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〈写真はバンコクの街角でよく見かける精霊(ピー)の祠『プラプーム』 Seasons様から借用〉
これもまた昔の文章。永平寺安居1年目の秋に、依頼を頂いて『傘松』昭和64年1月号に寄稿した、その前年にタイ北部をトレッキングした際の紀行文だから、この旅はもう30年前のことになる。文の題材は自由とのことだったが、『傘松』誌だったので、一応タイの仏教に絡めてこのことを書いてみた。
私も若い頃は、北米、南米、インド、東南アジア、ヨーロッパなどに、よく一人で出かけて行ったものだ。寮生諸君にも外国への一人旅を勧めたい。パッケージツアーも悪くはない。友人と連れだっての旅行もいいだろう。しかし、旅行中の行動の全責任が自分のみにかかる一人旅が、若い男の旅の形としてもっともふさわしい。外国に孤立無援でいることの緊張感、道を自分で切り開くことの達成感は、成長の大きな糧となる。ただし、いたずらにリスクのかかることはしないこと。
言葉は、片言の英語ができればよろしい。当然、片言では苦労するが、外国で、なんとか意志の疎通を図ろうとすることは、コミュニケーションの力を鍛えるのにもうってつけだ。南米や東南アジアの田舎では、住民に英語がまったく通じないこともよくあるが、窮すれば通ずという。行った先でビジネスを始めようというわけではない。観光旅行ならなんとかなる。
意あれば、法務実習などで金を貯めて、春季休暇、夏季休暇などの機会に、一度でいいから一人旅を敢行してみるといい。思えば、道元禅師も数えで24の年に、求法のために渡宋されたのだ。百尺竿頭進一歩。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
精霊(ピー)のいる風景
もし人間が南方志向と北方志向に分けられるとするならば、間違いなく私は南方志向である。南の方がのどかでいい、とか、潤沢な自然がある、強烈な色彩が楽しめる、といったリゾート的要素の故ではない。また、ゴーギャンやモームのように、エキゾチシズムに触発されて、という訳でもない。なにかもっと根源的に私を惹きつけて離さない何ものかが南にはある。私にとって南の国々は、楽しめるというよりは落ち着けるところであり、その風景には一種の郷愁さえ覚える。或いは私の遺伝子には、祖先の記憶がこびりついているのかも知れない。
実際、風貌も自分では南方系のものだと思っている。日焼けした時など、現地の人に現地語で道を尋ねられたり、外国人をよく見知っているはずのスチュワーデス(注:CAのこと)が、何のためらいもなく南の言葉で話しかけてきたりしたことも一度や二度でない。中には、東洋人というもの自体をよく知らないのか、「私は日本人だ」というと、「いや、そんな筈はない」と、やけに自信をもって反駁する人もある。
中国の雲南省、フィリピンのルソン島、或いは遠くポリネシアの島からか、ともかく私のご先祖様には、少なくとも一人は南から来た人がいたに違いない、と近頃よく思う。
さて、その「懐かしのわが」南の王国、タイはバンコックのドンムアン空港(注:現在の国際空港はスワンナプーム空港)に昨年春、私は5年ぶりに降り立った。バンコックには通過旅客としては何度か降りたことはあったが、いずれも翌朝の飛行機に乗り継ぐために一泊するだけの短い滞在だった。しかし今回は、タイを歩くための旅である。観光旅行には違いないが、寺院巡りと北部山岳民族の村々を泊まり歩くことがこの旅の目的だった。
10年前に初めてタイを訪れた折には為替レートが1バーツ10円だったが、今回来てみると6円になっていた(注:2017年10月現在は約3.4円)。周りを見渡せば日本製品の洪水、対日輸入超過は素人目にも明らかで、円の強いのもむべなるかな、反日運動はその後どうなっているのか、などとぼんやり考えつつ第一夜目のバンコックの商店街を歩いていると、ひとりの物乞いの女性が目に止まった。合掌長跪をして視線を落とし、前に箱を置いたこの女性、よく見ると年格好や表情が私の母にうり二つ、とまでは行かないまでも、カナブンとコガネムシくらいには似ていた。
