孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

モルドバ  広がるコソボ独立の波紋

2008-02-19 18:28:18 | 国際情勢
海外からは、昨日に引き続きコソボ関連のニュースが多数。
コソボのサチ首相は臨時議会で「コソボは独立した主権国家となることを宣言する。民主的、世俗的で多民族の国家となり、EU加盟を目指す」とアルバニア語で宣言を読み上げました。

しかし、国内に主数民族問題・分離独立運動などを抱える国々は、コソボ独立でそれらが刺激されるのを警戒して反対の姿勢をとっています。
台湾・チベット・ウイグルの問題を抱える中国、バスク分離運動を抱えるスペイン、タミル人のLTTEと戦闘状態にあるスリランカ、昨日とりあげたギリシャ・トルコ系住民の分断国家状態のキプロスなど。
一方、独立志向の強い台湾はコソボ独立を歓迎。
まさに、“波紋”という言葉がぴったりの状態です。

コソボの後ろ盾となっている、EU諸国・アメリカは独立承認に動いています。
アメリカはライス長官が正式承認を声明。
EU内ではスペイン・キプロスなどが反対の立場を崩していませんが、「独立不支持」を表明していた6カ国のうちブルガリアは「承認を検討」、スロバキアは「4カ月以内に判断」と軟化しているようです。

EU諸国は、“民族浄化”や“強制収容所”という言葉で過去の悪夢を思い起こさせたミロシェビッチのセルビアをNATO軍による空爆で叩き、今日のセルビア・コソボの状態をつくった当事者ですから、傍観という訳にはいかないのでしょう。

EUは18日、ブリュッセルで外相理事会を開き、総勢2000人規模の文民使節団のコソボ派遣開始を承認、
国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)に代わり6月中旬から新国家の行政・司法を監督する役割を担う予定です。
ロシアは「UNMIKが権限を手放すなら新たな決議が必要」と非難していますが、EUは、UNMIKの存在を形式的に残し、その権限をEUが実質的に取って代わるという法運用でこの条項を切り抜けようとしているとか。

EUがこうした“奇策”を使ってまでコソボ独立支援にこだわる背景には、第1次世界大戦の発火点にもなった「西バルカンの紛争の火種を恒久的に封印する」(サルコジ仏大統領)という欧州諸国の強い決意があるとも報じられています。【2月19日 読売】

最大の後ろ盾アメリカは、「米国は全当事者に対し、最大限自制し、いかなる挑発行為も控えるよう求める」と、コソボ領内のセルビア人保護に配慮するように意見してはいるようです。
国歌もセルビア人を刺激するのでアルバニア語のものは止めて、ベートーベンの“歓喜の歌”にさせるとか・・・。
サチ首相とセイディウ大統領は演説の一部にセルビア語を使って「少数派の権利を保障する」などと話し、セルビア人への配慮を見せたそうですが、この配慮が国民末端まで徹底されるのか・・・。
 
一方のロシアは、同じスラブ系というセルビアへの親近感もありますが、この問題を通じて国際政治上の存在感を誇示する思惑だそうで、“コソボが独立を認められるのなら、こちらだって・・・”という理屈で、旧ソ連近隣国からの独立を目指す「非承認国家」(分離派地域)に対する支援を強め、旧ソ連圏での勢力回復も狙うとか。

具体的には、グルジアのアブハジアと南オセチア、モルドバの沿ドニエストルといった親ロ的な分離独立派地域があります。


(ルーマニアとウクライナにはさまれた緑部分がモルドバ)

モルドバはもともと隣国ルーマニアと一体となった地域で、民族・言語的にもほぼルーマニアと共通したものがあります。
極力簡単に言うと、歴史的にはオスマントルコ、帝政ロシア、ルーマニア、ソ連と支配者が変遷し、91年のソ連崩壊時にモルドバ共和国として独立しました。
(モルドバについては、服部倫卓氏の“ユーラシア巡見” http://www.geocities.jp/hmichitaka/g200611moldova.pdfに詳しく、参考にさせていただきました。)

しかし、国の東部に位置するドニエスル川東岸地域(別称:トランスニストリア、トランスドニエストル)にはロシア人・ウクライナ人が多く居住しており(ルーマニア(モルドバ)人、ロシア人、ウクライナ人が各々約30%)、91年に「沿ドニエストル共和国」として独立を主張、ロシア・ウクライナ・沿ドニエストル合同の平和維持軍によって停戦監視が行われています。
グルジアのアブハジアと南オセチア同様、国際的には国家として承認されていませんが、モルドバの実効支配が及んでおらず、ロシアの傀儡政権的な状態にあります。

このトランスニストリアでは、06年に「モルドバ共和国から独立し、その後自発的にロシアに加入する」か、「独立を断念し、モルドバ共和国に加入する」か・・・という住民投票が実施され、前者は97%の圧倒的多数の賛成を集め、後者は95%の反対だったとか。
しかし、この投票は2~3倍に水増しされたか、全くの捏造であるとの調査報告があり、ロシア以外は認めていません。

モルドバは独立後の急速な市場経済化で従来の国営企業を中心とした経済体制が崩壊、“ヨーロッパの最貧国”と呼ばれる状態に陥りました。
現在、共産党が政権を担当し、現実的政策で少しずつ立て直してきてはいるようで、将来的にはEU加盟を目指しています。

それでも、世界銀行によると、1日1ドル以下で暮らす人が国民の2割、2ドル以下でみると6割弱を占める状態で、海外への出稼ぎで暮らしを支えていると言われています。
ただ、国家予算規模にも匹敵するこの海外からの送金のため、実際の暮らしは統計上の数字ほどひどくない・・・という見方もあります。
(モルドバの経済活動人口が140万人程度であるのに対し、国外での就業者は50万人~100万人。
これによりモルドバにもたらされる収入は年間10億ドル。
なお、2005 年の時点で、モルドバの国家予算の規模が12億ドル、商品輸出総額が11億ドル)
モルドバの窮状は、女性の「人身売買」の横行という問題でも常々話題になるところです。

「沿ドニエストル共和国」問題で対立するロシアは、天然ガス価格の値上げ、最大の輸出品であるワインの禁輸(国際的品質基準を満たしていないという理由)で、モルドバに圧力をかけており、苦しい経済を更に困難にしています。

先述のとおり、歴史的にも、民族・言語的にもルーマニアと一体的な関係にありますので、91年の独立時から、“将来的にはルーマニアとの統合”ということがモルドバ・ルーマニア双方に想定されていました。
しかし、ルーマニア自身がモルドバを支える余裕が経済的になかったことも背景にあって、別々の道を歩みました。
(現在でも、モルドバからの膨大な出稼ぎ労働者はルーマニアには殆ど向かいません。文化・言語が共通でもルーマニアには働き口がありませんから。)

その後の歩みのなかで、モルドバ側の“統合”への熱意は冷めてきているようです。
94年に採択された憲法はルーマニア語からモルドバ語へ変更され、国歌も変更されました。
96年には、公用語をルーマニア語に変えるという大統領提案も議会で否決されました。

一方のルーマニア側は、経済的にはモルドバほどひどくはないこともあってか、また、昨年1月にはEU加盟もはたしたこともあって、モルドバ統合の熱意はまだそれほど冷めていないようです。
06年7月にはルーマニアのバセスク大統領は「EU内でのルーマニアとモルドバの統合」実現に向けて、モルドバ国民への熱いメッセージを発表しています。

このあたりの空気は微妙なものがあります。
いくら近い関係にあるからと言って、すぐに“統合”に向かうものではないことは、卑近な例ですが、“平成の大合併”で見られたいろんな事案を見ればあきらかです。
私が暮らす奄美大島は旧名瀬市以外に3町・3村がありましたが、さんざん揉めた挙句、合併に応じたのは1町・1村だけでした。
近ければ近いで対抗意識もありますし、合併後の不安もあります。
国家同士でも話は似たようなものでしょう。

ルーマニアは、「沿ドニエストル共和国」を正当化させかねないとして、コソボ独立に反対してきました。
しかし、一方でバセスク大統領は、コソボ独立を容認する代わりに「トランスニストリアを分離したモルドバとルーマニアを統一するよう米露と協議中」と国内では報道されているそうです。【2月18日 IPS】
コソボの広げる波紋のひとつです。

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キプロス  異文化統合に向けて、大統領選挙で見せた民意は?

