礼拝には電車で2時間掛けて通う。駅に一年間もお迎えに来て頂いていたけれど、最近は駅から2、30分歩く。それは別に「行」をしようとか、迷惑を掛けまいとがんばってとかではなく、ただ、流れとして自然にそうなっただけのこと。淡々と駅から歩いていると、その分礼拝への期待は膨らむ。それは体が汗をかいて渇くように、霊的にも時間を掛ける分渇くのかもしれない・・。
リュックを負って、最近は家を出るときから何だか登山めいている。目的はただひとつ、イエスさまを知りたい。イエスさまを味わいたい。イエスさまのことが聞きたい、それだけを目指しての登山のよう・・。saltさんは、私の良く知っているお方、イエス様のことを懐かしく、慕わしく話され、いつまでも心地よく聴いていたい・・。
なりふり構わない自分を何処かあきれている私がいる。「他のことはどうでもよい。」これが本音。先生にも、兄弟姉妹にも、家族にも、申し訳ないと思ったり、ご負担をおかけしていると思う時も多々あるけれど・・。
主人がポツリとつぶやいた「礼拝に、家族が一緒に通っていた時は良かった。」分かっている。みんなで礼拝の帰りに買い物なんかして、帰って一緒に食事をした。今では、みんなバラバラにイエスさまを求めている。でも、それぞれ自分で選んで、自分の方法でイエスさまを求めるのは、自立したそれぞれの信仰じゃないかとも思うのだが。
そんな私に、今週のメッセージは「世に適応しないみことばなら、豚に真珠です。」私は聴くだけだったのか・・。主にしがみついて閉じこもろうとする私に、みことばは口に甘く腹に苦い。
主に祈ろう・・。
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