181113 西行と紀ノ川 <生誕900年 西行展 理想映す多彩な肖像>を読みながら
私は、組織に頼らず、孤独に生きた人、富はもちろん財産とかになんの頓着もない、何事にも執着のない、そんな人に魅力を感じるように思えます。親鸞もそうかもしれません。良寛さんも。西行はどうでしょう。武士としての才覚や出世は捨てましたが、和歌については生涯こだわっていたように思えます。でも西行も魅了されます。といっても和歌がわかるわけではなく、その生き方(これもさまざまな解釈があり、本当の実像はわかりませんが)に惹かれるのかもしれません。
fbでなんどか素人流の西行に対する見方みたいなものを書いた記憶がありますが、なにを書いたか、数年前、もっと前の話ですので、中身はすっかり忘れてしまいましたが、当時、結構西行関係の小説とか論文を読んでいた記憶があります。
さてこんな話題を書くのも、昨夕の毎日記事に<Topics生誕900年 西行展 理想映す多彩な肖像 歌と旅の生涯、ルーツの和歌山で>があり、この和歌山ルーツというのに、当時読んでいたいくつかの小説のことを思い出しました。
西行の生家は、田仲荘という現在で言えば和歌山県紀の川市打田、紀ノ川中流域北岸の小さな領地を管理していて、周辺の荘園領主との紛争が絶えず、とりわけ南岸の高野山が支配する荒川荘の悪党によって侵奪される脅威にさらされていたといった記述もありました。
西行は、長男だったと思いますが、自分は出家して跡継ぎを弟仲清?に委ねたものの、長く弟のこと生家のことを気にしていたとも言われています。といって高野山の修復や東大寺大仏修復のために、勧進したようには、生家のために働いたといったことはなかったようですね。
ところで、和歌山生まれの偉人?というか有名な人というと、あまりいないように思うのですが(それはいいすぎですね、超有名な人という趣旨です)、西行が和歌山(当時は紀伊国でしょうか)生まれだとすると、それはルーツとして誇るべきことでしょうね。でも、私は三田誠広著『阿修羅の西行』だったと思いますが、そこでは生まれは東海道の宿場町(女郎宿)で、祖父とともに育てられたといった筋書きであったような記憶です。
なぜその説に惹かれるかというと、そこでは白河法皇もその後後白河法皇も、すっかりおぼれてしまった今様を、現代で言えば美空ひばりのように歌いあげる女性と過ごし、祖父も相当の腕前だったというのです。そんな生い立ちは、平穏に田畑の広がる紀ノ川北岸の田舎にのびのびと育った若き西行の姿を見いだすことが困難だからです。
さて記事は、<生誕900年を記念して和歌山県立博物館(和歌山市)で開催中の特別展「西行-紀州に生まれ、紀州をめぐる-」はその生涯をたどりながら、後世の人々がいかにそれぞれの「西行」を描き出したのかを浮き彫りにする。>と通説的な理解で?一応、紀州生まれとしています。
ところで、西行については、<現在の和歌山県紀の川市周辺を拠点とする武士・佐藤氏の一族として生まれ、23歳で出家。高野山や伊勢を拠点としながら全国各地を旅し、約2300首の和歌を残した。>と、佐藤氏の一族として生まれたとして、必ずしも当地で生まれたとまで言及していませんね?!
さすがに学芸員は専門的な視点で<「多くの人が抱く西行像は虚実相半ばするのが実情」と展示担当の坂本亮太学芸員(日本中世史)は指摘する。西行が生きた時代の資料は限られ、手がかりは歌やその詞書(ことばがき)が中心だが、その歌が愛されるあまり没後すぐに数々の物語や説話が生まれた。展示では「先入観を取り払い西行という人物を感じてもらえるよう、研究成果から分かる確かなことと、作り上げられたイメージを分けて捉えられるようにした」という。>
この記事で驚いたのは次の文章です。
<ゆかりの地に伝わる肖像は「イメージ」を具体的に物語る。例えば永楽寺西行庵(あん)(和歌山県橋本市)の坐像(ざぞう)(江戸時代)。旅装で片膝を立て、遠くを見つめながら笑みを浮かべる。>
この<永楽寺西行庵>は、私も一度、中を見せてもらいました。この笑みを浮かべる座像の不思議な魅力にも覚えがあります。小さな庵で、最近建て替えたようですが、私が見た当時は、結構古いたたずまいでした。西行が庵にしていた雰囲気がありましたね?!
でもそのとき私はなぜ西行がこの橋本市清水の地に、庵をつくったのだろうかと悩んでしまいました。やはり考える人はあるもので、たしかその人の著作では、当地から高野山に登る途中の麓にあるかつらぎ町天野の里には西行の妻子が待つ庵があり(そういう伝承)、逢うのをためらったため、ここに庵を結んだのではといった感じではなかったかと思うのです。まあ、西行庵自体はあちこちにありますが、どこまで本当に西行が居住したものなのか、それは西行さんしか知らないことかもしれません。
この西行像の笑顔は<有名な「願はくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月のころ」の歌に由来する。「西行は歌の通り旧暦2月16日に亡くなり、交流のあった歌人たちは理想的な死と捉えた。そこから『遠くを見つめ笑みを浮かべ亡くなった』という伝説が生まれ、旅の姿と合わさって表現された」。>というのですね。
もう一つ掲載されている西行像、<弘川寺に伝わる西行坐像。眉根を強く寄せた厳しい表情だ=和歌山市の和歌山県立博物館で、花澤茂人撮影>こちらの方が西行の雰囲気をにじませますが、それも怪しい感じでしょうか。
西行は、やはり謎の人でしょう。紀ノ川を何度、何十回、あるいは何百回も渡ったはずですが、私の狭い知見では、紀ノ川を歌った和歌を残していないようです。むろん田中荘も。高野山や吉野についてはもちろんたくさんありますが。なぜ紀ノ川に魅せられなかったのか、それが私の謎です。まあ川を歌った和歌自体、それほど多くないようにも思うのですが、どうでしょう。
今日はこの辺でおしまい。また明日。