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(写真は恐らく安居3年目の木の芽峠拝登時のもの)
これもだいぶ昔の文章。私の永平寺安居4年目の時だから平成3年、現在の寮生諸君はまだ影も形もない頃、その時分の雑感を連ねて師寮寺の寺報に、檀家さんのお慰みに読んで頂こうと思って寄稿した、いわば毒にもクスリにもならん駄文。今読み返してみると、表現が稚拙な箇所や、現在では見解が変わっている部分もあるが、寮生諸君の参考になる点もあるいはあるかも知れんと思い、原文に多少手を加えてネット初公開。
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祖山安居症候群(シンドローム)
山寺に籠もっての修行生活も、長くなって来ると、世間一般の常識と自分のそれとの間に、知らず知らずのうちに微妙なズレが生じてくるようである。こういったズレの中には、ここでの修行の本質に関わるような深刻なものもあるが、その多くは取るに足りない、しばしば滑稽味のあるものであることが多い。私はそんなギャップの発現を総称して、勝手に「祖山安居症候群(そざんあんごシンドローム)」、すなわち、永平寺で修行することに伴って起こる様々な症状、という厳めしい名前で呼んでいるが、今回はその症例をいくつかご紹介してみようと思う。
祖山安居症候群は、永平寺で「他出」と呼びならわす外泊期間に現れることが多い。
山内では、修行僧同士が行き合うと、軽く視線を交わして必ず問訊(もんじん)、つまり手を合わせて頭を下げることになっている。逆にいうと、山内では行き合う時に視線を交わしたら、まず間違いなく合掌低頭をすることになるわけである。街に出た時に一般の人と目が合ってもまずこんなことはしないが、それでも何か考え事でもしていて油断をしている時に視線が合うと、相手が見知らぬ人でも思わず合掌してしまうことがある。相手は一瞬ギョッとするようだが、なに、驚いたのはこっちの方だ。スチュワーデス(注:執筆当時はまだCAというよりこう呼ぶことの方が普通だった)さんの失敗談に、プライベートでも人と目が合うと反射的ににっこりしてしまう、というのがあるが、投げかけられたのがたおやかな微笑なら心も和もうが、神妙な顔と合掌低頭では、却って相手をどきまぎさせてしまうと思われる。
普通の人と僧侶が外見においてどう違うといえば、なんといっても一番目につくのは頭髪の有無であろう。
一般の人の目に、坊主頭は奇異に映るのだろうけれども、これに慣れ親しんでしまうと、なにか有髪の人の方が鬱陶しく見えてくるから不思議なものである。たしかにこれでは冬の間は少々涼しすぎるようだけれども、くりくり頭の側からいうと、真夏などはどうして皆、髪などというあんなに暑苦しいものを生やしていて平気なのだろう、と思ってしまう。頭髪が汗にまみれれば、雑菌の温床となって大変不潔である。匂いも立つしベタついてくる。たださえベタつけば気持ちが悪いだろうに、ご丁寧に油で固めてギラギラさせている大蔵大臣(注:現在の財務大臣)のH氏(注:故橋本龍太郎氏のこと)のような人があるのは理解不能としかいいようがない。
わざわざベタつかせないまでも、形を整えておくには応分の入費がかかる。もう何年も床屋の世話にはなっていないので相場がわからなくなってしまったけれども、少なくとも大人の男性の場合で、調髪料は今、1回につき3500円は下らないと思われる。加えて整髪料、シャンプー、リンス、櫛、ブラシ、ヘアードライヤー、女性の場合はカーラー、ヘアピン、人によっては養毛促進剤等々、髪に対する投資額はバカにならない。その点、我々は簡素なもので、頭髪に関するケアといえば、5日に一度、剃刀でぞりりと剃り上げるだけで、費用もシックの替え刃1枚分で済む。朝シャンが流行りだそうだが、毎朝頭を洗うことなど、我々は何百年も前から励行している。朝に限らず、いつでもどこでも手拭い一本あれば首から上が丸洗いできて清潔この上ない。疑問のむきには一度試してご覧になるとよい。
