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昨日、キャンパスの中央講堂で行われた太祖降誕会法要の際、一緒に両班をお勤め頂いた石井清純先生と少しお話ししましたが、その折、先生が明日(11月23日)からイタリアの普伝寺に赴かれるということを聞き、私も昔、短期間ながら普伝寺に掛搭したことを懐かしく思い出しました。石井先生には、普伝寺御住職の泰天・グアレスキ師によろしくお伝えくださるようお願いしました。
普伝寺のことをここに簡単に紹介したいと思いましたが、あれもこれも書きたくなるので、掛搭の翌年の平成4年(1992年)に私が大本山永平寺傘松会発行の月刊誌『傘松』に、『柳はヴェール 花はルージュ(欧州研修安居雑感)』と題して寄稿した4回連載の随筆の普伝寺に関わる部分を、長くなりますが全文転載したいと思います。24年前に書いた随筆ですが、読み返してみると、特に「おわりに」の部分は現在にそのままあてはまるところが多いように思われます。以下、読者諸氏のご参考になれば幸いです。
(画像は、普伝寺楞厳会満散円成後の記念写真。前列向かって右から二人目が泰天・グアレスキ師。私もさすがに若いな。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
柳はヴェール 花はルージュ -欧州研修安居雑感- (終)
ミラノ駅で
このミラノ中央駅は、駅舎というよりは、神殿か大劇場といった非常に雄大で荘重な門構えを持つ、北イタリアの交通の要衝である。その入口からホームに向かう、幅が広く長い階段の上り口近くに陣取って、もうかれこれ一時間近くになるが、普伝寺からの迎えの人はやって来ない。迎えに来てくれるというから手紙で日時を指定したのだが、何か不都合でもあったのだろうか。
その代わりに色々な人が私のところにやって来る。貧しい身なりの母子連れが、田舎に帰るからお金を恵んで欲しいといって来たり、バルセロナで知り合った日本人と偶然再会して挨拶を交わしたり、4人組の警官がゆっくりと近づいて来るから「お前は怪しいからこっちに来て貰う」とでもいうかと思ったら「マエストロ・ディ・カラーテ?(空手の先生?)」と聞いてきたり・・それでも待ち人は来たらず。仕方がないから自分で出向くことにした。
〈現在の著者注:私はこの行脚中、移動時には常に長作務衣を着ていたので、現地の人にはスキンヘッドの珍しい東洋人がますます珍しく見えたことでしょう。〉
フィデンツァの普伝寺
普伝寺に着いてわかったが、やはり2週間前にフランスから出した手紙が着いていなかったのだという。この程度の遅配はイタリアでは時々あるらしい。
普伝寺という寺号は、ミラノから南東へ100kmほどのところにあるここの地名、フィデンツァから来ているそうだ。堂頭の泰天・グアレスキ師はこの土地の人だが、3回もイタリア国内の柔道チャンピオンになったほどの武道家で、地元では名士のひとりに数えられている。
師の持論のひとつは「日本にあった仏教をヨーロッパに持ち込むにあたってなんらかのヨーロッパ的な適応があってもよいが、それが仏の教えを正しく護持して行く上で一番適当かどうかは判定が大変難しい。故に私はあえて形式の大きな変化は望まない」というもので、実際、普伝寺の威儀進退はヨーロッパの諸道場の中で最も日本のそれに近く、今なお接近しつつある。
そこへ優等生とは言い難いながらも、永平寺の現役の修行僧がのこのこお邪魔したものだから、日本の修行生活の生き字引(自分でいうと顔から火が出そうだが)ということで、随分よくして頂いた。それに答えて請われるままに、自分として出来る限りのことを手ほどきさせてもらったのだが、いやはややってみるとこれがなかなか難物だった。例えば・・・
楞厳会満散(りょうごんえまんさん)総監督
