たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

治水を考える <台風21号 一夜明け 住宅襲う濁流・・・>などを読んで

2017-10-24 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など



171024 治水を考える <台風21号 一夜明け 住宅襲う濁流・・・>などを読んで

 

昨夜かえって毎日夕刊を見て驚きました。<台風21号一夜明け 住宅襲う濁流 大規模停電、鉄道も混乱>は河川の堤防外で冠水が広がっている状態を撮影していました。

 

この写真を見て、すぐに見覚えのある風景と思いました。いつも私が和歌山に通うときに通る紀ノ川南岸道路のT字路付近で、信号待ちでよく止まるところです。この河川は紀ノ川に合流する手前の貴志川です。あの高野山から西方に流れる河川の一つです。堤防の上に大勢のオレンジ色の服を着た人は消防隊の方たちでしょう。小さな消防用ホースをあるだけかき集めて排水しているところでしょう。以前fbで、橋本市学文路地区での排水状態を報告したことがありますが、このときは紀ノ川に排水で、ここでは貴志川に排水です。

 

堤防の下に南岸道路が和歌山市まで走っていて、手前右が病院、その横は運送会社、ずっと引いた左端は浄水場です。それらの背後の土地一帯が冠水しています。そしていわゆるミニ分譲地が冠水した水に浮かんだ状態にありますね。

 

昨日昼の紀ノ川(橋本市内)の様子を見ましたが、河川敷の上まで水嵩がきてなく、さほどの増水ではなかったのかなと思っていました。下流の貴志川合流付近はどうかわかりませんが、おそらく紀ノ川自体はさほどの増水ではなかったのではと思います。

 

で、このような冠水の理由はいくつかありますが、通常考えられるのは、紀ノ川に流入する河川からの排水を樋門を閉めて、紀ノ川自体の水嵩を増やさないようにして、堤防決壊や溢水による大きな被害を回避し、中小河川の氾濫程度に抑える一つの治水策と思うのです。むろんダム放流水の制御も重要な方法でしょう。

 

したがって、紀ノ川に流入する河川は排水できないわけですから、増水する一方で、氾濫することになりうるわけです。従前はそれでもよかったのです。元々氾濫原で、田畑ですから、被害もさほど大きくないのです。むしろ栄養豊かな土壌などが運ばれてくるわけで、いわばアスワンハイダムができる前のナイル川周辺の豊かな土壌による繁栄と似たような、小規模な状態が日本のどこにでもみられたのだと思います。

 

ところで、この紀の川市の冠水の原因は、貴志川の合流付近で生じたいものではなく、また貴志川を原因とするものではないようです。この記事ではわかりませんが、写真で見る限り、貴志川の水量はいつものちょろちょろよりは多いものですが、とても氾濫するような状態ではありません。一夜明けたからといって、急にこれだけ水量が減ることは考えられません。

 

となると、貴志川の少し上流か、別の貴志川に流入する河川が氾濫したのでしょうか。その原因はしっかり調査してもらい、今後の対策に活かしてもらいたいと思うのです。

 

ところで、これからが本題です。治水のあり方と河川付近の土地利用は表裏一体ともいうべきものです。紀の川市ではどのような治水と土地利用を考えていたかを今朝事務所に来てウェブ情報で少しだけ調べてみました。だいたい情報があまりないというのがこのへんの自治体の傾向でしょうか。

 

まず、冠水地周辺の<ハザードマップ>を見ました。案の定、この周辺は浸水5mゾーンとなっています。このハザードマップは、費用の関係で、詳細な検討をした結果により算定したものでないと思いますが、それにしても5mの浸水ゾーンというのは、どの程度この地域の人に周知しているのでしょうか。また、この浸水の原因については当然、想定しているわけですので、その原因対策がどのように講じられてきたかも気になるところです。

 

このハザードマップでは浸水原因から浸水シミュレーションが示されていないので、なんともいえませんが、通常危険箇所などからの洪水を一定予定して避難計画もたて、避難先も確保し、ハザード地区の人たちはそこに非難することが想定されて周知されていないといけないはずですが、今回はどうでしょう。

 

それ以上に、土地利用計画です。残念ながら多くの自治体では農業振興地域整備計画図といったものがウェブ上で公表されてないため、当該地がどのような土地利用を予定し、変更されてきたかが明確ではありません。

 

