孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ベトナム戦争終結から40年 戦争に翻弄された人々の心にはまだ消えないものも

2015-04-30 21:44:10 | 東南アジア

(サイゴン陥落の混乱のなかで、限られた脱出のチャンスに殺到する人々、それを押しのける人々 【The New Classic】http://newclassic.jp/17442

対中国でアメリカとの関係を強化 その一方でバランス外交も
昨年還暦を迎えた私などの世代にとって「ベトナム戦争」は、晩御飯を食べながらTVで見聞きした“戦争”、新聞・週刊誌でいつも目にした“戦争”、反戦フォーク・ベ平連など社会の雰囲気に大きく影響した“戦争”として、ある意味では先の大戦よりも身近に感じられた戦争でした。

****<ベトナム戦争>終結40年「過去水に流し未来見据える****
ベトナム戦争終結から40年を迎えた30日、南部ホーチミンで記念式典が行われた。

国営メディアによると、グエン・タン・ズン首相は式典で「アメリカ帝国主義」に対する勝利をたたえつつ「(ベトナムは)過去を水に流し未来を見据えている」と演説した。

式典は当時、親米の南ベトナムの大統領官邸だった統一会堂で開かれ、市街地では軍のパレードも実施された。

ベトナム戦争は1950年代に始まった。米ソ冷戦時代、国内は南北に分裂。米国は南ベトナムを支援し、60年代半ばから戦争に本格介入した。

しかし、75年4月30日、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を攻め落とし、ベトナムを統一した。

犠牲者数は米軍約5万8000人、ベトナム側約300万人。戦争中、米軍による村民の虐殺などが明らかになり、世界的に反戦運動が広がった。【4月30日 毎日】
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かつて激しく戦火を交えたベトナム・アメリカ両国は、1995年に国交を正常化し、近年の中国の進出に対抗すべくその関係を深めています。

****<ベトナム戦争終結40年>当時の敵、対中国で歩み寄り****
1975年4月にサイゴン(現ホーチミン)が陥落し、ベトナム戦争が終結してから30日で40年を迎える。米国とベトナムは東西冷戦を背景に泥沼の戦いを繰り広げた。

しかし、かつての敵国同士はアジア太平洋の覇権をうかがう中国をにらみ、歩み寄りを始めている。両国は軍事協力を進め、米軍がベトナム戦争中に基地を置いたベトナム中部カムラン湾が、米越の対中戦略の拠点となる可能性も浮上している。

カムラン湾は、ベトナムやフィリピンが中国と領有権を争う南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)、西沙(パラセル)両諸島に臨む要衝。米軍はベトナム戦争後に撤退し、その後は2002年までソ連(ロシア)軍が使用した。

そのカムラン湾を12年6月、米国のパネッタ国防長官(当時)がベトナム戦争後、米国防長官として初めて訪問。停泊中の米補給船を視察し「より多くの米艦船がこの港を利用できるようベトナムと協力することは極めて重要だ」と語った。

現在、カムラン湾に入港できる米軍艦船は補給船のみで、数も限られている。米国はアジア太平洋で中国と対峙(たいじ)するため、こうした規制を緩和してもらいカムラン湾を再び「拠点」化したい考えだ。

南沙や西沙で中国の実効支配拡大を許すベトナムも米軍の影響力拡大を求めており、米国との協議に応じているとみられる。

一方でベトナムは、ロシアとの海軍協力も強化する。カムラン湾ではロシア軍爆撃機が給油をしていることが判明し、米国が3月、ベトナムに抗議した。

日本国際問題研究所の小谷哲男主任研究員は「ベトナムがあからさまに米国に傾斜すれば、中国との緊張を高めてしまうし、ほかの東南アジア諸国も歓迎しない。カムラン湾をロシアなどにも開放することで、米越関係を目立たないようにする狙いがあるのではないか」とみる。

米越は95年に国交を正常化し、00年には米国のクリントン大統領が初めてベトナムを公式訪問した。両国は貿易を拡大し、軍高官の交流や軍事演習を通じ軍事協力を重ねている。

