2日からアメリカを観光旅行中です。
今日は、モニュメントバレーのロッジから朝日を眺めた後、コロラド川が360度回転するホースシューベント、岩の裂け目に差し込む光が美しいアンテロープキャニオンを回り、夕方は壮大なグランドキャニオンで夕日を眺めました。当たり前の感想ですが、アメリカは実に広大な国です。
明日は、朝4時過ぎに起きて、グランドキャニオン内の朝日を眺めるポイントに向かいます。そんな訳で今夜は早く寝ないといけません。(現在、現地アリゾナでは夜の9時半過ぎ)
昨日ブログでも触れたように、モニュメントバレー周辺はアメリカインディアンのナバホ族の居留地で、今日の移動中もいくつかのナバホ族の町を通過しました。
この一帯のナバホ族には、“ロングウォーク”(ナバホ族は“デッドウォーク”とも呼ぶそうです)という痛ましい、アメリカ政府にとっては歴史の汚点とも言うべき過去が存在します。このことを今回旅行で初めて知りました。
“ロングウォーク”とは、1864年、この地に住むナバホ族インディアンがアメリカ政府の施策によって20日以上の徒歩の旅を強いられ、ニューメキシコ州南東部の強制収容所へ移住させられた出来事です。
当然ナバホ族が素直に住みなれた土地を離れる訳はありませんので、その実行には“暴力”が使用され、従わない者には死は与えられました。
それでもなかなか進まないため、この地でのナバホ族の生活基盤をなくしてしまうため、生活の糧であったバッファローの殺戮、家畜の殺害、住居の放火、女性のレイプなど様々な手段が用いられたとのことです。
また、20日以上の徒歩の旅”に耐えられない老人・妊娠女性・病人などは“人道的見地”から処刑されたとか。
連れていかれたニューメキシコ州南東部の強制収容所は荒地で、インディアンが暮らすにはあまりに過酷な土地でした。
更に、アメリカ政府の無知から、インディアン内部の宿敵部族を同一地に収容するという誤りも犯しました。
当時のアメリカ政府の発想としては、農耕など白人文化を教え、英語も教えればインディアンの生活も向上するのでは・・・という発想があったように思われますが、犠牲者を出すだけで全く成果はあがらず、2年で中止されました。
収容されていたナバホ族は再び“ロングウォーク”で故郷に向かいますが、すでにそこは破壊されつくされ、あるいは白人や他部族の土地使用が行われていたりと、新たな問題を起こしています。
今から考えるとインディアンの人権・文化などは全く考慮されていない白人のための施策でしたが、このときのアメリカ大統領でこの施策を命じたのは、あのリンーカン大統領でした。
有名な奴隷解放宣言にリンカーン大統領が署名したが1863年1月、そして“ロングウォーク”に署名したのが翌年1864年1月だそうです。
当時は南北戦争という非常時ではありましたが、リンカーン大統領の行った政治のあまり知れていない一面です。
アメリカでもリンカーン大統領は非常に人気のある政治家ですから、この“ロングウォーク”について、彼はこれを知らなかったと弁護する向きもあるとか。
ただ、百歩譲って“めくらサイン”をして知らなかった、あるいはことの真相を報告されていなかったとしても、それは最高責任者として負うべき責任を軽くするものではないでしょう。
下記は【ウィキペディア】の記載ですが、ここでは“ロングウォーク”を「合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの指示によるインディアン民族に対する民族浄化」と断じています。
****ロング・ウォーク・オブ・ナバホ****
ロングウォーク・オブ・ナバホ(Long Walk of the Navajo)、または「ボスク・レドンドへの長旅」とは、1864年に実行された、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの指示によるインディアン民族に対する民族浄化。
ナバホ族インディアンが米軍によって20日以上の徒歩の旅を強いられ、ニューメキシコ州南東部の強制収容所へ移住させられた。(中略)
1862年までに、合衆国軍は陸軍を当地から撤退させて、再びナバホ族の土地に着目し、連邦の地域の武力支配を再び目論むようになる。
リンカーン大統領の「ナバホ族を強制移住させる」という一連の計画は、当初エドワード・キャンビー将軍によって立案され、ジェームス・H・カールトン准将がその任を受けた。カールトンはナバホ族の土地に金鉱があると睨んでおり、以下のように声明を行ったが、司令者であるリンカーン大統領はこれになんの異議も唱えなかった。
