たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

日本の自律性 <対米地位協定 独伊と差・・・主体的に事故調査/国内法で飛行管理>などを読みながら

2018-04-18 | 戦争・安全保障・人と国家

180418 日本の自律性 <対米地位協定 独伊と差・・・主体的に事故調査/国内法で飛行管理>などを読みながら

 

横田基地、厚木基地、横須賀基地を調査したり、近くで眺めたりしてきました。私の場合はジェット機のきーんと耳をというか、神経をなで斬りするような音は何回も聞いたことがないですし、そのとき限りでした。

 

それが日常的に聞かされる住民は普通の生活ができなくなるでしょう。元々居住していた人も、後から転居してきた人も本質的に大きな違いはないと思います。法律論として区別する議論は合理的根拠を失っていると思います。

 

でもそんなことより、米軍が日本の空(米軍基地周辺一帯を広大に)を自国の空域として3次元で独占支配している状況、それを前提に自由奔放に活動している状況は、本土以上に、沖縄では深刻な被害を招いていることはこれまで何十年と報道されてきました。

 

米軍の活動に対するコントールだけでなく、米軍人の違法不当行為についても、日本法の支配下に及ばない状況は、本土ではさほど問題にならなくなってきましたが(実際は現在も起こっていますが)、沖縄の現在はまさに危機的状況ではないでしょうか。

 

この法的根拠たる日米地位協定は、アメリカの他国での基地管理において、極めて異常であることはずいぶん昔から指摘され、報道されたり、情報提供されてきました。今回は沖縄県が独自に調査した結果を毎日が<対米地位協定独伊と差 日本にない権限、沖縄県比較 主体的に事故調査/国内法で飛行管理>と本日朝刊で掲載したのです。

 

その比較表によれば、日本が異質であることがわかります。

 

 

<ドイツ南西部、在欧州米空軍司令部が置かれるラムシュタイン基地。米軍にもドイツの航空法が適用され、午後10時~午前6時は原則として飛行が制限される。基地内にドイツの警官2人が常駐して警察権を行使するほか、「騒音軽減委員会」が設置されている。

 同委には米軍司令官や周辺5自治体の首長、市民団体の代表者ら20人以上が参加し、米軍から深夜・早朝の航空機の離着陸回数などのデータが報告される。地元市長は沖縄県の調査に「米軍の騒音軽減の取り組みにはポジティブな印象を持っている」と語った。>

 

これに対し<日米地位協定では原則、米軍に国内法が適用されない。航空法は地上の人や物、航空機の安全を確保するため最低安全高度(市街地300メートル)を定めているが、米軍機は対象外だ。政府には米軍の訓練・演習を規制する権限もない。全国の米軍専用施設の約7割が集中する沖縄では、騒音軽減のための日米合意さえも守られない状況が常態化している。>

 

<96年、日米両政府は嘉手納基地(嘉手納町など)と普天間飛行場(宜野湾市)について、午後10時~午前6時の飛行を原則として制限する航空機騒音規制措置(騒音防止協定)に合意した。だが、防衛省沖縄防衛局の目視調査では、2017年度(今年2月末現在)の飛行制限時間帯の離着陸などの回数は1420回に上る。嘉手納町では騒音などへの住民の苦情件数が同期間で940件もあり、既に前年度の3・6倍に達している。町によると、最新鋭ステルス戦闘機F35A12機が嘉手納基地に暫定配備された昨年11月以降、苦情が激増している。町基地渉外課の我謝(がじゃ)治彦課長は「寝静まっている時間帯に米軍機が飛ぶことに住民は不満を抱いている。米軍へ抗議しても状況は変わらない」と話す。>

 

普天間が危険なのは米軍の基地活動を彼が住民保護を視野に入れず、軍事目的を恣意的に解釈して自由奔放に活動しているからで、それを許容しているという問題が根本にあるでしょう。

 

