孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

スリランカ  旅行で遭遇した国民の間で言葉が異なることの問題

2023-05-16 01:42:18 | 旅行

(ジャフナからカイツ島への海中土手道 記事のトラブルは、この道をジャフナ側の公園から撮影していたときに発生)

現在スリランカを旅行中です。
今回の目的地は、少数派のヒンドゥー教徒タミル人の居住エリア最大都市である北端のジャフナ。
スリランカ内戦の被害が甚大だった地域でもあります。

ジャフナは島の最北端で、海を隔ててインドも間近。
紀元前3世紀、インド・カニシカ王の時代、お釈迦様がその木の下で悟りを開いた菩提樹の枝をカニシカ王の娘がスリランカにもたらすべく船でやってきたのも、ジャフナ郊外の海岸です。

当時のスリランカの王は、海中に入って彼女を迎えたとのことです。

前回ブログでも、シンハラ・タミルの間で言葉が通じない問題は触れましたが、昨日もそのことで面倒なことになりかけました。

ジャフナの沖合にはジャフナ諸島と呼ばれる島が点在していますが、手前側の島とジャフナは海中の土手道で繋がっています。

14日、その島のひとつカイツ島観光に行く際、まずジャフナ側の海岸で、海中をまっすぐに伸びる土手道の写真を撮っていました。

すると警備員のような男性が笛を吹いて、写真を撮るなとのこと。
何のことかよくわからず、ガイド氏が理由を訪ねますが、警備員はタミル人、ガイド氏はシンハラ人ということで言葉が違うため、相手の言っていることが理解できません。

その警備員は英語も通じないとのこと。

やはりシンハラ人のドライバーも加わっていろいろ言い合っていましたが、どうも、スマホ撮影なら構わないが、一眼のようなカメラで撮影するためには、チケットを購入しなければいけない・・・みたいなことを言っているようだというところまではわかりました。

埒が明かないので、車に戻り、移動しようとしていたら近くに警官が。
警官に事情を話すと、「写真を撮るのに制約はない」とのこと。

そこで、改めて車外に出て撮影再開。

すると再び別の警備員が撮らないようにとのこと。
ガイド氏「いや、ポリスはかまわないといってるぞ!」ということで、警官を呼んで、ガイド、ドライバー、警備員、警官が集まって協議。

警官が警備員を押し切ったようでしたが、私も撮影はほぼ終了。
「トラブルのは困るので、次へ移動しましょう」ということに。

本当に警備員の言うようなローカルルールがあるのかどうかは知りません。
ガイド氏に言わせれば「ああいう難癖をつけてカネをとろうとしているだけ」とのこと。

ことの真相はよくわかりませんが、話がこじれる大きな理由は、言葉が違うため相手の言い分が理解できないところにあります。

当然ながら、どちらかの言葉で統一すれば意思疎通は簡単になります。
ただし、この問題は非常に敏感な問題。そのやり方が、他方の言語を否定することになると、否定された方は激しく反発します。

****多民族国家スリランカにおける公用語政策と教育の課題****
1948年にイギリスから独立して 8年後、スリランカの政治的、社会的状況はまったく変わった。

スリランカではこれまで、シンハラ語とタミル語 の両言語公用語案が提示されていたが、 1956年 になり、シンハラ語のみが公用語と規定された。 

タミル語が公用語として認められなかったため、 反シンハラ主義の若者を中心として一部のタミル人が激しく抗議し、テロ運動が始まった。(後略)【2008年9月 日本学習社会学会年報第 4号】
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言語だけでなく、シンハラ人による政府がシンハラ民族主義的政策を強行し、タミル人の立場を顧みなかったことが、夥しい犠牲者を生む二十数年に及ぶ内戦を惹起したと言えます。

****タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)設立の背景*****
スリランカは多民族国家であり、人口の約74%がシンハラ人、約13%は古くから住んでいる「スリランカ・タミル人」、約5%がイギリス植民地時代にプランテーションへの労働力として移住させられてきた「インド・タミル人」である。

植民地時代、シンハラ人(主に仏教徒)はイギリスの支配に対立・抵抗を続けたのに対し、比較的従順だったタミル人(主にヒンドゥー教徒)がイギリス政府に重用されていた。

1947年の議会選挙では1人1票制が採用され、シンハラ人がセイロン(当時)の政府で多数派を得た。

1944年に設立されていた全セイロン・タミル会議(ACTC)はレバノン型の権力分割(50:50)を主張していたが、高地ではシンハラ人よりもインド・タミル人が多数派であり、独立直後の政府にとって脅威であったため、受け入れられることはなかった。

その後インド・タミル人は1948年制定の『セイロン市民権法』により公民権を失い、1949年の『国会選挙法』により選挙権を失った。さらに1956年、ソロモン・バンダラナイケ政権は「シンハラオンリー法」を採択し、タミル人への差別が始まった。

セイロン政府は、悪化するスリランカ経済に対する不満をそらすために、シンハラ政策を推し進め[、1965年にはシンハラ人による反タミル人・キャンペーン、民族浄化を提唱するスリランカ人民解放戦線が創設された。

1970年に就任したシリマヴォ・バンダラナイケも、1978年に大統領に就任したジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナもタミル人政策には着手しなかった。

1972年制定のスリランカ共和国憲法でも、1978年制定のスリランカ民主主義共和国憲法でも、『仏教に至高の地位を与える』という条項は残り、タミル人への差別は続いた。【ウィキペディア】
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人口の約74%がシンハラ人、約13%は「スリランカ・タミル人」、約5%が「インド・タミル人」・・・・残りは?

残りの大多数はムーア人(9,2%)と呼ばれる人々。
ムーア人も9-10世紀ごろに島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれますが、一般的認識としてはイスラム教徒を差します。言語はタミル語をつかうことが多いようです。

シンハラは仏教、タミルはヒンドゥーですが、その宗教的対立はあまりないと推察されます。
仏教徒シンハラ人でもヒンドゥー寺院に参拝することは極めて普通のことです。(日本人がお寺にも神社にも行くようなものでしょうか)

スリランカに限らず、タイのような仏教国でも、ヒンドゥー由来の宗教・文化が根付いており、ヒンドゥー文化は南アジアから東南アジアにかけての共通文化になっています。ちなみに、仏教国タイの国章はヒンドゥー由来のガルーダです。

非常に近しい関係にある仏教・ヒンドゥー教に対し、イスラムはかなり異色。
仏教国ミャンマーではロヒンギャなどのイスラム教徒は強烈に排除されます。差別というより、「彼らはミャンマー人ではない」という形で。

タミル人との内戦や差別はよく話題になりますが、スリランカにおけるイスラム教徒・ムーア人はどういう立場にあるのでしょうか・・・・今後、少し関心を持っていこうと思っています。
コメント
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