最近は、YouTube「一月万冊」やTwitterなどを参考に、けっこう本を買っては読んでるのですが、なかなか記録ができていません。内田樹さんの本は昔「寝ながら学べる構造主義」という本を読んでいいなと思って、それから何冊か読みました。
まえがきに、ここだけはぜひ読んで、それから買うか買わないか決めてくださいと書いてあります(買いましたが)。なのでとりあえず、第1章の最初「責任を取ることなど誰にもできない」について、記録しておきます。
第1章 社会の中で生きるということ
責任を取ることなど誰にもできない (「責任を取る」とは?)
責任問題、色々ありますねえ~。
内田さんは、
「ごめん」で済む話はこの世にない、元に戻すことなど不可能、「なかったこと」にすることはできない。だから、
「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ことはできないと言います。
>どのようなことであれ、一度起きてしまったことを原状に復することはできない。人間は自分がひとたび犯してしまった罪について、これを十分に償うということが決してできない。
できるのは、
>どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけ。
(責任逃れではなく、過ちを犯さないよう気をつけるってこと)
そのためには、それぞれが、
>「オレが責任を持つよ」という言葉を言うこと
>責任というのは、人に押しつけられるものではありません。
自分で引き受けるもの
「責任を取るよ」という人間が多ければ多いほど、社会は暮らしやすくなる。
「責任を取れ」「責任者出てこい」という他罰的な人の多い社会は暮らしにくい。
こんな暮らしにくい社会なのは、国民の一人一人に責任を引き受けようという思いが足りないから、ということですね。(国民主権の自覚。個人が社会を作る)
他人任せ、他人のせいにして、自分事として色々な責任を引き受けてこなかったから、と言えるでしょう。大人は大いに反省しなければ、、、。
正義が成り立つ条件
・・・では、被害者は泣き寝入りするしかないのか?
「罪の償いを求める」のは、それが傷ついたものの心身を「癒す」ために必要だから。
「癒す」とは心身の傷に名を与え、それが求めるケアをなし、特別な慰めや励ましを贈って「片づける」こと。
「罪の償い」は、加害者に自分は何をしてしまったのか、そのことの意味を「学ぶ」ことを求めます。
ワタシは、ある事柄において「責任を取るつもりがない」人は、初めからそれをするべきではないし、人に迷惑をかけ現状を回復できないなら、その立場から退いて「責任を取る意志のある」人に代わってもらって、いくらかでも現状を回復してもらうことが「責任を取る」ことになると思います。
さらに、起こしてしまったことについて具体的にできることは、自分が犯した過ちをきちんと見つめて学び、事実を認めて受け入れ、反省し態度を改める。被害者の傷を癒すために、できる限りの慰めや励まし、謝罪の気持ちを言葉や態度で伝えるとか、賠償金を払うとかでしょうね。
話は、赦しや折り合い、フェアネス、フェアでない日本社会が変わるには、、、などと続きます。けっこう深いお話です。大きな影響力を持つ国のリーダーにも読んでもらいたいなあ。
ああ、成熟するって難しい。
難しいけれど、次世代に対して、大人は責任を持たないとね。
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