2008-02-18 16:26:12 | 国際情勢
昨夜から今日にかけては、国際関係のニュースは当然ながらコソボ独立の話題であふれています。
コソボ独立は、一方では少数民族、分断国家の分離を加速させる恐れがあることを危惧するむき、あるいはその方向で圧力を強めようする動き、いろいろあります。

昨日17日、エーゲ海の小さな島国キプロスで大統領選挙が行われました。
“分離・独立”への動き・内紛が世界中あちこちで広まっているなかで、少しそれとは異なる判断をキプロス国民は示したようにも見えます。

***南北統合慎重派の現職敗退 キプロス大統領選決選投票へ****
南北分断が続く地中海キプロス島のギリシャ系キプロス共和国(キプロス)で17日大統領選が行われ、トルコ系の北キプロス・トルコ共和国(北キプロス)との統合に慎重な現職のパパドプロス大統領(74)が激戦の末、3位で敗退した。1位で保守系のカスリデス元外相(59)と2位のフリストフィアス労働人民進歩党党首(61)が24日の決選投票に進む。ともに北キプロスとの対話を訴えており、統合問題に大きな影響を及ぼしそうだ。
大統領選では、04年の国民投票で国連の仲介案が否決されて以来膠着(こうちゃく)状態に陥っている統合問題が最大の争点だった。 【2月18日 朝日】
**********************************

昨日ジブチについて“小さい”と書きましたが、キプロスはもっと小さく、私が暮らす鹿児島県と同じぐらい。
住民は正教徒のギリシャ系が78%、イスラム教徒のトルコ系が18%。

もともとはイギリス植民地。
大戦後、ギリシャ系住民がギリシャへの併合を希望、一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張、イギリス・ギリシャ・トルコの3か国の間でキプロスの帰属が協議されました。
その結果、中間案としてキプロスの独立が3国間で合意され、1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立しました。【ウィキペディア】

マカリオス大統領が63年、憲法を改正してトルコ系住民の権利を制限しようとしたことから内戦がぼっ発、国連平和維持軍の駐留でとりあえず武力衝突はおさまりました。
しかし、74年、ギリシャ本国に誕生した軍事政権が、キプロス共和国の反大統領派を後押ししてキプロスでクーデターを起こしました。
これに対抗して、トルコ本国はトルコ系住民の保護を名目に軍事進駐、こうして分断が始まります。

この結果、島の北側3分の1がトルコ系住民の領土、残る南側3分の2がギリシャ系住民の領土となりました。
以前は両民族が混住していましたが、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ほぼ完全な住み分けが出来上がりました。
南北間には、南北の衝突を抑止するため国連の引いた緩衝地帯(通称グリーンライン)が設けられています。
(なお、イギリスの直轄する軍事基地も残存しています。)

トルコの支持を得たトルコ系住民は翌75年、キプロス共和国政府から分離して“キプロス連邦トルコ人共和国”を発足させ、ギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求しました。
しかし、南北間の交渉は進展せず、キプロス連邦トルコ人共和国は83年“北キプロス・トルコ共和国”として独立を宣言します。
この“北キプロス”を承認しているのは、当時も今もトルコ1国のみです。

大体どんな問題でも、関係国の対立・利害関係から、双方にいくらかの“応援団”がつくのが普通ですが、どうして“北キプロス”承認がトルコだけなのか・・・その経緯はよくわかりません。
トルコはよほど他のイスラム国に信頼がないのでしょうか?それとも明らかにトルコの横暴と国際的に評価されたのでしょうか?

南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索は行われましたが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされませんでした。

マイノリティーのトルコ系住民側にしてみれば、マジョリティーのギリシャ系に呑み込まれるのではないかという不安が根底にあります。
しかし、経済的格差は歴然としており、国際社会からも受け入れられない現状では打開は困難です。
従って、連邦制という形で自己のアイデンティティーは確保しつつ南との一体化で経済格差を解消したいという思いがあります。

逆に、ギリシャ系住民側には、経済水準が格段に落ちる北側とは今更一緒になりたくないという事情があります。内戦で家族・肉親を殺された双方の遺恨もあります。
なによりキリスト教とイスラム教という相容れ難い文化の違いが両者間にはあります。

キリスト教文化の点でギリシャ系キプロス共和国に親近感を持ち、これを支持するヨーロッパ諸国。
アメリカは少し微妙。以前は対ソ連、今は中東戦略の要としてトルコとの関係を良好に保ちたいという思惑があります。

事態が動き始めるのが、キプロス共和国のEU加盟問題。
EUとしては分断国家のままでの加盟は不安定化の要因になると考え、トルコもキプロスがトルコ系住民も加わったうえでEU入りすることを望みました。

こうした背景を受けて国連主導による再統一交渉が始まり、当時のアナン国連事務総長が以下の調停案を示しました。【2004年4月26日 IPS】
・北側に帰還するギリシャ系住民数の制限。
・北側でのギリシャ系住民の所有権(土地など)の制限。
・国会(1院制)の議席数は両者(トルコ系、ギリシャ系)同数。
・トルコ軍駐留は向こう7年間認める。

ギリシャも統合を支持し、トルコは悲願のトルコ本国のEU加盟実現のためにも、統合でトルコ系住民を含んだキプロスのEU加盟を切望しました。
しかし、全体としてギリシャ系住民に大きな譲歩を求める内容で、キプロスのギリシャ系住民は強く反発。
大統領選では、当時のクレリデス大統領を「圧力に妥協した」と批判した統合反対派のパパドプロス氏(今回の選挙で敗退)が当選。

04年、統合の是非を問う南北同時住民投票が実施されましたが、ギリシャ系の南側の反対多数(反対が76%)という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数(賛成が65%)にもかかわらず否決されました。
この結果、南のキプロス共和国のみがEU加盟することになりました。
その後、南のキプロス共和国で2回行われた総選挙はいずれも統合反対派が勝利し、統合への交渉は進展していません。

依然としキプロス共和国を承認しないトルコにとっては、キプロス問題が自国のEU加盟の大きなハードルになっています。
06年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因でトルコEU加盟交渉が一部凍結される事態となりました。

このキプロス問題をEU加盟の踏み絵にするEU側の対応については、イスラム教国のトルコ加盟を本音としては認めたくないEU側が無理難題を敢えてつきつけている・・・という見方もあります。
EUのある委員は「トルコは中東とのバッファ(緩衝地帯)となるためにも外にいてもらいたい」といった発言をしているとか。

上記のような経緯をたどって分断が継続しているキプロスですが、これまで統合に背を向けていた南のキプロス共和国で今回統合推進派の2名が決選投票に残り、統合反対派の現職大統領が得票率31%あまりで落選するというのは、キプロス住民にどういった変化があったのか、なかったのか?
いずれにせよ、これを機に統合への話が進むのであれば、また、キリスト教とイスラム教の融和という壮大なテーマに向けたささやかな一歩となるのであれば、歓迎したいものです。
なお、キプロスはコソボ独立には反対の立場をとっており、キプロス外相は「コソボ独立承認は、世界中の分離独立運動に正当性を与える“パンドラの箱を開ける行為”」と批判しています。

