千蛇谷の入り口がまだ中島台口(廃道)の近くにあったころ。この道を右手に進むと七五三掛分岐に出ます。
千蛇谷は昭和の初めころまでは仙者谷と表記されていたようです。昭和27年発行の姉崎岩蔵「鳥海山史」では仙者谷、千歳谷、千蛇谷の名で呼ばれていたとあります。千蛇谷は昭和以降の呼称のようです。噴火の溶岩が大蛇のようだったとは古文書にありますが、それが千蛇谷の呼称の由来ではないようです。
寛政十二年(1800)、噴火直前の絵図では千歳谷と表記されています。センザイダニでしょうか、今となっては読み方はわかりません。
文政四年(1821)、享和の大噴火の後の噴火の絵図ですが千蛇谷ではなく、未だ千歳谷となっています。大蛇が山頂を取り巻く姿から龍頭寺の名前が出たとか噴火で大蛇が流れてきたとか古文書にありますが、千蛇谷に関してはこの文字があてられたのは結構後世ではないでしょうか。
実は古絵図で残されているのは矢島口、蕨岡口がほとんどで噴火の姿を記した以外千蛇谷(実際の表記は千歳谷)が現れるのは見受けられないのです。中でも一番多いのは勢力の強かった蕨岡口の古絵図なのです。今鳥海山に登っている人には想像もつかないでしょうがかつて鳥海山登拝といえば第一に蕨岡口だったのです。ついで矢島口ですがそのいずれからも千蛇谷は陰に隠れて絵図には現れません。
様々な古絵図を見ていただければ地名がすべて仏教から来ていることがわかります。大物忌神社だから神道じゃないのかと思われるかもしれませんが、明治の神仏分離令が出る以前は神仏
こういった古絵図は国会図書館のデジタル版で閲覧できます。ちなみに文化四年の絵図は飽海郡史に記載されています。
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