我々が街に出た際に困ることの一つに、長作務衣や改良衣では、食事をとる店が限られるということがある。別に犯罪を犯すわけではないから、一般の人々と同じように振る舞えばいいようなものだが、やはり遠慮が働く。僧形でスエヒロや京城苑には入りにくい。友人に無理矢理誘われて、という体をとればなんとか入れないこともないが、単独で敢行するのは殆ど不可能に近い。私などは昔から油っこいものが好きだから、空腹時にこの手の店の前を通過する時には、ないはずの後ろ髪を引かれる思いがするが、このやせ我慢がなくなったら坊主も終わりだと思っている。
坊主で思い出したが、この「坊主」という言葉は、その語源はともかくも、慣用的には我々が自身を謙遜して指す際に使うべき単語であって、第三者が会話において僧侶を指してこれを用いる場合には罵倒語になるので、どうか注意をして頂きたいと思う。小さな子どもに「あ、一休さんだ!」といわれれば「可愛らしい」と思うが、「あ、坊主だ!」といわれれば、相手が子どもでもむかっ腹が立つ。
さてそんな訳で、抵抗なく入れる店ということで和食、特に蕎麦屋などを選んで入ることが多い訳だが、久しぶりに街に出た修行僧は、席に着くなりいろいろなことが気になり始める。まず、周りの人が話をしながら食事をしているということが異様に思える。食べるという行に専念せねばならぬ僧堂ではあり得べからざることだからである。
店のお客の中には、話に夢中になって口から食べかすを飛ばしている人がある。かと思うと、ピチャピチャクチャクチャと音を立てて咀嚼せねば気の済まない人や、食事が終わって楊枝を使うのはいいが、シー、シーと息をすすり上げる人、猫のように背を丸めて蕎麦をたぐる人もいる。少し誇張が過ぎるようだが、これくらいにいわないと、修行中に初めて街に出た雲水の感じる違和感、不快感は表現出来ないように思う。無論、かくいう私も偉そうなことはいえた柄ではない。お山に上る前は蕎麦屋でそれほどマナーに気を配るたちではなかったし、下りてからもそういったことに比較的無頓着である続けるかも知れないが、安居中の外出時のカルチャーショックは斯くの如きものである。
お山の生活が娑婆と違う点のひとつに、ここでは曜日があまり重要でないということが挙げられる。娑婆(シャバ)というと、「塀の中」関係の人達の専門用語のように思われているようだが、もともとは「世間」を表す仏教用語であって、我々「土塀」の中関係の人間の言葉であった。それはさておき、我々には日曜がないから、気をつけていないと今日が何曜日なのかがわからない。参拝の方が多いと、「おや、今日は休日だったかな。」くらいのことはわかるが、参拝者と関係のない部署の人間はもう皆目わからない。
人の少ない冬のある日のこと、廻廊を連れ立って歩いていた同僚に私が、「今日は金曜日だったよね。」と尋ねると、彼は「いや、土曜日だよ。やだなー、曜日もわからないの?」と茶化す。廊下の向こう側から歩いて来て、たまたまこのやりとりが耳に入ったのだろう、二人組の女の子がクスクス笑いながらすれちがう。金曜日か土曜日かもはっきりわからないような、私達の浮き世離れした感覚がおかしかったのだな、とその時は思ったが、事実は少し違った。あとで新聞を見てみると、その日付は日曜日。つまり私達は二人とも間違っていたのだった。
