但し、勿論焼酎入り

 

続けて、店の売りと思われる”どんこたたき”なるものが気になって

ネットで検索してどんな魚なのか確かめてから注文したのですが

肝であえたタタキは最高でしたねぇ

この辺りで、地元の常連さんらしき客がカウンターの隣の席に座り

続けてその友達も来店した頃にはすっかり打ち解けて

 

それまでにもそこそこ飲んでいたものの

まだ飲み足らず、かと言って一人でボトル頼んでも勿体ないからと

彼等も飲むかと尋ねてから赤霧島をボトルで注文

 

続けて、宮古港まで歩いていた時に見かけた カレイの一夜干しを頼み

↓ 意気投合した大将がオマケでサービスしてくれた鮪のお刺身

これも最高に美味しかった~

『宮古の津波の動画がショックで市役所跡に行ってきた』

と話すと当時ことを話してくれて

『遺跡のような歓楽街を眺めてきたけど、その昔は漁船の乗組員で賑わってみたいだね』

『あと、火野正平さんの自転車の旅で出てた出崎埠頭に行ってきた』

とか

『この店も嗅覚で探し当てた』と話すととても喜んでくれて

彼等と大将も加わって会話も弾み

そこそこいい気分になったところでオアイソしてもらったところ

「ボトル代が入ってお高くなっちゃいました。。。」と

9千なにがし円の紙を渡されたのですが

 

生牡蠣800円

しめこはだ600円

どんこたたき800円

カレイ一夜干し800円

に生ビール4杯(600円x4=2400円)

ウーロンハイ5杯(500円x5=2500円)

赤霧島 ボトル 2700円

ですでに10,600円

突き出しを加えたらそれ以上とわかっていたので

その心意気が気に入ってしまい

 

ついついまたまたフーテンの寅さん『釣りはいらねーよ』から

この日は諭吉を二枚渡し

「今夜は良い店がみつかって美味い酒が飲めて嬉しかったなぁ。

彼等の飲み代の足しと大将に酒勧めなかったからとっといて」

と往時の藤山寛美ほどじゃないけど

つい大判振る舞い

 

受け取るのを遠慮してるので

「今度は火野正平さんの番組で観た山田町の荒神社(あらがみしゃ)に行くからまた寄らせてもらうわ」

と店を後にしたのですが

 

その後、〆のラーメンが食べたくなってしまい

ホテルに戻ったのに入らず

宮古駅方面を彷徨ったまでは覚えているのですが

その後の記憶なし

翌日、三陸鉄道が動き出した音で目覚め

外をのぞくと丁度日の出時刻

前日には気づかなかった 大煙突をみつけ

調べてみると”ラサの大煙突”だそうで

前日、出崎埠頭近くでラサの精錬所の遺構をみていたので

当時は漁業以外での代表する産業だったんだなと納得

 

いや~、何も調べずに現地で知る新たな知識 ためになりますね。

朝イチで朝食を済ませ

宮古駅に向かい

すでに新田老までは不通となって代行バスになってることを知っていたので

駅の構内で”あまちゃん”の第一回の開業記念日を彷彿とさせる写真を眺め

自販機でキップを購入

代行バスに乗り込みました

 

新田老駅で下車後は

ほとんどの乗客が三陸鉄道に乗り継いでゆく姿を見送り

 

とぼとぼと歩いて

その昔は万里の長城と呼ばれた防潮堤を訪ね

その奥に新たにつくられた防潮堤に驚きながら

 

津波遺構として保存されている”たろう観光ホテル”を眺め

 

 

標識に誘われて展望台まで登ってみたものの

木が生い茂っていて三王岩を眺めることができず

諦めてまた漁港に戻って三王岩に向かったところ

 

