師匠が情報断食にはいって、数週間がたつ。
最近特に、些細なことでも容赦なく、異変や違和感があることに
気がつく。
ドラマの内容であれ、情報番組であれ、言っていることに対して、
不快感を感じるようになった。
師匠「たぶんね、
私の言っていることは正しいんだから、
相手に気を使うように
要求しているものが多いからだと思うよ。
もっと、私に気をつかえっ、てね。」
言われてみれば、
本人的には、気を使って言っているようなことばなのに
結果は、大きく違うものをもたらしていて、本人も満足を得ている。
その結果が正解ならば、機能的には、そうだ。
確かに要求をしている。
そうしてくださいと、お願いをしているわけではないけれども、
結果は、それを要求している。
謙遜したり、遠慮した言い回しなのに、
とても、今は歪曲をしていて
なんとなく、聞いていて、気分が悪くなる時がある。
師匠「ことばも、歪んだものは、とても、気持ちが悪い。
歪んだことばをしゃべっている画は、もっと、気持ちが悪い。」
それが、作られたドラマであれ、情報番組であれ、同じ。
ことば自体に想念がある。想念が宿っている。
そう何度もつかわれることで、ことばの命は大きく変わる。
その意味自体が変化を起こす。
そうして、ことばは変わる。ことばはイノチをおびて、
それを使うひとも変わる。使うことで、ひとを変える。
だからこそ、沈黙する。カンガエナイ。とらわれない。
そして、同意もしない。
それすらも、在る。
だから、それにこだわらない。
いつでも、想念は身近にあるのだから。