170603 道を活かす <高野山参詣道・・女人道を歩く>に参加して
いつものように薄闇の中、目覚めました。おぼろ月夜でしょうか、さほど暗くもなく明るくもない感じです。うつらうつらしながら、まぶしい明かりを感じて起き出しました。以前ほど調子が悪くは感じていませんが、血圧計の測定結果が気になっています。今朝は一段と高いのです。といっても夕食後だとだいたい正常値なんですね。あまり計測器を信頼していないのですが、少しは気にしています。
それで昨日の毎日朝刊記事<高野山参詣道トレッキング女人道を歩く あす、参加者募集 /和歌山>を思い出し、血圧が高いのは運動不足だと判断し、3時間の行程ですし、女性が歩いた道でしょうから、ちょうどいいかなと思い、参加することにしました。その前に、明日庭に植えるため、花の苗を60くらい買って、そのまま高野山に登りました。
そのため集合時間ぎりぎりにたどり着いたところ、すでに大勢が集まっていました。せいぜい4,50人くらいだろうと思っていたら、私で150をとっくにオーバーしている参加番号をいただきました。
この参加の私なりの狙いは、上記以外に、いつも遠望している高野の山々、雪池山、楊柳山、摩尼山、そして今日のルートになっている弁天岳が、それぞれ比定できるのではないかと思ったことが一つ。参詣道は町石道の一部くらいしか歩いたことがないので、とりわけ女人道は壇上伽藍を含む高野の寺の周囲をぐるりと回っているというのを以前なにかの文献で読んだ記憶があるので、回りながら高野山を考えてみたいと思ったことが一つ。そして世界遺産に追加登録された古道がどのように維持されているのか現状を見たいことが一つ。できればいろいろ歴史解説などがあると参考になると思ったことが一つ。と欲張った思いが輻輳していました。
でも大勢の参加者を見て、他方でガイドとか語り部らしい人もいないようで、これはただ歩くだけかなと、まず半分諦念の気持ちがわいてきました。とはいえ久しぶりの山歩き、体調はいいとはいえないので、途中で具合が悪くならないよう注意して一歩を踏み出しました。首都圏で仕事をしているときは、車に乗ることがほとんどなく、電車と歩きでしたので、地下鉄の駅ホームを「はしご」するなど歩くことがとても多かったのですが、山歩きはおそらく10数年前涸沢まで友人たちと登ったことがあるのでそれ以来でしょうか。そのときも仲間は北穂などを登攀したのですが、私はテントの中でギブアップして見上げていました。最近はどこへ行くのも車になって、ほとんど歩かないため、血圧が高くなったのではないかと愚考しているぐらいです。
さて、女人道(にょにんみち)はトレッキングコースというだけあって、歩きやすい山道で、初心者、一般向けでした。で、参考までに<高野みらい語り部の会 高野山女人道(女人堂~中の橋駐車場)>の解説を見ますと、
<昔高野山への入り口は、高野七口と言われるように七つの入り口がありました。不動坂口、大門口、龍神口、相浦口、大滝口、大峰口、黒子口、です。明治五年女人禁制が解かれるまで、高野山に入れない女性のための参籠所がそれぞれ七口に設けられました。のちに女人堂となり、今では現存する唯一の女人堂となった不動坂口女人堂です。女性達は、この七口を結ぶ八葉蓮華の峰々を巡る女人道を辿り、遠くから堂塔や奥ノ院御廊を拝んで回られたと伝えられています。この道が高野山女人道です。>とのことです。
で今回の企画は、<“世界遺産追加登録特別企画”高野参詣道トレッキングの実施について>ということで、4月15日の黒河道を皮切りに、三谷坂、新高野街道、町石道に続く5番目に開催されたもので、最後だったのですね。
で、なぜ追加登録されたのか探ろうとしたのですが、和歌山県世界遺産センターのウェブ情報でも<軽微な変更による追加登録>として形式的な記載のみで、よくわかりません。日本イコモス国内委員会のウェブ情報をのぞいてみても、文化庁の世界遺産をのぞいても、詳細情報が見つかりません。
なにかブランド色が強いというのは私の勝手な思いでしょうか。世界遺産に(追加)登録されれば、それだけで価値があり、それがどのような意味をもつかは重要ではないとまではいいませんが、なんとなくそう感じてしまいます。
とはいえ、世界遺産登録された、女人道のトレッキングということで、大勢が参加したのかもしれません。でもこの道を歩くことにより、そこに世界遺産の構成資産としての価値(<文化庁・紀伊山地の霊場と参詣道(世界遺産登録年:2004年)>)があるということを、上記の語り部の説明などは意味があるものと思いますが、それで十分なのか、的確に表してもらえないものか、気になります。