米国は昨年10月、ベトナム戦争終結以来続いた殺傷力のある武器の禁輸を一部解除。ベトナム共産党のグエン・フー・チョン書記長は今年夏ごろ、同国最高指導者としてベトナム戦争後初めて米国を訪問する予定だ。

ただ、米軍はベトナム戦争で無抵抗の村民約500人を虐殺する「ソンミ村事件」を起こし、南部ではダイオキシンを含む枯れ葉剤を大量散布し、現地ではがんや子供の先天性障害などが多発した。こうしたことから、ベトナム国民は米国に複雑な感情を抱いている。【4月29日 毎日】
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南シナ海で中国と対立するベトナムにとっても、アジア重視政策「リバランス(再均衡)」を進める米国にとっても、両国の共闘は有益と判断されています。

ただ、ベトナムも一方的にアメリカにすり寄るのではなく、バランスを考慮しています。
上記記事にもあるロシアとの関係もそうですが、中国とも南シナ海の問題でやりあいながらも、国境を接し、経済関係も深い中国との関係には配慮しています。小国ベトナムが生きていくうえでの知恵でしょう。

****ベトナム、中国との緊張緩和図りバランス外交****
ベトナムの最高指導者、グエン・フー・チョン共産党書記長が7日、中国への公式訪問を開始した。

年内にも初の米国訪問を予定しているチョン氏は、米国との関係構築をアピールする一方、南シナ海の領有権問題で悪化した中国との緊張緩和を図り、大国とのバランス外交を展開する構えだ。(後略)【4月8日 読売】
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領土問題で強硬な態度をとってきた中国側にも抵抗の変化があるとも報じられています。

****中国、対ベトナム融和路線 首脳会談、経済圏構想へ参加要請 南シナ海掘削不調で転換****
中国が南シナ海問題で対立したベトナムとの外交を融和路線に切りかえ、取り込みを急いでいる。

習近平(シーチンピン)国家主席は、ベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長を北京に迎え、中国が外交上の最重要課題と位置づける「21世紀海上シルクロード」経済圏構想への参加を呼びかけた。ベトナムも中国重視を唱えるが、米国をにらんだしたたかな戦略がのぞく。(中略)

両国は昨年5月、互いに領有権を主張する南シナ海で中国が石油の試掘を始めたことを機に衝突。ベトナムで反中デモが起き、中国人が死亡する事態に発展した。

それから約1年。現場は季節風がやんで海が穏やかになるため、再び中国が掘削を始めるかに注目が集まるが、石油業界関係者の間では「可能性は低い」との見方が強まっている。

開発を手がける中国石油天然ガス集団(CNPC)関係者は「昨年の試掘結果が良くなかった。高いコストを払って本格開発する価値があるか、疑問がもたれている」と明かす。

海洋権益にこだわる軍や海洋当局、石油大手などを落胆させる結果だが、対ベトナム外交の立て直しには悪い材料ではない。

ベトナムとの衝突は、領土問題で強硬な態度をとってきた習指導部の外交の転機になったとの指摘がある。
中国外務省元次官の親族によると、反中デモで死者が出た直後、習主席は外務省幹部を呼びつけ、事態の悪化を防げなかったことを厳しく批判したという。

その後、中国は予定を約1カ月早めて石油の巨大掘削装置を撤収。周辺国との融和路線を打ち出した。

 ■米中にらむベトナム
しかし、ベトナムは中国の思惑通りに動いているわけではない。
「中国に仁義を切るバランス外交だ」。チョン氏の訪中についてベトナムの外交専門家はこう分析する。

ベトナム戦争終結から40年、米国との国交正常化から20年の節目の今年、ベトナムはチョン氏の初訪米を模索。ベトナムにとって米国は最大の輸出相手国。中国とのパワーバランスを考えると、防衛面でも米国との関係構築が欠かせない。

一方で、国境を接する中国の重要性は変わらない。ライバル国に後れをとるまいと、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)へも早々と参加を表明した。

