たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

水利秩序とその変遷 <『紀伊国桛田荘と文覚井』、渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』、渡辺洋三著『農業水利権の研究』>をちらっと読みながら

2018-07-01 | 大畑才蔵

180701 水利秩序とその変遷 <『紀伊国桛田荘と文覚井』、渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』、渡辺洋三著『農業水利権の研究』>をちらっと読みながら

 

私の友人が脱サラして千葉の農村で無肥料・無農薬の農業を始めたのは30年以上前のことです。農家でない一般人が農業を始めることは当時、とてつもなく大変だったと思います。彼は自宅も、当時すでに丸太価格が下落して放置されていた立木を自分で伐り出し、自分で作り上げたのです。山林所有者も間伐をただでしてもらっている感覚だったのでしょうか、無料でわけてもらったそうです。

 

いろんな苦労話を聞きましたが、やはり水です。水利組合はいまでも管理が厳しいですが、当時はむろん、しっかりしていたと思います。よそ者というか、水利権のないものに水を与えるほど、寛容な水利組合はありませんね。水路を利用している人は、自分の田んぼにいつ水が入るか、十分に入っているか、そのことに関してはとりわけ関心が高く、ちょっとでも遅れると何事かとか、水当番(地域によって呼び方は違いますが「ばんと」とよばれたりします)は叱られます。あるいは水が十分に入っていなかったりすると、これも問題にされます。これだけ減反政策で水田耕作が減ったというのに、それでも水が十分というふうには感じられません。

 

余談になりましたが、友人が水を確保したのは、かなり遠く離れた沢水をたしか細いビニール管で引き込んだという風に聞いた記憶です。実際、私はその水の引き込み水路?を見ていませんので、正確なところはわかりません。この例を出したのは、それくらい水の利用は制限されているということです。

 

水田というのは、その地盤のある土地所有権があればいいのではないのです。水利権がついていないと価値がありません。通常は水利権があるわけですが、それが権利の表象として明示されているわけではありません。村落共同体というか、村人ならだれもが当然に知っていることなのですね。古くからの村であれば、大字におさまる範囲の村人が構成員となって水利組合を作っているようです。水利権の表示は昔でいえば絵図、公図ができてからは青線で幹線水路が示されていますが、個々の水田に引き込まれている支線の水路は現地確認でしょうね。

 

戦後初期に始まった化学肥料の輸入以前は、わが国の水田では、まだまだ堆肥や枝葉を利用した刈敷がメインでしたから、山地への入会権も不可欠で合ったと思います。

 

ともかく陸稲と異なり、水稲栽培では、水の確保は絶対でした。そんなことを今日のテーマにしようかとつい思ってしまったのは、『紀伊国桛田荘と文覚井』に掲載されているカラフルな絵図や古文書の数々を見ていて、土地境界の紛争も大変だったけれど、水争いも壮絶なものだったのだろうと思ったからです。

 

渡辺洋三氏は東大社会科学研究所で、農業分野に法社会学的なアプローチを丁寧に行った研究者の一人で、私みたいな学識のない人間にとっては雲の上の人といった感じで、その著作『法というものの考え方』(59年発行)で初めて法というものに触れさせてもらった記憶です。その代表作の一つである『農業水利権の研究』はなんどか読んで見ようと思いつつ、なかなか読み切れないでいます。適当な引用は失礼に当たりますが、いつか読もうとの気持ちで少し引用します。

 

渡辺洋三氏は、戦前の水利権に関わる裁判例を研究され、紛争当事者のいずれに水利権があるかについて、大審院の判断基準が「古帳簿または旧証書等の内容の事実解釈や、その実地への適用が争点の中心であったとし、また、こういった古文書がない場合には具体的な水支配の事実を現地で確認するという現実支配力を重視しているという見方を示しています。(これはかなりアバウトな私の引用で不正確ですが、ま、ご寛容ください)

 

こういった渡辺洋三氏の指摘は、江戸時代の水戦争における裁判のあり方とよく似ていると思ったのです。渡辺尚志氏は、日本近世史・村落史を専攻とする一橋大の教授ですが、その著作の多くに注目しています。古文書をわかりやすく解説したり、水利権紛争における灌漑用水路の流れと村落の位置関係を絵図で示したりして、素人でも理解しやすくされているところがいいです。

 

で、その著作の一つ『百姓たちの水資源戦争』では、ため池灌漑や河川灌漑が何百年にわたって繰り返し裁判で争われ、誉田八幡宮周辺の村々が当事者となって互いに水利権を主張しています。そこでは黄門の印籠ならぬ、古文書なり絵図が決めてなっているようです。従来からの慣行的利用も重視されますね。といっても江戸時代の裁判は、基本的に和解を目指す傾向にあり(あの高野元禄裁許も繰り返し和解的解決を目指したがだめになり、最後は寺の破却とか遠島となっています)、それで時間がかかる、また紛争が繰り返されることにもなったのかもしれません。

 

で、絵図とか古文書が重要と言うことで、こんどは『紀伊国桛田荘と文覚井』に移ります。ま、適当な読み方で今日のブログを書いているのは、ここをちょっと触れてみたかったからで、長い寄り道をしてしまいました。

 

