たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

河内湖と巨大古墳 <河川灌漑の歴史と古墳との関係をふと考えてみる>

2018-06-24 | 古代を考える

180624 河内湖と巨大古墳 <河川灌漑の歴史と古墳との関係をふと考えてみる>

 

車のディーラーからの連絡で、定期点検の通知が来てもう一ヶ月以上経ちます。ディーラーの住所が堺市なのと、そこまでいく道中がとても混んでいるため、二の足を踏んでいます。無料点検と言っても、あれこれ言われてそれなりの費用がかかることはいいとしても、安全確保のために見てもらった方がいいのはわかっているのですが、その点検時間をどう使うかにも苦渋しています。

 

前回は大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)に出かけたのですが、今回、周辺の百舌鳥古墳群を見て回るのもあまり意味のあることではないなと感じています。誉田山古墳を含む古市古墳群を見て回るのも、これまで車上からは見ていますし、航空写真ではなんどか見ています。南方の太子墓を含む一連の天皇陵のある磯長谷古墳群も以前、訪れましたが、感度が悪いのか、見ただけではあまりぴんと来ません。いま読んでいる『蘇我三代と二つの飛鳥』 (西川寿勝、相原嘉之、西光慎治著)によると、そのさらに南方にある「一須賀古墳群」は蘇我氏一族が近つ飛鳥で眠ると考えられているそうです。明日香村にある遠つ飛鳥の石舞台古墳(馬子の墓と言われている)は有名ですが、石川流域は蘇我一族のルーツとも言われているので、興味深いと思っています。

 

それでこの「一須賀古墳群」当たりを訪ねようかと思いつつ、思案しています。そんなとき、関裕二著『地形で読み解く古代史』の中で、少し驚く指摘があり、気になっています。関氏は「日本書紀」が藤原不比等によって自分たち一族に都合の良いように歴史をねつ造したと主張していますが、どうも応神記や仁徳記の記載は問題ないように考えているようです。

 

その関氏、百舌鳥古墳群や古市古墳群の巨大前方後円墳について、これらは「、五世紀の天皇の巨大な富と権力を想像しがちだ。」としつつ、これを否定します。そして「ヤマトの王は、そう単純ではない。遠征軍は「天皇の軍隊」ではなく、豪族層の寄せ集めであり、天皇が独裁権力を握っていたわけではない。」と述べて、巨大古墳群を作り出すほどの巨大権力を持っていなかったとするのです。私自身も、巨大古墳をつくる力がどのようにして生まれ、また何のためであったかは興味のあるところで、関氏の見解も魅力を感じます。

 

しかし、関氏がその造成目的が「治水事業だったのではあるまいか。」ということには唖然とします。とはいえ、もう少し関氏の議論を紹介しておきたいと思います。

 

関氏は日本書紀の「池堤の構築」という見出しの冒頭を引用しています。

「『日本書紀』仁徳十一年夏四月条には、次の記事が載る。五世紀前半のことと思われる。天皇は群臣に詔した。

「今、この国を見れば、野や沢が広く、田や畑は少なく乏しい。また、河川は蛇行し、流れは滞っている。少しでも長雨が降れば、海水は逆流し、里は船に乗ったように浮かびあがり、道はドロドロになる。だから群臣たちも、この状態を見て、水路を掘って水の流れを造り、逆流を防ぎ田や家を守れ」

 

この後、日本書紀では堀江の開削と茨田(まんだ)の築堤について記載があります。

 

この堀江の機能について、関氏は「この堀江は、上町台地を東西に突っ切る大工事だった。河内湖にたまった水を、直接瀬戸内海に流すショートカットを造ったのだ。ちなみに難波の堀江は、大坂城(あるいは難波宮)のすぐ北に接する大川(旧淀川)となって現存する。

この結果、水害が激減したにちがいない。」

 

この点、ウィキペディアの<河内湾>でも縄文海進で河内湾が生まれたものの、次第に湾口が塞がれ、弥生後期以降には河内湖になったとされています。そして問題の5世紀初頭頃以降次のような変遷があったとされています。

 