チョン氏の訪中には訪米の前に中国の顔を立てて、両国から「うまみ」を引き出そうとする意図もうかがえる。【4月9日 朝日】
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祖国へ戻る人 「ベトナムは平和になった。成長のチャンスにあふれている」】
ベトナム戦争後、ベトナム版改革開放政策でもあるドイモイによってベトナム経済は成長し、市民生活も大きく変化しました。

****市場経済で生活激変****
首都ハノイでは近年、外資系企業の広告が目立つ。昨夏に進出した米コーヒーチェーン大手のスターバックスの店で、銀行員グエン・アイン・トゥアンさん(39)はスマートフォンを手に「戦後の変化に驚いている」と話した。

76年に北部ハイズン省で生まれた。幼少期は配給制の時代。「食事は1杯のご飯と芋と菜っ葉。靴がなくて裸足で学校に通った」

ドイモイで市場経済が定着し始めた90年代から生活が激変した。90年に98ドル(約1万2千円)だった1人あたりのGDP(国内総生産)は今年の推計で2200ドルを超える。

トゥアンさんはオランダの大学で修士号を得た。6歳の長女には今年から英会話を習わせるつもりだ。【4月30日 朝日】
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南ベトナムの解体、南北統一の混乱のなかで、多くのベトナム人がアメリカなどに逃れましたが、ベトナム経済の成長とともに祖国へ帰る人も少なくないようです。

****祖国で起業、マック誘致****
クラクションが響き、無数のバイクが行き交う商都ホーチミン。その一角に昨年2月、ベトナムで初めてマクドナルドができた。

「想像を超える売り上げだ。10年で100店舗を目指す」。オーナーのヘンリー・グエンさん(41)は軽やかな英語で言った。

マクドナルドのベトナム進出は120カ国・地域目。旧敵国の巨大資本への警戒感から誘致が遅れた。だが、米国育ちのヘンリーさんにとっては「豊かさの象徴」。10年以上かけて開店にこぎ着けた。

ヘンリーさんは04年にベトナムで投資会社を立ち上げ、成功して事業を拡大。08年にはグエン・タン・ズン首相の長女と結婚し、政界とのパイプも築いた実業家だ。「米越の不幸な歴史は終わった。二つの祖国を結びつけるのは僕の宿命だ」。そう切り出し、自らの半生を語り始めた。

75年4月25日夕、サイゴン。南ベトナム政府側の技師だった父に米国関係者から電話が入った。「30分で荷物をまとめろ」。数日中に南が降伏し、安全が保証できないとの連絡だった。ヘンリーさんは当時1歳10カ月。同夜、両親に連れられ、3人の兄弟と米軍輸送機に乗ったという。

一家はワシントン近郊の知人宅の一室に身を寄せた。父は雑貨店や給油所で働き、子供たちを学校に通わせた。

一方、ベトナムは78年のカンボジア侵攻で国際社会で孤立、計画経済で人々の生活は困窮した。数十万人がボートで国を脱出した。95年の国交回復まで、故郷の親戚との連絡でさえ、困難を極めた。祖国は両親を惨めな生活に追いやった国だった。

ハーバード大の学生時代の95年、旅行雑誌のアルバイトで祖国を訪れ、記事を書く機会を得た。湖や街路樹の美しさや言葉の響きに「故郷だ」と感じだ。将来、ベトナムで起業すると心に決めた。

ベトナムは86年のドイモイ(刷新)政策で市場経済化を進めていた。ヘンリーさんら「越僑」は敵ではなく、商機と外貨を呼び込む存在に変わりつつあった。

祖国への進出を果たした今、ヘンリーさんは言う。「ベトナムは平和になった。成長のチャンスにあふれている」【同上】
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祖国へ戻らぬ人 「あちらにはまだ貧しい人が大勢いる。米国で金持ちになり、豪華な休暇を楽しむといった里帰りはしたくない」】
ただ、40年前の戦火の記憶がそうそう簡単に消えるものでもありません。同じ民族が殺しあったという事情もあります。