中世の荘園絵図として、「紀伊国桛田荘絵図(神護寺本)」と「紀伊国桛田荘絵図(宝来山神社本)」という2つあり、両者はいくつか違いがありますが、相当な部分で酷似しています。現在の和歌山県かつらぎ町笠田に当たる地域です。前者は国宝、後者は重要文化財となっています。この2つの絵図の歴史的経緯(作成時期など)について、この書籍の中で、県の前田正明主任学芸員が学説上の議論を整理されていますが、その議論はさておき、いずれの絵図にも文覚井の記載がありません。

 

文覚井が平安後期に活躍した文覚(1139年生~1203年没)によって開削されたのであれば、文覚井の記載がないことは13世紀初期以降に作成された可能性が高いともいえます。ただ、この絵図は領域を示すために書かれた四至牓示図であって、用水争論のために作成されたものでないから、灌漑水路の記載がないからとって、作成当時になかったとはいえないとか、あるいは作成時期が文覚井開削以前であるとの説によれば書かれていないことは当然となります。

 

ま、文覚がいろいろ活躍したとはいえ、文覚井まで開削したかは、はっきりした確証はないように思います。ところで、『紀伊国桛田荘と文覚井』には、さまざまな古文書・絵図が掲載されていて興味深いのですが、慶安3年(1650年)作成とされる「賀勢田荘絵図」には、文覚井の3つの井(堰)がしっかりと描かれています。紀ノ川の支流、穴伏川に堰をつくり、その取水口から用水路が水田までしっかりと記載されています。

 

それから半世紀後頃に、紀ノ川に堰をつくり、藤崎井、小田井と大動脈用水路を開設したわけですね。この絵図に、穴伏川(当時は、北川)が誇大した大きさに描かれ、3つの井も誇張されています。それは賀勢田荘(桛田荘)と穴伏川を挟んで隣接する静川荘とが当時用水争いをして、紀伊藩の裁許で確認されたことを記して作られた絵図だからです。

 

その点、上記2つの絵図は用水争いがあったことをうかがわせるものがなく、また、ため池も用水路も一切記載がありませんので、水路を明示する必要性がなかったといえるでしょう。となると、その作成時期如何に関係なく、文覚井の存在があった、なかったことをこの絵図では説明できないと見たほうが妥当ではないかと思います。

 

さらに付け加えて言えば、この「賀勢田荘絵図」に描かれている堰(「井せき」と表示)は大きく描かれているものの、構造・形態など分かるような記載は一切ありません。

 

用水争論には必要がないといえばそうなんですが、堰というのは築造に大変な技術と作業を要すると思うのです。そういった技術的な部分はなかなか記録に残さなかったのかなと思うのです。私の狭い知見では、小田井も藤崎井もあるいは龍之渡井も、技術的な構造図など、どのようにして築造したか、検証可能な形では記録として残っていないと思います。

 

龍之渡井については、簡略した図面がありますが、要領を得ないように思うのです。小田井や藤崎井については江戸末期に初代才蔵の後に誰かによって描かれた図面がありますが、それもその図面だけみて構造が明らかになるほどのものとは思えません。

 

とくに「小田井圦(いり)絵図」は、両岸が石組みで護岸されていて、その両護岸をふさぐ形で堰が作られているように描かれていますが、当時の技術と材料で紀ノ川の水流を全部受け止めるほどの堰を作れたか疑問です。

 

龍之渡井については別に江戸時代末に描かれた絵図がありますが、これもとても構造的に意味のあるような図面ではなく、技術者の目で描かれたものとは言えないですね。

 

なぜ重要な土木技術の作画を残さなかったのか、これが不思議なのです。戦国期にはこれが絶対に軍事秘密ですから、秘伝なりとして、作図も慎重、あるいは残さなかったかもしれません。しかし、平和な江戸中期になぜ、という疑問にはなかなか答えが出てきそうにありません。

 

今日はこの程度で終わりとします。また明日。

 

 

 


大畑才蔵考その18 <元禄高野騒動の続きと寺社奉行の役割、桛田荘支配と小田井開設>などを少し考えてみる

2018-05-07 | 大畑才蔵

180507 大畑才蔵考その18 <元禄高野騒動の続きと寺社奉行の役割、桛田荘支配と小田井開設>などを少し考えてみる

 

連休明けなれど、仕事がたまっていて、忙しく打ち合わせや会議を終えるともう帰る時間。今日は朝刊もなく、ウェブニュースを見てもぴんとこないのです。

 

こういうときは神頼みならぬ、才蔵頼みで、久しぶりに才蔵考を書いてみようかと思います。といっても思いつきですので、いくつかの資料を斜め読みして、以前書いた元禄高野騒動の続編的な感じで行こうかと思っています。

 

この元禄高野騒動というか、寺社奉行という当時の最高裁に匹敵する裁判機関による江戸時代における大裁判劇?はとても魅力があるものの、資料を見いだせずにいて、今回は簡単な資料を基に、少し敷衍してみようかと思っています。

 

すでに前のブログで2回はこの裁判の内容を取り上げています。で、今回は白井頌子著『近世における高野山と紀州藩 -地士の分析を中心に』の中に、わずかな分量で、「元禄の高野騒動について」について言及している部分を引用したいと思います。

 

ここでは、騒動の原因と、裁判の内容、そして白井氏が関心を抱いている紀州藩の役割を取り上げています。

 

白井氏は高野春秋などを参考にしてコンパクトにまとめているようで、騒動の原因についても簡潔なもので、これだけで本当に原因が解明されたかはなんともいえません。ともかくその原因について次のように述べています。

