171021 鞆の浦と町保存 <文化審答申 国宝に三重の専修寺・・・など重文に>を読みながら
台風21号の暴風雨が次第に近づいてくる気配を十分に感じさせる今日の雨模様です。明日の投票日は相当荒れそうですから今日までに投票を済ませるのも懸命な選択かもしれません。私はあえて多少の雨風があっても明日を選びました。政治の状況はそれ以上に大変な状態かもしれないと思いつつ。
ところで大畑才蔵の歴史ウォークは昨日、天候悪化を受けて中止を決断しました。適切な判断だったと思います。早朝はまだ小雨でしたが次第に雨風も強くなり、のんびりと散策を楽しむというより、きびしい試練に立ち向かう、あるいは事故でも起こりかねない天候となったので、よかったと思います。
さて今朝の毎日ウェブ情報では<文化審答申国宝に三重の専修寺 京都の松殿山荘など重文に>の見出しでしたが、「景勝地・鞆の浦を選定」と大阪版では大きな活字となっていました。ウェブ情報では選定された3つを簡潔に記載していましたが、大阪版は「伝世の潮待ち港 保存加速」との見出しで、鞆町伝統的建造物保存地区について、真下記者の取り組み20年がようやく結実した趣旨の報告が掲載されています。
その記事を参考にしつつ少し経過を書いてみましょう。鞆の浦では、80年代に都市計画道路の架橋計画が持ち上がり、97年に重伝建選定の取り組みが本格化しつつありましたが、その後長期間塩漬け状態となっていました。
前者の湾の埋め立て架橋計画は、鞆の浦の景観価値を損なうとして、01年に世界文化遺産財団が「危機に瀕した遺産100」に選定し、鞆の町並み保存活動をしていた住民を中心に景観保護を訴える各地の声が高まりました。私も仲間に誘われ新しい形の訴訟に参加すべく準備を開始したのです。
そして07年4月、約10年前に、05年施行の改正行政事件訴訟法で新設された仮差し止め申立制度を利用して、知事の公有水面埋立免許の仮差止申立を皮切りに、本案訴訟提起と、訴訟手続きにより、鞆の浦の景観価値や鞆町のまちなみ景観価値を保存することの意義を訴えたのです。
そのとき鞆の浦の価値について、大伴家持がうたい万葉集に載せた「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」を申立書や訴状の表紙に記載して、鞆の浦が万葉の時代からいかに日本人の心に訴えてきたかを指摘したのです。
その意味で、たしかに鞆町自体は、中世に潮待ち港として発達したのは確かでしょうが、その潮待ち港としての歴史はきわめて古いことを指摘しておきたいと思います。いや、「鞆」という名称自体、神功皇后が朝鮮出兵後大和に東征する際、当地に立ち寄り、自分の鞆を沼名前(ぬなくま)神社に奉納したことから、鞆の浦と呼ばれるようになったという伝承もあるのですから、ほんとに古いですね。
なお、不思議なことに、私のもう一つの関心事である当地橋本で発見された隅田(すだ)八幡神社人物画像鏡も神功皇后から下賜されたという伝承があるのです。
訴訟は、広島地裁で免許差止を認める判決が出て、広島県・福山市から控訴されましたが、広島高裁での審理開始段階で、広島県知事の架橋計画撤回表明がありその後地元での協議が行われ、最終的には昨年2月には正式に埋め立て免許申請の取下により、事実上の勝利となり訴訟は終結しました。
これにより重伝建選定の手続きも加速化されたと思います。鞆の浦の架橋問題が残っていると、町の保存計画も確定しないためです。
福山市は架橋して鞆町内をバイパスする道路を開設ことが町の保存と発展が両立するという立場で薦めてきたわけですが、私自身、そのような架橋は鞆の浦の景観を台無しにするだけでなく、道路ができることにより、産業道路化し、大型トラックが昼夜相当量走行することが明らかで、そうなると、鞆の浦と鞆町が育んできた外形的な景観だけでなく、静寂な景観価値をも破壊してしまうことを危惧していました。
鞆町内の道路は狭隘で対向車とのすれ違いができないほどですので、大変ですが、むしろその環境を大事に保存することこそ、歴史的価値を残すことが可能になると思うのです。生活者に不便という声もありますが、車が容易に行き交うことの方が危険です。歩行者が大事にされる町並みの保存こそ、生活者にとって安全で快適になるのではと思うのです。
ところで、<広島)知事、5年ぶり説明会 鞆の浦計画撤回>の朝日記事にあるように、広島県知事は、今年4月、相対立する住民の中で、撤回の理由を説明しています。
そしてこのおうな広島県が架橋計画撤回を地元住民にも説明したことを受け、毎日記事では7月に、<福山市鞆地区、国の重伝建選定へ 住民説明会で保存計画案示す 「整備に制約」反対意見も>と、福山市が本格的に重伝建選定の手続きに入ったことを取り上げていました。
では文化庁はどう評価したのでしょう。あまり具体的な評価はわかりませんが、ウェブ上も別格な扱いを感じます。
文化庁の<重要伝統的建造物群保存地区の選定について>では、<今回の答申における特筆すべきもの>として、特別に同地区について記載し、<福山市鞆町は,古来より海上交通の大動脈であった瀬戸内海の港町で,周辺の島々と共に成す海域の美しさは,「鞆の浦」として万葉集にも歌われている。今回,重要伝統的建造物群保存地区として選定するのは,江戸時代の町人地のうち,廻船業の中核を成し,近代以降の地割の変化が少なく,江戸時代の町家主屋が寺社,石垣等の石造物,港湾施設などと共に良く残る面積約8.6ヘクタールの範囲である。>としています。
同じく参考資料としての<新規選定1万葉の時代より潮待ちの港として栄えた瀬戸内海の港町>にはさらに詳しく書かれています。
が、残念ながら、私たちが訴訟で主張したその価値の多様さは、この表現からはなかなか理解できないように思います。訴訟で主張した内容は、以前ホームページでアップしていたのですが、いまはどうでしょう。訴状の後の主張でも相当詳細に鞆の浦、鞆町の価値を具体的に指摘してきました。広島地裁裁判官3名は現地で実際に現場検証として歩き体感したと思うのです。
それは文章だけでは理解できない、景観がもつ重要な価値ではないかと思うのです。
そんなことを10年の経過とともに、思い出しました。いまも現地で保存活動に頑張っている皆さんに少しでも応援の言葉となればと思うのです。
今日はこの辺でおしまい。
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