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エチオピア、エリトリア、そしてソマリア

2008-02-17 11:43:49 | 国際情勢
アフリカのエチオピア・エリトリア国境で緊張が高まっているというニュースがありました。

***PKO部隊が一時撤収=エリトリア****
国連は14日、エチオピア・エリトリア間の停戦を監視する平和維持活動(PKO)、国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)の所属部隊がエリトリア領内の駐留地から国境を越えて移動を始めたと発表した。両国は国境付近に軍を集結させており、UNMEE撤収により、現地の緊張が一段と高まるのは必至だ。【2月15日 時事】
***********************

国連によると、エリトリア軍はエチオピアへ向かう国連部隊に対し、越境を制限したり、食糧供給を中断させたりする妨害行為を繰り返しているそうです。
エリトリアの了解を得ないままの撤退や、エチオピア寄りの姿勢に不満を募らせて妨害行為に及んだとみられています。
停戦監視団が撤退するのですから、また紛争再開でしょうか。



エリトリアは30年間にわたるエチオピアからの独立闘争を経て、1993年に独立を達成しました。
しかし、エリトリアの独自通貨発行や内陸国となったエチオピアによるエリトリア港湾の使用料の交渉が難航したことなどで、両国の関係はふたたび険悪化。
やがて国境沿いにある都市バドメ周辺の所有をめぐり98年交戦状態にはいりました。

お互い経済的に苦しい国で、“身の丈にあわない戦争”が地域を破綻させるとして、国連・アフリカ統一機構が介入。
2000年には休戦が合意されました。
国連からPKOが派遣され、国境付近には、国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)の管理下の暫定安全地帯として幅25kmの緩衝地帯が設置され、国連要員を除く全ての人間の立入りが禁止されていました。【ウィキペディア】

両国は国境付近での直接的な対立だけでなく、ソマリアにおいても互いの影響力を行使して衝突しており、ソマリアの内戦はエチオピア・エリトリアの代理戦争の側面もあると言われています。

以前も触れたように、エチオピアに隣接する“アフリカの角”と呼ばれるソマリアは、氏族間・イスラム原理主義勢力などの内戦、エチオピアの介入によって、“無政府状態”が17年間続いています。
8月13日 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070813
7月19日 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070719

06年にはイスラム原理主義勢力「イスラム法廷会議」が勢力を拡大して首都を制圧するまでになりましたが、これに危機感を持った隣国エチオピアが軍事介入して同勢力を一応駆逐しました。
これに対し、アルカイダはイスラム法廷会議を支援、更にエリトリアがこれら勢力に武器支援を行っていると言われています。
また、ブラックホークのトラウマを抱えるアメリカは、98年のケニアとタンザニアでの米大使館爆破テロの容疑者をソマリアのイスラム武装勢力がかくまっていると主張して、エチオピアの軍事介入を支援、エリトリアを非難しています。

エチオピアがソマリアに介入するのは、ひとつはエチオピアが港湾を利用できるように穏健な勢力がソマリアにできることを望んでいること、もうひとつはイスラム武装勢力がエチオピア国内のオガデン地方の反政府運動を刺激・支援しているためです。

オガデン地方にはソマリアと民族的に共通する住民が居住しており、以前からエチオピアからの独立志向があります。
1978年から88年には、エチオピアとソマリアの間でこのオガデン地方領有をめぐりオガデン戦争(アフリカの角戦争)が勃発しました。
この戦争は当時の東西冷戦の代理戦争でもありました。
当時社会主義路線をとっていたエチオピアをソ連、キューバが支援、一方、ソマリアをアメリカ、ソ連と対立する中国が支援。
戦争自体は、米ソ関係の修復、ソマリア国内の内紛によって収束しましたが、オガデン地方がエチオピアにとって、エリトリア国境と並ぶ火薬庫であることには今も変わりありません。

そんな経緯で、ソマリアの暫定政権を支援するエチオピア、アメリカ、これに対するイスラム武装勢力、エリトリア・・・という対立構図がソマリアにあり、ソマリアの再建が進みません。

このように、エチオピア・エリトリア国境対立、ソマリアの無政府状態、エチオピアのオガデン地方の内紛・・・この三者が連動して泥沼状態から抜け出せずにいます。
なんとも言いようのない状態ですので、最後に余談をひとつ。

この地域の地図を見ていて初めて気づいたのですが、エチオピア、エリトリア、ソマリアに囲まれる形で、この地域にはもうひとつ小さな国があります。
ジブチです。
冒頭の地図では小さすぎて名前も出てきません。エリトリアとソマリアにはさまれたイエメン対岸のポイントに位置します。
面積は四国よりひとまわり大きいくらいです。
昔、マラソンの選手で名前を聞きましたが、こんな場所にあるとは知りませんでした。
フランス軍が駐留しているようですが、それにしても、火薬庫に取り囲まれたようななんとも厄介な地域に存在する小国です。


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タイ・ロシア  二人の“後継者”

2008-02-16 16:13:14 | 国際情勢
近頃気になるふたりの後継者。
ひとりはタイのサマック新首相、もうひとりはロシア大統領が内定しているメドベージェフ第1副首相。

軍部クーデターで国外追放中のタクシン前首相に代わって、昨年からタクシン派を率いて総選挙に勝利し、新内閣を組閣したサマック首相。
今月2日の当ブログでも触れたように、もともとはタクシン前首相とは政敵の関係にもあった大物政治家で、過去に大臣、副首相を歴任した前バンコク知事でもあります。

恐らく二人の関係は“後継者”という言葉はふさわしくないのでしょう。
お互いに相手を利用して当面の利益を得るため、とりあえずサマック首相は“タクシン前首相の政策継承”を掲げて選挙を戦った・・・ということで、選挙勝利後はどちらが実権を握るのか、第二ラウンドの開始。
選挙戦では「タクシン氏の代理人」と称したサマック首相ですが、最近は「わたしがタイの真の首相で、タクシン氏の操り人形ではない」と不快感をあらわにするなど、タクシン氏と距離を置く発言が目立ち始めているそうです。

新内閣の運輸相人事で確執があったようですが、これは結局タクシン前首相が押し切るかたちで決着。
しかし、サマック首相は新内閣発足前の段階で、「(今度の内閣は)少し不格好だ」と述べ、早くも内閣を改造する考えを口にしたとも伝えられています。
また、選挙期間中は「資産調査委員会によるタクシン氏の汚職疑惑調査をやめさせる」主張し、5年間の公民権停止を命じられているタクシン氏らに対する恩赦も訴えていましたが、首相に就任すると「汚職調査には介入しない」と態度を一変。
恩赦も「急ぐ必要はない」と軌道修正し、タクシン氏の影響力排除に躍起になっているとか。【2月12日 時事】

一方のタクシン前首相はクーデター首謀者のソンティ前陸軍司令官とも緊密な電話とりあっているようで、軍部との“和解”を進めているようです。
5月には帰国との報道もされています。
タクシン前首相とサマック新首相、いささか“狸”と“狐”という感がありますが・・・。

プーチン大統領の次の大統領に就任する予定のメドベージェフ第1副首相ですが、こちらもタイとは別な意味で、“後継者”という言葉はあてはまらないようです。
なにしろ、プーチン大統領が現役首相として権力を握り続けるつもりですので、“後継”もなにもありません。

プーチン大統領は、NATOの東方拡大や、アメリカが東欧諸国に配備を計画するミサイル防衛(MD)システムを改めて批判し、「世界で新しい軍拡競争が始まっている」と警告。
“新軍拡競争”について、「我々のせいではない」と述べた上で、「こうした新たな挑戦に対し、ロシアはいつでも対応策を示すことができる」と、ハイテク兵器などで対抗する考えを示しています。
特にNATO加盟を目指すウクライナや、アメリカのミサイル防衛基地の受け入れを計画しているチェコやポーランドについて「脅威」とみなすことができる国だとして、“ミサイル攻撃も辞さない”と警告したそうです。【2月15日 AFP】