代替として、残念ながら法規制のない、<都市計画マスタープラン>を参考にします。これによると、農業振興整備地域の農用地区といった土地利用になっているように見えます(20p)。航空写真でも、また、私が毎回通る道路周辺の景観からも、まさに道路の後背地は田んぼ・畑の農地です。おそらく農用地区規制がかかっていて、道路周辺は適用除外になって病院等が立地できるようになったのではないかと思うのです。

 

では田んぼなど農用地のど真ん中に、ミニ分譲地が散在しているのはなぜか。それは<紀の川農業振興地域整備計画書>の中で、「農地共存住宅地」となっているように見えるのです(1p)地図が概況しか示していないので正確ではないですが、おそらくそうかと思うのです。農用地の利用がどんどん減少していく中の、一つの政策として市民の協賛がえられたのであれば、それも尊重されてよいと思います。

 

しかし、ハザードマップで示されたとおり、当該地域は氾濫原で重大な浸水被害のおそれがある場所です。その対策が適用除外のときに法的に条件化するのは無理としても、指導をするなり、また、都市計画許可対象であれば、一定の条件をつけるなり、対応すべきではなかったかと思うのです。

 

なぜそういうかといいますと、冠水した中に取り残された住宅の敷地はあまりかさ上げしていないように思います。それがいいかどうかも問題もありますが、たとえば東京足立の綾瀬川周辺は氾濫原で、昔はたいてい塚の上に家を建てていたと言われています。それで竹の塚とか地域の名称としてもいまだ多く残っています。

 

今回については、なぜ洪水になり冠水したかの原因調査を待たないといけませんが、貴志川の様子を見る限り、さまざまな洪水発生要因が潜在的にある場所かもしれません。こういったことを適切に周知するような土地利用策、住宅販売へのコントロールも必要かと思います。

 

そして、さらにいえば、紀ノ川全体の洪水対策の現状がはたして適切有効になされているか、源流から吉野川、紀ノ川、そして多くの流入する中小河川、膨大なため池、そして堤防や樋門の管理など、全面的に見直しを検討してもいいかと思うのです。それは流域住民との共同で行われる必要があると思うのです。

 

そんなことをふと思ったので、一時間くらいかけてブログを朝早く書きました。夕方元気があれば、もう一つ書くかもしれません。


171025 補足 洪水対策の統合化の必要(用水路管理)

 

昨日は成年後見事務などで少々疲れてしまい、もう一つのテーマでのブログを書く元気もなく早々と帰宅しました。

 

するとニュースで再び紀の川市の冠水が取り上げられていて、用水路が氾濫したといった情報が流れていました。

 

国交省・近畿整備局の和歌山河川国道事務所のHP紀の川河川事業概要>で、水防対策を少し見ました。すると今回冠水した貴志川は要注意とも言うべき位置付けであることがわかります。

 

90年代から2000年代にかけて盛り上がった流域協議会も審議を繰り返しているようですが、審議内容を確認するのに時間がかかりそうなので、今回はパスしました。

 

代わりに<紀の川下流部大規模氾濫に関する減災対策協議会>を見ましたら、基本的な事項は審議されていることが窺えます。

 

ところで、紀の川の当時の水位をチェックしてみますと、貴志川流入口の少し上流部<紀の川にある竹房水位観測所のデータ>も少し下流部の<紀の川にある船戸水位観測所のデータ>も、さらに流入河川である貴志川の<観測所:貴志(きし)>も、流入河川の排水を制御する状態であったとは言いがたいように思えるのです。

 

毎日記事写真で明らかなのは貴志川がいつも通りのように水流がわずかです。氾濫を心配するような状況ではありません。

 

では用水路はどうか、これは農水省、ひいては地元自治体が管理している準河川扱いではないかと思います。河川水防において、縦割り行政の弊害が如実に表れた事例といえるかはまだはっきりいえませんが、慎重に検討されるべきです。

 

用水路の排水は当然、この周辺では中規模河川である貴志川に、そして紀ノ川に到達することが予定されているはずです。その場合、どうして末端の紀ノ川も、そこに流入する貴志川も容量的には十分余裕があったと思えます。なお、紀ノ川下流域の心配があったかもしれないのでその点の考慮が必要でしょう、何年か前下流の住宅街が幅広くかん水した反省はあるでしょう。

 

