1976年の山と高原地図 鳥海山 今度は別の方面を見てみましょう。
よく見ると賽の河原にもキャンプ場の印があります。破線ながら中島台口があります。ずっと昔ですが、八月の快晴の日、山頂で姿を見かけた単独行の老人が千蛇方面に下ったまま行方不明になり出てきませんでした。不思議なことに目撃情報は山頂が最後、下山途中の目撃情報はなかったという話でした。千蛇から中島台方面へ迷い込んだのではないかとの噂が飛び交ったものでした。後年、深夜、御浜の小屋の窓の外にその老人らしきものがあらわれなかを覗きこんでいたという話もありました。きっと成仏できずに人のいる所へあらわれるのでしょう。
これはこの地図の裏面です。稲倉岳への登路として奈曽渓谷を詰め蟻ノ門渡へ取りつく道が書いてあります。かつては多くの人が登ったことでしょう。その記録はいろいろと見ることが出来ます。しかし気が付かなかったのですが、なんと中島台口の途中から蟻ノ門渡へ登るルートが書いてあります。文字が読みずらくなっていますがジャンダルムの下、蟻ノ門渡と書いてある右側に破線、その下の文字は「御浜側に鎖あり 足場に注意する」と書いてあります。鎖場があったという事はそれなりに登山者がいたのではないでしょうか。ここを登ったという記録は寡聞にしてみたことがありません。中島台口の登行記録も秋田県内を探せばあるかもしれません。
他には、鍋森へのルートです。最初の地図に「南面に登路あり」と赤い文字で書いてあります。この道は蛇がいっぱい出るぞという話を聞いたことがあるくらい。文殊岳から千畳へ向かう道を歩いた人の話も聞いたことがありません。
今となってはよほどの人でもない足を限り踏み入れることのできないルートがいっぱい書いてありますが、どんなルートか想像するのが楽しいです。自分は、踏み入れるのは100%無理です。
地図に関しては、ついスキャンして掲載してしまったのですが、発行元の昭文社にブログ掲載の規制等について問い合わせ中です。75年版と76年版では紙質と売価が350円から450円に変更になったくらいかと思います。中身は同じだと思います。この地図に関して何かありましたら music.inc.2012@gmail.com までご連絡ください。
遭難者は山やではなく横浜の旅行者でした。発見したのは秋分の日その日はすぐ下山して遊佐署に届け、翌日回収にあたる数名の警察官を道案内して再び現場へ。シートで包んで担架に乗せた遺体は重くて、全員で交代しながら鉾立まで運びました。身元はすぐ分かりました。30代の男性、家族から捜索願いが出されていたのです。象潟駅のロッカーに荷物があったそうです。彼の足取りは想像するしかありませんが、8月旅先で見た鳥海山の勇姿に魅かれ登山を決めバスでブルーラインを。鳥海湖から見た千畳が原が美しかったからでしょうか、千畳が原に下りてしまいガスに巻かれて道迷いしたと思われます。平成5年は記録的な冷夏でおそらく夜雨に打たれて凍死したのでしょう。まことに気の毒なことでした。担架で下ろす際、登山者で賑わう御浜で休憩し、担架を無造作に登山道近くに置いていましたから、ayasiiojisannが見たおロクは、ひょっとしてその時のものでしょうか?
清吉新道については76年版の解説升田口Ⅰの最後に数行あるのみでしたね。先日蕨岡では清吉さんや畠中善弥さんの思い出話も伺ってきました。
地図データでよろしければ送ります。
こちらのアドレスは、
genki_s@cameo.plala.or.jp
です。
欲しいです。よろしくお願いいたします。
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