穏やかならざる表現ですが、今後アメリカの独走を阻止し、ロシアの国際的復権を目指して取り組む方向で、やる気満々のようです。
比較的リベラルとも言われるメドベージェフ氏ですが、プーチン大統領の敷いた“新軍拡競争”、“新たな米ロ対立”の方向で進んで行くことになるのでしょう。

ロシアでは、慣例として全国の政府関連施設に新大統領の肖像写真が飾られるそうです。
しかし、プーチン大統領は、大統領の写真を掲げて忠誠を示す慣習について肯定しつつも、「メドベージェフ氏が大統領に当選した場合、彼との関係を築くために彼の写真を掲げる必要は特にない」と述べ、新大統領の写真を自身の首相執務室には掲げない考えを示唆したそうです。【2月15日 AFP】

プーチンは本当にそのような趣旨で発言したのでしょうか?
そうだとすれば、“そこまで言うかな・・・”という感じで、日本人的感覚としては“奢れる者は久しからず・・・”なんて思ってしまいますが。
プーチン大統領は、後継候補にメドベージェフ氏を選んだ理由について「ロシアの指導者として恥ずかしくない人物である」と述べると同時に、「怖くない人物だからだ」とも語ったそうですが【2月15日 産経】、“怖くない人物”というのはどういう趣旨でしょうか?。

メドベージェフ次期大統領は、向こう4年間の任期中に技術革新や投資拡大を促す七つの政策を列挙しています。
石油、天然ガス部門では、近代技術を導入してエネルギーの安定供給に努める。
各種公共事業の民営化を進める一方で、原子力、航空、造船部門などで政府系企業の効率経営を図り、国際市場に進出する。
潤沢な石油、ガス収入を背景に、ロシア金融市場を「世界の金融センターの一角」に成長させると宣言し、通貨ルーブルの国際的な信用力を高める。
等々。
ただ、政策の中身はプーチン政権の政策を踏襲しているものだそうです。【2月15日 読売】

一方、官僚組織に巣くう腐敗一掃へ向けた「真の戦闘をしかける」と表明し、これは政権内で汚職に染まっていると度々批判される「シロビキ」(治安・情報機関出身者)派への攻撃開始宣言ともみられています。
特に、プーチン大統領の側近の一人で、シロビキ派トップのセチン大統領府副長官への攻撃が念頭にあるものと理解されており、今後の権力闘争が予想されます。【2月15日 毎日】
これも、プーチン大統領のシナリオなのでしょうか?

“偉大なプーチン”の影で“やりにくいのでは・・・”と思いますが、もともとプーチン大統領の子飼いの存在ですから、あまりそのあたりは気にならないのかも。
ただそうは言っても、ここまで上り詰める人ですから、それなりに能力も見識も野心もある人物なのでしょう。
今後常々“プーチンの操り人形”と揶揄されることについてどう思うでしょうか。
やがて、自分独自の思い・政策を主張する日も・・・どうでしょうか?
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パキスタン  18日国民議会選挙、大統領と距離を置き始めた軍部

2008-02-15 14:36:41 | 国際情勢
パキスタンでは今月18日に国民議会(下院)・州議会選挙が行われます。
全国約6万4000カ所の投票所のうち、イスラム過激派の活動が活発な北西辺境州やアフガニスタン国境の部族地域を中心に、治安維持のため約2万8000カ所が軍の警備下に置かれるそうで、すでに6万人規模の軍が配備されています。【2月12日 時事】
党首のブット元首相を痛ましいテロで失ったパキスタン人民党も、先週末あたりから選挙運動を再開しています。

これまで、先月24日には有力野党指導者、シャリフ元首相の車列が通過を予定していたペシャワルの道路上で時限爆弾が発見されるという事件もありました。
また、北西辺境州チャルサッダで9日、野党アワミ民族党が開いていた集会会場で爆発があり、25人が死亡、20人以上が負傷しました。

無事に18日の投票が行われることを願いますが、選挙戦をめぐる報道はブット元首相という“カリスマ”を失ってから萎んでしまったような雰囲気も。
一方、一般庶民にとっては、選挙よりも食料品などの物価上昇に伴う生活苦のほうが問題のようです。

選挙結果については、ブット元首相を失ったパキスタン人民党(PPP)に同情票が集まるのでは・・・という見方もありますが、どうでしょうか。
ただ、ブット元首相のいないPPPは政権を獲得してもリダーシップを発揮できる人材がいるのか不安があります。

イスラム主義政党とも協力関係にあるシャリフ元首相が支持を集めれば、パキスタン国内でのイスラム主義勢力の更なる台頭も予想されます。

ムシャラフ大統領の支持母体の与党は、あまり人気がないようで苦戦が予想されています。
ムシャラフ大統領の政権運営は厳しいものがありそうですが、そのあたりを見越しての動きでしょうか、軍部もムシャラフ大統領とは距離を置き始めた・・・という報道もあります。

****軍、政治に関与せず=新参謀長が方針*******
パキスタンのムシャラフ大統領から昨年11月に軍トップの座を引き継いだキアニ陸軍参謀長が、政治や行政への軍の関与を控える方針を鮮明にし始めた。
1月、政治家との会合や懇談を禁じる通達を将校に出したのに続き、今月11日には中央省庁を含む文民組織に「出向」中の将校約300人に対し、軍への復帰を命じた。
大統領による一連の強権措置で軍の威信は大きく低下している。参謀長の方針転換は威信回復と組織の引き締めが狙いだが、「ムシャラフ大統領と距離を置き始めたことを示す兆候」との見方も出ている。 【2月13日 時事】
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ムシャラフ大統領と“心中”する気はない・・・ということでしょうか。
軍の支持が弱まるとムシャラフ大統領はますます苦しい事態になります。
アメリカは“民主化”要求のもとで、ムシャラフ大統領に軍服を脱ぐように強く迫りましたが、アメリカが“テロとの戦い”における要と最重視するパキスタンの情勢にどう影響するか・・・。

アメリカの民主化要求、その後の国内混乱という図式はあちこちで見られます。
パレスチナでのハマス内閣、エジプトのイスラム勢力台頭、イラクの混迷もそのような線で見ることもできます。
もちろん、民主化自体はよいことでしょうし、強権的に押さえ込んだ安定がいいとも言いませんが、民主化と政治・社会の安定が両立しないことがままあるということは大いに考えるべき問題です。
地域の実情にどのように配慮するかという問題でしょう。

ついでに言えば、アメリカの“民主化”の尺度も、ご都合主義的なところもあります。
イランを強く非難しますが、サウジアラビアや湾岸の王制の国にイランほどの民主主義が存在しているようにも思えません。そういった国々に“民主化要求”を迫ったという話もあまり聞きません。

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オーストラリア  アボリジニに公式謝罪“Sorry”

2008-02-14 15:50:22 | 世相
アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、この4カ国の共通項は?
昨年9月、国連総会は世界3億7000万人の先住民の人権保護などをうたった「先住民の権利に関する国連宣言」を賛成143、反対4、棄権11で採択しましたが、そのときに反対した4カ国です。

採択された宣言は、先住民族の自決権と、それに伴う政治的地位を決定し、自由に経済的、社会的、文化的発展を追求する権利、強制的な同化や文化の破壊にさらされない権利、自分たちの土地から立ち退きを強いられない権利などを認めています。
また、伝統的に所有、占有などをしていた土地や資源に対する権利を認め、自由でかつ情報に基づく事前の同意なしに収用、占有などされた場合には、原状回復や公正な補償を得る権利をも規定しています。

