たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

空海に学ぶ(8) <第八 一道無為心>と<映画 健さんへのオマージュ>とを読んで

2018-02-10 | 空海と高野山

180210 空海に学ぶ(8) <第八 一道無為心>と<映画 健さんへのオマージュ>とを読んで

 

ようやく空海『十住心論』も佳境?に近づいたのでしょうか。「空を体験した者に現れる世界」として第八、第九に至りました。実のところは、俗人としては第四以降は酸素不足で高山病状態のためはやくここから退避したい思いしかありませんが、ま、理解できない、人間の能力を超えた世界を垣間見る(見えないですが)ような状況もたまには悪くないでしょうか。

 

「第八 一道無為心」(いちどうむいしん))については副題で、『法華経』の心、「第九 極無自性心」(ごくむじしょうしん)については『華厳経』の心とされています。いずれも俗人には難解な経で、素通りしたいところです。

 

しかも第八では、小見出しで<『法華経』はなぜ『法華経』について語るのか>といった意味不明の命題が最初から取りあげられ、『華厳経』との違いを説明しながら、『法華経』の概説が語れて進みます。

 

続いて<仏の世界、阿弥陀仏の世界>では、親鸞が唱えた浄土真宗の根本理念についての解説が行われています。

 

そして空海が唱える『大日経』がようやく登場し、その階梯に位置づけられないものとして、『法華経』『華厳経』を捉えているようです。最澄や日蓮の考え方も若干、指摘されていますが、下手な引用は避けておきます。

 

結局、はっきりいえば、将来の楽しみにこの内容はとっておくことにします。死ぬまでわからないかもしれない可能性が大ですが。

 

で、この「第八 一道無為心」と何か関係があるとは到底思えない、<ジョン・ウー監督「マンハント」>について、現代的な意味合いからなにか通じるところがあるのではないかと、無理な取って付けた思いが生まれました。

 

毎日朝刊では<映画大阪舞台に友情とアクション 健さんへのオマージュ ジョン・ウー監督「マンハント」 陰謀追う刑事役に福山雅治>という記事が掲載されていました。

 

正直言えば、ジョン・ウー監督といってもほとんど知らない存在でした。たまたまなにかTV番組で福山雅治さんが登場していて、初めてアクション映画に挑戦するということで、画像も流れていました。

 

福山さんについては、NHKの大河ドラマで竜馬役を演じるまでまったく知りませんでしたが、立ち回りの経験もないのに、剣豪竜馬役を見事に演じるだけでなく、その朗らかで包容力のある演じ方は魅力的でした。

 

またいつだったか、私の好きな間宮林蔵の足跡を辿る番組でもほんとにひどい悪路を車で行くのですが、爽やかな顔に似合わず、困った様子も見せず、朗らかな笑顔を絶やさない姿は魅力的でした。間宮自身も、強靱な体力に加えて、顔立ちはともかくさまざまな先住民と心の付き合いができる心優しい人だったと思うのですが、大げさですが彼を彷彿させる魅力を感じさせてくれました。

 

その福山さんが、その番組で語ったのはジョン・ウー監督からの出演依頼に、尊敬する監督で自分で良いのかと思いつつ、挑戦者として快諾したとのことでした。

 

でジョン・ウー監督の作品ってなにか、気になりウィキペディアをみますと、ミッション:インポッシブル2や、レッドクリフ2作品など、アクション映画界の新天地を開いたということで著名な方だと知りました。

 

たしかにいずれの映画も、人間の能力の限界を試すようなスピード感や生死の狭間を通り抜ける一瞬を見事に活写する映像力は人を惹きつける魅力満載です。

 

で、そのジョン・ウー監督は、記事によると、<今作は、西村寿行の原作小説を1976年に高倉健主演で映画化した「君よ憤怒の河(かわ)を渉(わた)れ」のリメーク。ウー監督の敬愛する高倉へのオマージュでもある。>というのです。

 

私も若い頃、「君よ憤怒の河(かわ)を渉(わた)れ」で、高倉健と中野良子のさまざまな場面は長く魅了されました。二人の乗馬シーンや背景の自然の雄大さもまた日本映画としては当時、想定外だったように思います。

 

健さんの映画については、その後というか晩年の方がより好きになりましたが、当時はこういったアクションに魅了されたのですね。

 

で、このことと、「第八 一道無為心」とはとうみても繋がるものが見当たりませんね。でもジョン・ウー監督が<敬愛する高倉へのオマージュ>として制作した映画であるという点になにか感じるのです。

 

映画作品として評判の高いものは、その後の映画人に多大の影響を与え、オマージュとして新たな作品に影響を与えることが少なくないと思うのです。

 

人間の行いは、仏教の空の世界や無の世界を体験する、あるいはそれに近づくことも想像することも容易でないことだと思います。映画の世界はある意味で、仏教がもしかして禁じている欲望の追求、ある種の娯楽の提供を行っている側面を否定できないと思います。

 

他方で、その映画の創造力は、人間の心の豊かさ、男女を含む喜怒哀楽の純粋な姿、あるいは寛容さ、強靱さ、あるいは正義を追求する姿を見せることで、ある種の理想的な世界を提示してくれるある種実在感のある存在を示してきたようにも思うのです。

 

健さんのオマージュは、「君よ憤怒の河(かわ)を渉(わた)れ」で示した不正に対する怒りを痛烈に動態的に示しつつも、晩年の穏やかなそれでいて一途な生き方を静寂の世界を通して見せてくれる、淵源もあったように思えるのです。

 

それは仏教が提示してきた、色即是空・空即是色の世界を、違った局面で私たちのような凡人には、その一端を見せてくれているように思うのです。

 

福山さんには、健さんにはない、新たな魅力を提示してくれることを期待しています。それは彼が自然生態系の極地を追求する姿勢にも現れているように思うのです。仏教とは異質な映画の話になりましたが、そこで演じる俳優はもしかして、現代の空海の一面を示しうるかもしれないなんて、妄想を描いてしまいます。

 

 


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