わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1~2)
神は私たちに対して熱心に働いておられる。実を結ぶ者にも実を結ばない者にも神の熱心は変わらず、誰一人放って置かれることも無視されることもない。すべての人の創造主だからである。
実を結ぶ者にはもっと多くの実を結ぶことが出来るように必要を備え、実を結ばない者には、実を結ぶことを妨げているものを取り除き、神の光りの中に留まる者を養ってくださる。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(3)
主に留まって成った実はみな聖い。みことばを食べて成長したからである。
食べたものによって人は成長する。聖なるみことばの乳を飲んで育つ子は健やかな神のかたちに似るようになる。それは子の能力には拠らず、主の養いによることである。
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(4)
枝はもちろん木に留まっていなければ枯れる。キリスト者はみことばを聴いていなければ、神を知ることはなく、今日をみこころに生きる力もない。
主を離れると世に倣って、そこで聞えて来る言葉に拠って生きることになる。みことばが無い所、其処が木から落ちた場所である。
みことばは世の学問とは全く違う。ことばなるイエスご自身が求める者に留まり、必要な知恵と力を与えて育てて、良い実を結ばせてくださるのである。
世の学問は自分一人で学び完全に理解して、それを自分の力で行うことで初めて実を結ぶからである。
それゆえ、みことばを読んだときに理解できないと悩む必要は無く、人に訊き回る必要もなく、何時も近しく居てくださる聖霊を通してイエスに聴くことが出来る。
主はそのみことばを解き明かしてみこころを行わせ、喜びに満たして神を賛美するまでに育てて下さるからである。
ただ、それには信頼して待つという訓練を通るが、年月が経って本人がすっかり忘れていても、主はご真実なので忘れなさることは無く、成長に合わせて解き明かしみこころを行う力も備えてくださる。
そのとき人に必要なのは、解かれたみことばを聴いたなら、すぐに従順する備えである。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(5)
枝が木に留まることは、木からすべての必要が流れていることであり、それによって木と枝は一体であり、木から流れ来たいのちによって実は成るのである。
まず私たちが主に留まる時「わたしもその人に留まって・・」とある。主は私たちが、クリスチャンとして相応しいか、人品卑しくないかなどと、その行状や家柄や能力を量ることはなさらない。
良い実にしてくださるのは主だからである。良い実を成らせるのは、共にいて下さる主のみことばの力、天地万物を産み出されたことばの力である。
それゆえ、その枝がどんなに多くの実を結んでもそれは枝の誇ることではない。ただ、たまわった光栄を喜び神をほめたたえて感謝するのみである。
わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。(6)
留まっていなければ「枝のように投げ捨てられる」とある。実を結んでいる枝はもう木の一部である。すべてを木から受けて生きているのだから一体であり、捨てられることはない。
しかし、主を離れ地に落ちたものを燃やすものは、永遠に尽きることの無いゲヘナの炎である。木を離れるとイエスの備えてくださったいのちを失い、罪ある者をさばきく炎が待っている。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(7)
木は枝の必要を満たし、豊かに実を結ぶものに成長させる。どんなことでも出来る全能の農夫がいてくださるからである。
主に繋がれた者が日々に渇くのは、みことばが解き明かされていよいよ主を知ることであり、それ以外のものは不要になる。主がすべてを満たしてくださることを知っているからである。
そう、キリスト者が求めるものも主ご自身であり、日々の必要は神の愛のことばを聴くことなのである。それは私たちをすっかり満足させて、永遠の平安に満たしてくださるからである。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)
弟子とされて神の栄光を現させてくださるのも、聖霊の助けに拠る備えである。人は渇いて主を求め、弱さの中で主に留まっただけである。
主はイエスのゆえにそれを喜んでくださり、地に生まれ来た者の役割りを全うさせて、子と呼んで永遠の御許おいてくださる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(9)
御父はイエスを「これはわたしの愛する子」と言われた。イエスはその御父を愛して、みこころを十字架で成し遂げてくださった。
私たちは、十字架を負ってくださったイエスの愛に応答して、その御愛のうちに留まるのである。
イエスが結ばせてくださったいのちの実は、甘く熟して神をほめたたえる喜びにあふれている。