わが国では、首都圏でも、首根っこの横須賀基地に原子力空母が入港すると、夜間の発着訓練が相当激しく行われます。私が鎌倉に住んでいるとき、普段は静かなのに、突然、上空をもの凄い轟音が鳴り響いて、木造家屋が壊れるのではないかと思うほどの経験をしたことがあります。ま、この程度の騒音・振動は基地周辺の人にとっては日常茶飯事なんでしょうけど、それを許すわが国というのは、本当に自律した国家といえるのかと自問する時期をとっくに過ぎているようにも思えるのです。

 

アメリカの支配下で米軍が規律されているのであれば、その法制度を利用して果敢に戦った事件もありました。日本版NEPANational Environmental Policy Act)訴訟です。横須賀の呉東弁護士という優秀で強靱な精神力をもつ彼が中心にアセス法違反を裁判で追求したのはもう四半世紀以上前でしたか。

 

その後も彼は10数年前に原子力空母横須賀基地寄港の違法性を追求した訴訟を提起しましたが、その揺るぎない法の支配に対する努力は、わが国の司法のあり方、自律のあり方を問うてきたとも思うのです。

 

安倍首相はトランプ大統領と北朝鮮問題や貿易問題などを議論するため訪米して会談するとのことですが、いくらなお友達外交をしても、法的にいびつで不公正なくさびを改善できない限り、対等外交なんてものは、トランプ大統領緒のツイッター一言で裏切られても、断固とした抗議でそれを覆せない、状況にあると思わざるを得ません。

 

むろん、ドイツ・イタリアなどのアメリカの地位協定と、わが国のおかれた条件は異なるからとの理由で、一緒にすることができないというのが、軍事専門家の意見かもしれません。はたして北朝鮮・中国脅威論は、不平等な日米地位協定を合理化できるものでしょうか。慎重な検討を今後していくべきではないかと思うのです。

 

今朝の一面記事<沖縄・宜野湾の米軍ヘリ窓落下普天間、児童避難216回 米軍機、接近やまず 1日23回の日も>の状況は、自分の子供が通っていたら、許せますか。いやどこかに引っ越せばいいじゃないかという意見には賛成できません。

 

沖縄は、日本軍が侵した戦争の惨禍を本土防衛という屁理屈で、甘受させられ、何も言えず死を受け入れ、耐えてきた遺族たちの住むところです。故郷を大事にするのが日本人というのであれば、それはすべての人の故郷を自分の生活条件と同じように守るという意識があってこそ成り立つように思うのです。

 

 


認知症高齢者との触れ合い(8) <ユマニチュード・自由と自律を目指すケアとは>を考える

2018-04-17 | 医療・介護・後見

180417 認知症高齢者との触れ合い(8) <ユマニチュード・自由と自律を目指すケアとは>を考える

 

これまではユマニチュードのテクニカルな部分を中心に学んできました。むろんこの基本技術を身につけてしっかりと認知症高齢者の方に接することができれば、その人との触れ合いが深まることは間違いないように思います。しかし、それがケアの目的かとかというと違うように思うのです。イブ&ロゼットもその点を強調しているように思えます。

 

それは「第3章 私たちが権利を失うとき」というところで、繰り返しいろいろな表現で指摘しているように思います。その意味を学んでみたいと思います。

 

たとえば「高齢者になると誰もが失うもの」として、東京で一人暮らしをしていた80歳の男性を想定して、マンション生活から介護施設に入所したときの戸惑いを紹介しています。長年飼っていた犬と一緒に入れないことがわかってショックを受けるのです。風呂場に入ると、突然ノックと同時に看護師がドアを開けて入ってきたので、許可を得て入ってくださいというと、うるさい人と評価されるのです。晩酌を欠かさなかった彼が食堂で持参したワインを飲もうとすると、酒は禁止と言われて数少ない楽しみを奪われてしまいました。

 

毎晩12時に寝る彼に、8時か9時に介護士がやってきて就寝時間ですと、無理に寝かせられます。散歩しようとでかけようとしても、暗証コードがあってドアが開けません。さんぽの自由もありません。

 

親しいガールフレンドを部屋に連れてきたら、他人の入室は禁止、「ここはラブホテルではありませんから」とにべもないのです。介護施設はそういうところと決めつけられているのです。