普伝寺では、6月から9月の長い期間にわたり、十日区切りの摂心が催されていた。一般の方にはお馴染みがないと思うが、禅の道場には夏冬3ヶ月ずつの結制期間というものが設けられていて、この間、綿密な修行に明け暮れる。普伝寺もこれに倣って摂心を90日間としたものである。
永平寺の夏期の制中(結制期間)は5月から8月だが、この3ヶ月を通して毎朝、楞厳呪(りょうごんしゅ)というお経が読誦される。その最初と最後の日は、このお経の読み始めと読み納めということで特別な法要が営まれるが、堂頭の泰天師は9月に摂心を終えるにあたり、永平寺に比べかなり小規模になるが、この読み納めの法要、「楞厳会満散」を催したいから指導してくれないか、と私に持ちかけられた。
さあ困った。永平寺でこの法要に随喜(参加)したことはあるものの、年に1回のことなのでうろ覚えだし、かなり大掛かりなものだから段取りも大変だ。ともかく、参加するのと指導するのとではわけが違う。しかし、泰天師たっての依頼である。また、これが実現すればヨーロッパ初の楞厳会になるという。結局、二つ返事で請け合うわけにはいかないが、当地の十数人の修行僧は皆意欲的で、私などよりよほど物覚えがいいということがわかってきたし、祖山の家風を少しでも多く伝える絶好の機会でもあると思い、少々無謀の感なきにしもあらずだが、これをお引き受けすることにした。
さて、引き受けたはいいが、具体的にはどう段取りしていくか。ここで日本から持参した総重量2.5kgの『祖山行法指南』がヨーロッパに来て初めて日の目を見るわけだが、この虎の巻だけでは問題は半分も解決しない。
何故かというと、第一にこちらの人達はこの法要の中心となる楞厳呪なるお経を読んだことがない。楞厳呪は修行僧の無病息災を祈って誦されるもので、サンスクリット語(インドの文語)を音写したお経、いわゆるダラニの一種である。音そのものに呪力があるという認識から、あえて翻訳されなかったのがダラニだから、読んでいても聞いていてもチンプンカンプンなのだが、これがまた永平寺の修行僧が早口で読んでも15分はかかるほど長い。
また、ローマ字訳本は、瑞応寺編集の良質の物が必要数取り寄せてあったのでこれを使うことにしたが、この日本風な読みぐせを初めから終わりまで指導しなければならない。「ナムサタンドースギャトーヤーオラコーチーサミャサフドーシャー・・」 日本人が読んでもイタリア人が読んでも意味がわからないという意味では条件は同じ(?)かも知れないが、ダラニをローマ字で読んでいると目がチラチラして来るし、たったひとりで、舌をかみそうなフレーズを何度も繰り返し間違えずにリードしていくのは骨が折れる。
第二に、法要中に二人の役僧によって朗読される疏(しょ)と呪心(しゅしん)という二つの文書の翻訳(和文英訳)を依頼されたということがある。法要の本番では日本語で読むが、この意味を知っておきたいというわけである。こちらの人は、法要の内容をよく理解した上で、口にされる言葉の意味を納得しないと練習にとりかかれない、というところがあるが、考えてみればこれは当然の話で、時として具体的な意味はさほど気にかけず、形式に流されがちな現代日本の法要の方が、あり方としては不徹底な面がある。
さて、この二つの文書は幸い行法指南に載っていたが、両方とも長い漢文で、しかも専門用語の羅列なので、まず日本語の現代語訳からしてままならない。実際、普通の修行僧でこの二つの文書をじっくり鑑賞してみたことのある人などまずあるまい。翻訳するにあたってこちらの道具立てといえば、簡単な日本語の仏教語事典と中英仏教語事典のみ。これで翻訳を試みるなどカマキリが戦車に立ち向かうようなものである。
それでも、「要約でいいから」という、脅迫にも似た励ましに押されてなんとかやってみた。粉骨砕身刻苦勉励艱難辛苦の末、はなはだ不完全ながら、どうにかこうにか意味をまとめて、なんとかかんとか内容をわかってもらうことに成功したように思えるが、私が訳し得たのは、いわば骨格標本のようなもので、それもスネの骨とアバラ骨をつけ違えていたりするかも知れない。