<河内湖は、淀川・大和川が運ぶ堆積物によってゆっくりと縮小していった。

紀元後も河内湖は残存しており、4世紀–5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。

草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口はかつて湾口だった上町台地から伸びる砂州の北端の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期の仁徳天皇(オオサザキ大王)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため砂州を開削して難波の堀江という排水路を築いた。

その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖は湿地へと変わり縮小していく。江戸時代までに河内湖は深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の2つに分かれた部分のみが水域として残り、1704年の大和川付け替え工事後はこれらの水域も大和川と切り離され、周辺は新田として干拓された。>との記述があり、おおむね符合するかもしれません。

 

しかし、堀江の治水事業からは、なぜ遠く離れた位置に、巨大前方後円墳を作ることになるのか、その道理が判然としません。灌漑事業が行われて田畑が開拓されたのであれば、豪族や民も協力したといったことは理解できますが、洪水被害を減少したからといって、河内湖の干拓につながるわけでもないので(関氏はそのような指摘をしていますが根拠があるのでしょうか)、5世紀当時にそのような農業生産の増大につながるような結果があったとは考えにくいのです。

 

関氏は、「河内王朝は治水王」と名付け、エジプトのピラミッドの造営の目的がナイル川の治水事業と河口デルタの干拓であったとの見解を引用しつつ、同様に、河内湖の堀江開削をそうみているようです。

 

そして森浩一氏が『巨大古墳の世紀』で「河内の巨大古墳を出現せしめたひとつの遠因が、長年にわたる河内湖との戦いであったことは認めてよかろう。つまりピラミッドにたいするナイル河の役割が、巨大古墳では河内湖とその関連河川であった。」と指摘していることを引用して、自説の根拠付けのようにしています。

 

たしかに森浩一氏の見解は多面的でいろいろな議論をされ、とても説得的だと思っています。ただ、日本書紀の記述をかなりの程度で重視されているのかなと思うことがあります。

 

それは森浩一氏の高い知見・経験を揺るがすものではありませんが、注意しておいて良いのかもしれません。

 

ところで、日本書紀の同じ見出しの後の方に、「栗隈県(くるくまのあがた)」に、大溝を掘って田に水を引いた。これによってその土地の人々は毎年豊かになった。」と明記されています。このように日本書紀では、当該事業が治水事業か灌漑事業かを区別している節があり、とりわけ水田への引水ができたかとか、新田が得られたとか、書かれています。

 

では堀江や茨田ではなぜそのような記述がないのでしょう。この当時、まだ新田開発までできるような状態ではなかったと見るべきではないでしょうか。

 

ところで、「栗隈県」については、木下晴一著『古代日本の河川灌漑』では、「栗隈溝」との見出しで、木津川右岸の地を比定し、灌漑水路であったかを詳細に検討していますが、明確な根拠を見いだせなかったようです。

 

また同書では、日本書紀に記されている「感玖の溝と古市古墳群中に所在する古市大溝」についても取り上げて、比定場所やその機能について考察を加えていますが、これまたはっきりしないようです。

 

そういうわけで仮に仁徳天皇が実在したとしても(私自身は名前は別にして、まだそう信じる根拠を見いだせていないのですが)、関氏が主張するような豪族や民が一緒になって共同作業として治水(利水)事業を行い、その結果?として巨大古墳群をも作ったということにはつながらないと思っています。

 

とはいえ、この関氏や森浩一氏の見解とまったく異なる立場に立つとまではいえないように思っています。というのは江戸時代のこれら巨大古墳群の利用のあり方を見るとき、古代においてもそうであった可能性を示唆するとも次第に思うようになりつつあるのです。

 

それは渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』で取り上げられている誉田山古墳周辺のため池・河川用水が連綿として連続利用され、周囲の用水組合でその利用をめぐる長い闘争をへながらも、一定の秩序を保ち続けるあり方というのは、もしかしたら古代から続いてきた名残ではないかと思ったりしています。

 

巨大古墳の周濠の多くは灌漑用水としても利用されてきたこと、それはため池・河川用水のネットワークの一端を占めていたことも、もしかしたら造営時から想定されていたことであったのかもしれないと思ったりするのです。

 

さてと、このようなまだ未検討ないろいろな事柄を現地でなにかを検証するのに、時間つぶしができないかと思っているのですが、どうなることやら・・・・

 

今日はこれにておしまい。また明日。