180623 自分以外の人と接する基本 <対等な関係で「性的同意」>を読みながら
今朝は薄曇りといった風でしょうか。それでも高野の峰々は濃緑色の形状をしっかりと見せてくれます。そういえば町石道をへとへとになって登ったとき最大の成果?があったのを忘れていました。ずっと私が山の名前を間違って同定していたのに初めてわかったのです。
北方から高野の山並みを見ると、すぐに目立つのが雪池山です。そのすぐ背後(南側)にある楊柳山(988m)は周辺で最高峰といってもいい1008mの高さがありますが、隠れて見えないのです。同じようにその南方にある転軸山(915m)も同じです。ちょっと東にずれた位置にある摩尼山(1004m)は突き出ていますのでわかります。ということは高野三山と入れる楊柳山、転軸山、摩尼山のうち、北側の下方から見上げてみえるのは摩尼山だけではないかと思います(ある場所に立って角度によっては楊柳山も見えますが絞られるでしょう)。
他方で、弁天岳(984m)も高野の山の中ではほぼ西端に位置して高く、その南方に大門があるので、私は位置関係から、いくつかの三角形をした山の西端とおぼしき山をそうだとおもってきました。ところが、町石道の途中で見晴台があり、そこから見える高野の山々についての銘々だと、私が思っていた山よりずっと離れたところにある奇妙な格好の山容がそれだったのです。それはおもったより高野の町が広がっていることの証でもありますが、いかに私の見立てがいい加減か証明されてしまいました。
それではたと困ったのは、いつも見えている雪池山より西方で弁天岳を除いて、3つくらいの頂はいったいなんという山だろうかと疑問がわいてきました。ネットでみえる2.5万分の1の地形図ではそこまでの名前が載っていません。詳細な地形図を買うしかないかと思案中です。
ところで、高野の地は、空海が修行の地として選んだだけでなく、浄土の世界を表しているとも言われ、8つの峰々に囲まれ蓮の花が咲いたような場所として形容されることもあると言われています。その高野8葉についても諸説あるようです。ウィキペディアでは<八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)>とされています。
しかし、これを外八葉と内八葉があるとして、前者は上記の8葉(別の見解もあり)、後者は<伝法院山 勝蓮花院山 真言堂後山 正智院山 御社山 薬師院山 中門前山 持明院山 >(これも別の見解があり)といわれているようですが、こうなると余計、それがどこに当たるのか、ますます混乱してきます。やはり2500分の1くらいの地形図を備えないとだめか?いやますます混乱に拍車をかけるかもと、当分は様子見となりそうです。
とここまで余談が長引いてしまいました。ここから本論です。昨日の毎日記事に<くらしナビ・ライフスタイル対等な関係で「性的同意」>というタイトルで、<「性的同意」>という耳慣れない?言葉がとりあげられていました。
その学生の中に、女子栄養大の学生が写っていて、そういえば昔、同大の教授と研究会をやって親しくさせていただいていたことから、女子学生を相手に話をしたことがあったのを思い出しました。もう四半世紀以上前の話ですが。なんの話をしたのか、もしかしたらボルネオの熱帯林調査の話でもしたのかしら、まったく覚えていませんが。栄養学などを専攻する女子学生ですので、どれだけ関心を惹いたかはわかりませんが、笑顔がまぶしかったように思います。
また脱線しましたが、<セクシュアルコンセント>がテーマとなって、実践的な取り組みが始まっているようです。
<講師で慶応大4年の戸谷知尋(ちひろ)さん(22)が、そう問いかけた。「相手に問いかけて、OKが返ってくること」「お互いが心から望んで、そうしたいと思うこと」。マイクを渡された参加者は口々に答えた。戸谷さんは、こう続けた。「全ての性的な行為において確認されるべき同意のことです。互いの積極的な意思表示、つまり言葉で表すことが大切です」>と。
戸谷さんが<活動に参加したきっかけは数年前、大学内のサークルで起きた性暴力事件だった。被害者も加害者も同世代の大学生。もし自分や友だちが被害に遭ったり、逆に遭わせてしまったら……。レイプではないけれど、同意のないキスは耳にしたことがある。・・・「性に向き合う文化を持っていきたい」と思い立ったという。>
そうですね、性的関係というか性文化そのものをタブー視する土壌が残っているのかもしれません。
<昨年から仲間とクラウドファンディングで資金を募り、集まった約170万円で冊子を作製した。・・・
拒むと身の危険を感じる時の「YES」は「同意」ではなく、社会的地位や力関係に左右されない対等な関係性が大切な要素--。冊子は、そう記す。・・・特に強調するのは、性的言動では「アクションを起こす側に同意を取る責任がある」ということだ。>
いずれも本質的な問題提起ですね。昔、インフォームドコンセントが話題になりました。こういった同意を具体的に示す、あるいは同意を得て相手に何かを行うという文化・意識がわが国では十分に理解されないまま、置き去りにされてきたのではないかと思うのです。それは以心伝心なんてことや同じ民族だから言わなくてもわかるとか、勝手な理屈でやり通してきたのかもしれません。
しかし、そこにはたいていの場合、身分制があったり、支配服従の関係があったり、家制度による規律があったりで、基本的には差別の構造を背景にしていることが割と見過ごしにされてきたように思うのです。
現在問題になっているセクハラ、パワハラ、マタハラ、あるいはDVなどの問題も、基本は同意を得て行うという意識が根付いていないことに大きな要因があるのではないかと思います。それはあらゆる社会のあらゆる言動についていえるかもしれません。
それは専門職の立場での言動でもありえますし、弁護士なんかも心しないと、その言動に大変な不快感やあるいは傷つけることにつながることもあるでしょう。
その意味で、戸谷さんたちの活動はまずは、基本的な性的行為について同意原則を訴えるもので、正しい方向を目指していると思いますし、よりひろがることを期待したいと思うのです。
<作製の背景には昨年の刑法改正がある。現行の強制性交等罪(旧強姦(ごうかん)罪)の条文には「暴行または脅迫を用いて」とある。このため、性行為への同意能力があるとみなされる13歳以上が被害者になる場合、抵抗が著しく困難な程度の「暴行または脅迫」が犯罪成立の構成要件になる。昨年の改正にあたって議論になったが、撤廃は見送られた。>
たしかに改正された<強制性交等罪>は、<抵抗が著しく困難な程度の「暴行または脅迫」>が認められないと、相手の同意がなくてもOKというのですから、旧来の「同意軽視社会」(私の造語)を反映しているといってよいかもしれません。
学校教育において、同意の重要性を学ぶ必要がありますし、それこそ長い期間をかけて、医療分野のインフォームドコンセントと同レベルの意識改革が必要ではないかと思うのです。
<「どれくらい抵抗したか」が重要なのではなく、「同意がない性行為は性暴力に当たる」という考えを根付かせたい。「NOと言ったか」ではなく、「YESと言ったかどうか」が求められる社会に変えたい--。冊子には、こうした思いが込められている。「嫌よ嫌よも好きのうち」という俗説や、性について語り合いにくい雰囲気は今も残る。だからこそ、戸谷さんは思う。「文化を変えて、同意が当たり前の社会にしたい」>こういう動きに、世の中全体が理解を示すようになってもらいたいものです。
<性的同意は全ての段階で得ることが原則だ。>という繊細な意味合いを私たちは理解し、受け止めないといけないと思うのです。そして欲を言えば、さらにさまざまな言動についても。いまは性的同意がます大事ですので、これを本格的すすめて、同意を必要とする社会づくり、人間づくりをしていくことを期待するのです。
今日はこれにておしまい。また明日。
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