「この戦いはお前たち(ナバホ族)が存在するか、動くのをやめるまで、何年でも続行されるだろう。」
カールトン准将は対ナバホ作戦の指揮官として、対インディアン戦を知り尽くしたキット・カーソン大佐を送り込んだ。カーソンはナバホ族の酋長たちを集め、カールトンの言葉通り、「降伏か、皆殺しか」の二者選択を迫った。ナバホ族は合議の末、白人との戦いを選んだ。
インディアンの戦法に熟知したカーソンは正攻法の戦いは避け、兵糧攻めによる徹底的な焦土作戦を選んだ。カーソンは「ニューメキシコ義勇軍第一騎兵隊」を率いてナバホ族のトウモロコシ畑や小麦の畑、果樹を焼き尽くし、馬とラバを43頭、羊とヤギを1000頭以上奪ったうえ、殺人、強姦、家屋への放火を繰り返した。
ロング・ウォーク・オブ・ナバホ
1864年1月、リンカーン大統領はナバホ族8500人の、300マイル離れた東にあるアパッチ族の強制収容所への徒歩連行を命じる。白人はナバホ族をアパッチ族と混同していたので、敵対する両者をこの同じ収容所に同居させたのである。
米軍によって強制されたナバホ族は、アリゾナ準州東部とニューメキシコ準州西部の伝統の地から、ペコス川流域のサムナー砦 (ボスク・レドンド、ナバホ語でHwééldiとも呼ばれる)へと移動を強制された。
「ロングウォーク」は1863年に始まった。コースはほぼ全域にわたって高地沙漠地帯で、アルバカーキの北でリオグランデ川を越えると、すぐに3000m近い高さの山がそびえるサングレ・デ・クリスト山地が迫り、山を越えたらペコス川沿いに歩くというものであった。18日以上かかった500kmの徒歩の長旅で、少なくとも200名が死んだ。この強制連行の途上で数百人の死者が出たが、そのほとんどが女・子供や老人だった。病人や歩けなくなった老人は、道端に放置されたのである。
こうして約9000名のナバホ族が、範囲104km²の領域に強制定住させられた。1865年春のピーク時にはここに9022名のナバホ族が強制収容された。この収容所は全くの不毛の地で、テントすらなかった。強制収容された彼らは、灼熱の大地に穴を掘ってその中で身を守るしかなかった。
合衆国によるインディアン部族の強制移住の通例として、ボスク・レドンドも深刻な問題を抱えていた。ここにはおよそ400名のメスカレロ・アパッチ族が、ナバホ族より先に収容されていたが、ナバホ族とメスカレロ・アパッチ族は長年の宿敵同士だった。その上、初期の計画ではこの収容所のインディアン収容予定数は5000名だったが、9000名にまで収容者が膨れ上がり、水と薪の供給不足は当初から主要な問題だった。(中略)
このボスク・レドンドでナバホ族は強制労働を課され、女は米軍兵士から強姦され、また乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環境下で死んだ。(後略)【ウィキペディア】(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%9B)
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11月第4木曜日は感謝祭(Thanksgiving Day)ですが、そのいわれについては、一般には次のような心温まる話が知られています。
“(イギリスからの初の移住者である)ピルグリムがプリマスに到着した1621年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、近隣に居住していたインディアンのワンパノアグ族の助力により生き延びることができた。翌1621年の秋は、とりわけ収穫が多かったため、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる” 【ウィキペディア】
この1621から、白人移住者がミシシッピ川を越えてナバホ族居住地にまで及んだ1864年までには、白人移住者と先住民インディアンの間で、心温まる話も血も凍る話も数多くありました。
“ロングウォーク”も同様です。
そして現在に至る訳ですが、アメリカ政府のインディアン対策は現在もうまく機能していないようです。
白人政府とインディアンの間の文化的溝はあまりに大きく、今もなおちぐはぐな結果をもたらしています。
そのあたりは、また別の機会に。
