アダムから罪を知って死ぬ者となった人類の救いのために、神はアブラハムを召し、ひとりのキリストの花嫁として育て上げるために、イスラエルを選んで養育された。
乳飲み子の様ようなイスラエルの民を、愛と忍耐をもって、アブラハムからモーセへとリーダーを備えて導かれる。
旧約聖書では天地創造の神の義と御力を、人類の歴史において示し神を恐れることを学ばる。
それは被造物の立場をわきまえさせる教育である。人は創造主を礼拝してみことばに従順することがなければ、御子をたまわるほどの愛をもって計画された、永遠のいのちへの計画がその人に成就しないからである。
キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。(へブル9:11~12)
創造主なる神は、ひとり子の神イエス・キリストを世に遣わし、十字架によるあがないをもって、滅びることの無いいのちの福音を備え、信じる者を神の子として、永遠の住まいである新天新地に置いて救いを完成されるのである。
このことは新約聖書に書かれてあり、ひとり子の神が御父に従順して、死ぬ体を持つ人として世に下ってくださり、父なる神の愛をみことばとわざをもって知らせてくださったのである。
神のことばを捻じ曲げて人を支配し君臨していた宗教者に、イエスはその間違いを指摘して民を律法の縛りから解放し、愛の神のご支配に移そうとされた。
宗教家たちは民衆をあおって、イエスを十字架の死へと追い込んで行った。イエスの愛のわざと、権威あるみことばが神の義を証明しても、彼らは従順することも反論することも出来なかったからである。
しかし、十字架で人類の罪をあがなうことは、神のはじめのご計画によることであり、キリストはそのために世に下ってくださったのである。
イエス・キリストは十字架上で「完了した」と言われた。このとき、人類は罪の代価を完済されて死から解放された。この事実を受け入れる信仰によって、永遠のいのちの恵みがすべての人類に備えられた。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:13~14)
キリストにあがなわれて罪の滅びから解放され、信仰によって聖い神の子とされた者は、感謝にあふれて誰はばかることなく、汚れた良心に責められることもなく、いつも喜びに溢れて主をほめたたえ、どんな時もキリストにある望みに留まるのである。その日々を聖く守り、永遠まで導く聖霊がいて下さるから。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。(Ⅰテサロニケ5:16~19)