 

高野山には学寮方、行人方の対立が中世からあり、江戸時代に入っても「学侶方の無量寿院澄栄が行人方の文殊院応昌に灌頂授供を約したのに対し、三〇〇〇人の学侶一同が、家康御朱印に背くものとして反対した。」ことから、紛争が本格化したのです。

 

この詳細は、むしろ<村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』>を紹介しているブログが極めて詳細で、参考になりますが、いつか取り上げます。

 

で、双方からの訴えで何度かの裁許・裁決が繰り返された後、1692年の元禄高野裁許が最終的にくだされ、落着したようです。

 

結論は、以前も書いていますが、なぜか行人方の大粛正という一方的な結末です。上記村上著作の紹介ブログではこの点について高野春秋を基礎にしているようで<江戸初期における高野山の勢力は、坊の全数が1865軒であったが、その内訳は、学侶坊210軒、行人坊1440軒、聖坊120軒、谷之坊53軒で、行人方寺院が圧倒的多数派をしめていた。>

それが<元禄5(1692)7月、幕府は服従しなかった行人方の627名を大隅、薩摩、肥前などに遠島とし、行人方寺院、902軒を潰寺とする裁決を下した。

 行人坊で存続したのはわずかに280軒、新寺院の建設は禁止された。>というのですから、行人方の一方的な敗北で、その後は勢力を消失したのでしょう。

 

で、私が紹介したかった白井氏の著作ではその裁許がいかに大がかりであったかを示す記述がされています。

<この時、幕府の寺社奉行、大目付、目付の三人が上使として江戸から五〇四人を引き連れ高野山へ派遣されている。>寺社奉行を筆頭に500人の大舞台が江戸から橋本にやってきて裁判を行ったのです。

 

しかも、実際の警護スタッフとして、紀州藩は総動員令のように13000名という大々部隊を編成しているのですから、驚くべき内容です。

<その時に、紀州藩は、上使一行の警備と行人方の抵抗を阻止するため、紀州藩地士達を動員した。若山から御家老・奉行・物頭・諸士・同心など約一万三千人近くの人員が動き、橋本へは役人三六人・侍一〇〇騎・歩立一〇〇人・足軽一二〇〇人・人夫一五〇〇人、紀ノ川の上には人夫一万人を配置した。また、六十人者をはじめ、地侍共や大庄屋等にも、出張が命じられ、総勢八十一人の地士・帯刀人が出動している。この時、高野地士が動員されているかどうかは定かではない。>

 

ですから、私はこの元禄高野裁許は、江戸時代最大の寺社裁判だと思うのです。

 

で、小田井との関係ですが、木食応其上人が秀吉から高野山を守り、領土の保全を許可されていますが、彼こそ行人方です。その応其上人は、いま読み始めた和歌山県立博物館発行の『紀伊国桛田荘と文覚井』の中で、紀ノ川中流域の灌漑水利施設の改修をたくさん手がけ、「かせたの池」などもその一つとして紹介されています。その応其上人の地位を行人方トップが引き継いだわけです。上記文献の中に、桛田荘に祭られている宝来山神社が1614年に高野山の吉徳院(行人方)と地元土豪の是吉によって再考されたという記述があります。

 

まだこの文献をなかなか読めていないのですが、桛田荘など紀ノ川中流域の田畑を支配していたのは行人方ではないかと思っています。そして元禄高野裁許によって、行人方が追放された結果、しかも紀州藩もそのために13000名も配備したわけですから、その支配権を紀州藩が実質的に握ることがようやく達成できたのではないかと思うのです。

 

つまり、小田井から灌漑用水を中流から下流に引こうとしても、桛田荘などが行人方によって支配されていると、その反対に遭ったり、彼らに利することになり、紀州藩としてもそのような大事業に取りかかれなかったのではないかと、疑っています。そこに元禄高野裁許と小田井開設には重要な関連性を感じるのです。私のまだ根拠の乏しい推測ですが・・・

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


大畑才蔵考その17 <皇太子講演>を読んで<小田井堰の地形的特徴と受益地の領有形態の変遷>をふと考えてみる

2018-03-20 | 大畑才蔵

180320 大畑才蔵考その17 <小田井堰の地形的特徴と受益地の領有形態の変遷>をふと考えてみる

 

明日は大畑才蔵が開削した小田井用水を見て学ぶ歴史ウォークの予定ですが、天候不順で昨年のように流れるのではと心配しています。なんとか天候が持ち直してくれればいいのですが・・・

 

今日のNHKニュースでは<皇太子さま世界水フォーラムで基調講演>というタイトルで報じられました。

 

<皇太子さまは、「『水を分かち合う』ためには、水がすべての人と自然に無くてはならないものだと深く理解し、水に関する歴史上の経験と知恵から学び、水に関する情報を共有し、水を保全し利用するために協力しなくてはなりません」と述べられました。>

 

ま、私は一般人ですしブログですので、皇太子とお呼びします。皇太子は、長く水の研究に取り組まれたそうで、これまでも国際会議の講演では水をテーマに講演されていて、宮内庁の<皇太子殿下のご講演>では、講演全文がダウンロードできるようになっています。

 

さすがに資料もそろっていて、外国人でもある程度理解できるように、わが国が歴史的に水問題に取り組んできた具体的事例を挙げ、多くのスライド画像を活用して、わかりやすく講演されています。