私達の修行のひとつに托鉢というものがある。ご存知のように、街を歩いて在家の方々の喜捨を募るものである。しかしこれは、一部のお寺を除いて現在では特殊な行事となっていて、私達が僧侶の服装で街に出ている時は常に托鉢をしているわけではない。托鉢をしている時は、まんじゅう笠をかぶって黒または藍染めなどの衣を着、地下足袋か草履履き、手には喜捨を受けるための器を持っているはずだから、あまりお馴染みのない人でも、一目でそれとおわかりになると思う。それを知ってか知らずか、街角で佇んでいると、そういった装束に身を包んでいなくても、時々お金を下さる方がおられるのは、有り難いというか勿体ないとは思うのだけれども、こちらとしては非常に意外なことなので面食らうことがある。
ある時、改良衣を着て銀座の和光の前で知人と待ち合わせをしていたら、学生さんらしい男性がつかつかと歩み寄って来て、「はい」と何枚かの硬貨を差し出された。一瞬何のことかわからず、キョトンとしていると、彼は怪訝そうな顔をして、「違うんですか?」と畳みかける。やっと事情の飲み込めた私が、「あ! あのう、今日はその・・オフでして・・」などと、わかったようなわからないようなことを口走っている間に、彼は行ってしまって悪いことをした。
浅草の雷門前で公衆電話の順番待ちをしていたら、いきなりお婆さんに拝まれて百円玉を握らされ、「ご苦労さまです。」と言われたこともある。この時は、先に述べたように反射的に合掌低頭を返したが、これからもこんな時は、せっかく皆さんが布施行をする気になられたのだから、素直にお預かりして労に報いていこうと思う。
因みに布施というのは、本来、布施をする側の修行なのであって、布施をしてやったのだから有り難く思え、頭を下げろ、というのでは布施にも何にもならない。見返りを求めない喜捨の精神こそが布施の本質である。私達が托鉢の際に頭を下げるのは、布施をした人の仏心に対してであって、金品に対してではない。「修行ご苦労様です。一緒に頑張りましょう」なのであって、「おありがとうござい」では決してない。
ひとつの言葉に二つの読みがあって意味も違うということがあるが、仏教用語にも時々これがある。例えば、「大衆」は「だいしゅ」と読み、修行僧全般を指す。だから街で「大衆食堂」なんという看板を見ると、ふらふら入りたくなる。
ご存知のように、利益は「りやく」とも読んで、私達の方ではこちらの方が一般的だから、「来年度は8%程度の利益増が見込まれ・・」などという字面を見ると、思わず苦笑してしまう。
荘厳は「しょうごん」と呼んで、寺院内外の装飾、または装飾用品のこと。だから「荘厳ミサ曲」というと、「金襴で飾り立てられた本堂で行われる法要の音楽」を連想してしまう。
清浄は「しょうじょう」とも読んで、字義もあまり変わらないが、「空気清浄機」を「くうきしょうじょうき」と読むと、なにかしら有り難いような気がする。
同僚が「聖パウロ」を「しょうぱうろ」と読んだことがある、といっていたが、これはちょっと信じ難い。
文字の並べ方の問題だが、家出と出家では大いに意味が異なる。春先に上野駅の広場をウロウロしているのが家出で、同じ頃に福井駅の永平寺行き電車(注:2002年に廃線)の前でオロオロしているのが出家である。他にもいろいろ挙げられるが、専門的に過ぎるので割愛する。
以上、祖山安居症候群を面白おかしく並べ立ててみたが、実はこれはお山と世間のギャップのほんの一例に過ぎない。そして、このギャップは、時代が進むとともにますます大きくなって行くものと思われる。世間では忘れられてしまった考え方や習慣も、ここではそのまま温存されて行くからである。これらの中には、いつの世も尊い美風もあるが、偏見や因習もある。永平寺の修行は諸刃の剣だといわれる所以である。思うに、この様なギャップに対する感慨をどう処理するか、如何にそれを仏の行として自分のものとして行くかが、お山の修行の成否のカギであろう。
常に批判の眼で自分を見据えていたい。完璧なタテ社会の中で、上層に辿り着いた人間が、安易な方向に流されようと思えばいともたやすいことである。普通の社会からこの道に飛び込んだ人間として、このことは常に肝に銘じていたい。どうか自分で気のつかないうちに仏の道を踏み外している事のないように、と祈る祖山四度目の初夏である。
