私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:3~4)
パウロの幸いは此処にある。行いにも言葉にも宣教に必要な信仰の確信と行いの力を、キリストよりたまわっていることである。
すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、
また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、(Ⅱコリント6:4~5)
しかし、その祝福にはあらゆる苦痛も含まれていた。キリスト者が痛むとき、内にいてくださる方も痛んでいてくださる。
主はご自分のひとみのように守って癒しの眼差しを反らされることはないから、主が知っていてくださることで、苦難の時も正気で居られるのだ。
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、
真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、(コリント6:6~7)
主は内にみことばを充満させてくださるから、敵をも愛する祈りがあり嵐の中でも安息するのである。それが偽りでないことは聖霊が証してくださることである。
祈りに組む手、喜びの賛美に合わせて打ち叩く手、福音を知らせる働きの手、また世の働きのための手、すべて主の備えによる武器である。
また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:8)
ほめられてもそしられても、世に受け入れられても弾き出されても、それらによって主の評価が1㎜でも変わることは無い。主はご真実だからである。
立っている所がみことばの約束なら、すでに永久までの神の愛にどっぷりと浸されており、自分を神のしもべとして推薦する理由は、唯一此処にある。
私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(Ⅱコリント6:8~10)