単語の解釈にもいろいろと苦労したが、例えば、呪心の最初に出てくる「悉怛多般怛羅(しったんたはんたら)(サンスクリット語のスィタータパトラの音訳)」が「白いパラソル」のことだったとは誰が知ろう。
さて、楞厳会満散の本番は、さすが堂頭が地元の名士だけあって100人余の招待客の見守る中、厳粛にとり行われたがその首尾は? 指導の方はともかくも、普伝寺のメンバーの根気強い熱心な稽古の結果、大成功であった(と私は思う)。
お経の音符
この他にも礼拝の仕方、鐘の撞き方、大擂(太鼓)の打ち方、掃除の仕方、行茶の作法、小参(問答)の作法、偈文(短い唱えごと)の読み方等々の指導、永平寺の鳴らしものや機構についての講義など、浅学も顧みず、よくまあ厚かましくもさせて頂いたものだが、中でも偈文の唱え方の指導をした時のことは心に残っている。
偈文の唱え方など、ローマ字通りに読めばそれで事足りるではないか、と思われるかも知れないが、なかなかそうはいかない。日本語とイタリア語は、発音のしかたが似ているとはいっても、音節の取り方が違うし、偈文は普通のお経と違ってゆっくり唱えるから、独特の間の取り方や節回しが必要になってくる。実際に何度か唱えて聞かせても、学習効果はいまひとつ。特にリズムというか、間の取りかたに苦心しているようだった。そこで一計を案じ、微妙な相違はこの際うっちゃって、リズムを音符に移し替えてみたら、みな嘘のようにすんなり出来るようになった。音楽は世界の言葉とは、なるほど至言である。
パスタの飯台
普伝寺の飯台(食事)は永平寺同様、応量器でとられるし、当地では苦心されるだろうに、献立も永平寺に準じたものが供される。朝は如法に米の粥に香菜(漬物)、胡麻塩である。昼も夕も白米のご飯に味噌汁、野菜の炒め物などが出されることが多いが、ご飯の代わりにいろいろなパスタが出ることがある。普伝寺の典座和尚には大変申し訳ないが、やはり風土と伝統の違いで、ご飯と味噌汁はあまり美味しくない。かたやパスタの美味しいことといったら!
年甲斐もなく食いしん坊でしかも麺喰い(?)の私は、パスタが出てくる度に頬がゆるむのを隠すのに苦労した。別にソースをかけてあるわけではなく、塩ゆでして軽く油をからめてあるだけなのだが、これが実に美味しい。二枚貝型や巻き貝型、細めのスパゲティーやマカロニ・・。目にも楽しい本場のパスタが、お寺にいながらにして食べられるとは。正直に告白するが、これは私にとって、摂心中の至福のひとときだった。
おわりに
2週間の滞在ののち、泰天師らに見送られて、私はボローニャ行きの列車に乗った。
この後、オーストリアを経て、ミュンヘンの直心庵、ボルドー近郊の南佛禅堂、ロンドンやグラスゴーの参禅会、果ては曹洞宗ボランティア会(著者注:現在の(公)シャンティ国際ボランティア会)バンコック事務所などを訪ね歩くわけだが、それらの報告は、また機会があったらさせて頂きたいと思っている。
総鉄道走行距離6000km、3ヶ月にわたるヨーロッパ訪問中、様々な人達と寝食をともにして坐禅に励むうち、実にいろいろなことを見聞し、考えさせられた。また、日本とは宗教的環境がまったく異なるこの地で、禅を宣揚し根付かせようと、それこそ命懸けで奮闘しておられる堂頭諸師の御苦労も、そばにいるだけでよくわかった。
なぜこれほどまでにヨーロッパで禅が求められているのか。ヨーロッパの総人口からみれば、まだほんの僅かに過ぎないが、十万単位の人々が禅に目を向けているのは何故か。
前にもふれたことがあるが、それは禅の持つ国際性と、人間疎外、環境破壊の時代である現代にも対応できる超時代性、すなわち普遍性のゆえであろう。矛盾を覆いきれなくなった従来の価値観に疑問を持ち、八方塞がりの現状の突破口を模索した人々が、禅をたまたま日本に発見し、これを選択するケースが増えてきているのである。日本文化に対する憧憬から、或いは東洋的なエキゾチシズムを求めて禅に興味を持つ、といった時代はとっくに過ぎている。
