よい本って、読んだ後に自分の中で
・池に石を投げた時にできる水紋のようなものが生まれたり
・ぼっかりあいている空間が満たされたり
・昔の記憶と干渉しあってあたらしい響きが聞こえたり
するものだとおもいます。(たぶん映画や音楽もそうでしょうね。)
そんな本に一生で何回出会えるか。
今月読んだ本は3冊。
1.オシムの言葉
2.バカの壁
3.続バカの壁
♪♪♪
イビチャ・オシム。本物のプロである。
旧ユーゴスラビアのサッカーが、ヨーロッパで一番の輝きをはなった時代の代表監督。国が民族紛争で崩壊していく過程でも毅然としている、プロとしての信念をもつ仕事師。
ボスニア紛争で妻や子供と生き別れになったてその安否がわからない状態が続いても、投げやりにならない自制心をもった人間。
シニカルな言葉も、こういった背景からうまれるものであろう。頭のよさだけでなく、生きる力をもった人と思う。
生き物として、死なないという信念を持つことは、とても大事なのだ。
♪♪♪
「バカの壁」と「続バカの壁」は、正編と続編の関係ではない。
「バカの壁」は、ひとつの主題について色んな確度から論じているのに対し、
「続バカの壁」は、こんなことに対してはこうだ、あんなことに対してはこうだ、という例題をあつめたものである。
養老さんは極端な言い方はするけど、割合ノーマルな感覚の持ち主のように思う。
言葉にとらわれるのではなく、言葉の背景にある思想を感じるようによむと面白いと思います。
♪♪♪
「バカの壁」を読んで痛感したのが、自分の頭のなかもバカの壁だらけ、ということ。
ニューラル・ネットをはじめ、脳の話はわかりやすかった。さすがお医者さん。
・同じ事象を見ても、知りたいと思っていないことは、理解できない。これもバカの壁の一つ。
・常識というのは、物知りである=知識があるということではなく、「あたりまえ」のことをさす。
「あたりまえ」のことについてのスタンスがずれてしまっているのに「自分達は知っている」と思ってしまうのがそもそも間違い。
・相手を利口だと思って説教してもダメで、どのくらいバカ(バカの壁を持った人)かということがはっきり見えていないと(あたりまえのスタンスがどれくらいずれているのかが見えていないと)説教、説得はできない、相手を動かせない
♪♪♪
「続バカの壁」の方が、より具体的なので読みやすいでしょう。
こちらでは、フラクタル理論の話が、例えとしてはわかりやすかったですね。
また、都市化と少子化の問題について論じているところは全体的に考えさせられました。
・一般的には、科学的な結論というのは一義的に定まっており、正しい答えが必ずある、と考えているでしょうが、これがフラクタル理論やカオス理論によれば、答えはものさし次第であり、ものさしに応じた答えがそれぞれ複数存在している、という結論になります。
・科学技術が与えた錯覚では、社会システムですら「ああすればこうなる」的な科学的な論理で割り切れると言う風にどこかで思ってしまう。が、半分くらい「ああすればこうなる」をすてて考えないとうまくいかない。
自分に当てはめますと、いろんな事象を想像して「こうなればこうなる、だから前もってこうする」を考えたりすることが多かったのですが、あんまり直接の役には立ってないんですよね。
なんでもかんでもシミュレーションしておくのは無駄だと思うようになって、今はやらなくなったのですが、そうかといって、考えること自体が無駄なので一切考えないというのもあまりにも短絡的です。正規分布の両極端に分布するような考え方、行動は、一般人にとってはたぶん有害なんでしょう。
「ほどほど」という感覚を大事にしていこうと思います。
♪♪♪
この3冊を読んで
親として、子供の教育
会社員として、要員育成と評価、成果主義
個人として、生きることそのもの
を考えてみるよいきっかけになりました。
こういうことを考えても、若いときほど(自分の行動特性を変えるような)インパクトはないですが、じわじわとでもいいから、今よりましな人間になれればなぁ、と思っています。