 

夫婦であってもダブルベッドを用意して一緒に寝ることは許されません。私もある夫婦が同じ老健に入所していましたが、別々の部屋に入所していて、夫の方から離れさみしいと訴えられたことがあります。当時は介護施設だから仕方がないねと答えていましたが、イブ&ロゼットはそこに疑問を投げかけています。

 

ユマニチュードの神髄ともいうべき言葉でしょうか。

「ケアの世界でも、「尊厳は大事だ」と口にはします。しかしながら、知的または身体的にハンディを負った高齢者から権利を奪っているのが実情です。ユマニチュードは、自由と自律に関するすべての権利を尊重します。」と。

 

従来のケアをその権利を奪う、強制というのです。たしかに上記の例は一種の強制になりうると私も思いますが、はたして大勢の利用者をケアする介護施設で自由や自律をどこまで尊重できるか、気になります。

 

イブ&ロゼットは次のような例を挙げています。

「ユマニチュードを導入している施設では、強制ケアはしません。犬を飼いたければ一緒に暮らせます。恋人と同じベッドで寝ても大丈夫です。その場合は140センチ幅の大きなベッドを入れます。24時間のうち好きなときに食事ができます。ほとんどの人は同じ時間に食堂で食べますが、人によっては、深夜にお腹が空いたと感じる人もいます。そういう人には夜に食事を出します。夜中の2時にシャワーを浴びたければ介助します。」

驚くべき内容ですね。

 

しかもですね、「信じ難いかもしれませんが、これを実現しているフランスの介護施設の入居者数に対する夜間勤務の職員の数は、日本よりも少ないのです。」というのです。

 

「従来のケアの哲学を見直す」というのですね。従来のケアは、「へンダーソンの『看護の基本となるもの』」を基礎にしていて、生理的ニーズにだけ注目する傾向があるというのです。「生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズ」が人間の基本ニーズとしつつ、マズローの法則では、これら5つを下から上に築くピラミッド構造ととらえて、最初のニーズを満たした上でないと、次の段階にいけないというのです。

 

パンより愛をとか、といった自由な選択は許されないのです。個々人の自由、自律を尊重しないのですね。

 

しかもこの自律とは、これを可能にする依存のあり方を重視するのです。

「ユマニチュードにおいては、自律と自由と依存を掲げます。誰かに依存していなければ私たちは生きていけない。これも重要な価値として定義しているのです。」と。

 

依存することは決して恥ずかしいことでも、自律することに障害になることでなく、むしろ依存に価値があるというのです。

「私たちは依存関係なしに絆を結ぶことができないからです。関係を築く絆は私とあなたを結びます。絆がなくなると孤独になります。・・・私の人生の目的は物事から離脱することではなく、つながることにあります。」と。

 

人生の充足感、幸福感でしょうか、そのことに関わる指摘もあります。

「人生において充実している瞬間は、誰かを愛しているときではないでしょうか。子供や夫、妻を愛おしく思うとき、自身は美しく強く繊細であり、「私はそういう自分なのだ」という自律した感覚、高揚感が訪れます。それは依存関係があって初めて感じられるのです。」と依存の貴重な意義を強調しています。

 

ちょうど一時間となりました。今日はこれにておしまい。また明日。


認知症高齢者との触れ合い(7) <ユマニチュード・認知症高齢者は暴力的か?>を考える

2018-04-16 | 医療・介護・後見

180416 認知症高齢者との触れ合い(7) <ユマニチュード・認知症高齢者は暴力的か?>を考える

 

生け花を飾るようになってどのくらいになるのでしょう。まだ一年あまりでしょうか。自宅の庭に花の苗を植えだしたのが2年か、3年前でしたか。最初は邪道と思いつつ、いつか野生の花園をとつい思ったのが、一向に前進しないまま、今日に至っています。

 