いずれにしても、用水路の制御は、国交省河川局が担当する河川同様に、一元的な管理が求められているように思うのですが、その場合にデータ観測・集積・分析を統合的に行う体制の確立も必要ではないかと思うのですが、そういった検討が先の減災対策協議会で視野に入っているようには見えないのですが、そうなると、これまでと同じような災害の繰り返しにならないか、懸念が残ります。


 

 

 

 


紀ノ川の歴史に触れて 若浦をうたった和歌と紀ノ川河口の歴史

2017-01-24 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

170124 紀ノ川の歴史に触れて 若浦をうたった和歌と紀ノ川河口の歴史

 

今朝は、昨日の終日ちらほらと冬の彩りをもたらした小雪がまだ積もっていて、前方の竹林やそれに連続する雑木林など、白銀が光りなんともいえない冬化粧で迎えくれます。

とはいえ紀ノ川が凍結することはないようで、いつものように少ない水量の流れが川の中央を静かに過ぎていきます。

 

先日古墳のことを書きながら気になっていることがときどき思い出されます。宇治谷孟編「日本書紀」をぺらぺらと確認したのですが、やはり{葬る}といった記述は多くの天皇の死について書かれているものの、その葬法についてはまったくというほど触れていません。

 

「もがり」についてもごくわずか簡単に触れる程度で、その詳細にわたる言及がありません。一説にはわが国も3年の殯があったということですが、記紀の記述からはごく例外的、王位継承に問題が生じたときくらいではないかと愚考しています。

 

また、古墳、とりわけ前方後円墳については、その造成について触れているのは、唯一、箸墓古墳だけではないかと思うのです。あのいわゆる仁徳陵も応神陵も、世界最大規模であるにもかかわらず一切、言及がありません。前者ではまだ神話伝承を物語っていて、「昼は人が造り、夜は神が造った。」とか、「大坂山の石を運んで造った。山か墓に到るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。」とまで書かれています。

 

記紀の内容は信頼性がないと一言で片付けるものもなんですが、それにしても世界遺産に登録されようかという段階でも、初期の最大前方後円墳である箸墓(卑弥呼の墓という説も有力?)ですらまともに裏付ける記述がなく、まして登録予定の古墳については記述がないに等しいのですから、被葬者も不明な中でこのような事業を進めるのはどうかと懸念します。

 

それに加えて、大王の葬送のあり方として、殯・土葬が仏教に帰依した用命・推古大王以下でも継続されていたのであり、火葬が行われたのが持統天皇の時代が初めてですから、仏教伝来・普及のため、前方後円墳が円墳などに変更されたという見解には疑問です。

 

なお、日本語と日本文化というウェブサイト情報によると、宮内庁は歴代天皇の3分の1が火葬したとのことですし、維新の際、王政復古の旗印だった孝明天皇ご自身は仏式を強く望み、火葬した上、土葬?したというのですから、なんとも不思議というか、維新政府の犠牲になったような印象すら感じます。

 

天皇家が万世一系かどうかについてどちらの立場に立っても、火葬か土葬かは重要な問題とは思いません。時代の要請に応じて、ご自身の意思と葬法の歴史を考慮して決めればいいことかと思いますし、国民主権の基の象徴天皇制においても、退位はもちろん葬法も、そのような視点から検討されていいのではないかと思います。天皇制という奥ゆかしい問題に言及するつもりはさらさらなかったのですが、つい筆?タイプが勝手に動いてしまいました。

 

また表題と関係のない、前置きにもならない事柄を書いてしまいました。無理矢理に関連づければ、今回のテーマも多少、天皇の行いと関係します。

 

今朝の毎日記事、残念ながら和歌山版なのでウェブ情報にはまだ掲載されていないので、記憶だけで書きます。たしか和歌浦に聖武天皇が行幸したとき、山部赤人が歌った和歌を取り上げていました。

 

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る

(『万葉集』巻六の919番歌)

 

赤人の自然の景観美への洞察について、その潮の満ちて潟が海水で満たされていく様とツルが最寄りの葦原を目指して飛び立つ、動的瞬間を描いたものとして記事は取り上げていました。

 

私自身は和歌を理解できるほどの才はまったくありませんが、多少はその雰囲気を感じることができます。というわけで、私がこの和歌を取り上げたのは文芸的な意味ではなく、「若の浦」という表記を取り上げようと考えたからです。若の浦が和歌浦になったのは平安期ともあるいはそれ以降ともいわれますが、ともかく赤人ら万葉歌人が歌ったときは若の浦でした。おそらくは和歌が流行したことや観光的な意味合いから?名称変更となったのではないかと勝手に思っています。この変更に触れた文献をまだ見つけられていませんので勝手な推測です。