修復された製氷保管施設があり

港内には少し大きな定置網用の漁船もあるものの

ほとんどが小型の船外機付きのFRP和船だらけ

この辺りの主流はアワビなんだと知りました。

漁港の先は荒波が岩に砕ける音が鳴り響く海岸線となり

その先に三王岩があったのですが

津波で動いてしまった大きな岩を眺めながら

前日、居酒屋で仲良くなった常連さんが

「『津波で三王岩が一王になったらしい』って噂が飛び交ったました」との話しを思い出し

 

よく耐えたなぁと

三王岩の近くには

奇跡の一本松があり、陸前高田は枯れてしまいましたが

ここ田老は煙害にも耐えたようで驚かされました。

その後、また昔の防潮堤方面に戻り道

過去の津波の高さを教える標識がありましたが

 

田老は入り江が狭いため、

容積で押し寄せた津波が行き場所をなくして上に逃げたんだなと実感させられました。

これは、川の河口に作られた防潮堤

分厚いコンクリートの扉にビックリさせられましたねぇ

中央の狭い切り込みが海と繋がっている箇所

また昔の防潮堤をまじまじと眺めてから

 

道の駅へ向かい

ジオラマや津波の直後と現在の比較写真で

その被害の大きさを実感

この田老の道の駅には訪問者がどこから来たのかシールで残してありましたが

奈良からは3人目でした。。。

その後、新田老駅に向かい(新田老駅は津波の後新設された駅)

津波で被害を受けただろうと思われる建物もしっかり使われていて驚きました。

あと、新築の5階建てのマンションも最上階から屋上に上れる梯子があり

また津波に襲われたら屋上まで逃げられるようにしてるんだとこれまたビックリ

 

この日は土曜日だったからか

三陸鉄道も大賑わい

 

代行バスも2台体制でしたが

宮古からのバスの遅れと

新田老駅は三階がプラットホームのため

エレベーター待ちで更に遅れ

とうとう20分遅れでの出発となりました。

 

新型車両はすっかり観光仕様

 

次に向かったのが

島越(しまのこし)

”あまちゃん”で親友の足立ユイが東京に向かおうと乗車していて東日本大震災に遭遇

大吉とトンネルを出たところで津波で破壊された線路を呆然と眺めていた場所だったので

今回の旅ではぜったいに訪れなければと思っていた土地でした。

新しい駅舎は、津波で破壊された駅舎を模した宮沢賢治ゆかりの地のひとつ

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津波前の航空写真がありましたが

現存してるのは高台にある家のみ

ここの駅舎には やはり津波前の島越のジオラマがあり

これは津波がきたら”ひとたまりもない”だろうなと実感

島越のある田野畑村には

にっぽん縦断こころ旅で火野正平さんが訪れていた北山崎のあり

断崖クルーズの観光船があるとの案内があったので

乗れないかと電話してみたところ

「風が強くて本日は欠航です」とのつれない返事

それならばと、訪問先に決めていた旧駅舎跡と宮沢賢治の碑を目指そうと歩いていたところ

橋の架け替え工事で年度末まで通行止め

そんならいいやと歩いて海岸線に出ることに

新しい防潮堤の上から海を眺め

 

迂回路で大回りして旧島越駅階段と

 

 

 

 

慰霊碑に手を合わせ

断崖クルーズの観光船のある漁港まで行ってみましたが

実は、ザックを担いでもう10キロ近く歩いていてヘトヘト

まだ次の三陸鉄道の発車時刻まで1時間以上ありましたが

駅舎に戻り

田老の道の駅で仕込んでおいた

発泡酒ロング缶2本と塩オニギリと玉子焼きとフライドチキンで昼食を済ませ

そのままベンチでうたた寝してから改札口に向かったのですが

やはり遅延していて20分遅れ

 

駅まで迎えに来てくれる国民宿舎の方に申し訳ないなぁと思いつつ

支援のつもりでお土産を買わせていただきました。

 

【その③いよいよ”あまちゃん”ロケの聖地、袖ヶ浜(現実の地名は小袖海岸)へ】

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