(平成3年5月寄稿)
これもだいぶ昔の文章。私の永平寺安居4年目の時だから平成3年、現在の寮生諸君はまだ影も形もない頃、その時分の雑感を連ねて師寮寺の寺報に、檀家さんのお慰みに読んで頂こうと思って寄稿した、いわば毒にもクスリにもならん駄文。今読み返してみると、表現が稚拙な箇所や、現在では見解が変わっている部分もあるが、寮生諸君の参考になる点もあるいはあるかも知れんと思い、原文に多少手を加えてネット初公開。
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祖山安居症候群(シンドローム)
山寺に籠もっての修行生活も、長くなって来ると、世間一般の常識と自分のそれとの間に、知らず知らずのうちに微妙なズレが生じてくるようである。こういったズレの中には、ここでの修行の本質に関わるような深刻なものもあるが、その多くは取るに足りない、しばしば滑稽味のあるものであることが多い。私はそんなギャップの発現を総称して、勝手に「祖山安居症候群(そざんあんごシンドローム)」、すなわち、永平寺で修行することに伴って起こる様々な症状、という厳めしい名前で呼んでいるが、今回はその症例をいくつかご紹介してみようと思う。
祖山安居症候群は、永平寺で「他出」と呼びならわす外泊期間に現れることが多い。
山内では、修行僧同士が行き合うと、軽く視線を交わして必ず問訊(もんじん)、つまり手を合わせて頭を下げることになっている。逆にいうと、山内では行き合う時に視線を交わしたら、まず間違いなく合掌低頭をすることになるわけである。街に出た時に一般の人と目が合ってもまずこんなことはしないが、それでも何か考え事でもしていて油断をしている時に視線が合うと、相手が見知らぬ人でも思わず合掌してしまうことがある。相手は一瞬ギョッとするようだが、なに、驚いたのはこっちの方だ。スチュワーデス(注:執筆当時はまだCAというよりこう呼ぶことの方が普通だった)さんの失敗談に、プライベートでも人と目が合うと反射的ににっこりしてしまう、というのがあるが、投げかけられたのがたおやかな微笑なら心も和もうが、神妙な顔と合掌低頭では、却って相手をどきまぎさせてしまうと思われる。
普通の人と僧侶が外見においてどう違うといえば、なんといっても一番目につくのは頭髪の有無であろう。
一般の人の目に、坊主頭は奇異に映るのだろうけれども、これに慣れ親しんでしまうと、なにか有髪の人の方が鬱陶しく見えてくるから不思議なものである。たしかにこれでは冬の間は少々涼しすぎるようだけれども、くりくり頭の側からいうと、真夏などはどうして皆、髪などというあんなに暑苦しいものを生やしていて平気なのだろう、と思ってしまう。頭髪が汗にまみれれば、雑菌の温床となって大変不潔である。匂いも立つしベタついてくる。たださえベタつけば気持ちが悪いだろうに、ご丁寧に油で固めてギラギラさせている大蔵大臣(注:現在の財務大臣)のH氏(注:故橋本龍太郎氏のこと)のような人があるのは理解不能としかいいようがない。
わざわざベタつかせないまでも、形を整えておくには応分の入費がかかる。もう何年も床屋の世話にはなっていないので相場がわからなくなってしまったけれども、少なくとも大人の男性の場合で、調髪料は今、1回につき3500円は下らないと思われる。加えて整髪料、シャンプー、リンス、櫛、ブラシ、ヘアードライヤー、女性の場合はカーラー、ヘアピン、人によっては養毛促進剤等々、髪に対する投資額はバカにならない。その点、我々は簡素なもので、頭髪に関するケアといえば、5日に一度、剃刀でぞりりと剃り上げるだけで、費用もシックの替え刃1枚分で済む。朝シャンが流行りだそうだが、毎朝頭を洗うことなど、我々は何百年も前から励行している。朝に限らず、いつでもどこでも手拭い一本あれば首から上が丸洗いできて清潔この上ない。疑問のむきには一度試してご覧になるとよい。