 

その中に、<2回国連水と災害に関する特別会合における皇太子殿下基調講演>では小田井用水が供給された地区の一つ、桛田荘が荘園時代におけるかんがい用水の開発という面で取りあげられていますし、近世の統一政権下に開削された小田井も広大な地域をかんがいして農業生産の飛躍的増大をもたらした技術として評価されています。

 

で、今回は、<3回国連水と災害特別会合における皇太子殿下ビデオ基調講演 水に働きかける>で紹介されている信玄堤などについて、皇太子が指摘されている技術解説を参考にしながら、小田井のもつ歴史的背景(土地・水利の領有をめぐる歴史変遷)と治水・利水の面での小田井の位置について地形的意味と才蔵の庄屋としての意味とを絡めて、少し自説を展開してみようかと思います。

 

信玄堤は有名ですが、その構造をきちんと学んだことがなかったので、皇太子が解説した内容はとてもわかりやすく思いました。

 

皇太子は、巧みな表現でその目的を明らかにしています。

<信玄の目指したところは,単なる堤防だけでなく,異なった機能の施設を巧みに配し(図7),当時暴れ川だった釜無川の洪水を制御し,その豊かな水量の恩恵を自国にもたらすことにあったようです。>(図は先のウェブサイトに当たれれば、クリックすれば図がスライド画像として現れます)

 

この洪水制御と利水を同時に行う構造は次のように説明されています。

 

<この図は信玄堤とその周辺施設全体の配置を示したものです(図8)。これらの施設によって河川洪水がどのように治められていたのかを見ていきたいと思います(図9)。>

 

まず、河川南方(右岸)を洪水から守るため、人工の石積みを構築しています。これは河川の流れを北方に方向を変えて、次の自然に作られた分水ポイントに導くのです。

<釜無川は甲府盆地を貫く河川で,周辺の山地から集まった水を盆地地域一帯に吐き出します。信玄堤のシステムでは,洪水の流れをまず,固く大型の構造物である「石積出し」にぶつけて北に向け,南方での洪水を防ぎます(図10)。>

 

北方には、その分水機能を持つ将棋頭があり、そこに水流を当てて分水させるのです。

<次に日本の将棋の駒のような形をした「将棋頭」で流れを2つに分けてその勢いを分散させます(図11,図12)。>

 

その次に、さらに堀切と高岩を使って、水野勢いを殺すのです。

<分水された洪水流は,河床を掘り下げた「堀切」に導かれ(図13),自然の障壁である「高岩」にぶつけられ減勢されます(図14)。>

 

そして、その勢いが弱められた水流に別の川の流れに当てて、さらに減殺させて、今度は霞堤に当て、勢いを弱め、越流なり、堤防の間から背後の平坦地に氾濫させるのです。

<その後流れは更に前御勅使川にあてられ水勢が相殺され,その下流には霞堤が配され,減勢された洪水流を甲府盆地に穏やかに氾濫させ,ピークが過ぎてからゆっくりと川に戻されます。>

 

他方で、分水の一部は、取水口からかんがい用水として流れていくわけです。

<取水口はこの地点に設けられ(図15),洪水時の激流による施設の損壊を防ぐとともに,土砂の少ない流水が灌漑用に使われていくことになります。>

 

氾濫原は、洪水時は水に浸り大変ですが、上流の肥沃な土壌が入ってくるので、水が引けば農業生産にとっては有益な栄養素になるわけですね。それはナイル川の氾濫原も含め世界中どこもそういった川と農地の関係が見られますね。

 

ところで、信玄は、この信玄堤という複層的な構造の治水利水システムをどうしてできたのでしょうか。それは強力な戦闘力があり、他国からの侵略を受ける心配がなかったことも要因ではなかったかと思います。

 

桛田荘のように中世期の荘園は、絶対的な権力がなく、隣接の荘園、静荘や名手荘など多数の荘園との間で、領地境争い、水争いが絶え間なかったわけで、大規模な工事をする基盤に欠けていたと思うのです。

 

戦国時代に入り、ようやく戦国大名が統治する領地内では相当規模の開発を行う基盤がそろったと思います。それは戦時技術の応用でもあり、また、食糧増産なくしては経済的にも戦争に勝つためにも、必要な開発だったのではと思うのです。

その意味で、その信玄堤の技術は、戦時技術と同様に秘密にされていたのでしょう。

 

徳川幕府ができ、ようやく戦時技術や農業技術も次第に秘密性が薄らいでいったかもしれません。17世紀の農業基盤開発は全国各地で起こっていますし、新田開発の飛躍的増大は驚異的だったと思います。

 

でも紀州はおそらく違っていたと思うのです。戦国時代、紀ノ川流域は、上流から金剛峯寺、粉河寺、根来寺とそれぞれが領域を拡張し、競り合っていたと思います。秀吉が後者2つを殲滅し、金剛峯寺も17万石から2.1万石でしたか激減したものの、応其上人のおかげでなんとか生き延びました。

 

そのため、紀ノ川流域ではまだ金剛峯寺の支配は各地とせめぎ合っていたのではないかと愚考するのです。紀ノ川という大河川からのかんがい事業を実施するだけの技術がなかったのかもしれません。しかし、そのように考える根拠はあるのかなと思っています。

 

