180211 空海に学ぶ(9) <第九 極無自性心>と<事実に反する“イメージ” 流されてはいけない>を読みながら
ようやく空海の第十心論も最後の一歩手前までたどり着いた、というか吉村氏が要約した字面を眺めて、無酸素状態で霧に包まれた地球の頂にいるイメージです。といってもTV画像で見る程度で実際に体験したわけではないので、そのイメージも空虚なものでしかないわけです。
ともかく第九の極無自性心(ごくむじしょうしん)という、いつものちんぷんかんぷんの言葉に少しくらいは吉村流説明で近づくことができればと読み進めました。吉村氏は副題で「『華厳経』の心」と銘打っています。むろん華厳経も仏教史では名前をよく聞くものの、中身はわかっていません。
吉村氏は最初の見出し「仏教の教えの二つの意味」で、空海の言葉を引用しています。
「水に自性なし。風に遇って即ち波だつ。法界は極に非ず。警めを蒙って忽ちに進む。」これでは水のもつ自由無限性のようなものが法界も似たもののような印象をうけるものの、よくわかりません。
吉村氏の解説では「水には決まった本性というものがありません。鏡のような水面も、風に会えば波立ちます。すべてが静まった法界は究極の境地ではありません。仏から呼びかけられ、さらにそこから進みます。」と。私がイメージしたようなもののようにも思えますが、といって内実はさっぱりです。
吉村氏は「空海は第九住心の冒頭で、この境地をあらわす「極無自性心」には、表面的な意味と秘密の意味の二つがあると述べています。」として、表面的な意味を顕教としての華厳経をここで取り扱い、第十で秘密の密教を分けて取り扱うとされているようです。構成上は第八、第九を一緒に扱い、最後に第十としているのですが、どうやら第九と第十は深い関わりがあるようにもみえるのです。
それから「『華厳経』の概要」として、その趣旨や内容を語っていますが、あまりに仏教的すぎて、パスします。入門だからしっかり紹介しろと言われたとしても私には荷が重すぎます。
ただ、この説明の中で、「江戸時代の東海道五十三次、東海道に五十三の宿場町が設けられたのは、この『華厳経』「入法界品」に基づくといわれています。」ということで、53という数が華厳経に依拠したものだというのは面白いです。
それは華厳経の中にある第一会から第八会まである最後の「第八会は祇園精舎で、善財童子の求法遍歴、文殊の勧めにより様々な菩薩を尋ね、五十三人の師から教えを授かる旅が描かれます。」というのがあり、53人の菩薩の師から教えを授かり実践する、ということからきたようです。ですから東海道は53の宿場で師に会って教えを受け、最後に京の都で成就するということでしょうか?
次は「さとりを聞いた仏陀の側からの視点」という小見出しで、仏陀の全知全能者が描かれているようで、ちょっと違うのかなと言った解説のようにも思えます。
「私たちの心は煩悩によって常に波立っています。」という書き出しは納得です。続いて、「仏陀はその波が完全に収まった状態で、鏡のような海面はすべてを映し出します。仏陀は一切智者といわれますが、私たちが身近なことは知ることができても、遠くのことは知覚できないのは、私中心の捉え方をしているためです。ですからそれから解放された仏陀は、すべてを知ることができるのです。」
私たちは見たとか、知ったとか言っても、一面的であったり、刹那的で会ったり、本当の実態を知ると言うことはないというのも理解できます。では仏陀だと具体的には何がみえるのか、興味深いところです。
よくわかりませんが、第八、第九ではまだ不十分だと言うことを指摘しているようです。
「第八住心や第九住心の世界では、「色即是空」、日常意識で捉えられる世界と深い膜想の境地で体験される空性が別ではない世界が、仏の世界として描かれます。しかし、言葉を超えた境地にある、教えを説かない仏陀と、それを言葉にする菩薩たちには、「色」と「空」を分ける視点がわずかに残っています。」
色即是空が行き着いたところのようにも思うのですが、吉村氏は「修行が完成された仏陀の境地においては、瞑想中と瞑想後の差がまったくなくなる、といわれています。」として、瞑想を基軸にしつつ、その前後に差異がなくなる、瞑想を不要にすると言うことでしょうかね。
それが最後の小見出し「心の仏」になるようです。
その心の仏について、吉村氏は「『華厳経』では「仏と心と衆生と、是の三つは差別なし」と説かれています。心の仏とは、私が対象的に捉える「私の」心ではありません。「私」「私の」は分別する心の働きで、それから解放されたのが(チベットの伝統で「心の本質」と呼ばれる)心の仏です。ということのようですが、ま、この後もいろいろと解説が続くのですが、私は相変わらず文字を追うだけです。