・池に石を投げた時にできる水紋のようなものが生まれたり
・ぼっかりあいている空間が満たされたり
・昔の記憶と干渉しあってあたらしい響きが聞こえたり
するものだとおもいます。(たぶん映画や音楽もそうでしょうね。)
そんな本に一生で何回出会えるか。
今月読んだ本は3冊。
1.オシムの言葉
2.バカの壁
3.続バカの壁
♪♪♪
イビチャ・オシム。本物のプロである。
旧ユーゴスラビアのサッカーが、ヨーロッパで一番の輝きをはなった時代の代表監督。国が民族紛争で崩壊していく過程でも毅然としている、プロとしての信念をもつ仕事師。
ボスニア紛争で妻や子供と生き別れになったてその安否がわからない状態が続いても、投げやりにならない自制心をもった人間。
シニカルな言葉も、こういった背景からうまれるものであろう。頭のよさだけでなく、生きる力をもった人と思う。
生き物として、死なないという信念を持つことは、とても大事なのだ。
♪♪♪
「バカの壁」と「続バカの壁」は、正編と続編の関係ではない。
「バカの壁」は、ひとつの主題について色んな確度から論じているのに対し、
「続バカの壁」は、こんなことに対してはこうだ、あんなことに対してはこうだ、という例題をあつめたものである。
養老さんは極端な言い方はするけど、割合ノーマルな感覚の持ち主のように思う。
言葉にとらわれるのではなく、言葉の背景にある思想を感じるようによむと面白いと思います。
♪♪♪
「バカの壁」を読んで痛感したのが、自分の頭のなかもバカの壁だらけ、ということ。
ニューラル・ネットをはじめ、脳の話はわかりやすかった。さすがお医者さん。
・同じ事象を見ても、知りたいと思っていないことは、理解できない。これもバカの壁の一つ。
・常識というのは、物知りである=知識があるということではなく、「あたりまえ」のことをさす。
「あたりまえ」のことについてのスタンスがずれてしまっているのに「自分達は知っている」と思ってしまうのがそもそも間違い。
・相手を利口だと思って説教してもダメで、どのくらいバカ(バカの壁を持った人)かということがはっきり見えていないと(あたりまえのスタンスがどれくらいずれているのかが見えていないと)説教、説得はできない、相手を動かせない
♪♪♪
「続バカの壁」の方が、より具体的なので読みやすいでしょう。
こちらでは、フラクタル理論の話が、例えとしてはわかりやすかったですね。
また、都市化と少子化の問題について論じているところは全体的に考えさせられました。
・一般的には、科学的な結論というのは一義的に定まっており、正しい答えが必ずある、と考えているでしょうが、これがフラクタル理論やカオス理論によれば、答えはものさし次第であり、ものさしに応じた答えがそれぞれ複数存在している、という結論になります。
・科学技術が与えた錯覚では、社会システムですら「ああすればこうなる」的な科学的な論理で割り切れると言う風にどこかで思ってしまう。が、半分くらい「ああすればこうなる」をすてて考えないとうまくいかない。
自分に当てはめますと、いろんな事象を想像して「こうなればこうなる、だから前もってこうする」を考えたりすることが多かったのですが、あんまり直接の役には立ってないんですよね。
なんでもかんでもシミュレーションしておくのは無駄だと思うようになって、今はやらなくなったのですが、そうかといって、考えること自体が無駄なので一切考えないというのもあまりにも短絡的です。正規分布の両極端に分布するような考え方、行動は、一般人にとってはたぶん有害なんでしょう。
「ほどほど」という感覚を大事にしていこうと思います。
♪♪♪
この3冊を読んで
親として、子供の教育
会社員として、要員育成と評価、成果主義
個人として、生きることそのもの
を考えてみるよいきっかけになりました。
こういうことを考えても、若いときほど(自分の行動特性を変えるような)インパクトはないですが、じわじわとでもいいから、今よりましな人間になれればなぁ、と思っています。