昔々、久米さんのニュースステーションで、お天気コーナーやっていたお姉さんで河合薫さんっていたんだけど、今こんなことしているみたい。
河合薫の新・リーダ術 上司と部下の力学
河合さんって、すっごく面白いこと言っている。おすすめのコラムである。
以下一部引用するので、琴線に触れた人は、ぜひNBONLINEにメールアドレスを登録してみてください。他の記事も読めます。
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■思秋期を乗り越えるキーワードは「生殖性」
では、高原状態を脱して、新たな山の頂を目指すにはどうすればいいのか?
キーワードは、生殖性だ。
米国の心理学者、エリク・H・エリクソンは、「幼児期と社会」という著書の中で人生を8段階に分け、それぞれの時期になすべき課題(発達課題)を示した。エリクソンによれば、発達課題をそれぞれの段階で克服していけば、人間的に成長し、社会における自己の存在と居場所を獲得できるという。
40代は、人生の7段階目の成人期。発達課題は、生殖性だ。
生殖性とは聞き慣れない言葉だが、原語は「ジェネラティビティー(generativity)」というエリクソンの造語で、「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわっていくこと」と定義されている。
ジェネラティビティーの語源は、生殖とか産み出すことを意味する生命科学の分野にある。そして次世代の価値とは、次の世代へ連なって産み出される新しい価値のすべてを指し、子供だけでなく、社会的な業績や知的、芸術的な創造も含まれる。
後輩のため、他者のため、地域のため──。何のためであれ、次の世代をより良いものにすべく、自分を超えた価値とかかわることがエリクソンの唱えるジェネラティビティーなのだ。
エリクソンは発達課題を達成すると、その人だけが獲得できる“美徳(virtue)”があると説いた。成人期に獲得できる美徳は、“世話(care)”である。
ジェネラティビティーという、「人間の精神的発達の過程で、初めて自己中心的な発想を超えて、自分の子供や次の世代のために積極的に役立とうとする自我の飛躍」を達成できれば、次の世代を育み、世話をすることに喜び=美徳を見いだすことができる。
逆に、この段階で自分自身にしか関心を持てず、自己領域を超えることができないと、人格の停滞が起きる。停滞とは、若い時の過去のキャリアだけを勲章にして生きること。自己耽溺する傾向が強まり、不完全な状態で老年期を迎えることになってしまうのだ。
以前、45歳で大手商社の部長のポジションを捨てて転職したものの、職安通いを強いられた知人の話を紹介したことがあるが、彼が転職という決断に至った動機の根底にあったのは、「社会にとって、もっと意味を持つ働き方をしたい」という気持ちだった。
商社の部長というポジションで、キャリア・プラトーに陥っていた彼は、まずは大学院に通い、それまで彼が培ってきたキャリアを体系づけたうえで、それを社会に還元するために、いや、できる場を求めて次なる山に向かった。
ジェネラティビティーとは、自分という枠を超えて、後輩の育成や地域の発展に役立つ努力を行い、それを生かす働き方をすることである。彼の場合には、たまたま会社を変えるという選択が加わっただけ。いうなれば、会社を変えなくとも、働き方を変えることはできる。大切なのは、それまで培ってきたキャリアにすがるのではなく、それまでとは違うキャリアと向き合うことなのだ。
■自分を慕ってくれる“部下”を持て
例えば、組織図に示される部下がいなくとも、自分を「師」と仰いでくれる部下を持つことは、最も簡単なジェネラティビティーである。自分の業績を上げるためだけに、自分のためだけにキャリアを積み重ねるのではなく、後輩たちと一緒にいい仕事をしようとか、後輩がいい仕事ができるようにしようとか、損得勘定なしで関与しようとするだけでいい。
「自分が自分が」という意識を捨てて、縁の下の力持ちとして働けるかどうかであり、「困ったときには、〇○さんのところに行こう」と若手社員が慕うような関係性を周囲に作れるかどうか、なのだ。
部下が慕う、清濁併せ呑む技量を持った人間になれれば、成人期の発達課題はクリアできる。そうすれば、世話という美徳の中に職務上の満足感を見いだし、少しだけイキイキと働けるようになる。満足感を得られれば、「自分もリストラされてしまうかも」といった不安も払拭されることだろう。