すでに城の水攻めは、備中高松城?、紀州太田城、もう一つありましたね、いずれにしても戦国時代に、大河川からの水を引き込む技術は相当程度高いものがあったと思うのです。

 

むしろ中世・荘園支配以来の領地争い、水争いが、金剛峯寺の強い支配力もあって、なかなか大河川から領地横断的なかんがい用水を開設できなかったのではないかと思うのです。

 

それが1692年でしたか、寺社奉行最大の大裁判を橋本で実施して、1000人くらいの行人僧を追放し1000近い寺を破壊して、金剛峯寺の力をそぎ、紀州藩の統一的支配が可能になったからではないかと考えるのですが、まだ具体的な根拠を見いだしていません。

 

それが領有関係の歴史的変遷というか、小田井用水開設の背景の一つと思っています。

 

なお、一般に小田井や藤崎井は、新田開発により農業生産を増大し、赤字財政の黒字化という経済政策の一つとして考えられていますが、私はもう一つ重要な要素を指摘したいと思います。それは当時、宝永の噴火や大地震・大津波で、被災が甚大で、飢饉が全国的に起こっていたと思うのです。そのような被災者対策という、社会政策的な意味もあったと考えていますが、それは吉宗が将軍になってからの話しと捉えた方がいいかはまだ躊躇しています。

 

で、ここからがもう一つのテーマ、小田井堰の位置決定の背景です。橋本市のホームページでは地形図をダウンロードできます(国土地理院が少し前まで無料でできていたのができなくなり残念です)。

 

その地形図でこうだとまではいえませんが、おおよそ小田井堰の上流をみてみますと、河岸段丘が両岸で続いていて、とくに近世当時は、ダムもないわけですから、大雨が降れば暴れ川になっていたことは想像がつきます。

 

もし地形図を見ることができれば、洪水になると、戦後でも現在の橋本市役所付近まで浸水していたそうですから、かなりの高台までは水につかっていて、その下は広大な氾濫原であったことは言えそうです。実際、古代からの大和街道は極めて高い位置に作られています。

 

上流から暴れ狂ったような水流は、小田井の前だと、右岸の岸上の絶壁のようなところでぶつかり、左岸の南馬場、さらには学文路の平坦なところを水浸しにしていたと思うのです。

 

学文路から九度山まで、高野線の軌道敷があるところは高台にありますが、その下は平坦で、「安田島」(あんだじま)と呼ばれていて、大きな水田地帯でした。元々は氾濫原だったのでしょう。

 

で、学文路の庄屋である大畑才蔵は、安田島は学文路に入るので、もしその下流の小田に井堰を構築したら、余計に洪水の危険が高まることを十分理解していたと思うのです。それでも大規模かんがい事業・新田開発のため、学文路の土地をある種提供したのではないか、ムラの仲間に了承させたのではないかと、彼の思いを少し想定してみました。

 

さて勝手な推測はこの程度にして、明日の天気に期待して、今日はこのへんでおしまい。明日は歴史ウォークの後、奈良に行く用があるので、忙しくなりそうです。書く時間があるか、心配ですが、なんとかなるでしょう。


昨日の続き

 

残念ながら雨で歴史ウォークは流れてしまいました。でも私は集合会場にでかけました。連絡の行き違いで、雨が降っているものの、中止連絡のメールが届かなかったか、見落としたか? ともかくちょっと雨量が強いときもありますが、次第に雨が上がるという天気予報なので、集合時間頃には小雨かたいしたことがないと言うことで、決行にしたのかなと勝手に判断して現地に向かいました。間違って早めに高速を降りたので、桛田荘、名手荘の地形を眺めながらドライブできました。

 

会場につくと、雨が上がっているものの、誰もいません。ここで気づいて担当者に連絡したのです。もっと早く電話していれば良かったのですが、それは後の祭り。

 

とはいえ改めて小田井用水が、また大和街道が、それぞれどのような位置につけられたかを地形景観を眺めながら、その当時の様子を思い浮かべてみたりして。

 

ところで、今朝の記事を追加したのは、昨日書こうとした目的が、書いている最中にうっかり忘れていたことを気づいたので、補足しようと思ったからです。

 

昨日のテーマは、皇太子が紹介した信玄堤(そのほか石井樋、中国の著名な「都江堰」(ドゥジアンイェン))がもつ治水・利水システムがもつ水流の減殺(減勢工)の仕組について、小田井においても違った構造で適切に用意されていたのではないかと言うことです。

 

これはあくまで独断と偏見ですが、少なくとも連続堤防を用意して、河川の水流を下流に勢いよく流すといったことは、仮に紀州流の特徴とすれば、小田井を含め才蔵考案の用水事業では採用されていないと思っています。

 

というのは、小田井堰を構築したとき、その上流部に堤防を築いて、水流の勢いを増すことは、洪水対策としても、利水対策としても、かえってマイナスと考えるからです。その点は、皇太子が紹介した信玄堤などの水流の勢いをいかに減殺するかを工夫することが肝要だったと思うのです。

 

小田井堰のある地点は、右岸は小田の堅い岩盤?、左岸は数100m下流に九度山の堅くて高い岩盤?が壁のように屹立しています(その中にあの幸村が隠棲していた真田庵もありますが)。信玄堤のように分水施設を利用するなど明確な減勢工を施した様子はありませんが、小田井のある場所はその手前に広大に広がる氾濫原で、上流から勢いよくきた水流が広がってその勢いが減殺されることはたしかです。