思わぬところでまた出自の証明がなされたものだわい、と思いつつ、情にほだされた私は、彼女に対して小さな貿易不均衡の是正を実施した。彼女は低頭をして、「コォプクン・カ」と呟いた。「コォプクン」は「ありがとう」、「カ」は女性の使うていねい表現である。聞き慣れると実に優雅に響く。
後日、この話を母にしたところ、母は「おゝ息子よ。おまえはそれほどまでに私のことを・・」とでもいいつつ泣き崩れるかと思いきや、「あら、私にもくれなさいよ。」とのたもうた。カナブンに感傷を期待した私が愚かであった。私はしかし、母のこのデリカシーのなさが好きである。
バンコック、現地名クルンテープの街を歩いていると、至るところにプラプームというものを見かける。これは、高さ1m半ほどの柱の上に台を取り付け、そこに寺院のミニチュアを置いたもので、一様に白く塗られているものが多い。寺院の形をしているので、当然、中には釈迦牟尼仏が祀られているかと思えばさにあらず。その土地、またはその家に住む精霊(ピー)を祀ったものである。台の上には食べ物、花、香、象の木彫りなどの供え物が絶えない。
タイはいわずと知れた仏教国だが、庶民の間には、仏教招来以前からの精霊信仰が、宗教的基層として厳然として存在し続けている。ただしこれは、はっきりと仏教の下部概念として認識されていて、我が国におけるような権現信仰や神仏習合といった現象は見られないようである。ついでにいえば、王室、及び支配階層の統治原理は、15世紀頃に隣国のクメール王国から輸入されたバラモン教の教理に支えられており、この意味でタイの宗教は、精霊信仰、仏教、バラモン教という三つの要素から成り立っているといえる。
さて、庶民の側から見て、精霊信仰と仏教とはどのように共存しているのだろうか。
精霊(ピー)と一口にいっても、前述の土地神を含め、善霊、悪霊、直接人間とは関わりを持たない中間的な存在等、様々な種類がある。そのピーの性格に応じて、人々は供物を捧げて願い事をしたり、タブーを設けて怒りに触れぬようにしたりする。その信仰は、日々の生活を安泰に送るための現世利益的なものといってよい。
これに対して、仏教にはどういう位置づけが成されているか。周知の通り、南方上座部仏教においては、涅槃に至ることのできるのは僧侶のみであって、凡夫はその埒外にある。決して仏陀になることのできない庶民の関心は、よりよき現世・来世の構築にあり、その為に彼らは「タン・ブン」、すなわちサンガ(僧団)に対して様々な喜捨をする。サンガはそれに応じて、施主にブン(功徳)を与える。ブンを授けてくれるサンガの最大の擁護者は国王であり、ここに国王とサンガと国民の図式ができあがる。このように、精霊信仰、仏教ともに、庶民にとっては現世利益を得るための信仰という色彩が濃いが、後者の方が、前者に対してより抽象的で高次なもの、優位のものと受け取られている。
共存しているとはいえ、都市部から農村部へ行くに従って、システマティックな仏教色が次第に薄まり、土地の自然に密着したアニミズムの世界が開けてくる。特に北方国境周辺の山岳民族の集落は、仏教の教化が進んでいるとはいっても、いまだにその範囲外であるところが多い。今回の旅では、それらの人々の生活、とりわけ信仰の一端にでも触れられれば、と思い、陸路で北の都チェンマイに赴いた。
村々を渡り歩くといっても、単独行というわけにはいかない。猛獣はいないといわれるが、西も東もわからぬジャングルに分け入るわけで、おまけに共産ゲリラの名所ときては、一人で行くなど自殺行為である。そこで、現地募集のトレッキングツアーに参加することにした。
ツアーのメンバーは、カナダ人の夫妻、デンマークの学生、ニュージーランドの学生、私、タイ人のガイドの6人である。
まず、チェンマイ中心部から日本製の1トントラックに乗って北へ3時間、そこから更に3時間山道を歩き、モン族の村に着いた。口でいうのは簡単だが、私は当時、達磨さんの起き上がり小法師に手足をつけたような体型だったから(注:今もそうだがね)、祖山の白山拝登同様、大いに消耗した。着いた先は二十数戸の集落で、建物はすべて高床式。有り体にいって皆ボロボロで、私たちの泊めてもらった宿舎も例外ではなく、床板の隙間から地面が見えていてなかなか風通しがいい。