自分を慕う部下を持つ人のキャリア人生は、実に豊かだ。会社を辞めた途端に、年賀状も来なくなり、つながりが途切れるような人間関係では寂しいものである。会社で出世した人ほど、リタイアした後に孤独感に襲われることがあるが、役職と関係なく自分を慕う部下たちとの縁は、たとえ会社を離れたとしても、そうそう簡単に途切れることはないはずだ。
自分が20代だった頃、40代は明らかにオジサンに見えた。だが、実際に自分がその年齢になると、まだまだ若い気がしてしまうものである。
深層心理の研究で有名なスイスの心理学者ユングは、40歳を人生の正午に例え、「午前の太陽の昇る勢いはすさまじいが、その勢いゆえに背後に追いやられたもの、影に隠れてしまったものがたくさんある。それらを統合していくのが40歳以降の課題だ」としている。
どんなに自覚できなくとも、40歳は人生の折り返し地点。肉体的なピークは過ぎ、20代の頃に目指していた山をそれ以上昇ることができるのは、ごく一部の人だけである。だが、知力だけは年齢を重ねても衰えることがない。険しい山を昇る体力はなくとも、自分の知力を生かして昇れる山を目指せばいい。
とかく険しい山ばかりを目指してきた人にとっては、「え、こんな山?」とがっかりするかもしれない、退屈に思えるかもしれない。だが、実際に登ってみると、その景色の見事さに感銘を受けることだろう。それが、“美徳”といわれるものだ、と思うのだ。
ユングが「統合」という言葉を用いたのは、人生は光と影があって初めて1つの人生となり、午前と午後があって初めて一人の完全な人間になれると考えたからだ。キャリアも、1つの山を登りきるだけでなく、隣の山を目指して再び歩き出さない限り、完成しないのかもしれない。
会社のお荷物になってしまう前に、自分にばかり向けていたベクトルを次世代の後輩に向けてみてはいかがだろうか。きっとジェネラティビティーの山の傾斜は緩やかで、ところどころに今まで見すごしてきた小さくてきれいな花が咲いていることだろう。お互いに干上がらないように、何とかせねばいかん、ですね。
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いつか、岡敦さんのコラム、生きるための古典でみた、クロード・レヴィ=ストロースのプリコラージュの話を思い出した。
そんなところに、自分が自分らしく生きていくためのヒントがありそうな気がしている。
河合薫の新・リーダ術 上司と部下の力学
河合さんって、すっごく面白いこと言っている。おすすめのコラムである。
以下一部引用するので、琴線に触れた人は、ぜひNBONLINEにメールアドレスを登録してみてください。他の記事も読めます。
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■思秋期を乗り越えるキーワードは「生殖性」
では、高原状態を脱して、新たな山の頂を目指すにはどうすればいいのか?
キーワードは、生殖性だ。
米国の心理学者、エリク・H・エリクソンは、「幼児期と社会」という著書の中で人生を8段階に分け、それぞれの時期になすべき課題(発達課題)を示した。エリクソンによれば、発達課題をそれぞれの段階で克服していけば、人間的に成長し、社会における自己の存在と居場所を獲得できるという。
40代は、人生の7段階目の成人期。発達課題は、生殖性だ。
生殖性とは聞き慣れない言葉だが、原語は「ジェネラティビティー(generativity)」というエリクソンの造語で、「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわっていくこと」と定義されている。
ジェネラティビティーの語源は、生殖とか産み出すことを意味する生命科学の分野にある。そして次世代の価値とは、次の世代へ連なって産み出される新しい価値のすべてを指し、子供だけでなく、社会的な業績や知的、芸術的な創造も含まれる。
後輩のため、他者のため、地域のため──。何のためであれ、次の世代をより良いものにすべく、自分を超えた価値とかかわることがエリクソンの唱えるジェネラティビティーなのだ。
エリクソンは発達課題を達成すると、その人だけが獲得できる“美徳(virtue)”があると説いた。成人期に獲得できる美徳は、“世話(care)”である。
ジェネラティビティーという、「人間の精神的発達の過程で、初めて自己中心的な発想を超えて、自分の子供や次の世代のために積極的に役立とうとする自我の飛躍」を達成できれば、次の世代を育み、世話をすることに喜び=美徳を見いだすことができる。
