'08/10/13の朝刊記事から
真の国益の土台つくるには
意思表示の機会増やして
タレント イーデス・ハンソン
あー、投票したい !
長年そう思いつつ、その機会が一度もない。
日本では、永住許可を持つ住民でありながら、国民ではないからダメ。
他方、パスポート上は間違いなくアメリカ国籍だが、成年後に住んだ実績がないので、向こうでも投票する資格を得ていない。
人間社会の一員として安定した生活を送ってきたつもりなのに、暮らしの形がどちらの国の参政権ともつながらず、48年間、投票できないスキ間に落ちたままです。
生活上の問題がどう決まるか、それは国籍の有無と関係なく、住民として受ける影響は同じ。
やはり、介護や福祉のサービス、ごみ処理の方法、原発やダム建設の是非などについても、全住民の賛否を確かめるべきだろう。
参政権については、投票率の低い日本国民よりも、多分、外国人住民の方がその権利のありがたさを認識していると思う。
「投票したかったら、帰化して、ちゃんとした国民になればいい」
よく聞く意見だが、その手続きはまだまだ簡単ではない。
また、たとえ「ちゃんとした日本国民」になったとしても、本人の思想・信条や価値観は「元外国人」のままでしょう。
「外国籍住民」
中身は国籍取得前と変わらないのに、やはり、国家への忠誠心を誓った外見がなければ、外国人に日本の国益をまじめに考えてもらえるという確信が持てない、ということかしらね。
しかし、外国籍のままでその社会の一員として責任を果たし、全体の繁栄と安全を願う住民は、前々からどの国にも実在している。
その現状と基本的な人権を考えて、国民と外国籍住民をむやみに区別して扱う姿勢が見直されてきている。
ある国がクシャミをすれば地球の反対側でも必ずカゼを引く時代。
国の内外を問わず、どこかの選挙結果が、エネルギー政策や環境問題への取り組み、外交姿勢などを大きく左右し、その衝撃は簡単に国境を越えてしまう。
8年前のブッシュ大統領の当選は、世界中でどれほど多くの人々の人生を変えただろう。
選挙の持つ可能性を考えると、投票に行かない有権者の気が知れない。
「自分と関係ない」とか、「いいと思う人がいないから…」といった弁解も笑うけれど、なおあきれるのは、「投票しないのも一つの意思表示だ」という強がりの屁理屈。
棄権、それは届かない意思表示だ。
選挙では、声なき人の意見はないも同然。
数えられる票のみが影響力を持つ。
候補者不足を理由にサジを投げず、むしろ当選しては困る人物を落とすために、よりマシな候補に投票するのも現実的な選択だと思う。
国民益優先を
外国人の参政権をめぐって、日本社会の民族意識や秩序は保てるのかとか、憲法や最高裁の判決をどう解釈すべきかなど、これまで議論は山ほどあるが、ここでは、選挙と国益の関係から少し考えてみたいと思う。
「国益」といえば、政府はすぐに国際収支、軍事的影響力、資源の確保といった項目を並べるが、いずれにせよ、何が国益かを最終的に決めるのは主権者である国民自身だ。
そして、一人一人が自分の「国益観」を数えてもらえる形で主張できるのは、まさに選挙です。
今の日本では、国民が国の主役だという割に、意思表示の機会が少な過ぎると思う。
首相はじかに選べないし、重要案件についての国民投票の制度もありません。
衆議院の解散も、現政権への世論の不満が高まれば先送りし、多少有利かと思えば行う。
解散は与野党間の意見対立が煮詰まったときに民意を確認するのが第一義のはずだが、現状は政局乗り切りと我田引水の道具になっている。
将来、憲法改正を行うなら、まず、根本的な「国民益」を優先し、住民の意思表示の機会と手段を増やすところから始めてはいかがでしょう。
「持ち家「」と「借家」とでは、どちらを大事にしますか?
多分、自分の考えに沿って手を入れられる持ち家の方だと思うが。
自分の価値観を反映させるプロセスにどの程度参加できるかで、参加する熱意も違ってくるはずです。
住んでいる国をより健全な方向に、と努力する「住民」が多くなることが、真の国益の土台になります。