171031 ルールはなんのためか <日本部活動学会 強制ない部活へ と 髪染め強要訴訟>を読みながら
いま産業界で起こっている不正事件の頻発はさまざまな背景事情があるでしょう。それを社風とか、過剰な形式上の規制とか、いま一つ一つを取り上げて、これが原因だと論ずるのは正鵠を失するでしょう。
ただ、ルールがあるからとか、周りもやっているからということが、学校教育の中で自然に培われて、それぞれの意義をその存在理由から自分の頭で考えないでやり過ごしていることが多くないか、気になります。その中には、ルールがあっても意味がないから形式だけ整えればいいやというのも、そのルールについて必要性・合理性が問われないまま、みんながそうしているからやっているというのもあるかもしれません。
そんなことを二つの教育をめぐる記事を読みながら、ふと考えてしまいました。
今朝の毎日記事<日本部活動学会強制ない部活へ 教員、学者ら設立へ 長時間労働、ブラック化>は、小国綾子記者が取り上げています。
<学校教員に過重労働を強いる部活動が問題視される中、現役教職員や教育学者が年内にも「日本部活動学会」を設立する。>というのです。
なにを目的とするかは<「ブラック部活動」とも言われる実態についての議論や調査、政府への提言で現状を変えることを目指している。>とのこと。
たしかに部活は私立・公立問わず、熱心です。いや、やり過ぎと思われるものも少なくないと思っていました。土日もなく、平日も夜遅くまで活動する部活もあります。教師も大変ですが、生徒も大変です。子どもは部活が好きだから続けるのかもしれませんが、それには限度があるとか、といったことを指導者に対して批判できるほど自立した精神がまだできていないことが少なくないように思います。
他方で、教師はこれだけ一生懸命やっているのだし、生徒のためにやっているのだから、保護者だろうが上司だろうが、批判される筋合いはないとくらいの感覚で、邁進している人もいるようです。
むろん小国記者の記事のように<文部科学省の教員勤務実態調査結果(2016年度速報値)では中学教諭の6割近くが国の「過労死ライン」である週20時間以上の「残業」をこなす。10年前より週5時間以上も増えた。その一因が過熱する部活動だ。>という部活動の過当競争的なものもあるでしょう。
しかし、記事が指摘するように<部活動はそもそも教育課程に含まれず、学習指導要領も「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と定めているにすぎない。>のですから、ある意味、部活動の根拠がないというか、ルールが明文化されていないのかもしれません。
とはいえ実態は<「だが、実際には教員も生徒も強制されています」と、学会の発起人代表で教育学者の長沼豊・学習院大教授は指摘する。教員全員が一つ以上の部活動の顧問か副顧問を担当する「全員顧問制」と呼ばれる慣習を9割の中学校が採用。生徒全員に加入を強いる中学校も地域差はあるが全国平均で4割近い。>というのですから、見えない強制化のルールがあるようにも思えます。
生徒は、一人で、あるいは学校外で、自由に思索や活動をしてもよいはずですし、部活動するかどうかは、まさに自立心を養うためにも自分で選択できる環境条件が必要でしょう。
しかし、最近の受験競争の激化と部活動の評価も影響しているのか、上記のように、まさに教師も生徒も強制化された状態で部活動を強いられているのではないかと危惧します。
他方で、世の中には様々な誘惑が次々と生まれています。ゲームやよからぬ遊びがその例です。育ち盛りの子にとって、甘い誘惑に惹かれるのも自然かもしれません。それに比べれば、部活動をすることにより、その子の成長が一定の軌道に乗ってくれると教師側・保護者側も感じるかもしれませんし、子どもも共通する目的をもつ仲間をもつことで安心できるかもしれません。
とはいえ、根本に戻れば、教師も適切な労働条件で勤務できなければ、生徒に対して、適切な自立心を指導することもできないでしょう。生徒もまた部活動が過大だと、本来自分で選択すべき行動ができなくなります。両者にとって望ましくない状態だと思います。
部活動によって集団的規律を養うことができるかもしれませんが、他方で、その中で支配するルールについて、それぞれが自分で判断する機会を狭めているかもしれません。むろん長時間の部活動でも指導が適切であれば、個人の判断が尊重されると思いますが、教師自体が過労死ラインを超えるような状態であれば、そのような自由な発想を生み出すことは困難ではないかと思うのです。