今日は、モニュメントバレーのロッジから朝日を眺めた後、コロラド川が360度回転するホースシューベント、岩の裂け目に差し込む光が美しいアンテロープキャニオンを回り、夕方は壮大なグランドキャニオンで夕日を眺めました。当たり前の感想ですが、アメリカは実に広大な国です。
明日は、朝4時過ぎに起きて、グランドキャニオン内の朝日を眺めるポイントに向かいます。そんな訳で今夜は早く寝ないといけません。(現在、現地アリゾナでは夜の9時半過ぎ)
昨日ブログでも触れたように、モニュメントバレー周辺はアメリカインディアンのナバホ族の居留地で、今日の移動中もいくつかのナバホ族の町を通過しました。
この一帯のナバホ族には、“ロングウォーク”(ナバホ族は“デッドウォーク”とも呼ぶそうです)という痛ましい、アメリカ政府にとっては歴史の汚点とも言うべき過去が存在します。このことを今回旅行で初めて知りました。
“ロングウォーク”とは、1864年、この地に住むナバホ族インディアンがアメリカ政府の施策によって20日以上の徒歩の旅を強いられ、ニューメキシコ州南東部の強制収容所へ移住させられた出来事です。
当然ナバホ族が素直に住みなれた土地を離れる訳はありませんので、その実行には“暴力”が使用され、従わない者には死は与えられました。
それでもなかなか進まないため、この地でのナバホ族の生活基盤をなくしてしまうため、生活の糧であったバッファローの殺戮、家畜の殺害、住居の放火、女性のレイプなど様々な手段が用いられたとのことです。
また、20日以上の徒歩の旅”に耐えられない老人・妊娠女性・病人などは“人道的見地”から処刑されたとか。
連れていかれたニューメキシコ州南東部の強制収容所は荒地で、インディアンが暮らすにはあまりに過酷な土地でした。
更に、アメリカ政府の無知から、インディアン内部の宿敵部族を同一地に収容するという誤りも犯しました。
当時のアメリカ政府の発想としては、農耕など白人文化を教え、英語も教えればインディアンの生活も向上するのでは・・・という発想があったように思われますが、犠牲者を出すだけで全く成果はあがらず、2年で中止されました。
収容されていたナバホ族は再び“ロングウォーク”で故郷に向かいますが、すでにそこは破壊されつくされ、あるいは白人や他部族の土地使用が行われていたりと、新たな問題を起こしています。
今から考えるとインディアンの人権・文化などは全く考慮されていない白人のための施策でしたが、このときのアメリカ大統領でこの施策を命じたのは、あのリンーカン大統領でした。
有名な奴隷解放宣言にリンカーン大統領が署名したが1863年1月、そして“ロングウォーク”に署名したのが翌年1864年1月だそうです。
当時は南北戦争という非常時ではありましたが、リンカーン大統領の行った政治のあまり知れていない一面です。
アメリカでもリンカーン大統領は非常に人気のある政治家ですから、この“ロングウォーク”について、彼はこれを知らなかったと弁護する向きもあるとか。
ただ、百歩譲って“めくらサイン”をして知らなかった、あるいはことの真相を報告されていなかったとしても、それは最高責任者として負うべき責任を軽くするものではないでしょう。
下記は【ウィキペディア】の記載ですが、ここでは“ロングウォーク”を「合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの指示によるインディアン民族に対する民族浄化」と断じています。
****ロング・ウォーク・オブ・ナバホ****
ロングウォーク・オブ・ナバホ(Long Walk of the Navajo)、または「ボスク・レドンドへの長旅」とは、1864年に実行された、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの指示によるインディアン民族に対する民族浄化。
ナバホ族インディアンが米軍によって20日以上の徒歩の旅を強いられ、ニューメキシコ州南東部の強制収容所へ移住させられた。(中略)
1862年までに、合衆国軍は陸軍を当地から撤退させて、再びナバホ族の土地に着目し、連邦の地域の武力支配を再び目論むようになる。
リンカーン大統領の「ナバホ族を強制移住させる」という一連の計画は、当初エドワード・キャンビー将軍によって立案され、ジェームス・H・カールトン准将がその任を受けた。カールトンはナバホ族の土地に金鉱があると睨んでおり、以下のように声明を行ったが、司令者であるリンカーン大統領はこれになんの異議も唱えなかった。
