孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ミャンマー  テインセイン大統領の改革路線

2012-01-06 21:08:17 | ミャンマー

(昨年8月19日のテインセイン大統領とスー・チーさんの会談 二人の後ろの肖像はスー・チーさんの父親で「ビルマ建国の父」とされるアウンサン将軍のようです。 “flickr”より By freeyouth99 http://www.flickr.com/photos/68877352@N08/6257935168/ 

【「彼は真に変化を望んでいる」】
ミャンマーは昨年、民主化に向けて意外なほどの大きな変化を見せましたが、その変革をリードしているのがテインセイン大統領です。

就任当初は、軍政トップだったタンシュエ元議長の忠実な部下という評価で、民政移管したものの実質的軍政が続くと見られていましたが、民主化運動指導者スー・チーさんとの会談や少数民族との停戦交渉、政治囚の一部釈放、メディア規制緩和などを実現、現在はスー・チーさんも「彼は真に変化を望んでいる」と、信頼を表明しています。

政権側の狙いはASEAN議長国就任や欧米諸国による経済制裁解除にあり、その“変革”も不十分で、本物かどうか見極める必要があると言われてはいますが、軍政時代の徹底した弾圧を考えると、十分に評価に値する変革だと思われます。

****リーダーたちの群像〉真の改革者なのか****
■テインセイン ミャンマー大統領
ミャンマー南西部に広がるイラワジ川のデルタ地帯。最大都市ヤンゴンから車と船を乗り継いで10時間余のジョンク村で、大統領テインセイン(66)は幼年期を過ごした。

「目立たないが偉ぶらず、優しい先輩だった」
子どもの頃から親交があった雑貨店主の男性(62)は振り返る。
父が船着き場で荷役労働に汗を流し、母は小さな喫茶店を開いていた。家計は苦しく、兄(72)が学業を断念し、代わりに中学に進んだ。高校卒業後、国軍士官学校に入ったのは学費の心配がいらなかったからだ。(中略)

2011年はミャンマーが新たな時代を切り開いた年といえた。中心にいたのがテインセインだ。3月、軍政からの民政移管で大統領に就任すると、大方の予想に反し、政治犯の一部釈放、メディア検閲緩和などに着手。国際社会はその姿勢を歓迎した。

質素な生活が身についていたためか、「清廉」な印象で語られることが多い。軍政が長引くにつれ軍の一部の腐敗が問題となる中、汚職に染まらなかったことで、軍政中枢に引き上げられたといわれる。1997年に国家平和発展評議会(SPDC)委員となり、第1書記などを歴任した。

■従順さ買われ出世
その一方で、「物静かで野心がない」とされる従順さが、軍政トップだった元SPDC議長タンシュエ(78)に買われたとみる民主化運動家は多い。
07年9月、反政府デモに治安部隊が発砲し、日本人カメラマンが死亡するなど流血の惨事となった際、首相代行を務めていた。タンシュエの子飼いとして忠実にその意向に従っていたとみられる。翌月、病床の首相ソーウィンが死去すると、首相となった。

軍の序列は4位で大将だったが、軍内に強固な基盤を持たない。民政移管前、3位のシュエマンが大統領に就任するとの観測がもっぱらだった。テインセインが登用されたのは、シュエマンに力がありすぎたからだともいわれる。

大統領就任後の動きの中で象徴的なのが、スーチーとの昨年8月の会談だ。
立場の違いを超え、国の発展のために協力をと呼びかけ、スーチーもこれに前向きに応じた。「彼女は今では、大統領を信頼している」(政府筋)

消息筋によるとスーチーは当初、会談に消極的だった。テインセインは、スーチーと親交がある学者を経済担当の大統領顧問に任命。学者がスーチーに書簡を送って説得し、政府主催の経済改革会議への招待を名目に2人を結びつけることに成功した。
会談部屋には「建国の父」と言われるスーチーの父、故アウンサンの写真を飾るなどの心づかいも施し、アットホームな雰囲気がつくられた。

スーチーは昨年11月の記者会見で「彼は真に変化を望んでいる」と述べた。大統領と協力関係を築き、政権から譲歩を引き出す現実路線に転換した。
権力基盤の安定を狙うテインセインも、スーチーとの協力は欠かせない。国民からの信頼を回復し、国際社会にも認められれば、投資を呼び込める。両者の思惑は「協力」で一致した。

