たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

紀ノ川の歴史に触れて 若浦をうたった和歌と紀ノ川河口の歴史

2017-01-24 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

170124 紀ノ川の歴史に触れて 若浦をうたった和歌と紀ノ川河口の歴史

 

今朝は、昨日の終日ちらほらと冬の彩りをもたらした小雪がまだ積もっていて、前方の竹林やそれに連続する雑木林など、白銀が光りなんともいえない冬化粧で迎えくれます。

とはいえ紀ノ川が凍結することはないようで、いつものように少ない水量の流れが川の中央を静かに過ぎていきます。

 

先日古墳のことを書きながら気になっていることがときどき思い出されます。宇治谷孟編「日本書紀」をぺらぺらと確認したのですが、やはり{葬る}といった記述は多くの天皇の死について書かれているものの、その葬法についてはまったくというほど触れていません。

 

「もがり」についてもごくわずか簡単に触れる程度で、その詳細にわたる言及がありません。一説にはわが国も3年の殯があったということですが、記紀の記述からはごく例外的、王位継承に問題が生じたときくらいではないかと愚考しています。

 

また、古墳、とりわけ前方後円墳については、その造成について触れているのは、唯一、箸墓古墳だけではないかと思うのです。あのいわゆる仁徳陵も応神陵も、世界最大規模であるにもかかわらず一切、言及がありません。前者ではまだ神話伝承を物語っていて、「昼は人が造り、夜は神が造った。」とか、「大坂山の石を運んで造った。山か墓に到るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。」とまで書かれています。

 

記紀の内容は信頼性がないと一言で片付けるものもなんですが、それにしても世界遺産に登録されようかという段階でも、初期の最大前方後円墳である箸墓(卑弥呼の墓という説も有力?)ですらまともに裏付ける記述がなく、まして登録予定の古墳については記述がないに等しいのですから、被葬者も不明な中でこのような事業を進めるのはどうかと懸念します。

 

それに加えて、大王の葬送のあり方として、殯・土葬が仏教に帰依した用命・推古大王以下でも継続されていたのであり、火葬が行われたのが持統天皇の時代が初めてですから、仏教伝来・普及のため、前方後円墳が円墳などに変更されたという見解には疑問です。

 

なお、日本語と日本文化というウェブサイト情報によると、宮内庁は歴代天皇の3分の1が火葬したとのことですし、維新の際、王政復古の旗印だった孝明天皇ご自身は仏式を強く望み、火葬した上、土葬?したというのですから、なんとも不思議というか、維新政府の犠牲になったような印象すら感じます。

 

天皇家が万世一系かどうかについてどちらの立場に立っても、火葬か土葬かは重要な問題とは思いません。時代の要請に応じて、ご自身の意思と葬法の歴史を考慮して決めればいいことかと思いますし、国民主権の基の象徴天皇制においても、退位はもちろん葬法も、そのような視点から検討されていいのではないかと思います。天皇制という奥ゆかしい問題に言及するつもりはさらさらなかったのですが、つい筆?タイプが勝手に動いてしまいました。

 

また表題と関係のない、前置きにもならない事柄を書いてしまいました。無理矢理に関連づければ、今回のテーマも多少、天皇の行いと関係します。

 

今朝の毎日記事、残念ながら和歌山版なのでウェブ情報にはまだ掲載されていないので、記憶だけで書きます。たしか和歌浦に聖武天皇が行幸したとき、山部赤人が歌った和歌を取り上げていました。

 

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る

(『万葉集』巻六の919番歌)

 

赤人の自然の景観美への洞察について、その潮の満ちて潟が海水で満たされていく様とツルが最寄りの葦原を目指して飛び立つ、動的瞬間を描いたものとして記事は取り上げていました。

 

私自身は和歌を理解できるほどの才はまったくありませんが、多少はその雰囲気を感じることができます。というわけで、私がこの和歌を取り上げたのは文芸的な意味ではなく、「若の浦」という表記を取り上げようと考えたからです。若の浦が和歌浦になったのは平安期ともあるいはそれ以降ともいわれますが、ともかく赤人ら万葉歌人が歌ったときは若の浦でした。おそらくは和歌が流行したことや観光的な意味合いから?名称変更となったのではないかと勝手に思っています。この変更に触れた文献をまだ見つけられていませんので勝手な推測です。

 

ではなぜ若の浦とよばれたのでしょうか。もう一つ、和歌山という名称、元々はそれまでの雑賀一族などが支配していた紀ノ川河口一帯にあった城を殲滅し、その後豊臣政権(たしか秀長)が築城し若山城と命名したのではないかと思います。で、和歌山県は、「和歌浦」の和歌と「岡山」の山との合成語と言われています。なぜ岡山なのか、城の立地場所のことかと思ったりしますが、判然としません。