 

小田井は広がった河川幅が急激に狭くなる狭窄部に設置されています。当然、広がったとは言え、狭窄部は堰き止められると水流が盛り上がり、越流するおそれがありますね。でもおそらく左岸側は堤を作らなかったか、作ったとしても霞堤より簡易なもので、背後の氾濫原に水流を導くようにしていたと思うのです。小田井堰も現在のように河川幅を横断して遮断する形状ではなく、左岸には自由に流れるようにしていたと思われ、だから左岸側は平坦な地形を選んだのではないかと思っています。

 

現在のような高規格堤防ができたのはいつでしょうか。戦後初期昭和22年頃にアメリカ軍の撮影した写真では簡易な堤防が作られていたことがわかります。紀ノ川が大洪水に襲われても、堤防を越流したり、破壊しても、背後地は氾濫原として甚大な被害には至らない、信玄堤に近い発想で作られていたのではないかと思うのです。



大畑才蔵考その16 <紀州流><川上船><吉野杉筏流し>をちょっと考えてみる

2018-02-26 | 大畑才蔵

180226 大畑才蔵考その16 <紀州流><川上船><吉野杉筏流し>をちょっと考えてみる

 

今日もいろいろ雑用をしていて、体調がいまいちのせいか、ボッとしていたらもう業務終了時間になっています。といって本日の話題を考えるのに材料は特になしということで、困ったときの才蔵さん頼みで、思いつきをまた書いてみようかと思います。

 

才蔵やその上司で吉宗の命を受けて関東で活躍した井沢弥惣兵衛の河川工法について、紀州流と称され、それまでの関東流に対峙して紹介されることがあり、現在も多くの公刊物やネット情報でも当たり前に取りあげられています。

 

この点は、過去のブログでも取りあげましたが、治水技術として連続堤防により水流を科船内に閉じ込めて一気に海に流すといった趣旨で紀州流というのであれば、そのような工法の実例は(一部の小規模な例外を除き)基本的には見当たらないと思いますので、適切でないと思うのです。

 

私自身は、才蔵の名著『積方見合帳』の解説を書かれた林敬氏が簡潔明瞭に指摘されている見解が最も腑に落ちる解釈ではないかと思っています。

 

それは「かりに『紀州流』農業土木技術の存在を認めるとするならば、①用水堰築造が困難であった河川中流域における微勾配の長大な用水路設定とそれに伴う新田開発、②その前提となる精密な測量技術と用水の補給と洪水の排除を可能にした井筋設定技術、③漏水を抑える用水路築造技術にあると考えられるのである。」

 

この微勾配というのは、ほんとうに超が付くほど勾配がわずかしかないのですね。「小田井は丘陵地帯六六か村の土地に通水する延長約三三キロメートル、井口から井尻までの勾配約二二・三メートルの用水路である」というのですから、1万分の6ないし7ですね。以前、取りあげた江戸の玉川上水は延長43kmで標高差約100mですので、1000分の2くらいですから、やっぱり才蔵の測量・土木技術はすごいですね。

 

井澤が行った「吉田用水は鬼怒川中流域右岸の下野国河内郡曽田村現(栃木県河内郡南河内町吉田)に用水堰を設置して'飯沼新田までの丘陵地帯八八か村の土地に通水する延長約五七キロメートル、勾配約三・九メートルの用水路である。」というのですから、10万分の7くらいということで、才蔵より一桁小さい超々微勾配ですね。しかし、勾配が小さすぎるなどのため、結局、末端まで完工できなかったようです。

 

で、これまでが前口上でして、別に才蔵の土木技術の優れた部分を今回とりあげようという趣旨ではありません。

 

紀ノ川の特徴をこの緩勾配というか、まるで西欧の平坦なゆったりした流れで有名なドナウ川やライン川など、日本の滝のような河川群と異なるタイプとして紀ノ川が滔々と流れていたことを少し取りあげたいと思ったのです。

 

この平坦に近い流れは、ある意味では手こぎや帆船時代では、運行に便利だったことを推測してもいいのではないかと思うのです。ここで再び、神功皇后の東遷が紀ノ川を上っていったことに一つの材料を提供できるのかなと思うのです。よくこの神功皇后・応神天皇母子の東遷は神武天皇のそれと類似する点が多いことから、両者は一つで、後者が架空のものと言われることもあります。その議論は別にして、少なくとも神功皇后については各地での伝承記録がありますので、軽視せず、心にとめておいても良いのではと思うのです。

 

実際、江戸時代の紀ノ川はまさに川上船が頻繁に上ったり下ったりして、荷物の運搬に活躍していたと思うのです。それは19世紀初頭に描かれた紀伊国名所図会でも描かれています。

 

で、ここでちょっと心配になったのは、享保期に小田井を開設して大量の河川水を引き込むと、河川流量を減少させることになって、運行に支障を来すことがなかったのだろうかという点です。実際にそうでなかったから、小田井用水がその後今日まで用水として利用されてきたわけですが、通常、船舶仲間たちが自分たちの業務に影響があると心配して反対したのではないかと愚考するのですが、どうもそれらしい話しはありません。

 

これは、一つには藩財政立て直し策として、新田開発、コメ増産事業は成し遂げないといけないという吉宗の一大方針だったからかもしれません。いや、そうではなく、かんがい用水の引水ではさほど河川交通に影響しないものであったのではないか、それは当時の紀ノ川の河川構造からいえるのではないかということです。