我々が街に出た際に困ることの一つに、長作務衣や改良衣では、食事をとる店が限られるということがある。別に犯罪を犯すわけではないから、一般の人々と同じように振る舞えばいいようなものだが、やはり遠慮が働く。僧形でスエヒロや京城苑には入りにくい。友人に無理矢理誘われて、という体をとればなんとか入れないこともないが、単独で敢行するのは殆ど不可能に近い。私などは昔から油っこいものが好きだから、空腹時にこの手の店の前を通過する時には、ないはずの後ろ髪を引かれる思いがするが、このやせ我慢がなくなったら坊主も終わりだと思っている。
坊主で思い出したが、この「坊主」という言葉は、その語源はともかくも、慣用的には我々が自身を謙遜して指す際に使うべき単語であって、第三者が会話において僧侶を指してこれを用いる場合には罵倒語になるので、どうか注意をして頂きたいと思う。小さな子どもに「あ、一休さんだ!」といわれれば「可愛らしい」と思うが、「あ、坊主だ!」といわれれば、相手が子どもでもむかっ腹が立つ。
さてそんな訳で、抵抗なく入れる店ということで和食、特に蕎麦屋などを選んで入ることが多い訳だが、久しぶりに街に出た修行僧は、席に着くなりいろいろなことが気になり始める。まず、周りの人が話をしながら食事をしているということが異様に思える。食べるという行に専念せねばならぬ僧堂ではあり得べからざることだからである。
店のお客の中には、話に夢中になって口から食べかすを飛ばしている人がある。かと思うと、ピチャピチャクチャクチャと音を立てて咀嚼せねば気の済まない人や、食事が終わって楊枝を使うのはいいが、シー、シーと息をすすり上げる人、猫のように背を丸めて蕎麦をたぐる人もいる。少し誇張が過ぎるようだが、これくらいにいわないと、修行中に初めて街に出た雲水の感じる違和感、不快感は表現出来ないように思う。無論、かくいう私も偉そうなことはいえた柄ではない。お山に上る前は蕎麦屋でそれほどマナーに気を配るたちではなかったし、下りてからもそういったことに比較的無頓着である続けるかも知れないが、安居中の外出時のカルチャーショックは斯くの如きものである。
お山の生活が娑婆と違う点のひとつに、ここでは曜日があまり重要でないということが挙げられる。娑婆(シャバ)というと、「塀の中」関係の人達の専門用語のように思われているようだが、もともとは「世間」を表す仏教用語であって、我々「土塀」の中関係の人間の言葉であった。それはさておき、我々には日曜がないから、気をつけていないと今日が何曜日なのかがわからない。参拝の方が多いと、「おや、今日は休日だったかな。」くらいのことはわかるが、参拝者と関係のない部署の人間はもう皆目わからない。
人の少ない冬のある日のこと、廻廊を連れ立って歩いていた同僚に私が、「今日は金曜日だったよね。」と尋ねると、彼は「いや、土曜日だよ。やだなー、曜日もわからないの?」と茶化す。廊下の向こう側から歩いて来て、たまたまこのやりとりが耳に入ったのだろう、二人組の女の子がクスクス笑いながらすれちがう。金曜日か土曜日かもはっきりわからないような、私達の浮き世離れした感覚がおかしかったのだな、とその時は思ったが、事実は少し違った。あとで新聞を見てみると、その日付は日曜日。つまり私達は二人とも間違っていたのだった。
私達の修行のひとつに托鉢というものがある。ご存知のように、街を歩いて在家の方々の喜捨を募るものである。しかしこれは、一部のお寺を除いて現在では特殊な行事となっていて、私達が僧侶の服装で街に出ている時は常に托鉢をしているわけではない。托鉢をしている時は、まんじゅう笠をかぶって黒または藍染めなどの衣を着、地下足袋か草履履き、手には喜捨を受けるための器を持っているはずだから、あまりお馴染みのない人でも、一目でそれとおわかりになると思う。それを知ってか知らずか、街角で佇んでいると、そういった装束に身を包んでいなくても、時々お金を下さる方がおられるのは、有り難いというか勿体ないとは思うのだけれども、こちらとしては非常に意外なことなので面食らうことがある。
