【1900(明治33)年からのイギリスでの留学生活で、神経衰弱が激しくなった漱石は、「下宿の婆さん」にすすめられて気分転換のために自転車乗りの稽古をする。当時イギリスではサイクリングが流行していた。その体験を書いたもの。人も自分も笑いものにするユーモアのスタイルは「吾輩は猫である」へと繋がっていく。】
自転車の練習といったら幼児。補助輪なしで乗れるように後ろを持ってもらって何度も…っていう姿が微笑ましい。・・・というのが現代ですが、明治時代は自転車はきっと高級品。めったに乗れるものじゃなかったんでしょうね。
大の大人が、自転車に乗る練習に四苦八苦する様子をとってもユーモラスに書いてます。言葉が硬い分、よけいに面白い。あっという間に読めてしまう。(青空文庫、ありがとう^^)
>自転車の末路また憐れむべきものあり
>後の事は思いやるだに涙の種と知られける
>あまり無慈悲なる一言と怒髪烏打帽を衝いて猛然とハンドルを握ったまではあっぱれ武者ぶりたのもしかったがいよいよ鞍に跨って・・・
>ともかくも人間が自転車に附着している也、しかも一気呵成に附着しているなり・・・
>自転車の鞍とペダルとは何も世間体を繕うために漫然と附着しているものではない、鞍は尻をかけるための鞍にしてペダルは足を載せかつ踏みつけると回転するためのペダルなり、ハンドルはもっとも危険の道具にして、ひとたびこれを握るときは人目をくらませしむるに足るめざましき働きをなすものなり
>今度は違った方へ行こうとの御意である、よろしいと口には云ったようなものの、ままにならぬは浮き世の習、容易にそっちの方角へ曲がらない、道幅三分の二も来た頃、やっとの思いでハンドルをギューッとねじったら、自転車は九十度の角度を一どきに廻ってしまった、その急転回のために思いがけなき功名を博し得たと云う御話しは、明日の前講になかという価値もないから、すぐ話してしまう・・・
>人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落とす事もある、そんなに落胆したものでもないと、今日はズーズーしく構えて・・・
面白かった~
こういう表現、使ってみたい~
星5つ
パソコンでもそうですが、大人になってから始めると大変ですね。
笑えました・・・^^
自分を笑う、大袈裟・・・
見習いたい・・・^^
昔は子供用の自転車がなかった(買えなかった?)から、母なども足のつかない家の自転車で練習したと言ってました。だから、今でもケンケンで走りながらでないと乗れないそうです。
大人になってから練習するのも大変そうです。
今は自転車を題材に小説は書けないでしょうね^^
したっけ。
漱石先生の自転車の練習ぶりがよくわかります。
大人になられてからなので、理屈っぽいように思います。
私も乗るようになるまでに苦労しましたが、孫達はすぐに乗るようになりました。
自分の体型より大きな自転車で練習させられたからかも知れません。(苦笑)