そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。
イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マルコ14:18~21)
御子の十字架を通して人類を救うことは神さまのご計画であった。しかし、ユダの裏切りが必要であったのだろうか・・。裏切り者として使うためにユダを弟子にすることは、イエスさまにはあり得ないことだと思った。
もし、そうならイエスさまが「生まれなかったほうがよかった。」とはおっしゃらない。イエスさまが世に来てくださったと同じように、ユダが必要になるはずだから。
どんなことでもできる神さまに、弟子がイエスさまを売ることがご計画の条件であるわけがない。
犠牲の捧げものは、罪の無いイエス・キリストでない限り受け入れられない。もし、ユダの裏切りに拠らなければ救いが成就しないのなら、ユダが捧げものになってしまうのではないか・・。
イエスさまはユダに警告された。「わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」すべてを知っていると知らせておられる。しかしユダはみことばを聞き流し、計画を練ってイエスさまを売り渡したのだ。この世の富みに心を奪われていては、イエスさまの食卓で養われ続けていても、みことばが聞こえていないことがわかるのだ。
彼は最後まで主を知ろうとはせず、みことばに耳を貸そうとはしなかった。その結果、キリストの弟子という宝を金に換えて、自から最悪の役割を果たした。
宝はその価値を知る者だけが手にすることができ、受ける価値の無い者には隣に置かれていても、見いだすことができないのだろう。
十字架の前に弟子は誓いを裏切って逃げた。主は人の弱さのすべてをご存じで、あらかじめ祈っていてくださった。弟子であろうとする者の願いを主は弱さから守ってくださり、ペテロにもユダにも警告してくださった。ペテロは聞いていたから、思い出してイエスさまの備えに身を避けた。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
私たちには選択の自由が与えられている。もし創造の初めから、自由が与えられていなければ罪を犯すことはない。神の愛するひとり子が、十字架で苦しみ血潮を流してあがなうこともなかった。
すべてを承知で創造の初めに備えてくださった自由の中で、自分の意志によってイエスさまの御声に聴き入る喜びと、その選択を喜んでくださる主を知っていることはなんと幸いなことであろう。
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