端的にいって、そこに「日本」は介在しなくてよい。外国人が禅に興味を持つのは日本が他国より優れているからだ、などと恐ろしく短絡的な解釈をし、ふんぞりかえりたがる人がいるが、これはもう救い難いとしかいいようがない。こういう人が一番禅から遠い。もともと禅は、インドで生まれ、中国で育まれた外来の教えではなかったか。
それに、禅は日本において八百年の歴史を重ねてきているかも知れないが、今現在、「日本が誇るもの」といえるほどに私達の生活に根付いているといえるだろうか。本来の禅は、道心堅固な人々の尽力によって、細々と命脈を保っているに過ぎないのではないか。より具体的にいえば、宗門の檀信徒の方々のうち、たまにでも坐禅を組まれる方がどれほどおられるか。道元禅師のみ教えに積極的に関わっていこうとなさる方が何人おられるか。申し上げにくいが、そもそもまず禅を宣揚すべき私達宗侶のうち、どれほどの方が、禅のいのちである坐禅にいそしんでおられるだろうか。「世事に忙殺されて」を言い訳に、何日も或いは何ヶ月も坐っておられない方が少なくないのではなかろうか。このような現状で、果たして「日本には禅が脈々と生きている」といった言い方が出来るだろうか・・・。疑問は次々に湧きおこり尽きることがない。
ヨーロッパの人々は、生まれ育った土地に仏教の伝統がない分だけ、かえって社会的な枠組みや固定観念に縛られず、純粋な姿勢で禅に取り組める可能性を持っている。私たちが、檀家制度を含む硬直化した伝統にしがみつき、坐禅を通して現在の生活に禅の教えを生かしていく努力を怠るならば、早晩「禅の本場」の立場は逆転するであろう。
気がついてみたら、私はヨーロッパによその事情を見聞に言ったのではなく、自分の姿を映しに言ったのだった。
今回の研修安居については、本山の役寮様方、受け入れ先の堂頭諸師、メンバーの皆さん、旅先で出会った方々、実に様々な人々にお世話になりました。ここに心から感謝を捧げます。(終)
(本山雲衲・国際部接司)
普伝寺のことをここに簡単に紹介したいと思いましたが、あれもこれも書きたくなるので、掛搭の翌年の平成4年(1992年)に私が大本山永平寺傘松会発行の月刊誌『傘松』に、『柳はヴェール 花はルージュ(欧州研修安居雑感)』と題して寄稿した4回連載の随筆の普伝寺に関わる部分を、長くなりますが全文転載したいと思います。24年前に書いた随筆ですが、読み返してみると、特に「おわりに」の部分は現在にそのままあてはまるところが多いように思われます。以下、読者諸氏のご参考になれば幸いです。
(画像は、普伝寺楞厳会満散円成後の記念写真。前列向かって右から二人目が泰天・グアレスキ師。私もさすがに若いな。)
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柳はヴェール 花はルージュ -欧州研修安居雑感- (終)
ミラノ駅で
このミラノ中央駅は、駅舎というよりは、神殿か大劇場といった非常に雄大で荘重な門構えを持つ、北イタリアの交通の要衝である。その入口からホームに向かう、幅が広く長い階段の上り口近くに陣取って、もうかれこれ一時間近くになるが、普伝寺からの迎えの人はやって来ない。迎えに来てくれるというから手紙で日時を指定したのだが、何か不都合でもあったのだろうか。
その代わりに色々な人が私のところにやって来る。貧しい身なりの母子連れが、田舎に帰るからお金を恵んで欲しいといって来たり、バルセロナで知り合った日本人と偶然再会して挨拶を交わしたり、4人組の警官がゆっくりと近づいて来るから「お前は怪しいからこっちに来て貰う」とでもいうかと思ったら「マエストロ・ディ・カラーテ?(空手の先生?)」と聞いてきたり・・それでも待ち人は来たらず。仕方がないから自分で出向くことにした。
