盗んではならない。(15)
あらゆる価値観の国を見て回っても、たぶん「盗んでも良い」という国はないだろう。
泥棒の家庭でも互いの物を盗む自由はないだろう。この法が無ければ人は共存できなくなるからである。
盗むということは所有権の共有とは違い、盗んだものを共有することはない。盗むのは人のものを独占するためであり、人が犠牲を払って手に入れたものを横取りするのである。
「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(17)
それは人のものを欲することから始まり、この二つの戒めは似ている。
盗むということは単純に人の目を盗んで手に入れることであるが、この戒めは時間をかけて画策するというような、もっと根深いものを感じさせる。
此処で戒められているのは、欲しがるという「思い」に対するものであるが、悪霊などは人の思いに潜んで支配するのである。
「万引き」という言葉があるが、なぜ「窃盗」という言葉と区別されているのかその根拠が分からない。その言葉にある軽さに悪魔の罠を感じるのである。
スーパーで万引きを目撃したことがあったが、恐ろしくてフリーズしてしまい何も出来なかった。また、泥棒に入られた家にお見舞いに行った時も、入った瞬間になんとも言えぬ恐ろしさを感じて、凍り付いてしまったことがある。犯罪には、言いようのない悪魔的な脅しが存在することを経験した。
神に逆らう者に働いているのは悪魔、悪霊であった。それゆえ、どんなに詐欺にあわないための警告を聞いて知っていても、簡単に人間の知恵で避けることが出来るものではない。
強い悪の支配を受けて脅され始まっている事なので、触れる者に恐怖が及び、それらに対抗するためには聖い神の守りが必要なのである。
神に従う所では聖める神の臨在があって、その人は完全な守りの中に住んでいる。しかし、神に逆らう所には悪しきものの巣がある。人はそれに捕らえられて自由を失うのだ。
万引きでさえもそこには悪霊の巣がある。これは、霊の戦いであり人が自分の意志でどうこう出来る事ではなく、抜け出せない悪霊どもの支配が待っているのである。
みことばに逆らう所には悪しき者の巣があるのだ。
「盗んではならない。」身を守るための命令は単純であり絶対である。また心の隅に悪魔の足台を作らせないために、人のものを「欲しがってはならない」のである。
むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食料で、
私を養ってください。
私が満腹してあなたを否み、
「主とは誰だ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。(箴言30:8~9)