しかし、多くの国が異なる民族を抱えていますので(日本もアイヌ民族の問題があります。)、先住民族の“自決権”が“独立運動”につながるのではという警戒感、諸権利関係に関する国内法との調整など、同宣言は非常に困難な問題を伴います。

80年代から20年以上の議論が続けられ、“宣言のどの条文も主権国家の領域的および政治的一体性を損なうような行為を認めたり、促すと解釈され得ない”との文言が加えられたほか、前文に、地域や国の特徴や歴史的、文化的背景が考慮されるべきであることが加えられるなどの修正を経て、当初難色を示していたアフリカ諸国も賛同することになり採択へと漕ぎ着けました。
日本も「民族自決権は国家からの独立を意味しない」ことなどを強調して賛成。

反対した4カ国を見ると、あらためて「なるほどね・・・」という感じがします。
いずれも、比較的近年、遠方から移住した民族・人々が支配的な地位を得ている社会です。
それだけに権利関係の調整が困難なのでしょう。
いずれも“民主主義”を標榜する国家ではありますが、その“民主主義”が及ぶ範囲には自ずと制約がある、あるいは、あったのでしょう。

こんな昨年の話を持ち出したのは、言うまでもなく、オーストラリアのラッド首相がアボリジニの人々に対して明確な謝罪を行ったというニュースを見たからです。
ラッド首相は議会で「歴代の議会・政府の法や政策によって、われわれの仲間であるアボリジニに多大な悲しみ、苦しみ、損害を負わせたことを謝罪する」と述べました。

オーストラリアでは19世紀末から1970年代にかけ、白人社会との同化を目的にアボリジニの子どもを親から強制的に引き離し、白人家庭や施設で育てさせる政策を取ってきました。
約10万人の子どもが強制的に隔離されたとされ、「盗まれた世代」と呼ばれています。

「盗まれた世代」については、“アボリジニと白人との混血”を対象としたのか、“アボリジニの子供一般”なのか、また、その時期についても、上記のような“19世紀から”、“1910年頃から”、“70年代までの40年間”など、いろんな説明が散見されます。

入植当初の頃はアボリジニはカンガルーと同様、白人の“狩猟の対象”だったという話はよく耳にします。
アボリジニに関する考え方の背景には優生学的発想がありました。
アボリジニは“劣った種族”であり、その純潔種は放置しとけば勝手に自然淘汰で絶滅する。(実際は白人の暴力や白人が持ち込んだ病気で激減していく訳ですが・・・)
白人との混血は人種間の差異を曖昧にするもので問題である。
しかし、混血は白人との交配を何世代か繰り返すうちに白人に近い存在に高められていく
そのために、親元から引き離し、白人の環境のなかで育て白人へ同化し、アボリジニ的要素を消していく・・・そんな発想があったように思えます。

もちろん、時代とともに考え方も変化し、その政策も変わっていきます。
剥き出しの優生思想は、次第に“保護”の考え方でソフィスティケイテッドされていきます。
1911年にはノーザン・テリトリーが南オーストラリア州から連邦直轄地になり、アボリジニ問題が連邦によって取り扱われるようになりました。
1937年に行われた連邦・州アボリジニ担当部局会議で「“アボリジニは死に行く民族”という規定を廃止、純粋、混血を問わず白人社会に同化させることを基本方針とし、そのために、アボリジニを積極的に援助し、機会の均等を目指す」ことを明らかにしました。
これが政策の大きな転換点になったようです。
1965年には、アボリジニに対する強制同化策を廃止し、文化の維持を認めつつ、オーストラリア社会への統合を促進する統合政策が採用されました。
http://www.globalcom-japan.com/aust10.htm

こうした変化が、「盗まれた世代」に関する対象、年代の記述のばらつきになっていると思われます。
また、次第に“保護”の趣旨が入り込むことで、必ずしも否定的な評価をしない意見も生まれてくるのでしょう。

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アボリジニ政策の転換後、アボリジニの人口は増え始め1991年の調査では26万5千人いるとされたが、白人入植時を依然下回っている。
また、諸政策にもかかわらず、アボリジニの失業率は高く平均収入は全オーストラリア平均の半分ほどで、彼らの収入の大半は政府からの福祉手当、失業手当によって構成されている。 
随分改善されてきてはいるが、一般オーストラリア人と比べ、平均寿命は短く、幼児死亡率が高く、さらに、ノーザンテリトリーやクイーンズランドでは、アボリジニのアルコール中毒とそれに伴う犯罪検挙率が高く、問題は多い。
長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々が、いまだ、新しい生活になじめず苦悩している姿が浮かび上がってくる。(http://www.globalcom-japan.com/aust10.htm
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アボリジニの権利意識の高まり、オーストラリア政府の「白人同化政策」に対する謝罪の要求に対し、ハワード政権は支持基盤である保守層への配慮と賠償訴訟の問題を考慮して、過去の白人社会がしてきたことは「遺憾」であるが、「過去の政策に責任はない」として「謝罪」はしないという立場を取っていました。
ただし、シドニーオリンピックは、立候補の段階から「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」を約束し、また、聖火リレーの演出などを通じて、“和解”への第一歩にしようとていたようではあります。

結局、過去のしがらみを断ち切り、明確な謝罪を行うことは政権交代でしか実現しませんでした。
なんだかんだ言っても、政権が変わるということは歴史の歯車を回していくうえで、重要なことのようです。
日本でも肝炎訴訟の問題などで進展が見られたのは、政権交代への危機感あってのことでしょう。

野党となった自由党のネルソン党首はラッド首相による謝罪動議を支持するとしながらも、「政府の過去の政策には善意に基づいたものもある」と述べ、アボリジニ・コミュニティーの一部にみられた児童に対する性的虐待発生率の高さなどを根拠に挙げたそうです。【2月13日 AFP】
先述のような歴史的経緯のなかで、一部に“善意”に基づく保護政策もあったことが推察はされますが、謝罪の際にそれをエクスキューズするのは“本心では謝罪などする気はない”と言っているのと同じであり、アボリジニの感情を逆撫でするだけでしょう。

“謝罪”で全てが解決されるわけでなく、 “長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々”の立ち直りをどのように手助けしていくのか、これからの問題です。
“謝罪”によって、ようやくこれらの問題解決へ向けた取り組みのスタートラインに立てたというところでしょうか。



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アジアの食料価格高騰、バイオ燃料、「TABLE FOR TWO運動」

2008-02-13 18:13:29 | 世相
*****アジアで食料価格高騰、貧困層に大打撃*******
【2月12日 AFP】アジア一帯で食料価格が高騰し、貧困層に打撃を与えている。
FAOの統計によると2007年、食料価格は世界全体で40%近く上昇し、ミャンマーやパキスタン、インドネシア、マレーシアなどで抗議デモが相次いだ。
専門家によると価格の上昇に歯止めがかかる気配はない。
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上記記事が一番の主要原因としてあげているのは、経済成長に伴う全般的な食料需要増加。
更に、畜産飼育には大量の穀物が必要になるため、肉食嗜好の広がりも、食料価格上昇に拍車をかける要因となっているとしています。
干ばつや悪天候、石油価格高騰による輸送費の増加、バイオ燃料需要の急増の影響も指摘されています。

国民の1日の生活費は1ドルに満たないバングラデシュでは、前年のサイクロン被害もあって、今年のコメ価格は前年比70%増と急上昇、1キロ当たり50セント前後となっているそうです。

アジア各国の政府は、食料価格高騰とそれをきっかけとする暴動の可能性を懸念し対策に乗り出しており、例えばインドネシアでは米国から大半を輸入している主食の大豆の輸入関税を下げると同時に、輸入依存を抑制しようとしているとか。(関税を下げると依存が強まりそうですが・・・)
マレーシアは政府が食糧備蓄制度を開始する予定で、ベトナムはコメの輸出を一時停止。