最近は生け花を事務所に飾り、枯れかけたら、それを庭に植え替えることをしています。ま、これを生け花とはいわないのでしょうが・・・で、適当に水を遣り続けているにもかかわらず、結構いろんな花が長生きするので、他方で、毎週のように買っているため、時折、事務所が花で一杯になることもあります。それはいいのですが、やはり花の専門家というか、そこまでいかなくても店員さんにアドバイスをもらうのもいいですね。自己流では花もかわいそうです。

 

それはガクアジサイに似た美しいアジサイを2度買ったことがあり、いずれも2日目にしょぼんとしおれてしまいました。葉っぱが青々としているのに、分けがわからず、一度目はすぐ自宅の庭に植えたのですが、まったくだめでした。なんだろうと思いつつ、あまりきれいなので、ついまた買ってしまいました。やはり2日目にはしおれてしまい、今度は絶対買わないぞと思ったのです。

 

それで別の花を2つ、3つ買いにでかけたのですが、そこにはまたあのガクアジサイのような、それ以上に花がきれいなのが一杯置かれていました。それでつい店員さんを見つけ(常連ですのでね)、この花なぜか2日でしおれるんですがなぜでしょうかと尋ねたのです。

 

店員さんもおかしいですね。水はちゃんとやっているのでしょうと聞くので、たくさんやっていますと答えました。ま、他の花と同じかそれ以上というレベルですが。店員さん、少し頭をひねりながら、アジサイは水をどんどん吸収しますからね、水の入ったバケツの中に入れて置くといいかもしれませんよとアドバイスしてくれました。

 

すぐに事務所で試してみました。すると翌日には少し花が開いてきました。その翌々日には満開になりました。生き生きとしているのです。そうか、そんなに水が欲しかったのかと、花の特性を初めて少しわかった気になりました。やはり花のことをわかっている人に聞かないといけないと改めて思ったのです。いまはこのアジサイに満足です。本当は庭で大きく咲かせたいですが、当分は事務所でやすらぎをいただこうと思っています。

 

ところで、私のような花に対する誤った対応と同じことを、認知症高齢者に対してやっていないか、それをイブ&ロゼットから学ぼうと思います。

 

認知症高齢者といってもその状態はいろいろですね。でも介護施設で見かける人の中には、表情がほとんどなかったり、言葉を発しなかったり、ほとんど眠っているような状態であったり、他方で、暴言を吐いたり、暴力的であったりする人が少なくないのではないかと思うのです。この後者の暴力的な人に対して、抗精神薬を投与したり、拘束したりして対応する施設もまだまだ残っているのではないでしょうか。その結果として前者のような状態になっている可能性も考えておく必要を感じています。

 

イブ&ロゼットは「認知症高齢者は暴力的か?」と問いかけています。あるいは攻撃的なのはなぜか、それは変わらないものかとも問いかけているように思います。

 

その「攻撃的な行動とは、ケアしようとすると認知症の高齢者がひっかいたり、暴言を吐く。あるいは食事をせずに投げ散らかす。窓から逃げようとする。看護師のお尻を触るといった、攻撃的な行動により業務を妨げるようなことです。」というのです。こういった攻撃的な行動のいくつかはたいていの介護士は経験していることではないでしょうか。

 

イブ&ロゼットは「認知症の患者で攻撃的な人はいない」と断言しています。これをそのまま信じることのできる人はどのくらいいるでしょう。

 

でもイブ&ロゼットは冷静に説明します。「攻撃的になるのはどういうときでしょうか。」と質問を投げかけます。

 

「たとえば相手の腕をグッと掴むと人は自然に筋肉に力を入れ、筋肉は固くなります。また、陰部の洗浄では看護師は当然のこととして患者の脚を広げますが、多くの場合相手は膝を閉じて抵抗します。ケアをする人は学校で習った通りのことをしています。しかし、実はこれでは相手を緊張させ、身を固くさせてしまっているのです。」と問題を明らかにしていきます。

 

さらに説明が進みます。「親密でもない人に触られるというのはたいへんなことなのです。認知症であれ誰であれ、無造作に掴まれたり、脚を広げられたりしたらとても屈辱に感じます。まして床を掃除するみたいに陰部を洗浄されるのであれば、暴力的で粗野だと感じます。」と介護する人の方法を問題にするのです。