 

明治35年の地形図があり、当時の紀ノ川、とくに上流の橋本から下流の九度山までを見ていますと、川幅が100mかせいぜい150mくらいしかないように見えるのです。水が流れている河と両岸との境には明確な堤防は作られていない様子で、すこし後退したところに、おそらく土堤らしきものが間断的に設けら得ている程度です。

 

現在の紀ノ川は、大雨でも降らない限り(その場合は両岸の堤防まで300mかそれ以上全面水につかりますが)、多くのダムにより貯留されているため、同じ箇所では水流のある川幅は50mかせいぜい100m未満で水深も数10cmと、カヤックで川下りもできないところがほとんどです。

 

ただ、現在水が流れているところは、昔の河川が流れていたところと大きな違いはないように思えます。とりわけおもしろいのは、五条の上流から渓谷を通って、橋本に入り、西に向かって真っ直ぐ進んでいた河が大きく左に曲がり、次には右に曲がり、小田に向かい、そこを過ぎると、再び右に曲がるのです。その最初の曲がりは岸上という岸壁のような高台があり、次には才蔵が居住していた学文路(かむろ)の岩盤にぶつかり、そして、その後に真田庵などがある九度山の岩盤にぶつかるのです。

 

江戸時代の川上船は長さが10m、幅が2.3mくらいの小さな船でしたから、平坦で曲がりくねっている紀ノ川を上ったり下ったりするにはちょうどよい大きさだったのかもしれません。カヤックで下ったらとても楽しめたと思います。

 

ただもう一つ問題があります。江戸時代頃から始まった吉野杉の筏流しです。通常、吉野付近の上流で、筏流しをするときは、堰き止めて水をためて、一気に流す方法をとっていたようですが、小田井の取水堰はこの筏流しに支障がなかったのでしょうか。

 

むろん現在の小田井堰のように川幅一杯に堰を設ければ、筏組から猛反対を浴びたでしょう。彼らは相当な利権を持っていたようで、彼らの筏流しに支障があるようなことは難しかったと思われます。彼らはまた紀州藩ではなかったでしょうし。

 

しかし、当時の小田井の堰はあまり長いものでなく、極めて短いものでしたから、筏流しに支障を来すことがなかったと思います。あるいは灌漑期を回避して流していた可能性もありますが。

 

と勝手な推測を交えて、紀ノ川と小田井を少し検討してみました。次はもう少し文献を読んだ上で、きちんと考証して言及してみたいと思います。

 

一時間を過ぎてしまいました。ちょうどよい頃合いとなりました。また明日。


大畑才蔵考その15 <小田井用水路の世界かんがい施設遺産登録記念シンポ>に参加して

2018-02-08 | 大畑才蔵

180208 大畑才蔵考その15 <小田井用水路の世界かんがい施設遺産登録記念シンポ>に参加して

 

今朝も雪が残り、粉雪が舞っていて、結構外は寒そうに思えました。北陸の豪雪で長時間の車中泊から抜け出せない人たちに比べるべくもないですが、体調がいまいちだと今日のシンポはどうしようかと思ってしまいました。

 

ところが、次第に日差しが出て暖かくなると、下り気味の体も調子が戻り、仕事も一段落したので、出かけることにしました。なにせ<<小田井用水路の世界かんがい施設遺産登録記念シンポジウム>副題で<地域の財(たから)を未来につなぐ?>というタイトルも凄いですが、主催者として当事者の「小田井土地改良区」と並んで、わが「大畑才蔵ネットワーク和歌山」が名乗りを上げていますし、それにパネリストや司会なども仰せつかって、主力メンバーに加えて会長も挨拶を担当するというのですから、私も責任者の一人として参加しないわけにはいかないなと、多少義務感で出席したのです。

 

ところが、300人くらい入る会場でしたか、満員すし詰め状態で、とても盛況でした。やはり県知事、関係市町長も壇上で挨拶するということで、相当動員がかかったのでしょうか?

 

実際、講演内容もうまく整理されていて良かったです。トップは林田直樹氏という、全国農村振興技術連盟の委員長であり、また、今回の登録審査に関与した国際かんがい排水委員会の副会長をされているということで、まず「国際かんがい排水委員会」という組織の概要と、現在の登録遺産の状況について説明されました。

 

英語ではInternational Commission on Irrigation & DrainageICID)ということですが、かんがいと排水を並べて書くと、なにか異様な印象を感じてしまいます。むしろ国際「用排水」委員会の方が私にはわかりやすいのですが、Irrigationの訳としては「かんがい」が日本人には理解しやすいのでしょうか。おそらく世界的に見ても水田かんがい用水として使われてきたというのは日本を除けば極めて限定されるでしょうから、微妙なところでしょうか。

 

とはいえ、「かんがい」という日本特有の用語が登録数がダントツだということですから、世界的に周知され、「つなみ」並みに世界語になるのかもしれません。

 

続いて、<水土里ネット小田井>の事務局長でもあり、わが才蔵ネットワークの知恵袋の一人でもある米澤一好氏からは「「明治維新150年。高台の扇状地を潤す 小田井用水の施設の変遷について』と題して、小田井用水路の過去、現在を映像でわかりやすい解説がなされました。

 