食事の時間まで、特にすることもなかったので、村の中をブラブラしてみた。女性と子供は、黒い厚手の生地に刺繍を入れた衣裳を着ていたが、男たちは思い思いの格好をしているようだった。私たちが来たからといってどうということもなく、皆、屈託のない笑顔で話に興じていた。彼らはどんな仕事をしているのか、ガイドのぺぺに聞いてみると、「焼き畑だよ。午前中、4時間くらい働く。」との返事に、「たった4時間!」と思ったが、いいや待てよ、と思い返した。
私もかつては会社員で、朝7時に会社の寮を出て、その日のうちには帰り着けない、といった生活を続けたものだが、だからといって「たった・・」と思うのはこちらの勝手で、この人たちにとっては大きなお世話なのだ。森の精霊たちに見守られて悠々と生きるこの人たちと、コンクリートジャングルの中で汲々として日々を送る都会人の、労働に関する価値観を比較することにはまるで意味がない。
翌朝は真っ暗なうちから目が覚めた。いや、起こされた。電気もランプもない村なので、時計を見ようとて腕をかざしても辺りは真の闇、何時かはわからなかったが、雄鶏が一声鳴くや、村中の家畜が合唱を始めたのである。庭先では犬が吠えるわ、我々が寝ている床下を豚が鳴きながら走り回るわで、祖山の振鈴どころの騒ぎでない。明るくなってから「今朝はうるさかったね」とニュージーランドのマイクに言ったら、「そうだね、でもあんたのいびきほどじゃない。」と言われて、面目丸つぶれになった。
洗面をしようとて、デンマークのペーターと井戸へ行き、水を引っ張り上げて顔を洗っていたら、10歳くらいの女の子が飛んで来て、なにか憤慨した様子でまくしたてている。何がなんだかわからなくて呆気にとられていると、その子は唾を吐いて行ってしまった。後で聞いてみると、その井戸の水は飲用以外に使うことがタブーだったそうで、私たちはピーに悪いことをしたらしかった。しまった、と思っても後の祭である。
朝食を終えて、今度は象を使うことで有名なカレン族の村へ向けて出発した。途中、山あり谷あり林ありで、また3時間ほど炎天下を歩くと、森の開けたところに集落が見えた。10戸ほどの小さな村である。ここから私たちは、なんと象の背に乗って次なる村へと進んだ。楽だったかというとそうでもない。速さは人間が歩くのとそう変わらないし、こちらの顔面を木の枝が直撃しても象は知らん顔で進むし、たて揺れが激しく、下り坂など鞍にしがみついているのが精一杯で、降りて歩いた方が余程よかったようである。
今度の村は20戸ほどで、子供が沢山いた。私は村の子供たちへの土産にしようと、素朴な日本のおもちゃ(紙風船やおはじき、ビー玉など)を持って来ていた。一度に殺到されても困るので、男の子を一人こっそり呼んで、紙風船をやった。ふくらませてやると、彼は破顔一笑してそれを持って走り去った。見るともなくその行方を目で追っていると、他の子供たちとの間でその取り合いが始まった。ものが紙だけに、もみくちゃにされて簡単に引き裂かれてしまう。
これはうまくないな、と思うが早いか、子供達は当然私のところに駆け寄って来る。喧嘩をするくらいならもうやらない、という意味のジェスチャーをしたつもりだったが、今度は彼らはツアーのメンバーたちの方へ駆けて行き、あれをくれ、と言っているようだった。
ここに至って、私は己の浅はかさに気がついた。一体私のしようとしたことは何だ。サンタクロースにでもなったつもりで、子供たちに施しものをして、その場だけ自分がいい気になろうとしていたのだ。子供は珍しいものを欲しがる。あればあるだけ欲しがる。今ここで私が物を与えれば、私が去った後も、外国人と見れば物をねだるようなあさましい習慣が身につかないとも限らない。既にもう手遅れだとしても、それを助長することはない。
何もここは、たった今、一缶の粉ミルクが必要だというような難民キャンプのような場所ではない。たしかに私たちから見ればつましい暮らしだが、村人の顔には笑みがある。ひとりのよそ者の思い上がりから村の誇りを傷つけるようなことは慎むべきだろう。本当にこの人たちのことを思うなら、学校に通えないこの子たちに教育を与える、といった根本的なところから手をつけて行かねばなるまい。SVA(曹洞宗ボランティア会)(注:現在のシャンティ国際ボランティア会の前身)のような開発協力団体の活動に期待されるところ大である。日本から持って行ったおもちゃは結局ほとんど持ち帰って来たが、母が全部取ってしまった。
