170318 原発事故と法的責任 <福島第1原発事故 避難訴訟判決 要旨>を読んで
今朝も青空が広がり、空気もわずかに寒さが感じる程度で気持ちのよい作業日和でした。昨夜からどこをどうやろうかと考えつつも、結局は現場で、自分の体調と竹林やヒノキの木々の状態を検討しながら、いつも適当にやってしまっていますが、今日も同じことになりました。2~3時間程度で軽くやるつもりが、ついついやり出すと止まらず、終わってみると5時間近くになっていました。
竹の整理をしながら、ヒノキの枝打ちをするという簡単な作業手順ですが、一本目のヒノキは簡単で、ツルもわずかで、枝も細身だったので、ナタでぽんぽんと落としていきました。ほんとは一本だけで終えるつもりでしたが、以前から気になっている、ツタで上がまったくめいないほど覆われているヒノキの木をそのままにして帰る気がおこらず、つい登り始めました。ぶり縄を3本巻いたら、一番下の枝に届いたので(高さ5mくらい)、そこからは懸垂で枝から枝に登っていきました。
ツルがびっしりと絡まっていて、よく見えない状況で、しかもツルは割合粘り強くて簡単に切れないので、手間取りました。それに跳ねたりするので、メガネが飛ばされるリスクもあります。こういうときはカヤックでパドリングするとき(もし沈してもメガネが海中に沈まないように)メガネがおちないようになっているバンドが重宝するのですが、ここまでやることを想定していなかったので持ってきていませんでした。帽子は飛ばされたのですが、メガネはもうちょっとのところで抑えてなんとかなりました。メガネを落とした場合探すのが一苦労なので、これだけは避けたいといつも思っています。
ともかくツルと格闘して一本のヒノキの枝打ちに2時間近くかかったかもしれません。途中で足が痙攣したり、なかなか大変でした。やはり枝の上に足を載せて長時間作業をするというのは慣れていないと、高齢者の筋肉では持たないかもしれません。終わった後は息も絶え絶えになり、遅い昼食をとってしばらく休んでみたものの、頭が働きそうにありません。
なぜここまでがんばるのか、自分でもよくわかりませんが、一歩間違えば、というかちょっとした油断で落下する危険と向き合いながら、枝が作業中折れないかやツルに巻き付かれないかなど、自分なりに全身で、あるいは全神経を集中して作業していると、生と死との狭間に身を任せている気分になるような、それが進化の過程で喪失しつつあるヒトとしての本能を蘇らせてくれるというか、他のものでは代えがたい気持ちにさせてくれるからかもしれません。
さてそろそろ今日の本題に入らないといけませんが、そういうわけで、とても考えるだけの余裕がないので、本来は難しい原発避難者集団訴訟といったものを取り上げる状況ではないのですが、問題が重要なのと、判決骨子程度であれば、引用しながら、紹介する程度であれば、なんとかなるかなと思っています。
福島第一原発事故については、全国各地で被害者が原告となって東電と国を被告として訴訟が提起されています。また東電株主が東電の取締役責任を追及する訴訟も提起しています。
今回の前橋地裁の判決がこういった訴訟で最初に下された司法判断だったわけです。訴状や判決文を見た分けではないのですが、判決要旨を見る限り、基本的には不法行為責任を追及し、国に対しては国家賠償の責任追及を行っています。とくに前橋地裁の事件は、避難訴訟と銘打っていますので、避難者の立場で責任追及となれば不法行為責任以外は考えにくいでしょう。
不法行為責任なり国家賠償責任なり、いずれもまず、事故と被害の因果関係をどう認定するか、過失の有無について、予見可能性・結果回避可能性があったか、国賠との関係ではとりわけ規制権限があったか否かなどが重要なファクターになります。
まず判決要旨では、事故原因について<津波が到来し、6号機を除く各タービン建屋地下に設置された配電盤が浸水し、冷却機能を喪失したことが原因。>となっています。
