「慈経」解説最終回。 →経典音声
第10偈
ディッティン チャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー
( 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、)
カーメース ヴィネッヤゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ
(諸々の欲望に対する執着をなくし、もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。)
邪見(=自我が実在するという錯覚)を乗り越える。
生命とは、もともと単なる現象にすぎません。(瞬間瞬間、変化、生滅しているのですから)
「無常」だから「無我」なのです。変わらぬ「自我、私」はないのです。
変わり続けている、というのが紛れもない事実。
この事実を受け入れる。
無限の、無量の慈悲の心を完成させた人は、「自我意識」などありません。
差別意識も偏見も、全くない。
嫌いな人も嫌いでなくなる。(嫌いでも好きでもなく、慈悲の気持ちがあるだけ)
非常に道徳的な存在になる。
主観がない。「ありのままの世界」が見える。
欲に対する執着が、ない。
そういう人は、苦しい輪廻を繰り返すことはなくなる。安らぎしかなくなる。
・・・・・そうです。(としか言えない)
>私たちには、完全に世界を直して完璧な社会をつくることはあり得ないことです。
だから、、、、個人に向けて「一人ひとり、頑張ってください」「一人が頑張ったら周りに影響を与えて、それでその人々が頑張れば、また広がっていくんだよ」というのです。
>仏道は脳開発だから、一人でやるしかないのです。
個人の生き方の問題です。
政治で言えば、「草の根」運動みたいなものですね。
一人ひとりが、それぞれ「自分で」できることをやって、すこしずつ共感の輪を広げていくしかない。決して、他人に押し付けたり、強要したり、お願いしたりするものではないのです。
慈しみによって心が自由になれば、身体も軽くなる。
怖くないから行動に移しやすくなる。
慈しみからの行動が増えれば、社会もよくなる。
究極の自由をめざして、精進あるのみです。
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