で、私が当初目的としていた多数の思いは、どの程度達成したかというと、高野の山々の比定は、弁天岳の頂上に登ったものの、見渡すこともできず、結局、他の山はもちろん、弁天岳の北方からの眺望景観における位置づけはまったくできませんでした。
また、歩きの方は思ったよりきつく、やはりほとんど歩いていないため、最後になるとたいした下り道でもないのですが、もう少しでけいれん状態になってしまいました。そして軽い昼食を済ませて車で降りていったのですが、いつもは快適なコーナーワークで気分がいいのですが、足がつり気味ですので、ブレーキをうまく踏めない状態になってしまいました。渋滞気味で衝突の危険を少し感じつつも、慣れたコースなので、なんとか乗り切り、花坂の分かれ道では普段は九度山に降りるいろは坂のようなコースを通るのですが、今日は怖くてほぼ一直線のバス道を降りていきました。
さて、余談はこの程度にして、女人道を歩いた感想を書きたいために今日の本題にしたので、これから本論に入ります。
女人道は、世界遺産の追加登録を目指して以前から補修なり維持管理に努力してきたことがうかがえました。そして今回の企画にあわせて、最近、クマザサなど支障草木を伐採して、歩くのには支障のないように配慮されていました。道は狭いところだと幅30㎝もないくらいのところもありましたが、1mくらいあるところも結構あり、階段状に木を打ち付けてあって、登りや下りも快適に歩くことができるようになっていました。
しかし、残念ながら、世界遺産の構成資産として、この道がどのような意図で維持かんりされているのかについてはもう少し工夫があってもいいのではないかと思ってしまいます。そもそも女人道がいつでき、どのように維持されてきたか、いまその価値をいつの時代のものを基礎とするのかについては、おそらく明確な資料がないのかもしれません。
なぜこのようなことをいうのかというと、道を歩いていて、一定の場所ではスギの枝葉(多くは葉っぱ)が道を覆っていました。歩くのに不便ということはないですが、それが当時の状態を示す意味であれば別ですが、そうでなければ、片付けることを考えてもよいのではないかと思うのです。これから話題にすることはすべて費用がかかることかもしれません。あるいはボランティアの募集なり、クラウドファンディングなどによる資金集めや、こういった企画の参加費をアップして費用の一部に当てる、あるいは高野山内の店舗や寺の支援を求めるなど、検討してもいいのではないかと思うのです。
沢を渡る道造りがされていましたが、半分くらい崩れていました。丸太組で土台が作られていますが、こういう手法は定期的に補修が必要でしょう。また、切り捨て間伐が一定の箇所で行われていて、道の目線のところまで伐倒されたスギの倒木が無数にありました。できれば世界遺産の周囲での切り捨て間伐は避けてもらいたいものです。万が一道に落ちてくるかもしれませんし、それ以上に見苦しい情景です。
女人道は壇上伽藍を含む高野のすべての寺の周りをぐるりと囲むように道が通っていますので、下を見れば、そういったお寺の甍が見えるのではと思っていたら(参加者の声にもありました)、全くといっていいほど見えませんでした。スギ・ヒノキの木々があったり、さらに高い山に遮られて見えないのです。ただ、一カ所、根本大塔が見える、木々の隙間があり、なかなかいい眺望景観でした。ところが、一切、ビューポイントの説明がありません。
こういったビューポイントは、道を歩くだけの単調さを和らげるだけでなく、その構成資産としての価値付けを裏付ける一つにもなると思うのです。余分なものはいらないという専門家もいるかもしれません。果たしてそういった表示は余分なものでしょうか。美術館でも博物館でも、それぞれの価値を理解してもらうために解説文を展示物の前に掲示等する、それがその価値を理解するのに役立つのではないかと思うのです。
要はその掲示の仕方、工夫だと思います。また、ビューポイントという点では、女人道を歩いていて、何カ所か、遠望がきく開けた場所があり、その眺望景観はなかなかのものです。しかし、一切、解説らしきものがありません。たとえば、<高野三山と女人道>の中に、写真で遠くに山脈の間に市街地が見え、さらに遠くには海が見える?のが掲載されていて、<
