180617 どう死ぬか <『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』>書評を読んで
私のテーマの一つは、生きることと死ぬことです。あるいは逆の表現が適切かもしれません。自発呼吸をしている限り、しっかり生きているのだと日々時折思うのです。人工呼吸器の世話になってまで生きたいという思いはありません。自分で食べれなくなったら、というか食べる元気がなくなったら、自然に死を迎えたいと思うのです。まだそこまでの状態ではないですし、重病をかかえているわけでもありませんが、なぜか30代半ばでそのような思いになり、その後は基本的には変わっていません。
いつの時代にも何がいつどこで起こるかわかりません。人間の体調もどのように急変するかは神のみぞ知るでしょう。こんな思いは時折起こりますが、たまたま昨夜、母親の体調が少し弱ってきたと聞いて、つい自分のことをも思うようになったのでしょうか。
そんなとき毎日朝刊の<今週の本棚池内紀・評 『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』=小堀鴎一郎・著>の記事は、10数年前の活動を思い出せてくれました。
横須賀でやすらぎの会に参加し、当初は尊厳死をテーマに議論していましたが、ある時期、自宅で終末を迎える活動に変わっていきました。実際に訪問看護を担っている医師や看護師、そして患者家族も参加して、幅広い活動になっていきました。議員以外では弁護士の私が経験不足でした。
重いテーマですので、皆さん真剣に議論していました。患者家族の中には、病院で妻や母親を亡くした経験から、病院医療のあり方に強い疑問、批判的な見方をされていました。医師・看護師・介護士など関係するメンバーからは在宅医療を行っている自負を感じさせてくれる力強い発言が聞かれました。
あるとき、わが家にメンバー有志をお呼びしてバーベキューパーティをかねて会談したように記憶しています。どんな話だったかは覚えていませんが、ひょいとピアノを見た普段まじめな医師がひょいとピアノの前の椅子に座り、なめらかに鍵盤を弾くのです。みんなわいわい談論していたのが、ついその音に誘われて静寂の中心安らかな気分にさせてもらいました。
2,3曲弾いたように思うのですが、それだけでそこにいるみんなが心地よい気分になったと思います。調律があまりできていないはずでしたが、そんなことも気にならないかのように、聞き惚れる感じで鍵盤をスムースに叩くのです。さすがだなと思ってしまいました。
こういう医師なら、訪問医療で患者さんの終末期をその気持ちを察しながら、医療の選択、患者との心の通い合いをしているのだろうなと思いました。
池内紀氏の書評で取り上げた、小堀医師もそういう体験を繰り返されてきたのでしょう。私が活動を一緒にした医師たちは、小堀医師よりも前から始めていましたから、その経験した数はもっと多いのかもしれません。
医師と患者の関係では、死に行く人の言葉はなかなか表にはでませんね。でも小堀医師はあえて文書にして残そうと思ったようです。
<話す口のない死者に代わり、そのメッセージを伝えるためである。「これらはさまざまな思いを遺(のこ)してこの世を去った人々への私の挽歌(ばんか)である」>と。
すでに高齢者の多く、いや日本人の多くがこれまでの医療のあり方に疑問をていするようになっているのではないか思います。それは最近のアンケート結果でも現れていたと思います。
そして池内氏も<医療先進国ニッポンが、ひたすら「生かす医療」一辺倒で進んできて、欧米ではとっくに実現している、やすらかに「死なせる医療」に目をくれなかった。>とみています。
それは患者の気持ちにそってその意思を尊重するという医師の新たな役割を体現しているように思えます。
<事例25 七六歳男性、胃がんの手術をしたが再発。自宅に帰ることを強く希望。「初めての訪問診療時は、ひどく痩せて腹水がたまり、食事もほとんど取れていなかった。本人の第一声は『好きな酒が自由に飲みたい』ということであったので、その場で好きなだけ飲んでよい、と許可した」>
しかも小堀医師は自らとっておきの?銘酒を持ち込むのです。<小堀医師はある日、昔、患者から贈られたジョニーウオーカーの青ラベルが自宅にあるのを思い出し、持参した。コルク栓が劣化しており、栓抜きもないので、スプーンの柄を使った。大量のコルク屑(くず)と一緒に、酒好きの患者と訪問診療医は乾杯した。>なんて気持ちの良い間柄ではないでしょうか。
池内氏はこの本について言葉を尽くせないかのように賛嘆の表現を次々と表しています。
<死にゆく人への深いやさしみと共感だ。勇気をもって死と向き合った人への敬意である。未知の世界で見つけた人間性の奥深さ。>
池内氏の深い洞察や文学的表現はドイツ文学の専門家としてさすがと思いつつ、小堀医師の祖父、森鴎外への敬愛の情もあふれているようにも思えるのです。
一時間が経ちました。頃合いの良い時になり、これにて本日は打ち止め。また明日。