神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(Ⅱコリント6:16)
キリスト信仰によって救われ者とは、十字架の血潮で罪を洗われ、イエスさまと共に死んでよみがり、「見よ。すべて新しくなりました」と宣言された者である。
今、神の宮として私たちに居てくださり、また神のうちに居り、神の子であり神の民であって、霊も魂も体もすべての必要において、神の扶養家族である。
それゆえ、彼ら(世)の中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、(Ⅱコリント6:17)
神に受け入れられた者は、世の価値観から自分自身を切り離し、それらに心を奪われず、調子を合わせて世の流れに手を出さず、神の扶養の豊かさの中に留まって安息する。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)
キリストによって新しくされた人が、奴隷のように世に心を支配されて生きるなら、それは、神の恵みを無駄にする業であり、人の目にどのように見えようとも神とはなんの関係もないことである。
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(Ⅱコリント6:18)
救われて神の子とされた者は、みことばに聴きつつご計画を導きかれ、すべて備えられた所で自分の分の働きをする。
キリストは共にくびきを負ってくださっている。私たちの荷を一緒に負って下さるから荷は軽いのである。私たちには何も出来ないことをご存じだからであり、家族ゆえである。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:30)
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(Ⅱコリント7:1)
十字架の血潮に洗われた聖さの中で、救ってくださったイエスさまを愛し、救いを計画してくださった神さまをほめたたえ、時に叶ってみことばを思い出させてくださる聖霊を慕って安息している。それは「主に留まりなさい」ということである。