 

つまり従来当たり前のように行っていた介護の作業がまさに暴力に当たるというのです。

「私たちが他人の陰部に触れることができるのは、相手がそれを望むときだけです。だからこそ無理やり触れることを暴行と呼ぶのです。それをケア業界ではわかっていない人が多いように思います。 自分の業務を遂行することで頭がいっぱいだからです。

認知症高齢者に原因があると考えてしまうのは、ケアする側は「相手にとって常にいいことをしているはずだ」という思い込みがあるからです。」というのです。

 

カナダで見た介護する人は「「動かないでください。洗いますから。すぐに終わります」といって無理やり脚を広げて押さえつけていました。当然、相手は噛んだり、ひっかいたりします。そこで担当している看護師は「ケアしようとしているのにひっかかれた。攻撃的な態度だ」と報告します。」と、誤った見方で自分の行為を暴力的とは見ず、逆に、相手を暴力的と見るというのです。

 

ではケアする場合に、相手に暴力的だと感じさせない方法があるのでしょうか。それを簡潔に説明しています。

 

「私とロゼットが開発した技術では、正面から脚を無理やり聞かせるようなことはしません。側臥位にして膝を屈曲させることで、陰部に自然にアプローチできるようにします。このやり方であれば心理的な抵抗も少なく、穏やかに洗浄ができます。」と。むろん、その前提に、これまでに取り上げた、5つのステップを踏み、4つの柱、見る、話す、触れる、立つ、を適切に行うことの中で、それぞれのケアタイプに応じて対応するのですね。

 

今日はこれで一時間弱、ちょうどよい時間となりました。また明日。

 


トイレ洋式化考 <教育の窓 小学校、進むトイレ洋式化>を読みながら

2018-04-16 | 教育 学校 社会

180416 トイレ洋式化考 <教育の窓 小学校、進むトイレ洋式化>を読みながら

 

今朝も田中陽希のグレート・トラバースを見ながら室内ジョギングを1時間続けました。まだまだしんどい思いをしながらやっていますが、陽希さんのあのタフさに元気をもらってなんとか1時間もっています。

 

陽希さんの登山技術とかは特別並外れたものを感じませんが(だいたい高山植物をあまりよくわかっていないのは登山と言うよりはレース中心だったのでしょう)、スピードと持続力はすごさを感じさせます。コース時間を半分とか大幅に短縮するスピードは、彼の年齢であれば一つくらいの山なら結構達成できる人はいると思います。でもこれだけの持続力があるかというとたいていはギブアップするのではないかと思います。

 

凍結した氷上を歩いたりする技術も、あまり経験がないようで、最初はおぼつかない感じもありましたが、次第に慣れていく、その順応力もすばらしいですね。そうそう彼はクロスカントリスキーの選手だったとかで、スキーの腕も相当なものと思うのですが、一度みたいものです。他方で、カヤックの方は、沖縄から本土に向けた海上でのパドリングは、特別技術が優れている印象はありませんが、しっかり漕いでることと持続力はやはり並ではないですね。

 

なによりも素晴らしいと思うのは真のアドベンチャーに向かって進む彼の総合力ですね。リスクの想定をできるだけ予想して、その是非を検討し、できるだけ回避するその判断力は、将来すぐれた真のアドベンチャーになる能力を持っていると思うのです。

 

さてそのアドベンチャーにとっても排泄は必ず日々対応しないといけませんね。むろんNHK放送ではそこは取り上げないですが、トイレなどの施設がない場合の、いわゆる立ちション、野糞です。キャンプ場といったところではトイレ施設はありますが、そうでないところでは、屋外排泄への対応が求められますね。登山家にとっては、その作法が求められますね。これは文化的生活の中にいても、いつ災害が起こるかもしれない災害列島日本では常に考えておいてもよいのではと思うのです。そういうことを子供の頃から学んでおくことも重要かなと思うのです。

 