夕方になって、皆で村のおばさんの心づくしの料理(野菜の炒め物)を頂いていると、外から子供達の歓声が聞こえてきた。2メートルほどの高床の家の窓から外を見ると、村のはずれの方で焼き畑をしているのだった。かなり火は燃え広がっている。煙は夜空に舞い上がる。轟々と燃え上がる炎に、人々の顔が赤く照らし出される。初めて見る光景のはずなのに、たしかにどこかで見たような気がする。或いは私が生を享ける以前の記憶なのかも知れない。
例によって、この村にも電気はなく、水道はなく、便所もなかったが、ランプはあった。焼き畑の火がおさまってから暫くすると、近くの家に三々五々、村の人たちが集まって来て、ランプを囲んで酒盛りが始まった。私たちも仲間に入れて貰って地酒をふるまわれたが、全く言葉が通じなくても雰囲気が出来上がって、それなりの宴会になってしまうのは不思議である。
翌朝、お世話になった家の人に別れを告げ、私たちは次なる村に向かうべく、村の裏の川につないであった二艘の筏に乗り込んだ。竹をつないで作った長さ4メートル、幅1メートルほどの、私たちのための特製品で、漕ぎ手は無論私たち自身である。こんな頼りないもので大丈夫かと、一同不安の表情を隠せなかったが、途中、2回転覆、2回座礁、1回竹の間に足を突っ込んで抜けなくなり、履き物を流されたことを除けば(これだけアクシデントがあれば充分だが)、極めて順調な4時間の航行であった。
疲労困憊の私たちの着いた先は、幾分文明の香りのするシャン族の村で、ここに一泊して私たちのトレッキングは無事終わった。村の人達、そして精霊(ピー)たちに深く感謝する。この後の寺院巡りについても申し添えたいが、如何せん紙面が足りない。
短い旅ではあったが、なかなか示唆に富むものであった。機会があれば、また何度でも訪れたいと思う。この衝動も、一種の帰巣本能によるものだろうか。
(「傘松」昭和64年1月号に寄稿)
これもまた昔の文章。永平寺安居1年目の秋に、依頼を頂いて『傘松』昭和64年1月号に寄稿した、その前年にタイ北部をトレッキングした際の紀行文だから、この旅はもう30年前のことになる。文の題材は自由とのことだったが、『傘松』誌だったので、一応タイの仏教に絡めてこのことを書いてみた。
私も若い頃は、北米、南米、インド、東南アジア、ヨーロッパなどに、よく一人で出かけて行ったものだ。寮生諸君にも外国への一人旅を勧めたい。パッケージツアーも悪くはない。友人と連れだっての旅行もいいだろう。しかし、旅行中の行動の全責任が自分のみにかかる一人旅が、若い男の旅の形としてもっともふさわしい。外国に孤立無援でいることの緊張感、道を自分で切り開くことの達成感は、成長の大きな糧となる。ただし、いたずらにリスクのかかることはしないこと。
言葉は、片言の英語ができればよろしい。当然、片言では苦労するが、外国で、なんとか意志の疎通を図ろうとすることは、コミュニケーションの力を鍛えるのにもうってつけだ。南米や東南アジアの田舎では、住民に英語がまったく通じないこともよくあるが、窮すれば通ずという。行った先でビジネスを始めようというわけではない。観光旅行ならなんとかなる。
意あれば、法務実習などで金を貯めて、春季休暇、夏季休暇などの機会に、一度でいいから一人旅を敢行してみるといい。思えば、道元禅師も数えで24の年に、求法のために渡宋されたのだ。百尺竿頭進一歩。
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精霊(ピー)のいる風景
もし人間が南方志向と北方志向に分けられるとするならば、間違いなく私は南方志向である。南の方がのどかでいい、とか、潤沢な自然がある、強烈な色彩が楽しめる、といったリゾート的要素の故ではない。また、ゴーギャンやモームのように、エキゾチシズムに触発されて、という訳でもない。なにかもっと根源的に私を惹きつけて離さない何ものかが南にはある。私にとって南の国々は、楽しめるというよりは落ち着けるところであり、その風景には一種の郷愁さえ覚える。或いは私の遺伝子には、祖先の記憶がこびりついているのかも知れない。