かつてボートピープルとして祖国から命からがらに逃げた人々、その家族の祖国への思いも複雑です。
一方、ベトナムに残った人々が、海外にのがれて成功した者を見る目も微妙です。

****サイゴン陥落40年 ベトナムの遠い国民和解 柴田直治****
自宅前で兵士が撃たれ崩れ落ちた。路上の爆発で人が吹き飛び、群衆が逃げ惑う。そして降伏宣言……。ベトナム・ホーチミン市の私大教授(54)の記憶は鮮明だ。

1975年4月30日。北ベトナムの戦車が南の大統領府に乗り付け、戦争は終わった。北、つまり今の政府が「解放」と呼ぶサイゴン陥落は40年前の今日の出来事だ。

政府に耳の痛いこともブログでつづる女性だが、インタビューの最後になって匿名を希望した。家族や職場への配慮という。

街のそこかしこに赤い国旗と共産党旗がはためく。タクシーにもすべて赤い旗がたつ。40年の記念行事を盛り上げるためだ。

「40年間、自宅に赤旗を掲げたことは一度もない」。教授が帰り際につぶやいた。この国でそれは、勇気のいることだ。
         ◇
サイゴンはホーチミンに改名したが、約1万3千キロ東で南の首都名は生き残っていた。米カリフォルニア州オレンジ郡の通称リトルサイゴン。20万人近いベトナム系住民が暮らす在外最大のコミュニティーだ。(中略)

看板の多くはベトナム語。地区の入り口には「ようこそリトルサイゴンへ」の標識がかかり、黄色地に赤線3本の旗があちこちで翻っていた。旧南ベトナムの国旗だ。

中心部にあるベトナム語新聞社で編集幹部(59)に会った。教授の姉である。

陥落の日、サイゴンを脱出し、米軍に保護された。父が南の政府職員だったため、残った家族の生活は厳しかった。教授をのぞく6人の弟と妹を順次、米国に呼び寄せた。

大学院を出て米国企業に勤めた後、待遇の落ちる今の会社に転職したのは、祖国との関わりを持ちたいからだ。

姉と妹の見方は、多くの在外ベトナム人と重なるだろう。「南北統一というが、政治制度はひとつになっても、人々の心はいまもひとつにならない。社会主義の理想は実現せず、腐敗や貧富の格差は当時よりひどい。それを批判する自由もない」(中略)

南の軍用ヘリ操縦士だった(サンディエゴで精密機器製造会社を営む)グエンさんと家族は陥落の前日、国を離れた。(中略)

米国に移住した約170万のベトナム人のなかでグエンさんは屈指の成功者だ。1時間2ドルの最低賃金で働き始め、いま年商1千万ドルの企業で75人の同胞を雇う。

90年代以降、多くの在外ベトナム人が一時帰国したが、グエンさんは祖国の土を踏んでいない。「あちらにはまだ貧しい人が大勢いる。米国で金持ちになり、豪華な休暇を楽しむといった里帰りはしたくない」
         ◇
戦争ドキュメンタリーで有名な映画監督で作家のバン・レーさん(66)をホーチミン市に訪ねた。元北の兵士で従軍記者。あの日の記憶を聞く。

「もう戦わなくていいうれしさと、あまりに多くの人が犠牲になった悲しみで胸がつまった」。所属部隊300人のうち生き残りは5人だった。

在外同胞への視線は厳しい。「国造りに参加せず、外で悪口ばかりを言っている」
負けて逃げた側が外国で豊かに暮らすことに複雑な思いを抱く人も少なくない。

米越で出会った人たちはみな歴史に翻弄(ほんろう)された重い過去を背負っていた。立場は違えど共通するのは、40年をへてなお国民和解に至らないという認識だ。ベトナム戦争は同じ民族が殺し合う内戦でもあった。

戦場はその後、市場になった。それでも傷はうずく。学生時代、民族解放の闘いに共感した私はこの国の現状を残念に思う。

「独立と自由ほど尊いものはない」
街の名前となった指導者の遺言だ。独立は果たした。しかし国民の自由はいまだに制限され、民主化への道筋は見通せない。【4月30日 朝日】
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