 

ではなぜ若の浦とよばれたのでしょうか。もう一つ、和歌山という名称、元々はそれまでの雑賀一族などが支配していた紀ノ川河口一帯にあった城を殲滅し、その後豊臣政権(たしか秀長)が築城し若山城と命名したのではないかと思います。で、和歌山県は、「和歌浦」の和歌と「岡山」の山との合成語と言われています。なぜ岡山なのか、城の立地場所のことかと思ったりしますが、判然としません。

 

つまらない議論と思われる向きはこの辺で読むのを断念したのがベターだと思います。これから先は、私が勝手に以前から考えていた推論です。

 

そもそも「若の浦」とか「若山」という名称は、それぞれ「若」という名所に幼いとか、新しいとかの意味合いをもっていたのではないかと考えるのです。そしてそれは紀ノ川河口の地形上や利用上の歴史的変遷を物語っているのではないかという、根拠の乏しい推論です。誰もそのような議論をしていないので、怪しいと思って先を進めてください。

 

で、まず若の浦ですが、紀ノ川河口は氷河期以降大きな変遷を遂げています。紀ノ川流域の地形的変遷は、和歌山河川国道事務所がウェブサイトで紹介していますので、これを参考にします。詳細は<日下雅義(1980)「紀ノ川の河道と海岸線の変化」『歴史時代の地形環境』古今書院>が参考になると思います。

 

氷河期は瀬戸内海が陸ですから、紀ノ川も吉野川も、川として合流していたかもしれません。で、縄文期の縄文海進で河口域はほぼ水没していたでしょう。弥生から古代にかけて海が後退し、片男波などの砂州もでき若の浦も一時的に美しい景観が形成されていたのでしょう。いつ頃から紀ノ川河口に天皇家が訪れるようになったのか、分かりませんが、有間皇子が若の浦を超えて(無視して)、白浜温泉などを斉明天皇に紹介するようになった7世紀中頃では多少は知られるところになっていたかもしれません。

 

いずれにしても片男波で生まれた若の浦は、まだまだ新しい浦でしたから、そういう意味で名付けられたのではないかと何年か前から思っているのですが、つい表明しました。

 

要は、記紀で言われている、紀ノ川河口が舞台になった最初は、神武時代で、その後は神功皇后時代くらいで、いずれも戦争の行軍ですから、和歌とは縁もゆかりもありません。というか記紀の神武時代を紀元前とすれば、河口にはとてもそのような美しい若の浦は形成されていなかった可能性があります。神功皇后はどのような航跡をたどったか、フォローできていませんが、もしかして河口を遡ったとしたら(こういう説は聞いたことがありませんが、日根野氏は多少その可能性を指摘?)、若の浦を見ずして遡上した可能性もあります。

 

そして若山城ですが、それまで雑賀一族の拠点であった紀ノ川河口は、おそらくベネチアのように小河川が入り組む形で流れていて、そこに船で出入りする居城があちこちにあったのではないかと勝手に推測しています。その船舶交通を利用して、瀬戸内という狭いところを抜けて、海外交易を行い、鉄砲といった最先端の欧米の武器はもちろん多様な南蛮貿易を行っていたのではないかと思うのです。

 

それを信長、そして秀吉が攻め、ついには最後に残った太田城という頑強な城に対し、戦国三大水攻め(備中高松城、武蔵忍城・あの映画「のぼうの城」で舞台となった)により、攻め滅ぼし、中世の終わり(なお有力説はなんと中世は弥生期で終わりとか)になったと言われています。

 

このときの水攻めがいろいろ学術的な研究が行われ、はたして短期間にそのような巨大な堤を築くことができたか、疑問視する見方もありますが、それはともかく私はこの水攻めの土木技術がその後江戸時代になって平和利用がされ、潅漑技術や治水技術に転用され、17世紀から18世紀にかけて飛躍的な農業生産の増大を勝ち得たのではないかと思っています。その土木技術の継承、伝達については、軍事秘密であったのか、あまり議論を聞いたことがなく、今後の検討課題と勝手に思っています。

 