記事の字数等に制約があるでしょうから、要旨といっても、これが裁判所から提供されたそのものではないかもしれません。毎日側で要旨として取り上げたのか、裁判所がリリースしたものかはともかく、この事故原因についての記述は、少し簡略しすぎではないかと思っています。むろん、原告の主張がそれだけに絞っているのであれば、そのような判断になるのもやむを得ないかもしれません。
しかし、メルトダウンや放射性物質の拡散などは、この配電盤への浸水による冷却機能の喪失だけで事故原因と断定してよいのか、どのような議論がなされたのか気になるところです。むろん、冷却機能が喪失されれば、その後の対応はさほど大きな問題ではないという見方もあるでしょう。この事故原因に係わる事実認定については判決文を読んでみたいと思います。
事故原因が冷却機能喪失ですから、その予見可能性については津波の高さの予見が可能だったかに絞られるのは当然でしょう。<東京電力が予見できた津波の高さが、原発の敷地地盤面を超える津波と言えれば予見可能性を肯定できる。>と明快です。
そして判決要旨では、2つの事実から予見可能性を肯定しています。一つは<東電は、1991年の溢水(いっすい)事故で非常用ディーゼル発電機(DG)と非常用配電盤が水に対して脆弱(ぜいじゃく)と認識していた。>と、過去の溢水事故から、 非常用発電機等が溢水に対して脆弱であることを認識していたというのです。この過去の溢水事故がどのようなもので、その後溢水対策がどのようになされたのかは要旨では言及されていないので、なんともいえませんが、はたして過去の溢水事故と今回の津波と同列に扱いうるかは一つの問題でしょう。
もう一つの事実は<国の地震調査研究推進本部が策定・公表する「長期評価」は、最も起こりやすそうな状況を予測したもの。2002年7月31日に策定された長期評価は、三陸沖北部から房総沖の日本海溝で、マグニチュード(M)8クラスの地震が30年以内に約20%、50年以内に約30%の確率で発生すると推定した。原発の津波対策で考慮しなければならない合理的なものだ。公表から数カ月後には想定津波の計算が可能だった。東電が08年5月ごろ「敷地南部で15・7メートル」と試算した結果に照らし、敷地地盤面を優に超える計算結果になったと認められる。>と述べています。
東電も国も、こういった長期評価は法的な意味での予見可能性の基準にならない趣旨を述べてきたのだと思います。実際、多くの災害でも、地震調査での長期評価を現実の耐震基準として裁判の基準にしてきたかというと、私の狭い知見ではなかったと記憶しています。
しかし、原発事故がもたらす被害の甚大性や世紀をまたぐような長期的影響を考慮すれば、通常の事故対応では済まないという、いまでは国民の常識に近い認識を裁判所も共有したのかと思います。誤解をおそれずいえば、3.11前の全国の裁判所、裁判官の意識は、東電や国と似たような状況であったように思うのです。 むろん例外的な裁判官もいましたが。
こういった長期評価を基準にすべきと言うことになれば、当然、<東電は、非常用電源設備を浸水させる津波の到来を、遅くとも公表から数カ月後には予見可能で、08年5月ごろには実際に予見していた。>との認定になるでしょう。
結果回避可能性について、判決要旨は<配電盤の浸水は、給気口から浸入した津波によるものだ。>と明快です。ここはどのような裏付けがあってここまで特定できたのか気になりますが、私がきちんと福島第一原発事故の事故報告書等等を読んでいないので、疑問が怒るのかもしれませんが、通常はなかなか認定するのが大変ではないかと思うのです。
浸水の侵入経路が分かれば、<(1)給気口の位置を上げる(2)配電盤と空冷式非常用DGを上階か西側の高台に設置する--などいずれかを確保していれば事故は発生せず、期間や費用の点からも容易だった。>と結果回避可能性も簡単に認定できますね。
原告が被った被害、その前提としての原告の法的利益は、意外と簡単ではない問題だと思います。前橋地裁は、その点では割合、原告側に寄り添う判断をしたのかと思うのです。
<原告が請求の根拠とする平穏生活権は(1)放射性物質で汚染されていない環境で生活し、被ばくの恐怖と不安にさらされない利益(2)人格発達権(3)居住移転と職業選択の自由(4)内心の静穏な感情を害されない利益--を包括する権利だ。>