〈現在の著者注:私はこの行脚中、移動時には常に長作務衣を着ていたので、現地の人にはスキンヘッドの珍しい東洋人がますます珍しく見えたことでしょう。〉
フィデンツァの普伝寺
普伝寺に着いてわかったが、やはり2週間前にフランスから出した手紙が着いていなかったのだという。この程度の遅配はイタリアでは時々あるらしい。
普伝寺という寺号は、ミラノから南東へ100kmほどのところにあるここの地名、フィデンツァから来ているそうだ。堂頭の泰天・グアレスキ師はこの土地の人だが、3回もイタリア国内の柔道チャンピオンになったほどの武道家で、地元では名士のひとりに数えられている。
師の持論のひとつは「日本にあった仏教をヨーロッパに持ち込むにあたってなんらかのヨーロッパ的な適応があってもよいが、それが仏の教えを正しく護持して行く上で一番適当かどうかは判定が大変難しい。故に私はあえて形式の大きな変化は望まない」というもので、実際、普伝寺の威儀進退はヨーロッパの諸道場の中で最も日本のそれに近く、今なお接近しつつある。
そこへ優等生とは言い難いながらも、永平寺の現役の修行僧がのこのこお邪魔したものだから、日本の修行生活の生き字引(自分でいうと顔から火が出そうだが)ということで、随分よくして頂いた。それに答えて請われるままに、自分として出来る限りのことを手ほどきさせてもらったのだが、いやはややってみるとこれがなかなか難物だった。例えば・・・
楞厳会満散(りょうごんえまんさん)総監督
普伝寺では、6月から9月の長い期間にわたり、十日区切りの摂心が催されていた。一般の方にはお馴染みがないと思うが、禅の道場には夏冬3ヶ月ずつの結制期間というものが設けられていて、この間、綿密な修行に明け暮れる。普伝寺もこれに倣って摂心を90日間としたものである。
永平寺の夏期の制中(結制期間)は5月から8月だが、この3ヶ月を通して毎朝、楞厳呪(りょうごんしゅ)というお経が読誦される。その最初と最後の日は、このお経の読み始めと読み納めということで特別な法要が営まれるが、堂頭の泰天師は9月に摂心を終えるにあたり、永平寺に比べかなり小規模になるが、この読み納めの法要、「楞厳会満散」を催したいから指導してくれないか、と私に持ちかけられた。
さあ困った。永平寺でこの法要に随喜(参加)したことはあるものの、年に1回のことなのでうろ覚えだし、かなり大掛かりなものだから段取りも大変だ。ともかく、参加するのと指導するのとではわけが違う。しかし、泰天師たっての依頼である。また、これが実現すればヨーロッパ初の楞厳会になるという。結局、二つ返事で請け合うわけにはいかないが、当地の十数人の修行僧は皆意欲的で、私などよりよほど物覚えがいいということがわかってきたし、祖山の家風を少しでも多く伝える絶好の機会でもあると思い、少々無謀の感なきにしもあらずだが、これをお引き受けすることにした。
さて、引き受けたはいいが、具体的にはどう段取りしていくか。ここで日本から持参した総重量2.5kgの『祖山行法指南』がヨーロッパに来て初めて日の目を見るわけだが、この虎の巻だけでは問題は半分も解決しない。
何故かというと、第一にこちらの人達はこの法要の中心となる楞厳呪なるお経を読んだことがない。楞厳呪は修行僧の無病息災を祈って誦されるもので、サンスクリット語(インドの文語)を音写したお経、いわゆるダラニの一種である。音そのものに呪力があるという認識から、あえて翻訳されなかったのがダラニだから、読んでいても聞いていてもチンプンカンプンなのだが、これがまた永平寺の修行僧が早口で読んでも15分はかかるほど長い。