ある時、改良衣を着て銀座の和光の前で知人と待ち合わせをしていたら、学生さんらしい男性がつかつかと歩み寄って来て、「はい」と何枚かの硬貨を差し出された。一瞬何のことかわからず、キョトンとしていると、彼は怪訝そうな顔をして、「違うんですか?」と畳みかける。やっと事情の飲み込めた私が、「あ! あのう、今日はその・・オフでして・・」などと、わかったようなわからないようなことを口走っている間に、彼は行ってしまって悪いことをした。
浅草の雷門前で公衆電話の順番待ちをしていたら、いきなりお婆さんに拝まれて百円玉を握らされ、「ご苦労さまです。」と言われたこともある。この時は、先に述べたように反射的に合掌低頭を返したが、これからもこんな時は、せっかく皆さんが布施行をする気になられたのだから、素直にお預かりして労に報いていこうと思う。
因みに布施というのは、本来、布施をする側の修行なのであって、布施をしてやったのだから有り難く思え、頭を下げろ、というのでは布施にも何にもならない。見返りを求めない喜捨の精神こそが布施の本質である。私達が托鉢の際に頭を下げるのは、布施をした人の仏心に対してであって、金品に対してではない。「修行ご苦労様です。一緒に頑張りましょう」なのであって、「おありがとうござい」では決してない。
ひとつの言葉に二つの読みがあって意味も違うということがあるが、仏教用語にも時々これがある。例えば、「大衆」は「だいしゅ」と読み、修行僧全般を指す。だから街で「大衆食堂」なんという看板を見ると、ふらふら入りたくなる。
ご存知のように、利益は「りやく」とも読んで、私達の方ではこちらの方が一般的だから、「来年度は8%程度の利益増が見込まれ・・」などという字面を見ると、思わず苦笑してしまう。
荘厳は「しょうごん」と呼んで、寺院内外の装飾、または装飾用品のこと。だから「荘厳ミサ曲」というと、「金襴で飾り立てられた本堂で行われる法要の音楽」を連想してしまう。
清浄は「しょうじょう」とも読んで、字義もあまり変わらないが、「空気清浄機」を「くうきしょうじょうき」と読むと、なにかしら有り難いような気がする。
同僚が「聖パウロ」を「しょうぱうろ」と読んだことがある、といっていたが、これはちょっと信じ難い。
文字の並べ方の問題だが、家出と出家では大いに意味が異なる。春先に上野駅の広場をウロウロしているのが家出で、同じ頃に福井駅の永平寺行き電車(注:2002年に廃線)の前でオロオロしているのが出家である。他にもいろいろ挙げられるが、専門的に過ぎるので割愛する。
以上、祖山安居症候群を面白おかしく並べ立ててみたが、実はこれはお山と世間のギャップのほんの一例に過ぎない。そして、このギャップは、時代が進むとともにますます大きくなって行くものと思われる。世間では忘れられてしまった考え方や習慣も、ここではそのまま温存されて行くからである。これらの中には、いつの世も尊い美風もあるが、偏見や因習もある。永平寺の修行は諸刃の剣だといわれる所以である。思うに、この様なギャップに対する感慨をどう処理するか、如何にそれを仏の行として自分のものとして行くかが、お山の修行の成否のカギであろう。
常に批判の眼で自分を見据えていたい。完璧なタテ社会の中で、上層に辿り着いた人間が、安易な方向に流されようと思えばいともたやすいことである。普通の社会からこの道に飛び込んだ人間として、このことは常に肝に銘じていたい。どうか自分で気のつかないうちに仏の道を踏み外している事のないように、と祈る祖山四度目の初夏である。
(平成3年5月寄稿)