上記記事のなかでも食料価格高騰の要因にあげられているバイオ燃料ですが、“本当にCO2削減効果があるのか?”という根源的な疑問・批判も散見します。
例えば、インドネシアのスマトラ島。
アブラヤシ栽培のため、開発業者は熱帯林からラワンなど有用な木を伐採し、泥炭層の水を排出するため水路を掘ります。
その結果、水に浸っていた泥炭層の成分が酸素に触れて分解されることで、メタンや二酸化炭素などの温室効果ガスが放出されます。
また、アブラヤシ栽培の障害となる草木を焼き払う際泥炭層も燃え、さらに二酸化炭素が発生します。

そうした根源的な問題のほかに、環境破壊、食料との競合という問題が派生します。
しかし、バイオ燃料への勢いは加速しています。

アメリカ政府はバイオ燃料に今年だけでも130億ドルの補助金を用意しており、ブームとなったエタノール産業は全米の穀物生産総量の28パーセントを燃料加工に使用、穀物は記録的な高値を記録しています。【2月2日 IPS】

1月23日、EUは2020年までに自動車その他の輸送手段に必要なエネルギーの10%をバイオ燃料とするとの合意を維持する旨公表しましたが、EU内部でも疑問の声が出ているとか。【1月31日 IPS】

国連環境計画によると、世界銀行による2007年のバイオ燃料プロジェクトへの投資額は210億ドルに上り、そのうち世界銀行は100億ドルを拠出しています。
一方、2007年10月の世銀農業開発報告によると、食糧生産のための農業開発援助は2004年に34億ドルにまで落ち込み、世界銀行の拠出額は10億ドルに満たないそうです。【2月12日 IPS】

食料価格高騰とバイオ燃料増産の関係は一概には言えないところもあります。
必ずしもリンクしていないケースもあるでしょう。
そのような、バイオ燃料の功罪、途上国の住民の食料供給への影響などについて、冷静な分析を行う時期だと思うのですが。
間違っても、“先進国住民が安心して車に乗れるようにするために、結果的に途上国の子供が餓死した。”なんてことにならないように。

****肥満・飢餓:同時に解決 「TABLE FOR TWO運動」*****
先進国で過食による生活習慣病がまん延する一方で、途上国では食料不足に陥る「食の不均衡」が問題化している。このため、かつてダボス会議の場で若手リーダーに選ばれた近藤正晃ジェームス・東京大特任准教授らが中心となり、カロリー控えめのメニューを食べると食事代の一部20円が世界食糧計画(WFP)に寄付され、途上国の学校給食費に充てられる仕組みを発案した。20円は、途上国の学校給食費1食分にあたるという。
【1月26日 毎日】
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「TABLE FOR TWO(テーブル・フォー・ツー)」という名前は、参加者が途上国の子どもと2人で食事することをイメージして名付けられた運動だそうです。
企業の社員食堂などを中心に導入が徐々に拡大。
ダボス会議でも実践されるなど、欧米でも運動が広がりつつあるとか。

こういう運動をトピックス的に面白がってとりあげるだけでなく、“国家戦略”として本気で国やマスコミが推進すれば、意識啓蒙をとおしてメタボ対策にもなるし、現実的途上国支援しもなるし、ひいては各国と日本の国際関係にも影響するでしょうし、メリットが多いと思うのですが。
支援する超党派の議員連盟も発足し、国会や外務省の食堂でも取り組まれるともいいますが、どうでしょうか?
戦略なき国家、日本ですから・・・。




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東ティモール  大統領襲撃事件を越えて

2008-02-12 21:20:04 | 国際情勢
昨日来報道されているように、東ティモールのラモス・ホルタ大統領(58)が11日早朝、首都ディリの自宅で武装集団に襲撃され負傷しました。
ホルタ氏は腹部に銃弾を受け、首都ディリのオーストラリア軍基地で緊急手術を受けた後、治療のため豪州北部の都市ダーウィンへ移送されました。
ホルタ大統領の自宅が襲われた直後、グスマン首相の車列も襲撃を受けましたが、グスマン首相は無事でした。

武装集団を率いたのは、06年に軍兵士の大量解雇を機に発生した暴動で反乱を首謀したレイナド元少佐とみられており、元少佐は銃撃戦で死亡しました。
グスマン首相は48時間の期限を付けて非常事態を宣言し、夜間外出禁止令を発令。
ディリ市内は平穏を保っていますが、ラッド豪首相は治安回復のため、新たに東ティモールへ兵士など約200人を追加派遣すると表明しています。

ここ数十年の東ティモールの歴史は苦難と混乱の歴史でもあります。
東ティモールは、第二次大戦中の日本占領の期間もありますが、もともとはポルトガルの植民地。
ポルトガル国内の政変に伴い75年に独立宣言を行いましたが、左派色が強い独立運動に対し、隣国インドネシアが右派勢力を介して介入。

結果的にインドネシアに編入されますが、インドネシア占領下で、アムネスティによると65万人の人口のうち20万人が犠牲になったとも言われています。
3人から4人にひとりが死んだという計算で、カンボジアのクメールルージュの虐殺に匹敵、あるいは、それを上まわる惨劇です。
その後も東ティモールでは抵抗運動が続きますが、その活動の中心になったのが、後日ノーベル平和賞を受賞したホルタ大統領(今回負傷)であり、グスマン首相等でした。

一方、この東ティモール併合を強行し、抵抗運動を弾圧したのが、反共路線をとるインドネシアのスハルト大統領。
当時の東西関係のなかで、日本を含む西側諸国はこれを黙認しました。
スハルトは先日他界しましたが、ホルタ大統領は入院中のスハルト元大統領について、「過去を忘れることはできないが、我々は、スハルト氏が亡くなる前に彼を許すべきだ。国民は、彼のために祈ってほしい」と国民に呼びかけたそうです。【1月17日 毎日】
なお、東ティモール国民の99%はキリスト教徒です。

98年にスハルト政権が倒れ、新政権が東ティモールの独立容認の立場を取ったことから、急速に独立の気運が高まりました。
99年には、国連監視下でインドネシア内の高度自治州案の賛否を問う住民投票が行われ、反対多数で独立が決定しましたが、これに反対する民兵と一部インドネシア国軍が独立運動を弾圧。
双方が破壊・殺害しあう泥沼となり、東ティモールは再び大きな犠牲を出しました。
国際社会が介入したのは、そのような犠牲が出つくした後、混乱も一段落した頃でした。

その後、国連のもとで02年に独立。
日本も02年から2年間、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣して、国づくりを支援しました。
PKOに限らず全てことについて言えますが、始めるときは激しい議論が戦わされても、実施された後の検証はあまりなされないのが日本の常です。
東ティモールのPKO活動についても、最初から結論ありきの左右の主張は散見しますが、実際のところどうだったのでしょうか。

派遣されたのは施設部隊でしたが、自衛隊員の真面目さ、地元住民を分け隔てしない接し方を評価するものもあります。
部隊が任期を終え撤収する際、機材や車両などは日本へ持ち帰るより現地に残したほうが安上がりなこともあって、それらはODA扱いで現地に残してきたそうです。
ただ残すだけでなく、それら機材・車両の使い方について現地の人間に徹底した技術指導を行ったそうで、そのことによってエンジニアとしての人材が現地で育ち、資材も撤収後有効に活用され続けた・・・という話はなかなか印象的です。
http://www2.jiia.or.jp/pdf/asia_centre/h18_east_timor/h18_east_timor-08_Chapter4.pdf

上記レポートがどういう立場で書かれたものが判別しがたく、評価は難しいところはありますが、単に現地で何かをするだけでなく、後々まで現地に根付く技術指導ができれば、人材の乏しい現地の復興のためには何よりでしょう。