また、ローマ字訳本は、瑞応寺編集の良質の物が必要数取り寄せてあったのでこれを使うことにしたが、この日本風な読みぐせを初めから終わりまで指導しなければならない。「ナムサタンドースギャトーヤーオラコーチーサミャサフドーシャー・・」 日本人が読んでもイタリア人が読んでも意味がわからないという意味では条件は同じ(?)かも知れないが、ダラニをローマ字で読んでいると目がチラチラして来るし、たったひとりで、舌をかみそうなフレーズを何度も繰り返し間違えずにリードしていくのは骨が折れる。
第二に、法要中に二人の役僧によって朗読される疏(しょ)と呪心(しゅしん)という二つの文書の翻訳(和文英訳)を依頼されたということがある。法要の本番では日本語で読むが、この意味を知っておきたいというわけである。こちらの人は、法要の内容をよく理解した上で、口にされる言葉の意味を納得しないと練習にとりかかれない、というところがあるが、考えてみればこれは当然の話で、時として具体的な意味はさほど気にかけず、形式に流されがちな現代日本の法要の方が、あり方としては不徹底な面がある。
さて、この二つの文書は幸い行法指南に載っていたが、両方とも長い漢文で、しかも専門用語の羅列なので、まず日本語の現代語訳からしてままならない。実際、普通の修行僧でこの二つの文書をじっくり鑑賞してみたことのある人などまずあるまい。翻訳するにあたってこちらの道具立てといえば、簡単な日本語の仏教語事典と中英仏教語事典のみ。これで翻訳を試みるなどカマキリが戦車に立ち向かうようなものである。
それでも、「要約でいいから」という、脅迫にも似た励ましに押されてなんとかやってみた。粉骨砕身刻苦勉励艱難辛苦の末、はなはだ不完全ながら、どうにかこうにか意味をまとめて、なんとかかんとか内容をわかってもらうことに成功したように思えるが、私が訳し得たのは、いわば骨格標本のようなもので、それもスネの骨とアバラ骨をつけ違えていたりするかも知れない。
単語の解釈にもいろいろと苦労したが、例えば、呪心の最初に出てくる「悉怛多般怛羅(しったんたはんたら)(サンスクリット語のスィタータパトラの音訳)」が「白いパラソル」のことだったとは誰が知ろう。
さて、楞厳会満散の本番は、さすが堂頭が地元の名士だけあって100人余の招待客の見守る中、厳粛にとり行われたがその首尾は? 指導の方はともかくも、普伝寺のメンバーの根気強い熱心な稽古の結果、大成功であった(と私は思う)。
お経の音符
この他にも礼拝の仕方、鐘の撞き方、大擂(太鼓)の打ち方、掃除の仕方、行茶の作法、小参(問答)の作法、偈文(短い唱えごと)の読み方等々の指導、永平寺の鳴らしものや機構についての講義など、浅学も顧みず、よくまあ厚かましくもさせて頂いたものだが、中でも偈文の唱え方の指導をした時のことは心に残っている。
偈文の唱え方など、ローマ字通りに読めばそれで事足りるではないか、と思われるかも知れないが、なかなかそうはいかない。日本語とイタリア語は、発音のしかたが似ているとはいっても、音節の取り方が違うし、偈文は普通のお経と違ってゆっくり唱えるから、独特の間の取り方や節回しが必要になってくる。実際に何度か唱えて聞かせても、学習効果はいまひとつ。特にリズムというか、間の取りかたに苦心しているようだった。そこで一計を案じ、微妙な相違はこの際うっちゃって、リズムを音符に移し替えてみたら、みな嘘のようにすんなり出来るようになった。音楽は世界の言葉とは、なるほど至言である。
パスタの飯台
普伝寺の飯台(食事)は永平寺同様、応量器でとられるし、当地では苦心されるだろうに、献立も永平寺に準じたものが供される。朝は如法に米の粥に香菜(漬物)、胡麻塩である。昼も夕も白米のご飯に味噌汁、野菜の炒め物などが出されることが多いが、ご飯の代わりにいろいろなパスタが出ることがある。普伝寺の典座和尚には大変申し訳ないが、やはり風土と伝統の違いで、ご飯と味噌汁はあまり美味しくない。かたやパスタの美味しいことといったら!
