190226 天皇陵と記紀 <そこが聞きたい 天皇陵古墳の将来像・・白石太一郎氏>を読みながら
昨夜、録画していたNHKの古代史の番組、名称は忘れましたが、正月の特別番組のようでして、磯田道史氏が考古学専門家と現場で話しながら日本の礎というか分明の成り立ちを語るといった磯田氏らしい巧妙なトークで展開します。2時間でしたので少々疲れてけちんと見たわけではありませんが、面白かったです。
それを見て余韻が残る中、今朝の毎日記事<そこが聞きたい天皇陵古墳の将来像 大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長 白石太一郎氏>を読んで、歴史学、考古学の先達がいろいろ述べられることに素人的な発想では気になるところがあり、少し書いておこうかと思い本日のテーマにしました。今日は終日仕事で忙しくしたので息抜きかもしれませんが。
NHKでは当地の発掘を長年されて著名な考古学の専門家・橋本氏の案内で、初期前方後円墳とされる纏向石塚古墳や纏向勝山古墳を見た後、3世紀半ば築造でしょうか箸墓古墳や周辺の紹介となりました。ここでも当然ながら、日本書紀の「箸墓」築造の伝承が紹介されていました。ただ、被葬者については卑弥呼かどうかの議論はさまざまな研究者の説を紹介していたかと思います。
いろいろ諸説があることは当然でしょうけど、書紀で箸墓とされているのは倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)ですけど、卑弥呼とは違いますね。それはどう考えるか、突然ここでは(よくあることですが)魏志倭人伝の記載を持ち出されます。「箸墓」の謂われの伝承というか、書紀の記載を根拠としているにもかかわらず、被葬者になると飛躍するように思えるのです。
それがわが国の文明の始まりとか、都市の始まりといわれても、その可能性はうかがえるものの、それを裏付ける書紀や魏志倭人伝の記載はありませんね。考古学的な考察でしょうね。そうだとすると、それだけの文明を形成しながら、なぜ書紀を含めてそれを示唆するような記述がないのでしょう。不思議です。誰かが抹殺したのでしょうか。不比等による書紀の創作(すべてねつ造とは思いませんが)という説に魅力を感じる一つです。
次に今朝の毎日記事で紹介された白石太一郎氏は著名な考古学者で一度だけ講演を拝聴したことがあります。著作は何冊か読んでいましょうか。考古学の先達に異論を差し挟むなんて暴挙は素人だから言えるのでしょうね。
白石氏は天皇陵について宮内庁の厳格な立入禁止措置や被葬者の指定に、専門家として宮内庁の立場に配慮しつつ、将来国民的合意形成によりそのあり方を検討する必要を提案されているかと思います。
<一般の方への公開、研究者の研究のための公開、どちらも必要です。中心的な埋葬施設の場所は見当が付きますから、尊厳を保った上で差し支えない部分を公開することは十分可能と思います。
現在、宮内庁というか天皇家が祖先の墓として天皇陵古墳も含めて祖先祭祀(さいし)を丁寧に行っておられることについては、国民の多くが支持していると思います。天皇家の祖先祭祀の場としての陵墓である一方で、日本の歴史を考えるための極めて重要な歴史遺産としての意味ももっているわけです。こうした点については宮内庁も、歴史遺産として保全・調査し、公開や活用もより積極的に考えていかなければいけないという認識をもっておられることは間違いないでしょう。>
また<天皇陵古墳の今後のあり方については、やはりもっと幅広い議論と、バランスのとれた国民的合意形成がどうしても必要です。世界遺産登録への運動が議論のきっかけになれば、こんなに良いことはないと思います。>
こういった提案は、これまでの天皇と国民との関係を背景にすると、穏当な方法かと思います。個人的にはもっとドラスチックな方法で根本的なあり方を検討してもいいのではと思うのですが、時期尚早かもしれません。
こういう一般論を書くつもりで、白石氏の言葉を引用するつもりではなかったのですが、書き出すとついつい、冗長になりました。今回白石氏の発言を取り上げるのは、誉田御廟山古墳と大山古墳の被葬者について、白石氏が考古学的な考察から、前者を応神天皇陵、後者を仁徳天皇陵として、とりわけ前者の害脆性は高いとし、こうしゃも可能性が極めて大きいというのです。この論述に違和感を覚えたのです。考古学の最近の研究成果をまったく知らない素人がもの申す話ではないので、こっから先は笑いの種にして結構です。
白石氏が根拠とする一つに前者につき<応神天皇を祭神とする誉田八幡宮が平安時代から隣接して存在している>ことをあげています。八幡宮の隣接はたしかに意味があるかもしれませんが、平安時代の設置ですから、5世紀初頭の築造としてもちょっと違和感を覚えます。8世紀初頭に成立した記紀の影響を感じてしまいます。
また<考古学的には、埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)(古代の土器の一種)を使った最新の古墳の年代研究から5世紀の第1四半期の築造が確実>であることと、<文献史学の研究による応神天皇の在位(4世紀終わりから5世紀初頭)>と一致することとだけで、判断できるのかどうか、疑問を感じます。
世界最大級の前方後円墳、日本で第一、第二の規模を長期間かけて築造したことは間違いないわけですが、だれがなぜこの場所に築造したかはあきらかではないように思うのです。少なくとも、記紀は何も語っていません。応神天皇の崩御を簡単に触れながらも、陵については一切言及がありません。あの半分くらいの大きさの箸墓でさえ、変わった伝承を記載しているにもかかわらずと思えるのです。
白石氏は<天皇陵級古墳の築造順の研究から、誉田御廟山古墳の次に築かれたのが大山古墳です>と指摘されていますが、私がこれまで学んできた考古学の通説ではそうではないと思うのですが、どのような根拠なんでしょうね。
また応神天皇の次が果たして仁徳天皇かどうか、記紀にはそう書かれていても、信頼性があるのか気になるところです。だいたい書紀には仁徳天皇の即位前から即位後もいろいろ変わった話をてんこ盛りのように展開していますが、あの雄大な墓をつくったにしては、天皇の崩御の他には、書紀では「葬于百舌鳥野陵」、古事記では「御陵在毛受之耳上原也」と墓の場所のみ記載があるのみです。現代語訳では「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」と両者を総合したような名称が一般でしょうか。
記紀の記載からは生前に築造したと推測できますが、そのような大事業を行ったにもかかわらず、一切の記述がないことは他の多くの土木事業に関する記述との関係でも違和感を禁じ得ません。
ともかく文献資料からは大山古墳に仁徳天皇が葬られたとされる根拠としては十分とは言えないと思うのです。仁徳天皇の存在も疑問視する見解があり、結構説得的ですが、ここでは取り上げません。
私が気になっているのは、仮に白石氏や宮内庁の被葬者像を採った場合、なぜ書紀で書かれている仁徳天皇のような謙譲の美徳や臣民への徳の厚い人が、父親より大きな墓を築造するのか、理屈に合わない(記紀の中でよくあるといえばあるのでそれを取り上げるのもなんですが)ように思うのです。そもそも応神天皇と仁徳天皇やその後を継いだ天皇の古墳が大阪にあのような形で散在するようになったのか、これまた不思議です。
中途半端ですが、この程度にして今日はおしまい。また明日。
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