ところで、今朝の毎日記事<教育の窓小学校、進むトイレ洋式化>では、小学校のトイレの全国調査で、和式から洋式に変更する流れがよくわかります。それも東京都のように60%近いところもあれば、30%と低迷している地方の県もあるのですね。和歌山県は近畿圏で最低の31%となっています。

 

この洋式化の動きは、家庭での洋式化と、小学校での排便が恥ずかしいという抵抗感の払拭などを理由としているとのことです。さらに災害時小学校が避難時として利用され、高齢者・障害者の利便性を高める狙いもあるとのこと。

 

私自身の経験は半世紀を優に超えることと、当時はもちろん和式でしたので、ほとんど意味をなさないです。ただ、子供が小学校での排泄をいやがっていたのは覚えています。やはり幼い頃から洋式トイレに慣れている中、小学校での和式トイレは対応できなかったのかもしれません。

 

また、<学校のトイレは「5K(汚い、くさい、暗い、怖い、壊れている)」の印象が定着していた。>ということも、和式トイレが原因だという理解でしょうか、洋式化の普及の要因のようです。

 

ところで私がこのトレイを話題にしたのは、洋式化もいいけど、もっと考えないといけないことはないかということです。

 

この5Kは、和式だけの問題でしょうかね。汚くなるのは、その使い方に問題があるのではと思うのです。洋式トイレでも公衆トイレの場合見かけます。臭いのはたしかに和式の方が少し軍配が上がると思いますが、臭いを嫌悪することも一度見直ししてもいいかと思います。暗いとか怖いとかは、環境条件がひどい昔のもののようで、現在ではかなりよくなっているように思いますし、容易に改善できると思われます。

 

で、洋式化がすべていいとは思わないのです。和式スタイルは少し大変ですが、健康であれば筋力維持など有効な面もあるかと思うのです。一部くらいは残してもいいかなと思うのです。それに排便で自分の健康状態を理解する一歩になる?と思うのです。というか、排便を毛嫌いすることへの抵抗感を再考してみてはどうかと思うのです。

 

以前のブログで、尿も便も、有効活用の可能性や処理のあり方について、少し触れました。子供の頃から、人間にとって大切な事柄に、嫌なものとする考え方から脱皮する必要を感じています。それが万が一の災害時でも、動揺することが軽減できるのではと思うのです。

 

ましてや学校での排便を億劫になる現状は、洋式化してもさほど大きな変化がないとも書かれていることに注目したいと思うのです。人間にとって死ぬまで対処しなければならない一つの課題です。その行為の持つ意味をまじめに考えてもいい、学校でそのことを学ぶ機会にすることを考えてもらいたいと思うのです。

 

それは高齢者になり、オムツが必要になったと父母、祖父母に対して、子、孫がそんなことで動揺するのではない、しっかりした考え方、心構えをもっておくための、ハードではないソフトを理解するために教育が担う部分ではないかと思うのです。それもまたある種の道徳教育かもしれません。

 

むろん性的少数者への配慮や考え方を学ぶ機会とすることも大事でしょう。男子トイレ、女子トイレといった区別に変わるものは近い将来になくならないとしても、性差のないトイレがより普及することが重要ではないかと思うのです。障害者トイレがより普及することが求められますが、それは身体障害といった概念ではなく、心の垣根を取り払う、そんな真のバリアフリー・トイレが普及することが必要であり、子供の心にもそのような気持ちを育ててあげることが大事ではないかと思うのです。

 

30分で仕上げるつもりが、1時間になってしまいました。仕事にかからないと・・・


認知症高齢者との触れ合い(6) <ユマニチュード・5つのステップ>を考える

2018-04-15 | 医療・介護・後見

180415 認知症高齢者との触れ合い(6) <ユマニチュード・5つのステップ>を考える

 

これまでユマニチュードの4つの柱について、見る、話す、触れる、立つと、順次私が学びながら、紹介してきました。むろんこれまでの説明はほんの入り口にたったくらいなんでしょう。でも私にとっては、認知症高齢者、いやそれ以外の人に対しても、人と人との触れ合いをするには、重要な気づきをさせてもらったと思っています。

 

今回はさらにもう一歩踏み込んでみたいと思います。

 