「この戦いはお前たち(ナバホ族)が存在するか、動くのをやめるまで、何年でも続行されるだろう。」
カールトン准将は対ナバホ作戦の指揮官として、対インディアン戦を知り尽くしたキット・カーソン大佐を送り込んだ。カーソンはナバホ族の酋長たちを集め、カールトンの言葉通り、「降伏か、皆殺しか」の二者選択を迫った。ナバホ族は合議の末、白人との戦いを選んだ。
インディアンの戦法に熟知したカーソンは正攻法の戦いは避け、兵糧攻めによる徹底的な焦土作戦を選んだ。カーソンは「ニューメキシコ義勇軍第一騎兵隊」を率いてナバホ族のトウモロコシ畑や小麦の畑、果樹を焼き尽くし、馬とラバを43頭、羊とヤギを1000頭以上奪ったうえ、殺人、強姦、家屋への放火を繰り返した。
ロング・ウォーク・オブ・ナバホ
1864年1月、リンカーン大統領はナバホ族8500人の、300マイル離れた東にあるアパッチ族の強制収容所への徒歩連行を命じる。白人はナバホ族をアパッチ族と混同していたので、敵対する両者をこの同じ収容所に同居させたのである。
米軍によって強制されたナバホ族は、アリゾナ準州東部とニューメキシコ準州西部の伝統の地から、ペコス川流域のサムナー砦 (ボスク・レドンド、ナバホ語でHwééldiとも呼ばれる)へと移動を強制された。
「ロングウォーク」は1863年に始まった。コースはほぼ全域にわたって高地沙漠地帯で、アルバカーキの北でリオグランデ川を越えると、すぐに3000m近い高さの山がそびえるサングレ・デ・クリスト山地が迫り、山を越えたらペコス川沿いに歩くというものであった。18日以上かかった500kmの徒歩の長旅で、少なくとも200名が死んだ。この強制連行の途上で数百人の死者が出たが、そのほとんどが女・子供や老人だった。病人や歩けなくなった老人は、道端に放置されたのである。
こうして約9000名のナバホ族が、範囲104km²の領域に強制定住させられた。1865年春のピーク時にはここに9022名のナバホ族が強制収容された。この収容所は全くの不毛の地で、テントすらなかった。強制収容された彼らは、灼熱の大地に穴を掘ってその中で身を守るしかなかった。
合衆国によるインディアン部族の強制移住の通例として、ボスク・レドンドも深刻な問題を抱えていた。ここにはおよそ400名のメスカレロ・アパッチ族が、ナバホ族より先に収容されていたが、ナバホ族とメスカレロ・アパッチ族は長年の宿敵同士だった。その上、初期の計画ではこの収容所のインディアン収容予定数は5000名だったが、9000名にまで収容者が膨れ上がり、水と薪の供給不足は当初から主要な問題だった。(中略)
このボスク・レドンドでナバホ族は強制労働を課され、女は米軍兵士から強姦され、また乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環境下で死んだ。(後略)【ウィキペディア】(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%9B)
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11月第4木曜日は感謝祭(Thanksgiving Day)ですが、そのいわれについては、一般には次のような心温まる話が知られています。
“(イギリスからの初の移住者である)ピルグリムがプリマスに到着した1621年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、近隣に居住していたインディアンのワンパノアグ族の助力により生き延びることができた。翌1621年の秋は、とりわけ収穫が多かったため、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる” 【ウィキペディア】
この1621から、白人移住者がミシシッピ川を越えてナバホ族居住地にまで及んだ1864年までには、白人移住者と先住民インディアンの間で、心温まる話も血も凍る話も数多くありました。
“ロングウォーク”も同様です。
そして現在に至る訳ですが、アメリカ政府のインディアン対策は現在もうまく機能していないようです。
白人政府とインディアンの間の文化的溝はあまりに大きく、今もなおちぐはぐな結果をもたらしています。
そのあたりは、また別の機会に。
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