驚いたのは、小田井用水が有名な龍之渡井を含む交差する川をまたぐ水路橋や、川の下をくぐる伏越(ふせこし)が思ったより多数あることでした。そうですね、たしかに30kmの用水路は無数の南北に流れる大小河川と交差するわけですから、勾配の少ない水路の建設の難しさに加えて、難儀な問題だったと改めて感じさせてくれました。

 

才蔵ネットワークからは最も才蔵研究に取り組んできた副会長の久次米英昭氏が、その功績について「大畑才蔵の功績~紀州藩の財政立て直しと農民のくらし向上を願って」と題して、紀州藩の財政逼迫に際して登用された才蔵が果たした役割を小田井用水をはじめとする灌漑用水路、ため池などの利水事業に加えて、災害復旧の調査・工事、各種普請工事の施工見積もりについての調査などなど、才蔵の功績を多角的に解説されました。

 

最後は、<水土里ネット立梅用水>(たちばい)の事務局長、高橋幸照氏が、「立梅用水における地域住民との協同活動 立梅用水の多面的機能の活用と町づくり」と題して、用水の現在、さらに未来に向けた活用策を見事に語っていただきました。

 

立梅用水は、三重県多気町にあり、当時は紀州藩の一部であったことから、才蔵が構想を考案したものの着工に至りませんでしたが、この構想を元に、200年前に地元の西村彦左衛門が発起人となり、約30kmの用水路を完成させて、現在も活用しているそうです。

 

高橋氏が解説する多面的機能は、あまりに盛りだくさんで、楽しく愉快に、地元と都会とあるいは外国人との交流がうまく描かれていて、地域共同体のコミュニティとしての復活再生にとどまらない活動を、用水路を活用することにより成功しているものでした。その多くは<水土里ネット立梅用水>のネット情報でよくわかるようになっています。

 

昔、生物多様性国家戦略といった国家的方針が立てられ、省庁横断的に多面的機能を競い合ったことがあったと思います。それ自体は立派な内容であったかと思います。とはいえ、ま、一部の部署が担当して、手を上げた地域の活動を並べたものに近かったですが、それぞれの事業は意欲的なものであったことは確かですが、持続性・普遍性の面では物足りないものでした。

 

今日のシンポを終え、才蔵ネットも、才蔵の行ったことの顕彰にとどまらず、水土里ネット立梅用水のような現代的な、あるいは未来に向けた魅力ある活動につなげることができれば、より多くの関心と指示が得られるのではないかと、魅力的なモデルケースを見せていただいたと思う次第です。

 

なお、今日のシンポとは関係ないですが、最近ふとしたことで、玉川上水のことが気になってきました。実は、毎日新聞で連載中の高村薫著『我らが少女A』の舞台とダブってしまったのです。後者は野川なのに、なぜか玉川上水と勘違いしてしまいました。

 

どちらも東京にいる頃は、なんども訪れている私の好きな場所の一つです。とりわけ前者は玉川兄弟が江戸時代初期に、江戸の町中まで上水を引いたということで、すごいことをやったなと感心して、取水口の羽村の堰に出向いていったこともあります。

 

企画したのは伊那氏親子のようですが、実際の施工は玉川兄弟です。で、なにかの拍子に、多摩川という大河川に堰を作り、大量の上水を江戸まで通すということは、時代、技術、延長距離、勾配などの点で、才蔵の前に大河川での取水・用水路事業を行ったのではないかと思い、ウェブ情報で確認したら、その可能性が十分あると思うのです。

 

ウィキペディアで<玉川上水>を調べると、<多摩の羽村から四谷までの全長43km1653年に築かれた。>かんがい用水ではありませんが、その水量は現在の羽村の堰で見る限り、小田井用水を十分凌ぐものです。とはいえ、当時は小河内ダム(石川達三が『日陰の村』で水没する村の様子や民の悲劇を見事に描いていますね)もなかったので、それほどの水量がなかったとは思いますが。

 

いずれにしても、43kmで、高低差が100mしかなかったというのですから、相当な測量技術があったといえるでしょう。それでも最初は日野市辺りで堰を、次には福生町と、次第に上流に変更して、羽村でようやく成功したようです。羽村は私がカヌーを始めたはじめ頃によく練習に行きました。上流・下流とも渓谷のような場所があり、岩場も多く、小河内ダムの影響で水量も相当あり、しかも冷たいので、結構大変です。

 

この玉川上水と小田井用水路を比較検討するとなにか生まれるか、新たな興味です。いずれにしても戦国時代すでに相当な水理技術や土木技術をもっていた戦国武将たち、その配下の技能集団は、その技術を軍事秘密として一切秘伝にしていたことから、技術がいつ開発され、継承されていったかがわからない謎になっています。たとえば忍城(埼玉県行田市/鴻巣市)、備中高松城(岡山市)、太田城(和歌山市)の水攻めは、三大水攻めとも言われていますが、その方法はあまり明らかになっていないようです。すでに工区割など、工期を短縮する技法は取り入れられていたようですが、堤防や堰の作り方など、あまり明らかになっていないように思うのです。城研究者は石垣や縄張りなど築造には注目するようですが、水攻めの点ではどうなんでしょう。太田城の水攻めなどではいくかの研究書がありますが、あまりわかっていません。私が知らないだけでしょうかね。

 

そろそろ時間となりました。本日はここで打ち止め。また明日。