(1)は当然としても、(2)ないし(4)は少しがんばってくれた内容ではないかと思うのです。
しかしながら、肝心の慰謝料額は相当低いもので、原告側の嘆く声も記事で取り上げられていましたが、当然でしょう。
ではなぜ低い認定になったのか判決要旨を見てみましょう。
<原発施設は一度炉心損傷になると、取り返しのつかない被害が多数の住民に生じる性質がある。>これは慰謝料額とどう関係し、どう反映したのかあまりはっきりしません。
判決要旨は、次の3点を指摘して、東電側の方に非難性を強く認め、増額の考慮要素とまで述べています。
<国と東電の非難性の有無と程度は考慮要素になり得る。東電は(1)経済的合理性を安全性に優先させたと評されてもやむを得ないような対応だった(2)津波対策を取るべきで、容易だったのに、約1年間で実施可能な電源車の高台配備やケーブルの敷設という暫定的な対策さえ行わなかった(3)規制当局から炉心損傷に至る危険の指摘を受けながら、長期評価に基づく対策を怠った--と指摘できる。東電には特に非難に値する事実があり、非難性の程度は慰謝料増額の考慮要素になる。>
そして賠償水準とされている国の中間指針との関係では、当然ながら裁判所が独自に最終的に判断するとしています。ただ、自主避難者との違いは考慮要素とならないという最後の指摘は、それ以外はどうなんだと思ってしまいます。
<賠償水準となっている国の中間指針は多数の被害者への賠償を迅速、公平、適正に実現するため一定の損害額を算定したもの。あくまで自主的に解決するための指針で、避難指示に基づく避難者と自主避難者に金額の差が存在しても、これを考慮要素とするのは相当でない。指針を超える損害は最終的には裁判などで判断される。>
で、結局のところ判決要旨だけでは、なぜ慰謝料額が極めて低い金額になったのかについては、明らかにされていません。東電の非難性をあれだけ強調している割には、また、原告側の法的利益を相当に取り上げている割には、どうも慰謝料額に反映した節が見られないように思うのです。といっても、わが国の裁判例では慰謝料額が極めて低いというのは昔から言われてきたことです。それを引き上げるだけの理由が、判決要旨で指摘した非難性だけでは不十分だったのでしょうか。
おそらくアメリカの制裁的賠償だと、桁が違っていたのではないかと思うのですが、法制度が異なりますし、そのような巨額の制裁的賠償を認めると、ますます東電が維持できなくなり、原発廃炉処理の行方も危なくなるなど、さまざまな配慮も影響したのかもしれません。
最後に国賠責任ですが、<国は(耐震性を再確認する)バックチェックの中間報告を東電から受けた07年8月の時点で、それまでの東電の対応状況に照らせば、東電の自発的な対応や、国の口頭指示で適切な津波対策が達成されることは期待困難という認識があった。国は規制権限を行使すれば事故を防げたのにしなかった。著しく合理性を欠き国家賠償法上、違法だ。>と、過去、東電がとってきた行政に対する無責任な対応を踏まえて、国の規制権限行使が不可避であったとしています。
そして<規制権限がないという国の主張は、事故発生前から津波対策を取り扱っていた実際の国の対応に反し、不合理で採用できない。国の責任が東電と比べて補充的とは言えず、国が賠償すべき慰謝料額は東電と同額だ>と、なにか先ほどあげた東電の非難性があまり意味がない結論になっています。同額でも相当な金額の慰謝料であれば、それは納得されるでしょうが、低額だと、国も同額だといっても、釈然としない気持ちになるでしょう。
判決要旨を引用する、安直な方法で、簡単に紹介しましたが、これで控訴審を乗り切れるか、やはり判決文を見ないとなんともいえません。関係の弁護団にでも入っていると判決文はメールで送られたり、今ですから関係者だけのネット上にアップされるのでしょうが、いつ見ることが出来るか、分かりません。いずれにしても難しい訴訟で勝訴判決を得た原告弁護団の皆さんにエールを送りたいと思います。
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