「慈悲の瞑想」というのがあります。
(アルボムッレ・スマナサーラさんの本で読んで、なるほどと思ってたまにやってます)
サマタ瞑想(落ち着く心のトレーニング)の一つみたいですが、
日本の仏教がお経を唱えたり、キリスト教の人が日曜学校に行って賛美歌を歌ったり、山に登ると気持ちがいいとか、踊りが好きな人は思いきり踊ったり歌が好きな人が大きな声で歌ったりするとスッキリするとか、そんな感じでしょうか。
日本のお経と違って、意味が分かりやすいし慈悲の心を育てるものなので、わけ分からず唱える(で、お願いして頼る)より有意義だと思ってます。
朝目が覚めた時、寝る時布団の中で、昼間ヒマがある時、いつでもどこでもできます。時間がなければ縮小バージョンで。自分にあった楽なやり方で。
とにかく、やさしい気持ちになると、心は落ち着きます。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私に悟りの光があらわれますように
私は幸せでありますように (←繰り返す)
この、「私」のところを、次に「私の親しい人々」その次「生きとし生けるもの」と広げて繰り返します。(「私が嫌いな人」や「私を嫌っている人」というのもありますが、そういう人がいる場合はしてみてもいいかもしれませんが、あまり気分がよくなければ省略していいです)
「生きとし生けるものが幸せでありますように」だけでもいいです。(縮小バージョン)
ただ、唱えればいいというものではなく、そういう気持ちを込めて言う(心の中で言っても、歌いながら言ってもいい、そこは自由・・)ことが大事です。言って、自分の心の中にそういう慈悲の心を育てるのです。すると、心は落ち着きます。
なぜ、最初に「私は幸せでありますように」とあるのか。これは、自己中の意味ではないのです。
私だけ幸せになるということはありえません。でも、人間は誰でも自分の幸せは願っています。人の幸せだけを願っています、というのはウソです。ウソはダメです。自分が幸せでなければ人を幸せになどできません。自分も人も幸せにならなければ、本当の幸せではありません。
だから、まず、「私は幸せでありますように」なのです。自分の幸せと人の幸せは繋がっているのです。
「生きとし生けるもの」とは、命あるものすべてです。だから、いじわるな上司も言うことを聞かない悪ガキも、泥棒も、勝手なことばかりする政治家も、犯罪者も、テロリストも、虫も、へびもすべてです。みんなが幸せであれば、みんなが怒りや欲や無智を超えて幸福であれば、自分も幸せになれます。そういう気持ちで生きると落ち着きます。
「悟りの光があらわれる」というのはちょっと宗教じみた言葉ですが、あらゆる煩悩(怒り、欲、無智による汚れた心、悩み苦しみの元)がなくなってそれらから解放された境地に至る、人格者になるということです。簡単に言えば、最高の幸せを感じられる人になるってことかな。
で、これは(誰か、何かに)お願いするのではありません。
そこを目指します、という決意表明みたいなものです。自分でそういう心を育てて行きます、幸せになります、ということ。だから、欲の気持ちや、怒りの気持ちでやっても、やらないよりはマシかも知れませんが、あまり意味がありません。そういう気持ちをなくそうと思ってするのです。
形式ではなく、中味が大事なのです。 ま、これは自分の修行ですね。
まずは自分からです。
お役に立ててなによりです。とっても簡単でしょ?^^
お釈迦様の教えはシンプルでいて奥が深いですね。
そして、平穏、平和への道だと思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように!
なので、短いブログで要点をまとめて頂けてとっても助かりました(^ω^)
まず、私と私の周りの人、そして嫌いな人を除く縮小バージョンができそうです。それじゃ生きとし生けるものになってないですね、、^_^;
いつか嫌いな人も含め縮小バージョンをできるようになったらいあなぁ(^ω^)