実際、風貌も自分では南方系のものだと思っている。日焼けした時など、現地の人に現地語で道を尋ねられたり、外国人をよく見知っているはずのスチュワーデス(注:CAのこと)が、何のためらいもなく南の言葉で話しかけてきたりしたことも一度や二度でない。中には、東洋人というもの自体をよく知らないのか、「私は日本人だ」というと、「いや、そんな筈はない」と、やけに自信をもって反駁する人もある。
中国の雲南省、フィリピンのルソン島、或いは遠くポリネシアの島からか、ともかく私のご先祖様には、少なくとも一人は南から来た人がいたに違いない、と近頃よく思う。
さて、その「懐かしのわが」南の王国、タイはバンコックのドンムアン空港(注:現在の国際空港はスワンナプーム空港)に昨年春、私は5年ぶりに降り立った。バンコックには通過旅客としては何度か降りたことはあったが、いずれも翌朝の飛行機に乗り継ぐために一泊するだけの短い滞在だった。しかし今回は、タイを歩くための旅である。観光旅行には違いないが、寺院巡りと北部山岳民族の村々を泊まり歩くことがこの旅の目的だった。
10年前に初めてタイを訪れた折には為替レートが1バーツ10円だったが、今回来てみると6円になっていた(注:2017年10月現在は約3.4円)。周りを見渡せば日本製品の洪水、対日輸入超過は素人目にも明らかで、円の強いのもむべなるかな、反日運動はその後どうなっているのか、などとぼんやり考えつつ第一夜目のバンコックの商店街を歩いていると、ひとりの物乞いの女性が目に止まった。合掌長跪をして視線を落とし、前に箱を置いたこの女性、よく見ると年格好や表情が私の母にうり二つ、とまでは行かないまでも、カナブンとコガネムシくらいには似ていた。
思わぬところでまた出自の証明がなされたものだわい、と思いつつ、情にほだされた私は、彼女に対して小さな貿易不均衡の是正を実施した。彼女は低頭をして、「コォプクン・カ」と呟いた。「コォプクン」は「ありがとう」、「カ」は女性の使うていねい表現である。聞き慣れると実に優雅に響く。
後日、この話を母にしたところ、母は「おゝ息子よ。おまえはそれほどまでに私のことを・・」とでもいいつつ泣き崩れるかと思いきや、「あら、私にもくれなさいよ。」とのたもうた。カナブンに感傷を期待した私が愚かであった。私はしかし、母のこのデリカシーのなさが好きである。
バンコック、現地名クルンテープの街を歩いていると、至るところにプラプームというものを見かける。これは、高さ1m半ほどの柱の上に台を取り付け、そこに寺院のミニチュアを置いたもので、一様に白く塗られているものが多い。寺院の形をしているので、当然、中には釈迦牟尼仏が祀られているかと思えばさにあらず。その土地、またはその家に住む精霊(ピー)を祀ったものである。台の上には食べ物、花、香、象の木彫りなどの供え物が絶えない。
タイはいわずと知れた仏教国だが、庶民の間には、仏教招来以前からの精霊信仰が、宗教的基層として厳然として存在し続けている。ただしこれは、はっきりと仏教の下部概念として認識されていて、我が国におけるような権現信仰や神仏習合といった現象は見られないようである。ついでにいえば、王室、及び支配階層の統治原理は、15世紀頃に隣国のクメール王国から輸入されたバラモン教の教理に支えられており、この意味でタイの宗教は、精霊信仰、仏教、バラモン教という三つの要素から成り立っているといえる。
さて、庶民の側から見て、精霊信仰と仏教とはどのように共存しているのだろうか。
精霊(ピー)と一口にいっても、前述の土地神を含め、善霊、悪霊、直接人間とは関わりを持たない中間的な存在等、様々な種類がある。そのピーの性格に応じて、人々は供物を捧げて願い事をしたり、タブーを設けて怒りに触れぬようにしたりする。その信仰は、日々の生活を安泰に送るための現世利益的なものといってよい。