■ちらつく軍部の影
ミャンマーは着実に民主化へ歩んでいるように見える。だが、もともと、軍が容認する範囲での「規律ある民主主義」を目指していたタンシュエの描いたシナリオ通りとの見方がある。
NLDが4月に実施される国会補選(約50議席)で大勝したとしても、軍人と元軍人中心の勢力図に影響しない。無理に改革を進めれば、軍の保守派から反発を招く恐れもある。下院議長に就任したシュエマンはテインセイン後を狙っているともいわれる。

テインセイン自身、昨年11月、朝日新聞などと会見した際に「他の国々では民主主義は数百年の歴史を持つ。我が国が同じことをするのは難しい」と、急速な民主化の進展には否定的な考えを明かした。スーチーが全員の釈放を求めている政治犯についても「彼らが『政治犯』や『良心の囚人』と呼ばれることは受け入れられない」と述べた。

それでも、テインセインが国民に一筋の光明を投げかけているのも確かだ。
08年制定の現憲法の扱いが焦点だ。憲法は国会議員の4分の1を軍人とすると規定するなど、軍優位の政治の仕組みを担保している。亡命ビルマ人らのメディア「ビルマ民主の声」のトウゾウラットは「テインセインとレディー(スーチー)がどこまで憲法を改革できるかを見極めねばならない」と語る。【1月6日 朝日】
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ミャンマーの軍政・現政権を認めない立場からは、“ミャンマー”という国名を避けて旧来の“ビルマ”という呼称が使用されてきましたが、上記記事の最後に付された“おことわり 朝日新聞は、ミャンマーの国名を記事で最初に表記する場合、ミャンマー(ビルマ)としていましたが、今後はミャンマーのみとします”という一文が、ミャンマー・テインセイン政権に対する評価の変化を示しているように見えます。

【「依然多くの民主化指導者が刑務所で服役している」】
テインセイン政権は、1月4日の独立記念日に合わせて、受刑者の刑期を短縮する恩赦を実施しました。
死刑は終身刑に、禁錮30年超は30年に、30~20年は20年に減刑、20年未満は刑期の4分の1が免除されるという内容でした。
国際社会が求めていた政治囚については、未だ不十分な内容でした。

****ミャンマー:独立記念日の恩赦 40人にとどまる****
ミャンマーのテインセイン政権が4日の独立記念日に合わせ3日から実施した恩赦で、これまでに釈放された政治囚は全国で約40人にとどまった。
民主化運動指導者、アウンサンスーチーさん率いる最大民主化勢力「国民民主連盟」(NLD)のティンウ副議長は「依然多くの民主化指導者が刑務所で服役している」と述べ、改めて全政治囚の即時釈放を強く求めた。

禁錮65年の刑を受け服役中の学生運動指導者、ミンコーナイン氏(49)ら主要政治囚は釈放されない見通し。米国務省のヌランド報道官は3日、「我々が関心を持つ規模の措置ではない」と述べ、ミャンマーとの関係改善にはさらに多くの政治囚釈放が必要との考えを示した。【1月4日 毎日】
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政権側は昨年10月に政治囚約200人を含む大規模恩赦を実施しており、残る政治囚は約300人としています。
今回の釈放に主要政治囚が含まれていないことについては、“学生運動の元活動家は3日の取材に「スーチーさんが出馬する4月の国会補選を前に全政治囚を釈放すれば、治安の不安定要因になるとの懸念があるのではないか」と指摘した。また、米国はテインセイン政権との関係改善の検討に入り、日本も玄葉光一郎外相が12月の訪問で投資協定締結の意向を表明した。政権側に国際社会の出方を見る余裕が生じている可能性がある”【1月3日 毎日】との見方もあります。

不十分と言えばそれまでですが、共産党批判が許されていない中国、政権に批判的なジャーナリストが不審な死を続けるロシアを始め、欧米的価値観から見て民主化の程度に問題がある国は、世界中にいくらでもあります。
いたずらにハードルを高くして変革への意欲を削ぐより、変革を評価して、今後の更なる動きを後押しする対応の方が賢明なように思えます。

【「日本は乗り遅れますよ」】
日本はこれまで、ミャンマーとの密接な繋がりもあって、欧米諸国の経済制裁とは一線を画し、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきました。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されています。
昨今のミャンマーの“変革”を受けて、玄葉光一郎外相が昨年末にミャンマーを訪問、投資協定締結の意向を表明して関係修復に乗り出しています。

