ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。(マルコ15:4~5)
人は信仰がなくても神を訴える「なぜ助けないのか・・、どうしてこうなるのか・・」その訴えに、イエスさまがご自身を弁護されることはない。ただ、聞いておられる。その罪を十字架であがなうために・・。
そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。(マルコ15:17~20)
イエスさまをムチで打ち据え、罵ったり侮って弄び、強盗に混ぜて十字架刑に処し、強盗のレベルに貶めても決してイエスさまを汚すことはできない。ご自分を貶めて殺す者の罪さえ、十字架で負ってくださるお方である。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
私も十字架による御赦しをたまわった者である。主が身代わりに罪を負ってくださり、完全に罪の代価を支払ってよみがえってくださり、新しくしてくださった。
だから何を見ても、何を聞いても、たとえ責められることがあっても、赦されているという確信は微塵も揺るがない。イエスさまが十字架で死んでくださった事実に拠ることである。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)
イエスさまが命懸けでたまわった聖いポジションを手放すことは、聖霊を汚すことである。そのような愚かなことはしない。御国でリアルにお会いしたとき、泥のように御前にひれ伏して感謝したいからである。
このポジションにいなければ出来ないことがあるから・・、「お預かりしたタラントを用いました」と誇らしく報告したいのである。
もちろん・・それなりではあっても、主は喜んで下さるお方であることを長いお付き合いで知っている。
訂正
「お預かりしたタラントを用いました」と誇らしく報告したいのである。
それなりではあっても、
いや、これはとても間違っている。
すべての良い事は、主から出たこと。それをこんなふうに思うのは間違っていた。
深く感謝の中で喜びに溢れて出てくるのは、主を賛美する言葉だけだった。
それに主から出たことに、「それなり」なんてものはない。たとえ私がどんなに至らなくても・・。
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