東ティモールは独立後も混乱が続きます。
2006年4月に西部出身の軍人約600人(国軍は全体でも2000人)が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議しストライキを起こしましたが、政府はスト参加者全員を解雇。
これを不服とした参加者側が蜂起、国軍との間で戦闘が勃発。
治安維持が不可能となった政府はオーストラリア・マレーシア・ニュージーランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日にはオーストラリア軍が早速展開し、その後4カ国による治安維持が行われました。

このときの反乱の首謀者が、今回事件を起こしたレイナド元少佐(反乱後、投降して服役していましたが、後に仲間50名と脱走)でした。
反乱当時の首相は東ティモール独立革命戦線(フレティリン)のアルカティリ首相で、現首相(当時は大統領)のグスマン氏とは政治的に対立する関係にありました。
従って、アルカティリ政権に反乱を起こしたレイナド元少佐とグスマン氏とは比較的近い関係にあるとも言われていましたが、グスマン氏が投降を求めたあたりから両者の関係はこじれてきたとも・・・【2月12日 毎日】

なお、この06年の反乱時も、今回の事件でも、オーストラリアが機敏に動いています。
もちろん地理的に近いということもありますが、あるいは人道上の配慮もあるかもしれませんが、石油など資源の利権確保の狙いもあるようです。

現在、東ティモールには国連東ティモール統合支援団(UNMIT)の文民警察要員約1600人が派遣され、治安維持や警察官の訓練、国民和解支援などの任務を負っています。
日本からもUNMITに文民警察官2人が派遣されていましたが、今月5日に帰国したばかりでした。
また、今回事件が起きる数日前に、日本政府が新たに海上保安庁からの要員派遣を検討しているニュースが報じられたばかりでもありました。【2月9日 朝日】

今回の事件について、“前途多難”といった基調で報じられていますが、75年の独立宣言以降の混乱を眺めてくると、75年当時の惨劇、独立前の混乱、06年の反乱、そして今回事件と、その混乱規模は次第に小さくなってきていますので、長い眼で見ると、落ち着いた社会へ向けて収斂していく過程にある・・・というのはあまりにも楽観的に過ぎるでしょうか。
混乱の火種のひとつだったレイナド元少佐も亡くなったことだし・・・。
殺し合いばかりしていてもどうにもならない・・・と、そろそろ思い始める頃・・・であって欲しいものです。

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パレスチナ  悪化するガザ情勢 出口は?

2008-02-11 14:25:50 | 国際情勢
パレスチナ・ガザ地区をめぐる状況は次第に悪化しているように見えます。

前月23日に爆破されたラファとエジプトとの境界壁は今月3日閉鎖されました。
閉鎖はエジプト政府とハマスが協調して実施していますので、両者でなんらかの合意があったと思われます。
4日には、エジプト治安部隊とにらみ合いを続けていたガザ住民が投石を始め、ガザ住民1人が死亡、双方に数十人の負傷者が出る騒ぎになりました。
ハマス側報道では、エジプト治安部隊は催涙弾だけでなく実弾も撃ったとされます。
ファタハ側報道では、ハマスの戦闘員とエジプト治安部隊が銃撃戦になったとされています。【2月5日 朝日】

ラファの検問所の今後について、エジプト政府はファタハ、ハマス双方と協議していますが、進展していません。
エジプト、イスラエルはファタハによる管理を望んでいるとされていますが、ハマスが治安部隊を配備している現状では実現は困難とされています。
一時、ハマス側からのファタハ主導の検問所管理も拒否しない考えも示唆されていましたが【1月23日 毎日】・・・ファタハは「ハマスが『クーデター』以前の状態に戻ることを受け入れない限り、一切の対話に応じない」との姿勢を崩していないようです。

イスラエル南部都市ディナモで4日に自爆テロが発生、イスラエル人1人が死亡、10人以上が負傷しました。
この自爆テロに関し、ハマスが5日犯行声明を出し、実行犯2人が決意を表明するビデオ映像を流しました。
ハマスによるイスラエルでの自爆テロは昨1月以来、1年ぶりとなります。

ガザ地区からのロケット弾攻撃、ハマスの自爆テロ再開に対し、イスラエル軍は6日、ガザ地区南部のハマスの警察施設を空爆するなどして、メンバー9人を殺害。
7日には、ガザ地区北部に戦車で侵攻、上空からミサイル攻撃も加え、ハマスのメンバーらパレスチナ人7人を殺害しました。

イスラエル政府は7日夜、ガザ地区からの武装勢力によるロケット弾攻撃への制裁措置として、ガザ地区への電力供給を0.5%削減しました。(1%削減とする報道もあります。)
今後も攻撃が続けば毎週、削減量を同率ずつ増やし、徐々に圧力を強めていく計画とされています。
ガザ地区は全電力の約60%をイスラエルからの送電に頼っているほか、エジプトが約10%を供給。残りの約30%をガザ唯一の発電所でまかなっています。【2月8日 毎日】

人権団体には、一連のイスラエルによるガザ制裁措置を、武装勢力と無関係の一般住民を苦しめる「集団懲罰」だと批判する声があります。【2月8日 共同】
アラブ首長国連邦(UAE)の主要日刊紙「ガルフニュース」は、ハマスのロケット弾攻撃停止を求める一方で、「この状況はホロコーストを生き延びたイスラエル人にとって見慣れた光景のはずだ」「あの恐ろしい時代からイスラエルが学んだのは何だったのか。何も学んでいないのではないか」とも論じています。【2月8日 IPS】

ハマスは9日、ヨルダンからの援助物資を積載していたトラック16台を奪取したことを明らかにしました。
援助がアッバス・パレスチナ自治政府議長を下支えすることになるのを警戒した措置とのことです。
ハマス側は、パレスチナ赤新月社はファタハの影響下にあるとして、押収した援助物資を国連パレスチナ難民救済事業機関に引き渡す予定だそうです。
ハマス幹部は、「このような援助はパレスチナの一般民衆には届かない。1つの政治勢力に独占されてしまう」と述べています。【2月9日 AFP】
ハマスが支配するガザ地区ですが、ファタハの影響力が全くない訳ではないようです。

イスラエル政府は10日、同国南部でガザ地区からの砲撃の破片で8歳の子どもが足を切断する大けがをしたことを受けて、ハマス幹部を標的にした攻撃を始めると警告しました。
前年6月にハマスがガザを掌握して以来、イスラエル国内ではガザからの砲撃を停止させるための大規模な軍事作戦を求める声が高まっていると報じられています。
なお、ガザ地区ではこの1週間でイスラエル軍の攻撃により一般の市民1人を含む少なくとも20人が殺害されています。【2月10日 AFP】

ここ10日ほどの動きは上記のとおりです。
中東情勢の中心にパレスチナ問題があり、現状はこれまでの経緯・過去の積み重ねであることは言うまでもありません。
イスラエル建国、パレスチナ難民の発生、4回にわたる中東戦争・・・
イスラエルによる国際世論を無視した入植活動、占拠、パレスチナ勢力への攻撃、壁の建設・・・
権力を握るファタハの腐敗、互助組織としてのハマスへの民衆の支持、06年パレスチナ評議会選挙でのハマス勝利・・・

それらの歴史・経緯に関する知識は殆ど持ち合わせていませんが、ただ、それらの過去に過度に縛られては“しがらみ”になってしまうこともあります。
現状を眺めると、パレスチナ問題の進展を妨げているのは、イスラエルとの交渉を認めず、ロケット弾を打ち込み続けるハマスのガザ支配にあるように思えます。