年甲斐もなく食いしん坊でしかも麺喰い(?)の私は、パスタが出てくる度に頬がゆるむのを隠すのに苦労した。別にソースをかけてあるわけではなく、塩ゆでして軽く油をからめてあるだけなのだが、これが実に美味しい。二枚貝型や巻き貝型、細めのスパゲティーやマカロニ・・。目にも楽しい本場のパスタが、お寺にいながらにして食べられるとは。正直に告白するが、これは私にとって、摂心中の至福のひとときだった。
おわりに
2週間の滞在ののち、泰天師らに見送られて、私はボローニャ行きの列車に乗った。
この後、オーストリアを経て、ミュンヘンの直心庵、ボルドー近郊の南佛禅堂、ロンドンやグラスゴーの参禅会、果ては曹洞宗ボランティア会(著者注:現在の(公)シャンティ国際ボランティア会)バンコック事務所などを訪ね歩くわけだが、それらの報告は、また機会があったらさせて頂きたいと思っている。
総鉄道走行距離6000km、3ヶ月にわたるヨーロッパ訪問中、様々な人達と寝食をともにして坐禅に励むうち、実にいろいろなことを見聞し、考えさせられた。また、日本とは宗教的環境がまったく異なるこの地で、禅を宣揚し根付かせようと、それこそ命懸けで奮闘しておられる堂頭諸師の御苦労も、そばにいるだけでよくわかった。
なぜこれほどまでにヨーロッパで禅が求められているのか。ヨーロッパの総人口からみれば、まだほんの僅かに過ぎないが、十万単位の人々が禅に目を向けているのは何故か。
前にもふれたことがあるが、それは禅の持つ国際性と、人間疎外、環境破壊の時代である現代にも対応できる超時代性、すなわち普遍性のゆえであろう。矛盾を覆いきれなくなった従来の価値観に疑問を持ち、八方塞がりの現状の突破口を模索した人々が、禅をたまたま日本に発見し、これを選択するケースが増えてきているのである。日本文化に対する憧憬から、或いは東洋的なエキゾチシズムを求めて禅に興味を持つ、といった時代はとっくに過ぎている。
端的にいって、そこに「日本」は介在しなくてよい。外国人が禅に興味を持つのは日本が他国より優れているからだ、などと恐ろしく短絡的な解釈をし、ふんぞりかえりたがる人がいるが、これはもう救い難いとしかいいようがない。こういう人が一番禅から遠い。もともと禅は、インドで生まれ、中国で育まれた外来の教えではなかったか。
それに、禅は日本において八百年の歴史を重ねてきているかも知れないが、今現在、「日本が誇るもの」といえるほどに私達の生活に根付いているといえるだろうか。本来の禅は、道心堅固な人々の尽力によって、細々と命脈を保っているに過ぎないのではないか。より具体的にいえば、宗門の檀信徒の方々のうち、たまにでも坐禅を組まれる方がどれほどおられるか。道元禅師のみ教えに積極的に関わっていこうとなさる方が何人おられるか。申し上げにくいが、そもそもまず禅を宣揚すべき私達宗侶のうち、どれほどの方が、禅のいのちである坐禅にいそしんでおられるだろうか。「世事に忙殺されて」を言い訳に、何日も或いは何ヶ月も坐っておられない方が少なくないのではなかろうか。このような現状で、果たして「日本には禅が脈々と生きている」といった言い方が出来るだろうか・・・。疑問は次々に湧きおこり尽きることがない。
ヨーロッパの人々は、生まれ育った土地に仏教の伝統がない分だけ、かえって社会的な枠組みや固定観念に縛られず、純粋な姿勢で禅に取り組める可能性を持っている。私たちが、檀家制度を含む硬直化した伝統にしがみつき、坐禅を通して現在の生活に禅の教えを生かしていく努力を怠るならば、早晩「禅の本場」の立場は逆転するであろう。
気がついてみたら、私はヨーロッパによその事情を見聞に言ったのではなく、自分の姿を映しに言ったのだった。
今回の研修安居については、本山の役寮様方、受け入れ先の堂頭諸師、メンバーの皆さん、旅先で出会った方々、実に様々な人々にお世話になりました。ここに心から感謝を捧げます。(終)
(本山雲衲・国際部接司)