180701 水利秩序とその変遷 <『紀伊国桛田荘と文覚井』、渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』、渡辺洋三著『農業水利権の研究』>をちらっと読みながら
私の友人が脱サラして千葉の農村で無肥料・無農薬の農業を始めたのは30年以上前のことです。農家でない一般人が農業を始めることは当時、とてつもなく大変だったと思います。彼は自宅も、当時すでに丸太価格が下落して放置されていた立木を自分で伐り出し、自分で作り上げたのです。山林所有者も間伐をただでしてもらっている感覚だったのでしょうか、無料でわけてもらったそうです。
いろんな苦労話を聞きましたが、やはり水です。水利組合はいまでも管理が厳しいですが、当時はむろん、しっかりしていたと思います。よそ者というか、水利権のないものに水を与えるほど、寛容な水利組合はありませんね。水路を利用している人は、自分の田んぼにいつ水が入るか、十分に入っているか、そのことに関してはとりわけ関心が高く、ちょっとでも遅れると何事かとか、水当番(地域によって呼び方は違いますが「ばんと」とよばれたりします)は叱られます。あるいは水が十分に入っていなかったりすると、これも問題にされます。これだけ減反政策で水田耕作が減ったというのに、それでも水が十分というふうには感じられません。
余談になりましたが、友人が水を確保したのは、かなり遠く離れた沢水をたしか細いビニール管で引き込んだという風に聞いた記憶です。実際、私はその水の引き込み水路?を見ていませんので、正確なところはわかりません。この例を出したのは、それくらい水の利用は制限されているということです。
水田というのは、その地盤のある土地所有権があればいいのではないのです。水利権がついていないと価値がありません。通常は水利権があるわけですが、それが権利の表象として明示されているわけではありません。村落共同体というか、村人ならだれもが当然に知っていることなのですね。古くからの村であれば、大字におさまる範囲の村人が構成員となって水利組合を作っているようです。水利権の表示は昔でいえば絵図、公図ができてからは青線で幹線水路が示されていますが、個々の水田に引き込まれている支線の水路は現地確認でしょうね。
戦後初期に始まった化学肥料の輸入以前は、わが国の水田では、まだまだ堆肥や枝葉を利用した刈敷がメインでしたから、山地への入会権も不可欠で合ったと思います。
ともかく陸稲と異なり、水稲栽培では、水の確保は絶対でした。そんなことを今日のテーマにしようかとつい思ってしまったのは、『紀伊国桛田荘と文覚井』に掲載されているカラフルな絵図や古文書の数々を見ていて、土地境界の紛争も大変だったけれど、水争いも壮絶なものだったのだろうと思ったからです。
渡辺洋三氏は東大社会科学研究所で、農業分野に法社会学的なアプローチを丁寧に行った研究者の一人で、私みたいな学識のない人間にとっては雲の上の人といった感じで、その著作『法というものの考え方』(59年発行)で初めて法というものに触れさせてもらった記憶です。その代表作の一つである『農業水利権の研究』はなんどか読んで見ようと思いつつ、なかなか読み切れないでいます。適当な引用は失礼に当たりますが、いつか読もうとの気持ちで少し引用します。
渡辺洋三氏は、戦前の水利権に関わる裁判例を研究され、紛争当事者のいずれに水利権があるかについて、大審院の判断基準が「古帳簿または旧証書等の内容の事実解釈や、その実地への適用が争点の中心であったとし、また、こういった古文書がない場合には具体的な水支配の事実を現地で確認するという現実支配力を重視しているという見方を示しています。(これはかなりアバウトな私の引用で不正確ですが、ま、ご寛容ください)
こういった渡辺洋三氏の指摘は、江戸時代の水戦争における裁判のあり方とよく似ていると思ったのです。渡辺尚志氏は、日本近世史・村落史を専攻とする一橋大の教授ですが、その著作の多くに注目しています。古文書をわかりやすく解説したり、水利権紛争における灌漑用水路の流れと村落の位置関係を絵図で示したりして、素人でも理解しやすくされているところがいいです。