介護施設を訪ねると、階層によってエレベータや階段という仕切りがあって、利用者が自由に行き来できないように配慮されているところが多いと思います。他方で,一つのフロア内は、相当数の部屋があり、たいていは4人部屋とか2人部屋といった共同の部屋ですね。有料老人ホームでは個室型が多いと思いますが。

 

で部屋のドアは昼間たいてい開け放しているところが多いのではと思います。利用者の便宜というより介護スタッフの作業が容易という理由の方が優先されているように思うのは一方的な見方でしょうか。

 

個々人の独立性を確保する部屋が用意できることが望ましいと思うのですが、そうでなくてもドアくらいは閉めるのが望ましい(むろん利用者がそうしてほしいといえば別ですが)ように思うのです。

 

ここでイブ&ロゼットさんが指摘する「人間関係をつくるための5つのステップ」を取り上げたいと思います。

 

「ユマニチュードではすべてのケアを5つのステップで構成されるひとつの手順で行います。これは人間関係をつくるためのケアの手順です。」この手順を学び実践することを提唱しています。

 

しかもその効果はすごいのです。「この技術を用いれば、攻撃的な行動の90パーセント程度を減らすことを私たちは経験しています。」暴力的であったり、暴言があったりすることをほぼなくすことができるというのです。それ以上に、心穏やかに本来の人間性を回復して人と人との絆、触れ合いを築くことができることまで示唆しています。

 

ではその5つのステップとはなんでしょう。

「①出会いの準備・②ケアの準備・③知覚の連結・④感情の固定・⑤再会の約束」の5つを順次行っていくことです。

 

よく自分の家はお城と西欧人の世界では表現されることがありますね。だれも自分というアイデンティティを保ち、自分らしさを感じるには、自分のバリアを無視して勝手に入ってくる、自分に触れるといったことでは、無秩序状態に置かれることになるように思うのです。

 

そのような相手のお城をきっちりと受け止めて対応する必要があると言うことです。

 

それが第1のステップ「出会いの準備」です。

「病室には、家庭のドアにあるようなインターフォンはありません。しかし、ユマニチュードではインターフォンがあるかのように行動します。相手に、「人が来ましたよ」と知らせるためです。」

 

インターフォンの代わりにノックをするのです。そのノックの仕方にも作法があるのです。

 

「コンコンコンと3回ノックしたら3秒待ちます。またコンコンコンと叩き、3秒待ちます。そのあとに、もう1回「コン」と叩いて室内に入ります。これは相手の覚醒水準を徐々に高めるための技術です。

もちろん、途中で患者が応えたならば、その時点で入ります。反応がなかったときには3回ノック3秒待つ、3回ノック3秒待つ、ノック1回の手順を踏みます。」

 

その後も相手に自分の存在を気づいてもらうステップがありますが、省略します。

 

このノックは相手に自分の存在を気づいてもらうとともに、その反応を待ち対応するということなのです。

 

「ノックをすることによって、中にいる人に、「誰かが入ってくることを受け入れるか、受け入れないかを選択できる」ということを認識させます。」

 

ですから、今は会いたくないといった反応・対応があれば、それに応じる必要があるのです。相手の意識・反応をきちんと見極めて、あなたの気持ちを受け止めて対応しますよと、最初のコミュニケーションを交わすのです。

 

それは普通の人であれば、誰もがしていることではないでしょうか。

 

2のステップ「ケアの準備」はどんなことでしょう。

 

これは結構難しいかもしれませんが、介護の気持ちを純粋に抱いていれば、案外容易かもしれません。

 

ここでは、「「あなたに会いにきた」ということだけを告げるものでなければいけません。」というのです。そのとき行う介護の作業の話をするのではないのです。そこがケアの準備ということです。

 

それは「「あなたのことがとても好きだ」という気持ちを行動で示したとき、私たちはとても気持ちよく、幸せに感じます。純粋な意図を持った、まったく無償の行動が非常に重要です。」というのです。時間に追われ、次々と待っている利用者のことを思い浮かべると、とてもそんな悠長なことを思えないと言われるかもしれませんね。介護の現場を知らない人の話だとも。でもその結果、無気力になったり、あるいは怒りっぽくなり、かえって介護作業がスムーズにいかないこともあるのではないかと思うのです。

