たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野山と戦時体制 <高野山予科練生がボート特攻>を読みながら

2018-07-11 | 空海と高野山

180711 高野山と戦時体制 <高野山予科練生がボート特攻>を読みながら

 

西日本豪雨が明けた朝、見事な快晴でした。高野の山並みは久しぶり、というか今年初めて見るようなきりりとした峰々をくっきりと表していました。しかし、西日本を中心に各地で大きな被害発生がその後も続いています。

 

今回のような線状降雨帯といったものがいつどこでどのくらい続くかは、おそらく地球の気象現象次第と言うことではないのでしょうか。たしかに広島県や岡山県、愛媛県に酋長しています。でもこの地域が地形的・河川管理上、とくに脆弱だったというわけではないと思います。また、豊後水道や紀伊水道を通って気流が流れ込み、それぞれの地域に線状降雨帯が発生しやすくなったというのも、必須の条件だったとは思えません。

 

たしかに高野山や麓付近はあまり甚大な災害に襲われたことがないのかもしれません。でもそれが高野山の宗教都市性から守られていると信じる人はあまりいないと思うのです。現在の気象変動の進展からすると、日本列島のどこに今回のような災害が起こってもおかしくないと思うのです。

 

仮に高野山に今回のような線状降雨帯が長く停滞したら、高野山内はちょうどすり鉢の底の様に雨水が一挙にたまり、排水する余裕がなく、全山冠水状態になる可能性が大でしょうね。そんなことがないように、祈願をまじめにしておくことでしょうか。

 

とはいえ、今朝の毎日記事を見ると、自然災害には襲われなくとも、高野山も歴史の荒波には何度も襲われたことを改めて知ることができました。

 

山は博物館それは戦時下だった/4 高野山予科練生がボート特攻>との見出しで、<真言密教の聖地も戦争とは無関係でいられなかった。和歌山県の高野山には海軍飛行予科練習生(予科練)が駐留し、ラッパと号令の声がこだました。あこがれの飛行機乗りを目指して基礎訓練を受けていたが、意に反して小型ボートで敵艦に突っ込む特攻兵を送り出すことになり、10代の若者が志願するかどうか即断を迫られた。>というのです。

 

<兵舎にするため50以上の宿坊に目を付け、三重海軍航空隊の分遣隊(後に高野山海軍航空隊)として予科練が置かれたのは1944年8月15日。半月で2000人近くが入り、その後も入隊しては数カ月で卒業して終戦までに約6000人が過ごした。飛行機に乗るのは訓練の最終で、それまでの「課業」は信号や銃剣、軍制、陸戦なので山でもできた。>

 

高野町の人口は現在3000人余ですから、当時は軍人だけで6000人も滞在していたのですね。宗教空間ではなく、軍事機密基地のようなものですね。宝善院、安養院、蓮華上院といったところが上層部の基地になったのでしょうか。

 

その規律はとても厳しかった様子が次のように語られています。<規律は厳しく、練習生は失敗や怠惰の制裁として、木の棒で尻をたたかれる「バッター」を何度も受けた。無量光院住職の土生川(はぶかわ)正道さん(86)は弟子入りしていた三宝院で、練習生がなげしにぶら下がってセミの鳴きまねをさせられるのを見た。つらくて本当の泣き声に変わり「寺にはその涙と汗が染みついている」と話す。>

 

ところで、高野山の僧侶となる修行も相当厳しいようですが、もしかしてこういった軍事訓練の影響が残っていたとすると、困ったものですね。真の修行とは何かは、空海さんがしっかり教えを残してきたと思うのですが、どうなんでしょう。

 

彼らは特攻ボートに乗ることになっていたようです。それは<「震洋」だ。第1震洋隊は既に10月、小笠原諸島・父島の守備に就いていた。爆弾を積み、上陸をもくろむ敵の戦艦に体当たりするが、この時は説明がなかった。>ほんと、ひどい話ですが、太平洋戦争時、それに疑問を抱くこともできない意識状態だったのでしょう。宗教空間の高野山の場合に、そういった意識を植え付けるのは、下界から離れていて、ちょうど良かったのかもしれません。

 

でも実際は、<震洋隊は1隊が30~50隻程度で、基地要員も含めて約200人。最終的に110隊余り編成され、フィリピンなどにも配置されたが、出撃はわずかで戦果も少なかった。多くは基地や基地への移動中に攻撃されるなどし、約2500人が戦死したと言われる。>

 

終戦間際の高野山も危ない状態だったのですね。

<45年になると、高野山は本土決戦の基地とされた。トンネルに弾薬や食糧を保管し、敵の上陸を想定しての戦闘訓練が増えた。終戦を迎えると、武装解除に来た連合軍に文化財を略奪されるのを恐れ、1カ月前に解隊したことにして練習生を早々に復員させた。>

 

高野山を本土決戦の基地にするなんて、戦国武将の信長や秀吉でも考えなかったのではないでしょうか。危ないところでした。

 

比叡山延暦寺も同じような運命だったようです。<延暦寺がある比叡山(848メートル、京都府・滋賀県)には、海軍の新特攻機「桜花四三乙型」の練習機発射基地が建設された。>

 

ところで、戦後農地改革が全国で実施され、当地和歌山県下も同じですね。でも実際の実施内容は、各地の農地委員会の裁量というか、運用に委ねられていたようです。

 

高野山も、戦国期は17万石までふくれあがったものの、秀吉に降伏して、根来寺や粉河寺のように領地没収の危ういところを、秀吉・家康から賜った、23000石でしたか領地をもつことができました。江戸時代は大名格ですから、経済的には余裕があったと思います。でも維新後は、廃仏毀釈で財産没収、山林もなくなり、山林管理の名目でなんとかしのぎ、戦時中は収入も枯渇していたと思います。軍事基地になることでなんとかしのいだのかもしれません。また田畑も開墾していたようです。

 

しかし、農地改革での解放はわずかにとどまり、多くの農地が残されたようです。山林は管理地から所有地になったようででしたが、農地解放の対象外だったので、高野山の山林を含め、多くは保全されています。宗教環境と観光名目があったようです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


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