イスラエルとの共存を否定する限り、第5次中東戦争をおこすしかありませんが、そのような機運も力も関係国にはありません。
(将来的に唯一あるとしたら、イランからの核攻撃でしょうか。)
イスラエルが自国への攻撃を続けるガザ地区の封鎖、電力供給削減という措置をとるのも、当然とも思えます。
ハマスの戦闘継続は、パレスチナ難民に対する国際世論の支援・同情に便乗したもので、その実態はガザ住民の生活を犠牲とするものであり、一旦ことが起こると、ガザ住民の生命を盾とする行為に思えます。
将来への展望もないまま、現状への不満を爆発させるだけの自己満足的なハマスの活動が続く限り、パレスチナの安定は望めません。

ハマスがその攻撃を止めれば、ガザ住民の生活・生命が守られるだけでなく、イスラエルが67年の境界線まで撤退するという国連決議履行への道も開けてくるかと思います。
(アメリカの対イスラエル関係の見直しも必要でしょうが。)

06年パレスチナ評議会選挙にみるように、ハマスがパレスチナ住民の支持を一定に得ているのも事実でしょうが、パレスチナ住民が破滅的なハマスと決別しない限り、その苦難は自業自得とも・・・と言えば言いすぎでしょうか。

ハマスはイスラエルを認められないにしても、“停戦”というかたちでの事態の収拾は図れないものでしょうか。
ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルスで活動するハマスの幹部らが5日、昨年6月にガザ地区を武力制圧したハマスの行動を非難、ナブルスのハマス活動家に武装解除を呼びかける異例の記者会見を開いたという報道【2月6日 毎日】もありましたが、ファタハ側の圧力・演出にすぎないのでしょうか。

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コソボ  残留するセルビア人 “国家”の条件

2008-02-10 14:51:16 | 国際情勢
今月3日に行われたセルビア大統領選挙の決選投票は、親欧米路線をとりEU加盟に積極的なタジッチ大統領が、極右民族派とも言われ、ロシアとの関係強化を重視するニコリッチを僅差で破り再任されました。
中央選管の暫定集計(開票率95・4%)によれば、タジッチ氏の得票率は50・5%、ニコリッチ氏は47・78%でした。

アルバニア人が90%ほどを占めるコソボ自治区の独立については、両者とも反対の立場は同じですが、実際独立に踏み切った際の対応にはおのずと差が出ることも考えられ、その結果が注目されていました。
もしセルビア民族主義的なニコリッチ氏勝利となれば、コソボ側は“もはやこれ以上待っても無駄”との判断で即日独立を表明するのではとも見られていましたが、ダジッチ大統領再任で、多少国際環境等を整えつつ・・・という状況になっています。

しかし、時間の問題であることにはかわりなく、セルビアのコソボ担当相は「サチ・コソボ自治州首相が17日に違法かつ一方的に独立宣言するとの情報を多数得ている」と述べ、国連筋も「独立宣言は17日の可能性が高い」としていると報道されています。
コソボのサチ首相は8日、「約100カ国から独立宣言直後に国家承認する用意があるとの確認を得ている」と述べています。

コソボ自治区は、1999年のコソボ紛争後セルビア人部隊が引き上げ、これに代わって国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の暫定統治下に入り、セルビアの実効支配が及ばない状態となっています。
「独立国ではない」ものの「特定国家の実効支配下にない」という非常にあいまいな地位に置かれたなかで、EU、ロシアを中心に、「独立国」とするのか「現状維持」でいくのか調停が行われましたが、結局結果を出せずに今日に至っています。
この間、コソボでは独立を押し進めるサチ氏が首相となり、一方的独立は既定路線となっていました。

卑近な例えになりますが、男女の仲でもどうしても折り合いがつかず、家庭内で暴力が振るわれるような家庭内別居状態で、あとは“籍を抜くかどうか”の問題だけ・・・といった状況では、籍を抜いて離婚し出直すしかないと思われるように、コソボについても、ここに至るまでのセルビア人とアルバニア人の確執を考えると修復は不可能で独立しか道はないように思われます。
コソボがセルビア人にとって、オスマントルコ時代に遡る民族揺籃の地であり、手放したくない事情はありますが。
(11月19日http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20071119

もちろん、コソボ独立に関する懸念はいろいろあります。
コソボの大多数を占めるアルバニア人の民族的高揚が、“大アルバニア主義”の台頭となって、隣国アルバニアやマケドニア(アルバニア人が約25%)を巻き込んだ新たな火種になるのではないかという危惧があります。
現在のところ、コソボのサチ首相は「いかなる国とも合併しない。国境の変更には反対だ」と明確に否定しています。【1月27日 読売】
アルバニア首相も「コソボ住民は統一ではなくあくまで独立を望んでおり、その意思を尊重する。将来的な統一も考えておらず、国境の存在を順守する」と述べています。【2月6日 毎日】

コソボ独立を支持しているEUも、個々の国レベルとなると複雑です。
自国内に少数民族問題を抱えるスペイン、ルーマニア、キプロス、ギリシャ、スロバキアは、コソボ独立が自国内問題を刺激する恐れがあるとして反対あるいは慎重な姿勢をとっています。

一番懸念される問題は、独立後もコソボ領内に残るセルビア人の安全・地位がどのように保証されるのかという点です。
紛争当時のセルビア人からのアルバニア人虐待に対する“報復”・反動として、紛争後はアルバニア人からのコソボ内セルビア人に対する攻撃が多発しました。
セルビアが国際社会から非難された“民族浄化”の逆の動きが、コソボ内のセルビア人に襲い掛かっていました。
コソボの新首相となったサチ氏自信が、このようなアルバニア民族主義の先頭に立っていたKAL(コソボ解放軍)のリーダーであっただけに、今後のセルビア人の処遇が懸念されます。

かつてコソボに居住していたセルビア人の多くは、これまでに故郷を捨て、セルビアに移住しています。
現在なおコソボに残っているのは、移住するだけの余力がない弱い立場にある住民であるとも言えます。

*****コソボ残留、少数派セルビア人 孤立と無力感********
紛争前、村にはアルバニア系約1000人とセルビア人約500人が暮らしていた。紛争中も衝突は起きなかったがセルビア人のほとんどは紛争後、村を出ていった。今残るセルビア人は老人ばかり60人ほど。周囲からは完全に孤立している。
「川の向こうがアルバニア系地域で、こちらはセルビア人。あちらには新しい家がどんどん建つけど、こっちは空き家だらけ。学校だって……」。ツベタさん(84歳)は、廃校となったセルビア人の学校を指さしながら話した。
コソボが独立したら、生活保護がどうなるか誰も説明してくれない。でも、もうニュースには関心がない。「生きているのは苦痛なんだけど、残念なことに健康そのものなの」と冗談めかして話す声に力はなかった。【2月9日 毎日】
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この記事の最後に紹介されているセルビア人男性の言葉が、残留するセルビア人の気持ちを語っています。
「セルビアの政治家は毎日、テレビで『独立反対』を叫んでる。ベオグラードにいる彼らが口で言うのは簡単だが、我々はここに住んでいるんだ。みんな、自分たちに独立を止める力なんてないと分かっている。だから、独立したらどうなるんだろうなんて答えの出ない疑問を考えるのは、やめたんだ。」

EUは4日、コソボ自治州の独立に向け、支援要員らの派遣を正式に承認しました。
支援要員の一団は2000人規模で、主に警察および司法当局者によって構成されるそうです。
これらの要員はセルビア人との衝突を防ぐ目的もあるのでしょうか。
これまでも必ずしも充分に機能していたとも言いがたいKFOR(コソボにおいて治安維持を行う国際安全保障部隊)の活動は今後どうなるのでしょうか。

コソボが独立に向かうのは“時の流れ”でもあるでしょう。
しかし、コソボが“国家”たりうる最低条件は、領内のアルバニア人以外の国民に対する安全・地位を保証することです。
いまのところ、サチ首相の口からはこの点に関する発言が聞こえてきません。
1日も早く“独立国家”にふさわしい対応がコソボ側からあきらかになること、そしてそれが実行されることを切望します。

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