和泉山脈の向こうには大阪湾が薄ぼんやりと見えているはずです>という解説があります。
たしかに今日、同じような光景を見かけました。ただ、参加者の人もそれがどこかわからず、方向もはっきりせず、「有田」の町ではないか、その先に海が見えるとか、遠くに見えるのは淡路島だろうとか、いろいろな声が上がりました。
磁石がないかとかの声が上がり、私が持参していたALTIMETER(高度計)にデジタルコンパスがついていて、これで見ると、海が見える方角は南南西に近かったように思います。そういうと、有田ではないかという声があがったのです。私自身は有田の位置がいまひとつよくわからなかったので、なんともいえませんでした。最初は、和歌山市街が見え、その先に突き出しているのが加太岬ではないか、その先が淡路島かもなんて思っていたのですが、コンパスの方位が正しいと、和歌山方面はほぼ真西に近いですし、淡路島は北西方向ですので、どれも当たりません。
帰ってきて、Google Earthを見たのですが、その見えた場所を特定できず、3Dでも女人道のような狭い場所だとどこかわかりません。
その後、南方向に眺望がいい場所が何カ所もあり、これらもただただ通り過ごしてしまいました。山々の名前がわかるといいなと思った次第です。要は、そういった眺望景観を楽しめる掲示がやはり欲しいと思うのです。
で、女人道の歴史についても、語り部の解説だけでいいのかと思います。そもそも女人禁制という戒律的なものがなぜ生まれ、それが仏教、高野山とどう関係するのかをもきちんと解説が欲しいと思うのです。
お釈迦様は、そんな戒律が仏教にあると知ったら腰を抜かす?ではないかと思うわけです。そもそも仏教伝来されたと言われる時代、最初にそうとなったのは尼僧であることは有名な話ですね。
ではいつからそんな戒律らしいものが生まれたのか、諸説あるかもしれませんが、ウィキペディアのような意味合いが結構当たっているかもしれません。
法然さんが親鸞に妻帯を許したように、鎌倉仏教の宗祖といわれる高層はいずれも女人禁制などといった戒律を否定していたと思うのです。
そういえば西行も高野山に30年近く修行?していたといわれ、その際、天野には捨てられたという妻子がそこに庵をもって祈っていたという伝承もあったように記憶しています。この女人禁制を背景に、いろいろな物語、伝承が残っていますが、たとえば刈萱道心と石童丸の物語ですね。高野山にある刈萱堂(かるかやどう)建立の由来でしょうか。そういえば慈尊院もそうですね。空海の母親が訪ねてきたけど、女人禁制のためそこにとどまり、空海は九度も訪ねたことから、九度山という名前がついたとか(いま真田幸村が幽閉されたことで真田庵の方が有名かもしれませんが)。
こういった女人禁制制度といった結界ですね、この背景とそれでも女性が訪ねてくる、そのせめぎ合いの場であったこと、おそらくこの道はせつない思いの道だったのではないかと思うのですが、そういった歴史的な意味合いもより深く調べて解説してもらいたいものですが、無理な相談でしょうか。
本題がどこに行ったのかよくわからなくなってきましたが、最後に、道の途中に「相ノ浦」という名前がありました。「浦」というのは海岸線の船だまりのような地形をいうのではないかと思うのですが、なぜこの山の上にそんな名前がついているのでしょうか。不思議に思いつつ、中野榮治著「流域の歴史地理ー紀ノ川」の一説を思い出しました。紀ノ川の北側に走る和泉山脈を含め中央構造線(帯)という巨大断層が日本列島を横断していますね。そして何億年前には日本列島は海の底にあったわけですが、この和泉山脈より北側のプレートがまず隆起し、その後に南側の山麓や紀ノ川、そして高野山を含む紀伊半島が隆起したということでした。それで断層ができたとのこと。で、地質調査の結果でも当然、海の底にあった地層が含まれているわけですね。で、相ノ浦も、隆起途中で海が残っているときに命名されたと一旦、思ったのですが、それはないですね。人類の生存以前の話ですから。すると縄文海進のとき水没していたのではと飛躍したのですが、その当時の日本列島像が紀伊半島ではよくわかっていません。こんど調べてみたいと思います。
いつの間にか2時間以上経過しています。疲れもとれたようで、この辺で終わりとします。
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