これに対して、仏教にはどういう位置づけが成されているか。周知の通り、南方上座部仏教においては、涅槃に至ることのできるのは僧侶のみであって、凡夫はその埒外にある。決して仏陀になることのできない庶民の関心は、よりよき現世・来世の構築にあり、その為に彼らは「タン・ブン」、すなわちサンガ(僧団)に対して様々な喜捨をする。サンガはそれに応じて、施主にブン(功徳)を与える。ブンを授けてくれるサンガの最大の擁護者は国王であり、ここに国王とサンガと国民の図式ができあがる。このように、精霊信仰、仏教ともに、庶民にとっては現世利益を得るための信仰という色彩が濃いが、後者の方が、前者に対してより抽象的で高次なもの、優位のものと受け取られている。
共存しているとはいえ、都市部から農村部へ行くに従って、システマティックな仏教色が次第に薄まり、土地の自然に密着したアニミズムの世界が開けてくる。特に北方国境周辺の山岳民族の集落は、仏教の教化が進んでいるとはいっても、いまだにその範囲外であるところが多い。今回の旅では、それらの人々の生活、とりわけ信仰の一端にでも触れられれば、と思い、陸路で北の都チェンマイに赴いた。
村々を渡り歩くといっても、単独行というわけにはいかない。猛獣はいないといわれるが、西も東もわからぬジャングルに分け入るわけで、おまけに共産ゲリラの名所ときては、一人で行くなど自殺行為である。そこで、現地募集のトレッキングツアーに参加することにした。
ツアーのメンバーは、カナダ人の夫妻、デンマークの学生、ニュージーランドの学生、私、タイ人のガイドの6人である。
まず、チェンマイ中心部から日本製の1トントラックに乗って北へ3時間、そこから更に3時間山道を歩き、モン族の村に着いた。口でいうのは簡単だが、私は当時、達磨さんの起き上がり小法師に手足をつけたような体型だったから(注:今もそうだがね)、祖山の白山拝登同様、大いに消耗した。着いた先は二十数戸の集落で、建物はすべて高床式。有り体にいって皆ボロボロで、私たちの泊めてもらった宿舎も例外ではなく、床板の隙間から地面が見えていてなかなか風通しがいい。
食事の時間まで、特にすることもなかったので、村の中をブラブラしてみた。女性と子供は、黒い厚手の生地に刺繍を入れた衣裳を着ていたが、男たちは思い思いの格好をしているようだった。私たちが来たからといってどうということもなく、皆、屈託のない笑顔で話に興じていた。彼らはどんな仕事をしているのか、ガイドのぺぺに聞いてみると、「焼き畑だよ。午前中、4時間くらい働く。」との返事に、「たった4時間!」と思ったが、いいや待てよ、と思い返した。
私もかつては会社員で、朝7時に会社の寮を出て、その日のうちには帰り着けない、といった生活を続けたものだが、だからといって「たった・・」と思うのはこちらの勝手で、この人たちにとっては大きなお世話なのだ。森の精霊たちに見守られて悠々と生きるこの人たちと、コンクリートジャングルの中で汲々として日々を送る都会人の、労働に関する価値観を比較することにはまるで意味がない。
翌朝は真っ暗なうちから目が覚めた。いや、起こされた。電気もランプもない村なので、時計を見ようとて腕をかざしても辺りは真の闇、何時かはわからなかったが、雄鶏が一声鳴くや、村中の家畜が合唱を始めたのである。庭先では犬が吠えるわ、我々が寝ている床下を豚が鳴きながら走り回るわで、祖山の振鈴どころの騒ぎでない。明るくなってから「今朝はうるさかったね」とニュージーランドのマイクに言ったら、「そうだね、でもあんたのいびきほどじゃない。」と言われて、面目丸つぶれになった。
洗面をしようとて、デンマークのペーターと井戸へ行き、水を引っ張り上げて顔を洗っていたら、10歳くらいの女の子が飛んで来て、なにか憤慨した様子でまくしたてている。何がなんだかわからなくて呆気にとられていると、その子は唾を吐いて行ってしまった。後で聞いてみると、その井戸の水は飲用以外に使うことがタブーだったそうで、私たちはピーに悪いことをしたらしかった。しまった、と思っても後の祭である。
