たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

古墳あれこれ 「コーフン! 古墳のミステリー」を見て

2017-01-21 | 古代を考える

170121 古墳あれこれ 「コーフン! 古墳のミステリー」を見て

 

今朝は昨日よりさらに寒さが和らいだ感じ。それで8時過ぎから4時間も草刈と野焼きをしてしまいました。

 

今朝やったところは、元は田んぼでしたが、耕作を止めて四半世紀以上経過していたようで、私が当地に来たときは、見事なジャングルでした。それを毎日、毎日、刈り続け、やっと見通すことができるようになったら、下に小川が流れていて、小さな滝もあり、なかなかいい感じでした。一度植林した後放置されたスギ・ヒノキもツルに覆われていて、あの「ぶり縄」を使って、ツルを刈り取り、枝打ちをして、少しはこぎれいになりました。

 

でも川を挟んだ竹林も放置されているため、大量の密集した竹が自立できず、こちらに倒れてくるのです。これの除去も一度やってもすぐ翌年にはまた倒れてきます。篠などが密集していたのを刈り取ったのですが、今度は雑草がどんどん生えてきて、この対応もなかなか大変です。

 

もう3時過ぎになってしまいましたが、やはり久しぶりにやったので、相当な疲れが残っていてブログを書く元気が湧いてこないと思いつながら、今朝の出来事を書き出したら、自然にタイピングの指が動き出しました。

 

昨日から今朝にかけてのニュース番組はトランプ大統領就任式やトランプ政権の今後について、いろいろな企画で放映していましたが、見通しがたたないというのが共通する内容でしょうか。いまあれこれ言っても暗中模索の中、根拠の乏しい予測でしかないように見えます。ただ、トランプ大統領が理想とする過去の大統領として、たしかセオドア・ルーズベルトとアイゼンハワー?といった報道がありましたが、前者はたしかに多少類似点がある一方、その自然保護の施策などをどの程度彼が評価しているのか興味深いと思ってしまいました。

 

で前置きが長くなりましたが、昨夜、NHK歴史ヒステリアで、古墳が取り上げられ、つい見てしまいました。最近、●●ガールとか、●●女子とか、日本の伝統や歴史にかかわる内容の一端に興味をもつ女性というか、若い女子が増えているようですね。古墳でコーフンとか、古墳グッズもあり、古墳見学も増えているそうで、そうなんだと思ってしまいました。

 

私もつい最近興味を持つようになりましたが、よくある退職後の暇な高齢者層と似たような感じ?で、あれこれ考古学や古代学などの文献を読んで、あれでもないこれでもないと古墳や古代史を考えるのはなかなか面白いと思うようになってきた一人です。

 

そんなわけですから、古墳グッズとかには驚かされます。とはいえ私も、古墳に関心を抱いた当初、草刈ばかり毎日していたことから、単純に刈るのもつまらないと思い、高さ5m弱の斜面地での草刈では、古墳の形状をいろいろ形作るように、刈り取って自己満足していましたので、さほど古墳ガールさんと変わらないかもしれないと思ってしまいました。

 

なお、古墳の形状を草刈で残すという取り組みは、当初、平坦な休耕田でやっていましたが、それだと外から見てもよく分からないのですね。変わったことをやる人だと、周りを歩く人は思うでしょうけど、私もこれでは意味不明と思い、すぐに止めました。そして斜面地だと、100m位離れたところに電車が走るので、乗客が関心をもてば、多少、古墳の形状に知識のある人なら、あれは前方後円墳、前方後方墳、円墳、双方中円墳などと興味を持ってもらえるかなと期待してやっていました。しかし、すぐに草が生えてくるので、しょっちゅう手入れしないといけませんが、他の田畑の草刈に追われて、とてもそこまでは対応できず、結局、数年で挫折しました。

 

といって私は古墳の形状や古墳に被葬者を特定することに特段関心があるわけではなく、その時代の政治経済というか、庶民の生活がどうだったかに関心があるのですが、なかなかいい文献がみつからず、多少手がかりができた程度の段階です。

 

とはいえそのために、数百冊くらいは斜め読みしてきたので、多少の基礎知識は持ち合わせていると勝手に思っています。

 

で、この歴史ヒスとリアでは、前方後円墳の成立理由について、新しい見方を紹介することが目玉だったようです。その新しい見方は、中国の古墳で見られる装飾や蓬莱伝説などから、壺の形としてこのような奇妙な形状にしたというのです。たしかに装飾には、前方後円墳に類似する形状の壺が、後円部分を底部に、前方部分を上部にするように彫刻されたものがあり、その上部に仙人が坐っていて、それが3個並立してる形状となっていました。

 

蓬莱伝説では、東方の海の中に不老長寿の世界があり、そここそ黄泉の理想の国とされていますが、仙人が住むのは壺の上ということのようです。

 

それで、前方後円墳をつくった古墳時代の大王(当時は天皇とは呼称していないので一応)が死後も黄泉国で現世と同等以上の暮らしをしたいとの希望から、作ってきたと考えているようです。

 

でもこれって少し無理筋ではないと思う人もいたと思います。番組の最初、大仙古墳の大きさや形状を理解するのに、その拝殿する場所に立ってもよくわかりませんねといった紹介の後、飛行機の上から見下ろすという仮装の設定をして、その形状や大きさを実感してもらうように映像の工夫をしていました。

 