逆に、この段階で自分自身にしか関心を持てず、自己領域を超えることができないと、人格の停滞が起きる。停滞とは、若い時の過去のキャリアだけを勲章にして生きること。自己耽溺する傾向が強まり、不完全な状態で老年期を迎えることになってしまうのだ。
以前、45歳で大手商社の部長のポジションを捨てて転職したものの、職安通いを強いられた知人の話を紹介したことがあるが、彼が転職という決断に至った動機の根底にあったのは、「社会にとって、もっと意味を持つ働き方をしたい」という気持ちだった。
商社の部長というポジションで、キャリア・プラトーに陥っていた彼は、まずは大学院に通い、それまで彼が培ってきたキャリアを体系づけたうえで、それを社会に還元するために、いや、できる場を求めて次なる山に向かった。
ジェネラティビティーとは、自分という枠を超えて、後輩の育成や地域の発展に役立つ努力を行い、それを生かす働き方をすることである。彼の場合には、たまたま会社を変えるという選択が加わっただけ。いうなれば、会社を変えなくとも、働き方を変えることはできる。大切なのは、それまで培ってきたキャリアにすがるのではなく、それまでとは違うキャリアと向き合うことなのだ。
■自分を慕ってくれる“部下”を持て
例えば、組織図に示される部下がいなくとも、自分を「師」と仰いでくれる部下を持つことは、最も簡単なジェネラティビティーである。自分の業績を上げるためだけに、自分のためだけにキャリアを積み重ねるのではなく、後輩たちと一緒にいい仕事をしようとか、後輩がいい仕事ができるようにしようとか、損得勘定なしで関与しようとするだけでいい。
「自分が自分が」という意識を捨てて、縁の下の力持ちとして働けるかどうかであり、「困ったときには、〇○さんのところに行こう」と若手社員が慕うような関係性を周囲に作れるかどうか、なのだ。
部下が慕う、清濁併せ呑む技量を持った人間になれれば、成人期の発達課題はクリアできる。そうすれば、世話という美徳の中に職務上の満足感を見いだし、少しだけイキイキと働けるようになる。満足感を得られれば、「自分もリストラされてしまうかも」といった不安も払拭されることだろう。
自分を慕う部下を持つ人のキャリア人生は、実に豊かだ。会社を辞めた途端に、年賀状も来なくなり、つながりが途切れるような人間関係では寂しいものである。会社で出世した人ほど、リタイアした後に孤独感に襲われることがあるが、役職と関係なく自分を慕う部下たちとの縁は、たとえ会社を離れたとしても、そうそう簡単に途切れることはないはずだ。
自分が20代だった頃、40代は明らかにオジサンに見えた。だが、実際に自分がその年齢になると、まだまだ若い気がしてしまうものである。
深層心理の研究で有名なスイスの心理学者ユングは、40歳を人生の正午に例え、「午前の太陽の昇る勢いはすさまじいが、その勢いゆえに背後に追いやられたもの、影に隠れてしまったものがたくさんある。それらを統合していくのが40歳以降の課題だ」としている。
どんなに自覚できなくとも、40歳は人生の折り返し地点。肉体的なピークは過ぎ、20代の頃に目指していた山をそれ以上昇ることができるのは、ごく一部の人だけである。だが、知力だけは年齢を重ねても衰えることがない。険しい山を昇る体力はなくとも、自分の知力を生かして昇れる山を目指せばいい。
とかく険しい山ばかりを目指してきた人にとっては、「え、こんな山?」とがっかりするかもしれない、退屈に思えるかもしれない。だが、実際に登ってみると、その景色の見事さに感銘を受けることだろう。それが、“美徳”といわれるものだ、と思うのだ。
ユングが「統合」という言葉を用いたのは、人生は光と影があって初めて1つの人生となり、午前と午後があって初めて一人の完全な人間になれると考えたからだ。キャリアも、1つの山を登りきるだけでなく、隣の山を目指して再び歩き出さない限り、完成しないのかもしれない。
会社のお荷物になってしまう前に、自分にばかり向けていたベクトルを次世代の後輩に向けてみてはいかがだろうか。きっとジェネラティビティーの山の傾斜は緩やかで、ところどころに今まで見すごしてきた小さくてきれいな花が咲いていることだろう。お互いに干上がらないように、何とかせねばいかん、ですね。
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いつか、岡敦さんのコラム、生きるための古典でみた、クロード・レヴィ=ストロースのプリコラージュの話を思い出した。
そんなところに、自分が自分らしく生きていくためのヒントがありそうな気がしている。