続いて、少し前の記事になりますが少し気になっていたので取り上げます。遠藤浩二記者が10月28日付けで<髪染め強要訴訟「人格侵害」生徒側訴え 大阪地裁初弁論>との見出しで記事にしたものです。
記事によると<生まれつき頭髪が茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され不登校になったとして、大阪府羽曳野(はびきの)市の府立懐風館(かいふうかん)高校3年の女子生徒(18)が約220万円の損害賠償を府に求めた訴訟は27日、大阪地裁で第1回口頭弁論が開かれた。>
女子生徒の主張は、訴状記載した事実ではとんでもない人権侵害が行われていることを取り上げています。記事をそのまま引用します。
<生徒は生まれつき髪の色素が薄く、2015年4月の入学時、教諭から「その色では登校させられない。黒く染めてこい」と言われた。生徒はそれに応じて黒く染めたが、色が落ちるたびに「不十分だ」などと注意され、2年の2学期以降は4日に1回は指導を受けるようになった。 >
<自宅には常時、10個ほどの髪染め剤を置き、度重なる使用で生徒の頭皮はかぶれ、髪はぼろぼろになった。教諭から「母子家庭だから茶髪にしているのか」と言われたり、指導の際に過呼吸で倒れ、救急車で運ばれたりしたこともあった。文化祭や修学旅行には茶髪を理由に参加させてもらえなかった。>
そして最後には<生徒は昨年9月、教諭から「黒く染めないなら学校に来る必要はない」と言われ、不登校になった。>とあります。
ところで、頭髪については明文のルールがないといえます。<校則には頭髪の規定がないが、入学時に配る「生徒心得」には「パーマ、染髪、脱色は禁止する」と記載。学校側はこれを指導の根拠としており、生徒の代理人弁護士に「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒く染めさせることになる」と説明したという。>
校則になく、生徒心得にはあるというのは、よくあるパターンかもしれません。この生徒心得とは何なんでしょう。こういった硬直した決まりが多くの学校でいまなお通用しているようですが、なんのためにあるのでしょうか。
頭髪の色を黒色と決めてかかるのは、なぜでしょう。日本人は黒髪でないといけないのでしょうか。たしかに「君がみどりの 黒髪も」という惜別の歌は私の年代以上の多くが心にしみる歌詞ではないかと思うのです。でも黒髪でなけばいけないなんてことは人間の多様性を否定するもので、教育としてあってよいのでしょうか。
たしかに人工的に「パーマ、染髪、脱色」することや、さまざまな化粧をすることは学生の場合避けて欲しい気持ちはありますが、強制すべきものでしょうか。私自身は、自然な姿が一番と思っていますが、人それぞれでしょう。
それをルールとして生徒の自由を奪ってしまい、それを指導という形で、強制するのは、真の教育とは言えないのはでないでしょうか。
ましてこの生徒は、自然の地毛が茶色というのですから、それを否定して黒髪に変えさせるなんてことは、「生徒心得」の趣旨を逸脱するものでしょう。黒髪以外禁止ともされていません。
こういった学校指導が全国に蔓延しているにもかかわらず、放任していること自体、文科省のあり方も問題視されてしかるべきです。それは学校側の指導方針の最良の範囲を超えていると思うのです。文科省が指導要領で学校・教師を「指導」している以上、その行き過ぎをしっかりコントロールする役目を負っていると思うのです。
むろん、まだ本件は訴訟になったばかりで、当事者双方が主張立証をはじめた段階ですので、訴状だけで一方的な議論をするのは妥当ではないことは認めます。ただ、黒髪でなければいかえないといった指導はどうもあったように思えることから、多少、その立場で立論しました。
さらにいえば、校則や生徒心得の多くが、学校側だけで作られ、その改定とか見直しが、生徒や保護者の意見を反映する形ではあまり行われていないと思われることも問題だと考えています。
このような現在の学校教育の実態は、現在の企業不正に直ちに結びつくわけではありませんが、60兆の細胞の中に、深く染みついているのではないかと考えるのは杞憂でしょうか。
今日はこの辺でおしまい。
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