たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野山と空海(2) <<NHK ブラタモリ ・・高野山は なぜ“山上の仏教都市”に?>を見て思うこと

2017-09-24 | 空海と高野山

170924 高野山と空海(2) <<NHK ブラタモリ ・・高野山は なぜ“山上の仏教都市”に?>を見て思うこと

 

今朝も少し肌寒かったのですが、昨日買ってきた花の苗を20種あまり植えていると、次第に汗ばんできました。土が硬いのでハンドスコップで掘ろうとしてもなかなか穴が掘れません。土壌改良をするほどでもないのですが、選定した枝葉を土の中に入れたりそれなりに土の改良?をしています。

 

隣家も庭木が伸びたので、高枝はさみを使って、さらにはしごに登って枝葉を切っていました。私がついでに枝の太いのもノコギリで切ったら一挙に枝葉が片付きますよと言ったら、そのとおりばっさっと切っていました。分譲地ではこういった枝葉を野焼きするわけにはいかず、小さく切って燃えるゴミ袋に入れ皆さん出しているようです。私は生ゴミコンポストに入れて、荒れた土の中に入れていますが。

 

その後、久しぶりに高野山に登ってみようと、11時前になっていましたが、出かけました。今日は日曜日なので、混雑を予想して9時頃には出かけようと思っていたのですが、いろいろ雑用をしていて出かけるのが遅くなってしまいました。案の定、高野山への道路は車が混んでいました。これだと1時間以上かかってしまうと不安になっていたら、先頭のバスが道を譲ってくれ、結局45分くらいで大門に着くことができました。ところが高野山内は車が渋滞していて、のろのろ運転になり、ようやく空いたところに滑り込み駐車できたときは12時半近く。

 

今日は以前歩いた女人道の残り半分を歩こうと思っていたのですが、コースを聞くと、摩尼山、楊柳山、転軸山と1000m前後の頂上を目指すので、運動不足の私の足では途中でへばりそうと、あきらめて平坦な道を探して歩きました。これは意外とすてきなコース(とはうたっていない)で、ほとんど人影がなく、杉木立やコウヤマキ、ヒノキ林が林立する中をのんびりと歩くことができました。約1時間くらいでしょうか。金剛峯寺の寺領森林組合が提供していたセラピーロードも以前歩いたことがありますが、それとはかなり異なりますが、私が勝手に歩いたコースはなかなか風情があってよかったです。

 

最後は中の橋霊園を通ったのですが、たぶんあまり、というかほとんど観光客が歩きそうもない、五輪塔も完全に苔むしていて、一寸ほどの道を歩いてきました。

 

さて、NHKブラタモリ高野山3回連続の3段目<高野山の町~高野山はなぜ“山上の仏教都市”に?~>は、ようやく地質的アプローチとなり、少し安心しました。

 

高野山を含む紀伊山地は1500万年前に火山が連続して噴火して、平坦だった列島に火山によって山ができたという話はNHKの番組で以前包蔵され、私も少し取り上げました。火山でできた紀伊山地ですから、あちこちに温泉がありますね。他方で列島自体はその後沈下隆起を繰り返しているわけで、その中で堆積して風化した泥岩も当然紀伊山地にあり、高野山にあるのも不思議ではないですね。

 

昨日の番組では、宮大工の尾上氏が登場し、高野山が山上の宗教都市として成立するのに3つの条件が必要だったとして、水、食料、人(の増加)をあげていました。

 

で観光客の多くは豪壮なお寺の構えや、幹径2mとか3mの巨木(中には屋久杉にも負けないようなスギがありますね)などに目を奪われたりして、水の存在に気がつかないでやり過ごすかもしれません。でもあちらこちらに隠れたように水が流れていますね。

 

高野山からは北に不動川、東に丹生川、西に貴志川、南に御殿川(その後有田川)など、まるで紀ノ川源流の大台ヶ原波に、四方八方に流れています。現在では高野山が和歌山県の主な河川の源流であることはよく知られたことだと思います。

 

でも平安初期に空海以外、高野山に水が溢れるほどあることを知っている人は地元の天野の人などを除けば皆無に近かったのではないかと思います。

 

その水量の豊富さの原因について、地質の専門家(名前を失念)が泥岩が高野山の地盤を更生していることで、貯留する地層構造になっていること、先に挙げた高野山を取り巻く山々からの水が高野山の平坦な土地がちょうどその受け皿になっているというのです。

 

このように谷川の水によって飲み水は確保されていたというのです。たしかに空海による高野山開山の当時、さらに下って修行道場であり女人禁制が法度であった明治維新まで、いや大正末に南海電鉄が高野下まで伸びるまでは、沢水が清浄でそれで十分だったのでしょう。しかし現在もその泥岩のおかげはないでしょうね。公共交通機関の普及で観光客が増えれば、間に合わなくなるのは当然です。

 

高野町の<高野山の水道>によれば、昭和8年には相ノ浦峡谷に貯水池を設け、浄水場、配水施設を通じて昭和11年から給水開始しています。その後も奥之院御廟前を流れる玉川より取水して、下流の玉川浄水場(暖速ろ過)から給水開始しています。今日も玉川をなんどか横切りましたが、残念ながら沢水の清らかさとはなかなかいえない状況です。

 