事実を捉え、表現することの困難さといったこと、事実の認識をめぐって言い争う世の中の不条理というか、カオスというか、これが人間の俗人としての宿命みたいなものは、この吉村著作によって、改めて感じるのですが、それ以上には一歩も進みません。
個々で話を変えて毎日朝刊記事<時代の風事実に反する“イメージ” 流されてはいけない=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員>を少し紹介しつつ、上記との関連性?を少し心に抱いて、書いてみたいと思います。
藻谷氏は、<筆者はブログやフェイスブックやツイッターなどの、いわゆるSNSに手を付けない。一番の理由は、思い込んだままにうそを書くのを避けるためだ。新聞や雑誌への寄稿、それにきちんとした出版社からの出版であれば、校閲がファクトチェックをしてくれるので、文字での発信はもっぱらそっちに絞っている。>として、事実を正確に捉えること、それにはSNSでは問題があるとの指摘です。
たしかにそういった見方はある種、正鵠を射ているともいえるでしょう。しかし、SNSだから事実に基づかないとか、出版物だから事実の裏付けが一定程度確保されているとか、といった割り切り方も相対的なものではないかと思います。
私自身、事実に関しては、自分の実際の見聞を大事にしますが、それでは限られるので、マスコミの報道に依拠します。しかし、私がよく引用する毎日新聞やNHKなど、大手マスコミにしても、一定の信頼があるものの、限界があること承知して、出所だけはその引用文の正確性を評価する材料として提供してきたつもりです。
たしかに藻谷氏が指摘する<ファクトチェックなきネット言論の形成する“イメージ”>は、ここで議論している事実が何かとは離れた評価なり考え方、あるいはイメージですから、これ自体は論外でしょう。
次に挙げている<「日本は2016年、中国(+香港)から3兆円の経常収支黒字を稼いだ」>は、SNSの話題とは少し局面が異なり、出版社の校閲担当からはじまりその他TV解説者、政治家幅広くありうる誤解なり、偏見的な見方であり、事実認識の拙劣さではないかと思うのです。
もう一つあげた<沖縄県名護市長選で、辺野古沖海上への軍用滑走路新設反対を明確にした現職が、「経済活性化」を掲げた新人に敗れた。>ことに関する名護市の景況です。やはりこれまた現地を知り、経済的なデータを確認するなど、この問題にしっかり根を下ろした事実認識の上で議論をする必要を感じさせる指摘であり、納得です。
私自身、四半世紀以上前、日弁連の調査で名護市役所を訪ねたり、名護市周辺を現地調査したことがありますが、とても地産地消を考えた市庁舎づくりをしたり(丹下健三氏でも評価するのではと思ってしまうほど沖縄独特の文化を反映しています)、それぞれの伝統文化芸術を大事にしているように思えました。その後移転問題がクローズアップされた20年くらい前にも、今度は東弁のメンバーとして当時予定地であった辺野古の海を地元の案内で透き通った美しい海をずっと船上から見つめたことを思い出します。
名護市を含め、多くの沖縄人は豊かな自然を活かした観光立県を形成してきたと思います。その成長を阻んできたのは米軍基地であることは疑いようがないと思います。日本の防衛のためなのか、アメリカの防衛のために行われてきたか、そこの主従関係も適切に事実を直視し、判断がされる必要があるように思います。
しかしながら、より重大かもしれない藻谷氏指摘の<新設予定の海上滑走路は大地震の巣・沖縄トラフに正対する。「津波リスクのある沖縄東岸の洋上に、軍用滑走路を設けるのは無謀だ」>との点は、なぜか議論の中心課題になっていません。
沖縄本島をはじめ南西諸島は、プレートテクトニクスにより隆起陥没などを繰り返してきたと思うのです。南海トラフと一体ではないでしょうか。屋久島にある数100mの高さのある花崗岩はマグマだまりが上昇した結果だといわれています。紀伊半島南部の古座川にある一枚岩は高さ150mもあり、巨大カルデラの一部で、1400万年前に紀伊半島で世界最大級の火山噴火があり、日本列島に山脈が生まれたといわれています。しかし、屋久島のそれはその何倍も巨大です。それくらい大規模な圧力がかかっているのではないかと思うのです。
南海トラフ地震の発生確率が30年間で70%から80%に引き上げるとの発表が最近ありましたが、まったく南西諸島に影響しないといえるか私にはまだ疑問です。
事実の認識は、仏教の考え方でも容易でないようですが、私たち実社会においても、科学的知見というものが政治経済の影響を受けて、正確な情報提供ができているか懸念するところです。
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