****玄葉外相:日本企業の投資促進…ミャンマー側と交渉へ****
いずれもミャンマー国内は未整備
玄葉光一郎外相は25日、ミャンマーを訪問した。今回の訪問を機に両国は、日本企業の投資を促す「投資協定」締結に向けた交渉入りで合意するなど、経済協力関係を強化する見通し。日本の経済界も「アジアの要衝」に位置するミャンマーへの進出を本格的に準備し始めた。

だが、大型のインフラ整備につながる円借款の再開について政府は、債務問題や経済制裁を続ける米国への配慮から、なお検討に時間をかける方針だ。

「毎日のようにインドや欧州の経済ミッションが押し寄せ、中国も既に進出している。日本は乗り遅れますよ」。今月12日、ミャンマーの首都ネピドーを訪れた日本商工会議所(日商)の視察団員に、ソーテイン工業相はこう畳みかけた。
軍事政権当時から資源や工業団地の開発を行ってきた中国に加え、民政移管後は東南アジアや欧州諸国が徐々に進出。タイの6分の1程度という安価な労働力と、天然ガスなど豊富な資源を持つミャンマーを、日商の西谷和雄国際部長は「魅力が大きい」と語る。

特に、軍政の影響で停滞していた幹線道路「東西経済回廊」「南部経済回廊」の整備が一気に進めば、ミャンマーは中国とインド、東南アジアを結ぶ物流の要衝の地位を固めることになる。経団連も9月の視察団派遣に続き、今月9日には2国間関係の強化に向けて「ミャンマー部会」を設置。進出の機会をうかがう企業を支援する。

ただ、日本貿易振興機構(JETRO)によると、3月以降にミャンマー政府の認可を受けて進出した日系企業はゼロ。西谷部長は「政府のODA(政府開発援助)の本格再開や米国の経済制裁解除などの『お墨付き』がないと民間は出づらい」と言う。

一方、円借款を含むODAの全面再開に政府は慎重姿勢をとり続けている。軍政下でのインフラ整備の遅れを取り戻そうと11月にインドネシアで行われた日ミャンマー首脳会談の際、テインセイン大統領は円借款の再開に期待感を表明した。
しかし、円借款については、87年までに供与した約4000億円のうち約2700億円(日本側算定で元本のみ)が返済されておらず、外務省幹部は「債務問題解決に相当の進展がないと円借款再開はない」と断言する。

米国が経済制裁を続けていることも影響している。クリントン米国務長官が今月1、2日、ミャンマーを訪問するなど、米国も柔軟姿勢を見せつつあるが、制裁解除については「時期尚早」との見解を変えていない。
19日(日本時間20日)にワシントンで行われた日米外相会談で両国は、ミャンマーに連携して対応することを確認した。別の外務省幹部は「経済界の勢いで援助に突き進めば、日本は米国の反発を買い孤立してしまう。対米関係や民主化運動指導者、アウンサンスーチーさんが(日本の支援を)どう受け止めるかも意識しなければならない」と強調。春にも予定される国会補欠選挙で、スーチーさんの率いる「国民民主連盟」(NLD)が議席を獲得するなど、民主化の一層の進展を見極める必要があるとの立場を崩さない。【12年12月25日 毎日】
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「東西経済回廊」とは、ベトナム中部ダナン、ラオス南部、タイ中部、ミャンマー南部モーラミャインを結ぶ、全長1450kmの道路、「南部経済回廊」はベトナム南部ホーチミン市、カンボジア首都プノンペン、タイ首都バンコク、ミャンマー南部ダウェーを結ぶ全長1150kmの道路です。
南北に縦断する形で進出を早める中国に対抗して、日本が主導している東西に横断する形の道路整備ですが、軍政ミャンマーでの整備が遅れていました。

NLD、全48選挙区に候補者擁立
今後を占うスー・チーさん、NLDへの対応については、NLDの政党登録が完了したことが報じられています。
****スーチー氏率いるNLD、政党登録完了 ミャンマー選管****
ミャンマーの連邦選挙管理委員会は5日、民主化運動指導者アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が申請していた政党登録の手続きを完了した。NLD報道官ニャンウィン氏が朝日新聞に語った。

これにともない、NLDは4月1日に実施される国会補選への参加が可能になった。NLDは、地方議会補選の2選挙区を含む全48選挙区に候補者を立てる予定で、スーチー氏自身も立候補の意向を示している。NLDは2010年11月実施の総選挙に参加しなかったため解党扱いになっていた。【1月5日 朝日】
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1 コメント

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Unknown (PW)
2012-01-11 15:33:11
ジョンク村のことは忘れざるを得ないPwです。
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