私が草刈で試みたように、壺の形として認識することは、通常、古墳の下から見上げるわけですから、困難だと思います。むろん大王とか王族などは別で、古墳の上部(おそらくは前方部か)で、祭祀をしたりあるいは王位の継承式を行ったりしていたので、形状は理解できたかもしれません。でも上部で儀式をしていても、仙人が住む壺という風に理解できるかは簡単ではないように思います。ただ、ナスカの地上絵は、紀元前に描かれたものといわれているので、古代人はそのような鳥瞰する能力を自然に備えていた可能性も否定しません。

 

とはいえ、壺説はどうもしっくりこないのです。その形自体にも無理があるように思っています。古墳時代に併存する前方後方墳、帆立貝式古墳、双方中円墳など異なる様式の古墳の存在をどのように位置づけるのでしょうね。宮内庁流に天皇陵ではないからとの見方でしょうか。でも宮内庁の被葬者比定は考古学では否定されているのではないでしょうか。

 

そのような議論は別にして、壺説が前方後円墳の成立根拠とする神仙思想が果たして当時の大王族の思想と一致するのかも気になります。その衰退が百済から持ち込まれた仏教の普及によるとするのも、またそれを推進した蘇我氏が前方後円墳から方墳に変更してこの普及をしたからと、政権交代と背景の宗教・思想を根拠としているのも不可解な印象をもちました。

 

たしかし蘇我氏系の王朝、用命、推古大王(いずれもその存在に疑問を呈する見解に魅力を感じています)の形状は方墳ですが、そのことから直ちに政権交代的な見方はどうかと思うのです。そもそも方墳が仏教思想を背景にするということ自体、根拠があるのでしょうか。仏教はインドではガンジス川に骨灰を流すのが理想で、中国、朝鮮と普及していく中で、、それぞれの国の葬送儀礼と融和する葬法を見いだしていったのだと思います。で、わが国に仏教が正式に伝来した後も、葬法自体新たな提示があったとは思えないのです。少なくとも記紀では言及がなかったと思います。

 

ついでに言えば、前方後円墳については朝鮮半島でも同様のものが見つかっており、日本特有の形状なのかどうかについても、日本と朝鮮の学者の間で見解が異なるようです。

 

いつのまにか関心のあまりない、形状論に終始しましたが、古墳とは日本人にとってどのような意味合いを持つのか、改めて検討してもいいのではないかと思っています。それはある意味、いま話題になっている天皇の退位を含め女系天皇を含む天皇制というものと日本人というものを考える一つの契機になるのではないかと思うのです。

 

宮内庁は、天皇陵について管轄する唯一の政府組織ですが、天皇陵については宮内庁法212号で、「陵墓に関すること。」をその所掌事務として根拠づけられ、さらに宮内庁組織令82号で、その書陵部の事務であると規定されているだけで、実際どのような事務を行えるのか、行うのか、法令上は一切具体化されていません。

 

新古代学のウェブ情報を引用しながら、少し問題点を述べてみたいと思います。

 

宮内庁が天皇陵と指定する古墳については、仁徳天皇陵をはじめ多くの天皇陵が考古学の立場で被葬者について疑問視されています。そして国民の声を背景に多くの学術術団体から発掘調査の必要が求められてきたと思いますが、宮内庁はこれを認めてこなかったのです。そして宮内庁長官は、国会で「陵墓は、天皇、皇族を葬る所でありその静安を保ち、追慕尊崇対象として永く祭祀を行うものであり、一般のいわば生きている墓に相当するものである。従って発掘調査の対象とすべきではないと考えている。」と答弁しています。

 

たしかに陵墓が正しく指定されていれば、そのような見解も一応の理由とはなるでしょう。しかし、陵墓自体、適切に管理されてきたのは江戸時代後期ではなかったでしょうか。記紀の中ですら、陵墓における葬送儀礼が亡くなられた大王ですらさほど記載がなく、まして何代も前の大王の古墳について葬送儀礼が行われていたかは一切記載がないのではと思っています。その後薄葬令の施行など葬送のあり方についても大きく変わっていったように思います。中には空海か仏教思想の影響か、散骨した淳和天皇も現れるなど、天皇自身の意識も変わっていたように思います。

 

そういった中で、延喜式などで天皇陵の比定がされていますが、根拠が明確でないとされています。

 

そして重要なことは、歴史の荒波の中で、天皇家が置かれた位置が政治的にも経済的にも無視され、生活自体もその格式を維持できないほどに、弱体化した時代が長く続いたのではないかと思うのです。

 

江戸時代後期になり、ようやく天皇の地位が見直され、天皇陵の調査もようやく行われたわけで、それまで長い期間、時の権力者はもちろん庶民までも天皇陵は無視され放置されてきたのではないでしょうか。

 

誉田山古墳(応神陵として指定)は、江戸時代、堀はため池用水として農業利用され、水利権をめぐる紛争が何度も起こっていますが、天皇陵として尊重されていた節は見当たらないようです。また大仙古墳(応仁陵)も上に登って、宴の場として利用されたりしていたと記録されています。そのほか、完全に農耕地として利用されてきた古墳、戦国の城とされたり、多様な利用が古墳を舞台にされてきていたことはよく言われることです。

 

江戸時代の調査が考古学的な科学性も客観性も乏しい中での比定ですので、それを根拠に特定の天皇陵と指定することは、明治時代の意図的な現人神を基礎づける戦略として、これを維持したのではないかと愚考しています。それは今後世界遺産として登録される場合に、本当に正しいあり方か、国民の支持を得た象徴天皇のあり方として、宮内庁に再考を求めたいと思うのです。

 

急に思いつきのように書いてしまいましたが、多くの古墳愛好家もそのような思いを持っているのではないかと愚考します。


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