で、その著作の一つ『百姓たちの水資源戦争』では、ため池灌漑や河川灌漑が何百年にわたって繰り返し裁判で争われ、誉田八幡宮周辺の村々が当事者となって互いに水利権を主張しています。そこでは黄門の印籠ならぬ、古文書なり絵図が決めてなっているようです。従来からの慣行的利用も重視されますね。といっても江戸時代の裁判は、基本的に和解を目指す傾向にあり(あの高野元禄裁許も繰り返し和解的解決を目指したがだめになり、最後は寺の破却とか遠島となっています)、それで時間がかかる、また紛争が繰り返されることにもなったのかもしれません。
で、絵図とか古文書が重要と言うことで、こんどは『紀伊国桛田荘と文覚井』に移ります。ま、適当な読み方で今日のブログを書いているのは、ここをちょっと触れてみたかったからで、長い寄り道をしてしまいました。
中世の荘園絵図として、「紀伊国桛田荘絵図(神護寺本)」と「紀伊国桛田荘絵図(宝来山神社本)」という2つあり、両者はいくつか違いがありますが、相当な部分で酷似しています。現在の和歌山県かつらぎ町笠田に当たる地域です。前者は国宝、後者は重要文化財となっています。この2つの絵図の歴史的経緯(作成時期など)について、この書籍の中で、県の前田正明主任学芸員が学説上の議論を整理されていますが、その議論はさておき、いずれの絵図にも文覚井の記載がありません。
文覚井が平安後期に活躍した文覚(1139年生~1203年没)によって開削されたのであれば、文覚井の記載がないことは13世紀初期以降に作成された可能性が高いともいえます。ただ、この絵図は領域を示すために書かれた四至牓示図であって、用水争論のために作成されたものでないから、灌漑水路の記載がないからとって、作成当時になかったとはいえないとか、あるいは作成時期が文覚井開削以前であるとの説によれば書かれていないことは当然となります。
ま、文覚がいろいろ活躍したとはいえ、文覚井まで開削したかは、はっきりした確証はないように思います。ところで、『紀伊国桛田荘と文覚井』には、さまざまな古文書・絵図が掲載されていて興味深いのですが、慶安3年(1650年)作成とされる「賀勢田荘絵図」には、文覚井の3つの井(堰)がしっかりと描かれています。紀ノ川の支流、穴伏川に堰をつくり、その取水口から用水路が水田までしっかりと記載されています。
それから半世紀後頃に、紀ノ川に堰をつくり、藤崎井、小田井と大動脈用水路を開設したわけですね。この絵図に、穴伏川(当時は、北川)が誇大した大きさに描かれ、3つの井も誇張されています。それは賀勢田荘(桛田荘)と穴伏川を挟んで隣接する静川荘とが当時用水争いをして、紀伊藩の裁許で確認されたことを記して作られた絵図だからです。
その点、上記2つの絵図は用水争いがあったことをうかがわせるものがなく、また、ため池も用水路も一切記載がありませんので、水路を明示する必要性がなかったといえるでしょう。となると、その作成時期如何に関係なく、文覚井の存在があった、なかったことをこの絵図では説明できないと見たほうが妥当ではないかと思います。
さらに付け加えて言えば、この「賀勢田荘絵図」に描かれている堰(「井せき」と表示)は大きく描かれているものの、構造・形態など分かるような記載は一切ありません。
用水争論には必要がないといえばそうなんですが、堰というのは築造に大変な技術と作業を要すると思うのです。そういった技術的な部分はなかなか記録に残さなかったのかなと思うのです。私の狭い知見では、小田井も藤崎井もあるいは龍之渡井も、技術的な構造図など、どのようにして築造したか、検証可能な形では記録として残っていないと思います。
龍之渡井については、簡略した図面がありますが、要領を得ないように思うのです。小田井や藤崎井については江戸末期に初代才蔵の後に誰かによって描かれた図面がありますが、それもその図面だけみて構造が明らかになるほどのものとは思えません。
とくに「小田井圦(いり)絵図」は、両岸が石組みで護岸されていて、その両護岸をふさぐ形で堰が作られているように描かれていますが、当時の技術と材料で紀ノ川の水流を全部受け止めるほどの堰を作れたか疑問です。
龍之渡井については別に江戸時代末に描かれた絵図がありますが、これもとても構造的に意味のあるような図面ではなく、技術者の目で描かれたものとは言えないですね。
なぜ重要な土木技術の作画を残さなかったのか、これが不思議なのです。戦国期にはこれが絶対に軍事秘密ですから、秘伝なりとして、作図も慎重、あるいは残さなかったかもしれません。しかし、平和な江戸中期になぜ、という疑問にはなかなか答えが出てきそうにありません。
今日はこの程度で終わりとします。また明日。