まだ本論からそれてしまっていますが、戦国時代、紀ノ川沿いには西から東に、雑賀衆、根来衆、粉河衆、そして高野山と合計約70万石に匹敵する共和国が成立していたとも言われています。それがこの太田城水攻めにより、少なくとも紀ノ川河口ではすべて殲滅したのです。

 

そして紀ノ川沿い、および泉州など河内南部の抑えとして、重大な守りの拠点として新たな城の築造を秀吉は秀次に命じ、当時城郭建築に秀でていた藤堂高虎などに造らせたのが若山城です。つまり新しい拠点の城という意味で名付けたのではないかとこれまた大いなる空想ですが。

 

なお、いつか太田城水攻めの土木技術的な考察について、梅津一朗編「中世終焉」などを参考にしながら、言及したいと思っていますが、それは才蔵の土木技術との関係性の中で、なにか脈略らしいものがうかがえればと思いながら、書いてみたいと思います。


川って何だろう 新日本風土記「渡し船」と川

2016-12-12 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

161212 川って何だろう 新日本風土記「渡し船」と川

 

今朝は新聞休刊日。それで先日NHKBS新日本風土記「渡し船」を見ながらついいろいろと思い出すこと、思いついたことを気ままに書いてみたくなりました。

 

あの光景で私自身が知っているのは矢切の渡しだけです。といっても伊藤左千夫著「野菊の墓」の政夫と民子の最後の別れの場面を思い浮かべて訪ねたというわけではありません。

 

35年以上前でしたか、金町浄水場からの飲み水が軽き臭いと評判で、実際私の住む地域も給水されていて、とてもそのままでは飲む気がしない代物でした。そんなこともあり、あるとき高度処理が行われるようになったと言うことで、見学に行ったことがあります。ついでに少し下流にある矢切の渡しを見た記憶です。その前後もあの付近で花火大会があったので、なんどか行きました。で、圧巻は、カヤックのエスキモーロールの練習場として浄水場の取水口の少し上流がちょうど手頃で、何度も訪れたのです。

 

もう少し話しを進めます。矢切の渡しの少し上流に金町浄水場があり、その少し上流が私の練習場、そのまた少し上流に松戸市周辺からの汚濁廃水が大量に流入していたのです。もう四半世紀前でしょうか。まだ流域下水道最終処理場がたしか荒川河口付近に建設する予定でまだないころでした。そこは江戸川。ここを一度だけ利根川との分岐点から下ったことがありますが、最初はさすがに利根川本流の水質できれいでしたが、途中から畜糞の香が周辺から漂い、次には生活排水がどんどん入り込み、金町浄水場の取水口手前は浄水の取水源としての水質ではなくなっていました。その後下水道が普及し、相当水質が改善してきたと覆います。

 

当時の矢切の渡しでは、まともに水面を見てもあまり気持ちのよいものでは中田のではないかと思うのです。これはパドリングして、水面がもうすぐ間近だと痛切に水というものを感じます。江戸川あたりでも小魚が結構いて、一人カヤックを漕いでいると、驚いたのかわざわざ飛び跳ねて体毎ぶつかってくるのです。自然に水に濡れます。水と一緒と言った感覚になります。

 

ところで、渡し船はいま、いわば絶滅の危機に瀕しているように感じたのです。人も船に乗るのはわずかな間だけで十分満足している様子。利用者が少ないからだとか、橋を通って車で行く方が便利とか、渡し船で通うような不便なところでは住めないとか、いろいろな事情で、ますます川へのアクセスが少なくなっているように感じるのは私だけでしょうか。

 

日本でも縄文時代や弥生時代はもちろん、おそらくは汽車の軌道や自動車道路が整備されるようになった明治以降、河川交通が衰退したのではないでしょうか。もう一つの理由としてはダム開発による流水の堰止めで、水量が激減したことも加速させたのでしょう。

 

と同時に、日本人の意識の中に、川が生活やその歴史にとって不可欠といったものがある時期に失われてしまったのではないかと思ったりします。この点、北米では、川は開拓の主要なルートであり、多くの開拓者はカヌーを使って最初に道を開いたのではないかと思います。たとえば、ルイスアンドクラーク探検隊は、ミズーリ大河や小河川を利用して太平洋への道を開拓し、その名前を冠した大学がオレゴン州にあります。カナダの場合はもっと川が利用され、商業活動でもハドソン・ベイ・カンパニーが北極圏のハドソン湾からカヌーや帆船などを使ってカナダ大陸を横断して交易し、現代まで活躍してきました。むろん一般の人もカヌーなどによる日常的な川の利用が行われていたように思います。