朝食を終えて、今度は象を使うことで有名なカレン族の村へ向けて出発した。途中、山あり谷あり林ありで、また3時間ほど炎天下を歩くと、森の開けたところに集落が見えた。10戸ほどの小さな村である。ここから私たちは、なんと象の背に乗って次なる村へと進んだ。楽だったかというとそうでもない。速さは人間が歩くのとそう変わらないし、こちらの顔面を木の枝が直撃しても象は知らん顔で進むし、たて揺れが激しく、下り坂など鞍にしがみついているのが精一杯で、降りて歩いた方が余程よかったようである。
今度の村は20戸ほどで、子供が沢山いた。私は村の子供たちへの土産にしようと、素朴な日本のおもちゃ(紙風船やおはじき、ビー玉など)を持って来ていた。一度に殺到されても困るので、男の子を一人こっそり呼んで、紙風船をやった。ふくらませてやると、彼は破顔一笑してそれを持って走り去った。見るともなくその行方を目で追っていると、他の子供たちとの間でその取り合いが始まった。ものが紙だけに、もみくちゃにされて簡単に引き裂かれてしまう。
これはうまくないな、と思うが早いか、子供達は当然私のところに駆け寄って来る。喧嘩をするくらいならもうやらない、という意味のジェスチャーをしたつもりだったが、今度は彼らはツアーのメンバーたちの方へ駆けて行き、あれをくれ、と言っているようだった。
ここに至って、私は己の浅はかさに気がついた。一体私のしようとしたことは何だ。サンタクロースにでもなったつもりで、子供たちに施しものをして、その場だけ自分がいい気になろうとしていたのだ。子供は珍しいものを欲しがる。あればあるだけ欲しがる。今ここで私が物を与えれば、私が去った後も、外国人と見れば物をねだるようなあさましい習慣が身につかないとも限らない。既にもう手遅れだとしても、それを助長することはない。
何もここは、たった今、一缶の粉ミルクが必要だというような難民キャンプのような場所ではない。たしかに私たちから見ればつましい暮らしだが、村人の顔には笑みがある。ひとりのよそ者の思い上がりから村の誇りを傷つけるようなことは慎むべきだろう。本当にこの人たちのことを思うなら、学校に通えないこの子たちに教育を与える、といった根本的なところから手をつけて行かねばなるまい。SVA(曹洞宗ボランティア会)(注:現在のシャンティ国際ボランティア会の前身)のような開発協力団体の活動に期待されるところ大である。日本から持って行ったおもちゃは結局ほとんど持ち帰って来たが、母が全部取ってしまった。
夕方になって、皆で村のおばさんの心づくしの料理(野菜の炒め物)を頂いていると、外から子供達の歓声が聞こえてきた。2メートルほどの高床の家の窓から外を見ると、村のはずれの方で焼き畑をしているのだった。かなり火は燃え広がっている。煙は夜空に舞い上がる。轟々と燃え上がる炎に、人々の顔が赤く照らし出される。初めて見る光景のはずなのに、たしかにどこかで見たような気がする。或いは私が生を享ける以前の記憶なのかも知れない。
例によって、この村にも電気はなく、水道はなく、便所もなかったが、ランプはあった。焼き畑の火がおさまってから暫くすると、近くの家に三々五々、村の人たちが集まって来て、ランプを囲んで酒盛りが始まった。私たちも仲間に入れて貰って地酒をふるまわれたが、全く言葉が通じなくても雰囲気が出来上がって、それなりの宴会になってしまうのは不思議である。
翌朝、お世話になった家の人に別れを告げ、私たちは次なる村に向かうべく、村の裏の川につないであった二艘の筏に乗り込んだ。竹をつないで作った長さ4メートル、幅1メートルほどの、私たちのための特製品で、漕ぎ手は無論私たち自身である。こんな頼りないもので大丈夫かと、一同不安の表情を隠せなかったが、途中、2回転覆、2回座礁、1回竹の間に足を突っ込んで抜けなくなり、履き物を流されたことを除けば(これだけアクシデントがあれば充分だが)、極めて順調な4時間の航行であった。
疲労困憊の私たちの着いた先は、幾分文明の香りのするシャン族の村で、ここに一泊して私たちのトレッキングは無事終わった。村の人達、そして精霊(ピー)たちに深く感謝する。この後の寺院巡りについても申し添えたいが、如何せん紙面が足りない。
短い旅ではあったが、なかなか示唆に富むものであった。機会があれば、また何度でも訪れたいと思う。この衝動も、一種の帰巣本能によるものだろうか。
(「傘松」昭和64年1月号に寄稿)