 

このケアの準備がきちんとできれば、次はケアの内容の話となります。

 

その場合でも言葉を選ぶ必要があるというのです。「シャワーが嫌いな人に対して、「シャワーを浴びましょう」とすぐに言ったりしてはいけません。相手が嫌がる言葉を言わず、「よく眠れましたか」「会いに来ましたよ」とポジティブな言葉だけを使って話します。」

 

そして相手がそのケアを拒否したら、場合によってはその意思を尊重しその日のケアをあきらめるといのです。

 

その意味は大きいですね。「仮に拒否されたとします。3分経ってもケアをさせてもらえない場合は、無理強いはせず延期します。「では、今はやめておきましょう。また後で戻ってきますね」と言って再会を約束します。ケアをする人には、「ケアをあきらめる力」も必要なのです。ケアをあきらめることで、相手には「自分の意思を尊重してくれるいい人と出会った」という感情記憶が残ります。」

 

3のステップ「知覚の連結」もむずかしそうですね。

 

「自分が伝えるメッセージに調和を持たせる技術です。「見る」「話す」「触れる」のすべてで「あなたのことを大切に思っています」と伝えます。」ここで、ユマニチュードの技術を重層的・包括的に活用して行うのです。

 

それは「心地よい状態を作り、その状態を維持するためには、ひとつの感覚からの情報だけでは駄目で、ふたつ以上の感覚から心地よいという情報を入れ続けていく必要があります。話すことと眼差し。あるいは触れることと眼差しなどです。この包括性が、ユマニチュードの実践においてとても重要です。」

 

4のステップ「感情の固定」もぴんとこない言葉ですね。

 

どんなことを意味するのでしょう。それは「私が誰であるかはわからない。けれども前に会ったときの感情は覚えています。」それはわかります。私の母親はいまそれに近いのです。また、私が後見人をしている方もそうです。私はその方にユマニチュードを実施しているわけではありませんが、できるだけ笑顔を見せ、毎回生け花をもっていっています。それとできるだけこの方の気持ちを尊重するように話を聞こうとする態度を示しています。すると私の顔を見て誰かはわからなくても、●さんというと、笑顔を見せてくれるのです。

 

イブ&ロゼットは、もう少し具体的に述べています。「認知症が進むと、学習は主に感情記憶を通して行われるようになります。私が昨日ケアをした人に、「こんにちは」と言います。「私に会ったことありますか」と聞いても、「会ったことはない」と答えます。覚えていないのです。でも、ニッコリはしてくれます。または嫌な顔をします。私がその人に過去にいいことをしたか悪いことをしたかによって、そのときの反応が違います。」

 

そして攻撃的な人に対して、ロゼットさんがユマニチュードのケアをすると、今度はその人は優しい感情を誰に対してももち、攻撃的でなくなるというのです。

 

そうなるといいですね。その方にとっても幸せだと思うのです。

 

最後のステップ「再会の約束」はわかりますね。

 

たいていの人は、別れ際にまた会おうねとか、また来るね、とか常套文句のように言いますが、好きな人や家族であればより気持ちを込めますね。

 

ところが介護の現場では簡単ではないでしょうね。でも利用者にとっては、毎日何回か介護職員が来ても、いつ来たかも忘れていることが少なくないでしょう。トイレに連れて行ってもらったのもすぐ忘れたり、食事を介助してもらったのも忘れてしまったりということは結構あるでしょうね。

 

でも心からまた来ますねと再会の約束をすれば、誰でも気持ちがいいですね。ましてや心の絆を築く、人との触れ合いを楽しめるユマニチュードをしてもらった人であれば、そういう再会の約束は、忘れてしまうかもしれませんが、心のどこかにいい感情記憶として残るように私も思います。

 

今日の勉強でまた少し学んだ気がします。

 

今日はこれにておしまい。また明日。