 

翻って、日本はとなると、維新時に訪問した異邦人が日本の川は滝だと極端な表現で示したものの、やはり河川勾配はかなりきつく、カナダや西欧のように割合なだらかな勾配とは異なることは否めないので、一般的な河川交通としては多くの河川は不向きだったかもしれません。それでも縄文時代は別にして、河川流域に生活拠点を移した後は、割合平坦な部分を利用して、下るときはそのまま、上るときは曳き綱などで活用されてきたと思います。

 

映画「紀ノ川」でも、上流の九度山で育った「花」が下流の六十谷(現和歌山市内)の素封家・敬策に嫁ぐとき、川船でゆったりと下っていく様は、とても風情豊かでした。その紀ノ川は当時、豊富な水量で、氾濫時は周辺を大きく水没させる暴れ川でもあったのです。

 

そういった川は、人間にとっては利用することと収めることが二律背反的に求められていたと思います。他方で、川で遊ぶというか、泳ぐといったこと、船遊びをするといったことは、後者は古くから高貴な身分が独占し、前者は武士の時代に一部の秘術としてしか使われていなかったのではないでしょうか。

 

そして明治以降、スポーツとしての水泳や行楽や自然観察としての川遊びが入ってきた後、戦後ある時期までは、庶民にとって川は身近な存在だったように思います。

 

しかし、一方で洪水調節や水源開発のため、ダム・堰等により大河川はいつしか水無し川になり、水の都といわれた各都市の美を形成していた、堀・運河、小河川はいつしか汚水垂れ流しで臭いものとなり、また身近な河川では落ちれば危険とか、有効利用ということで、どんどん蓋をしてしまいました。

 

ヴェネチアは水の都と言われ、多くの観光客が集うのは、至る所水が流れ、ゴンドラが行き交っているからではないでしょうか。潤いや和みを感じさせる都市やまちは、小河川が至る所にあるからではないかと思ったりしています。それは人の体自体が水で構成され、水なしでは生きて行かれない存在である事とも関係するように思うのです。

 

私たちは、再び水を育む川という存在を見つめ直してもよい時期にきていると思うのです。渡し船は、わずかな一瞬を昔の川とのつきあいを思い出させてくれるかもしれません。しかし、川は生き物です。川が健康であると、その水質も、そこに生きる微生物や魚介類も生き生きとしています。山から豊富なミネラルを含んだ水も、岩が砕けて小石や砂になったものも、みな元気になるでしょう。水鳥や昆虫もいかに生き生きとするか想像できるでしょう。

 

最近ようやく北米流に、環境用水とか景観用水といった観念が、法制度上、導入され、事業の中でも生かされつつあるように思います。水無し川から、わずかな流量が確保されるようになったところもあります。しかし、川のあり方をだれがどのように決めているのでしょうか。すべて法律で一定の基準があり、基本的には水利権という制度を基本にして決まっていますが、決まり方が不透明ではないでしょうか。

 

川は本来、さまざまなステークホルダーがいるわけですが、法制度上は、多くは無視されてきました。たとえば北米での水資源の利害をめぐる議論は、一般的な水利権者だけにとどまらず、レクリエーションとして利用する団体(たとえばカヌー協会)や原生自然保護を求める団体など、それこそさまざまなステークホルダーが登場して、川のあり方を決めているように思えます。

 

とつらつら昔考えていたようなことを思い出してしまいました。いずれ、さまざまな水利権と水利権のない多様なステークホルダーが参加して議論しなくては済まないことになりそうな気がします。部分的には河川法改正後、一部に生まれた協議会といった方式の検証をしながら、さまざまな河川分野において新たな協議方式なり決定方法を生み出す必要を感じています。

 

と同時に、カヤックで川下りをしていると、これは海の沿岸でも起こりますが、他の船、とくにレジャーボートや釣り竿など他のレジャーといろいろな意味で衝突というか、トラブルが発生するおそれもあります。カヌーイストの草分け的存在の野田知佑さんがかつて多摩川を下ったときに見事に表現していますが、これはお互い嫌な思いになりますね。

 

語りだときりがなく、とりとめもなく続きそうで、今日のところはこの程度にしておきます。