その後も「高度浄水(オゾン)処理を導入した高野山浄水場が平成4年8月より稼動、平成7年度に北桶谷水源の 取水・導水施設の整備を行った。」というのです。でも世界遺産登録後の観光客増大に伴い、当然不足しますね。さらなる拡大計画が進んでいるようです。

 

他方で、もう一つの問題は下水排水です。これは閉ざされた高野山という中で、少人数の時はなんとかなったでしょうけど、尾瀬ヶ原でも問題になったように、当然というかそれ以上に高野山の場合は入り込み数が膨大なので、本格的な対応が必要となります。

 

その当たりの対応は同じく高野町の<下水道の施設/高野山処理区>を見ていただければと思います。私自身は長く下水処理問題に取り組んできたので、高野山特有の対応はどうあるべきかといった考えもなくはないのですが、脇道にそれていきそうなので、この程度にします。

 

ともかく空海がこの高野山を選んだことと、現代の山上都市を成り立たせている様々な要素は相当違っていることを理解しておかないといけないでしょうね。

 

次に食料です。尾上氏は高野領が2万1300石あったことをもって、食糧確保が可能であったといった趣旨の説明をされていたように思います。しかし、その高野領の確定?は、秀吉が応其上人に認めたことによって生まれたものであって、空海時代から食料・費用がこの領土によって賄うことができていたかというと、疑問です。

 

たしかに嵯峨天皇でしたか、高野山開山を認め、領土の四囲を定めたといわれることがありますが、それ自体どうかと思うのです。というのは、西行の実家が下司だった田仲荘は高野の僧侶と領地争いが絶えず、西行も悩んでいたと言われています。そのような領土や用水争いは高野領の境界の各地であったと思われます。

 

少なくとも空海が開山した当初は、高野山では伽藍建築のために費用が十分でなく、むろん修行僧の食料も足りていたとは言いがたいのではと思うのです。

 

その中で、紛争には行人僧が武者に負けない剛力を用い、他方で、全国に散った高野聖が空海伝説を語って寄付を募ったり、戦国期は武家の墓なり供養塔を提供することで、一時は17万石と言われるほど巨大な組織になったのだと思うのです。

 

むろん高野領の地元の村々では、とれた野菜や果物は寄付として、それに米は年貢として提供するようになったことは確かでしょうが、そのようなシステムが確立したのは平安期の中期以降ではないかと思うのです(ここはとりわけ当て推量)。

 

平安末期、覚鑁が登場する頃には、高野山の収入システムがかなり疲弊していて、覚鑁が白川上皇などから大きな寄付を得たことにより、生きを吹き返したのではと思っています。

 

またまた脱線しましたが、最後の人の確保、増加の問題です。尾上氏は、現在ある117か寺のうち、宿坊を営む大きな寺には門前に家紋の提灯があることを指摘して、江戸時代に宿坊契約を各藩と取り交わしていたこと、それが現在では各地の寺の住職を継承する担い手が各寺に入る形でつながっていて、高野山内の僧侶の維持・拡大とともに、各地の寺の住職の新たな担い手づくりをシステム化しているといった趣旨の説明があったかと思います。

 

なるほど、宿坊契約から連綿として続く高野山金剛峯寺、その系列になる各寺院が各地の寺院の住職養成コースを用意している仕組みは、江戸時代に作られたのかもしれません。

 

しかし、宿坊契約と、各地の寺院の住職養成とは直接関係がないですね。とはいえ、私も各寺院が各地の寺院の子どもを住み込みで高野山大学、さらには僧侶養成の専修学院で学ぶことを支援していることは、知っています。他方で、尾上氏がいうほど、経済的に楽でない学生がいることも確かです。また、それほど修行というものに特化した生活状態にあるかというと、必ずしもそうでないこともあります。

 

おそらく70年代くらいまでは静謐な環境が学生にとっても違和感がなかったかもしれません。しかし、観光化した高野山の中は、当然、学生にも昔の修行感覚を維持するには容易でない状況になったことは想像できます。その後ネット、さらにSNSなどさまざまな情報媒体の氾濫は学生の気持ちを高野山の宗教性を脅かすに十分すぎるほどであったことは否定できないように思うのです。道元の永平寺と比較すると容易に理解できるのではと思うのです。いや、比叡山延暦寺でも、観光化したとはいえ、高野山ほどではないかもしれません。

 

翻って、空海がこれほどの盛況を高野山の将来像として描いていたか、私自身は疑問を感じています。いや、空海テーマパークが正解だと言われると、たしかに司馬遼太郎もそのあたりを『空海の風景』で匂わしているようにも感じます。夢枕獏の『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』だとまさにそういったテーマパーク性が符合するかもしれません。

 

でも私は空海の次の言葉のような彼を敬愛するのですが。

 

孤雲定まれる処無し、

本より高峰を愛す。

 

人里の日を知らず、

   月を観て

     青松に臥せり。

 

今日はこれでおしまい。

 

補足

 

関係ない話ですが、ブラタモリで、人の問題について、蓮華定院と真田家との宿坊契約を住職が古文書を披露して説明していましたが、なぜか違和感がありました。

 

添田隆昭(そえだ・りゅうしょう)氏がなぜか住職としかうたっていなかったからです。この方、実は<高野山真言宗(総本山金剛峯寺)の宗務総長>の地位にあり、いわば政府で言えば行政のトップですのに、その地位を出していませんね。また、学才豊かで深い教養をお持ちの方と思うのですが、添田宗務総長による説明を全般的に伺いたかったという思いもありますね。

 

 


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