 

つまらない議論と思われる向きはこの辺で読むのを断念したのがベターだと思います。これから先は、私が勝手に以前から考えていた推論です。

 

そもそも「若の浦」とか「若山」という名称は、それぞれ「若」という名所に幼いとか、新しいとかの意味合いをもっていたのではないかと考えるのです。そしてそれは紀ノ川河口の地形上や利用上の歴史的変遷を物語っているのではないかという、根拠の乏しい推論です。誰もそのような議論をしていないので、怪しいと思って先を進めてください。

 

で、まず若の浦ですが、紀ノ川河口は氷河期以降大きな変遷を遂げています。紀ノ川流域の地形的変遷は、和歌山河川国道事務所がウェブサイトで紹介していますので、これを参考にします。詳細は<日下雅義(1980)「紀ノ川の河道と海岸線の変化」『歴史時代の地形環境』古今書院>が参考になると思います。

 

氷河期は瀬戸内海が陸ですから、紀ノ川も吉野川も、川として合流していたかもしれません。で、縄文期の縄文海進で河口域はほぼ水没していたでしょう。弥生から古代にかけて海が後退し、片男波などの砂州もでき若の浦も一時的に美しい景観が形成されていたのでしょう。いつ頃から紀ノ川河口に天皇家が訪れるようになったのか、分かりませんが、有間皇子が若の浦を超えて(無視して)、白浜温泉などを斉明天皇に紹介するようになった7世紀中頃では多少は知られるところになっていたかもしれません。

 

いずれにしても片男波で生まれた若の浦は、まだまだ新しい浦でしたから、そういう意味で名付けられたのではないかと何年か前から思っているのですが、つい表明しました。

 

要は、記紀で言われている、紀ノ川河口が舞台になった最初は、神武時代で、その後は神功皇后時代くらいで、いずれも戦争の行軍ですから、和歌とは縁もゆかりもありません。というか記紀の神武時代を紀元前とすれば、河口にはとてもそのような美しい若の浦は形成されていなかった可能性があります。神功皇后はどのような航跡をたどったか、フォローできていませんが、もしかして河口を遡ったとしたら(こういう説は聞いたことがありませんが、日根野氏は多少その可能性を指摘?)、若の浦を見ずして遡上した可能性もあります。

 

そして若山城ですが、それまで雑賀一族の拠点であった紀ノ川河口は、おそらくベネチアのように小河川が入り組む形で流れていて、そこに船で出入りする居城があちこちにあったのではないかと勝手に推測しています。その船舶交通を利用して、瀬戸内という狭いところを抜けて、海外交易を行い、鉄砲といった最先端の欧米の武器はもちろん多様な南蛮貿易を行っていたのではないかと思うのです。

 

それを信長、そして秀吉が攻め、ついには最後に残った太田城という頑強な城に対し、戦国三大水攻め(備中高松城、武蔵忍城・あの映画「のぼうの城」で舞台となった)により、攻め滅ぼし、中世の終わり(なお有力説はなんと中世は弥生期で終わりとか)になったと言われています。

 

このときの水攻めがいろいろ学術的な研究が行われ、はたして短期間にそのような巨大な堤を築くことができたか、疑問視する見方もありますが、それはともかく私はこの水攻めの土木技術がその後江戸時代になって平和利用がされ、潅漑技術や治水技術に転用され、17世紀から18世紀にかけて飛躍的な農業生産の増大を勝ち得たのではないかと思っています。その土木技術の継承、伝達については、軍事秘密であったのか、あまり議論を聞いたことがなく、今後の検討課題と勝手に思っています。

 

まだ本論からそれてしまっていますが、戦国時代、紀ノ川沿いには西から東に、雑賀衆、根来衆、粉河衆、そして高野山と合計約70万石に匹敵する共和国が成立していたとも言われています。それがこの太田城水攻めにより、少なくとも紀ノ川河口ではすべて殲滅したのです。

 

そして紀ノ川沿い、および泉州など河内南部の抑えとして、重大な守りの拠点として新たな城の築造を秀吉は秀次に命じ、当時城郭建築に秀でていた藤堂高虎などに造らせたのが若山城です。つまり新しい拠点の城という意味で名付けたのではないかとこれまた大いなる空想ですが。

 

なお、いつか太田城水攻めの土木技術的な考察について、梅津一朗編「中世終焉」などを参考にしながら、言及したいと思っていますが、それは才蔵の土木技術との関係性の中で、なにか脈略らしいものがうかがえればと思いながら、書いてみたいと思います。


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