今月は1冊。
「イノベーションの本質」野中郁次郎さん、勝見明さん 日経BP
前に読んだ「イノベーションの達人」とはだいぶ切り口が違う。
ケーススタディは今回のほうがおもしろいなあ。
参考までに事例としては
サントリーのDAKARA
本田技研のアコードワゴン
デンソーの2次元レーザーシステム
キャノンのIXY DIGITAL
スズキのチョイノリ
富士通のプラズマディスプレイ
ヤマハの光るギター
黒川温泉
日清の具多
松下の遠心力乾いちゃう洗濯機
ミツカンのにおわなっとう
スタジオジブリの千と千尋の神隠し
海洋堂の食玩
です
印象に残ったところ引用
====
主観的な世界について、少し別な角度から見てみましょう。主観的観点は放っておくととかくくもりがちです。これをもう一度磨き直し、自分の主観を極力ありのままの現実に近づけるため、現象学ではエポケー(判断停止)という方法が用いられると、第五章のスタジオジブリの事例で述べました。エポケーとは、「カッコに入れる」こと。われわれは日常の中に埋没し、ビジネス社会で浸かって生きているうちに、直面する出来事をありのままに見たり、感じたりすることができなくなってしまいます。
そこで、ビデオを一時停止するように、今ここで行っている判断をカッコに入れる。もちろん一時停止しても意識作用そのものがなくなるわけではありません。思考や判断を停止したときに、原初的な近くの世界が自ずと立ち上がってくる。この知覚から新しい知識の創造が始まると、フッサールは唱えたのです。
フッサールはドイツのユダヤ人哲学者ですが、エポケーしてありのままに見て感じる世界は、東洋の禅の瞑想とも共通するものがあります。禅は目を閉じているように見えますが、開けるともなく開けています。目をつぶるとイマジネーションになってしまうからです。
目を開けながら、しかし、一切の価値判断を交えず、何にも汚染されずに見るともなく見ていると、ありのままの世界が浮き上がってくる。禅僧であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏は、この「意識を拡散させたまま集中している状態」を「うすらぼんやり」と表現しています。
(中略)
翻って、われわれはビジネスの世界において、どれほど顧客や市場をありのままに見ていることでしょうか。分析はツールさえあれば、誰にでも同じように行うことができます。しかし、同じような答えしか導き出すことしかできません。これに対し、現場で直接経験しながら、ありのままに見て直感する主体的な世界は、自分なりに意味を見つけて、新しい知を生み出していくことができます。
分析の奴隷と貸した傍観者の立場から自らを解き放つには、もういちど直接経験できる現場に立ち戻り、近くや身体感覚を信じ、自らの主観的光景に自信を持つことです。分析的な認識や思考を一時停止し、カッコにいれる。一切の価値判断を廃し、ありのままを見て感じる。一歩踏み出しさえすれば、新しい世界が開かれることに今すぐ気づくべきです。
====
分析から生まれるのは形式知ですが、これだけではあかん。
現場体験(知覚)からうまれる暗黙知も必要。
ヒット製品を生み出した人たちは、この両方をアウフヘーベンしているよ、って話がベースにあります。
きっと形式知を極めてもこんな問題がでてくるんだろうな。
でも形式知ですらまともに得られてない現場は、その入口以前の問題なんだろうな。
こうやって分析しているのがよくないのかも。見るものを判断しないでありのまま感じれば、新しい知が生まれるかもしれない、というのが読んでいて新鮮だった。
職場で、いろんなものを分析し対案を検討し実施するというのではなく、まずはありのままその状態を感じてみよう、というのは視点としてなかったなあ。
「イノベーションの本質」野中郁次郎さん、勝見明さん 日経BP
前に読んだ「イノベーションの達人」とはだいぶ切り口が違う。
ケーススタディは今回のほうがおもしろいなあ。
参考までに事例としては
サントリーのDAKARA
本田技研のアコードワゴン
デンソーの2次元レーザーシステム
キャノンのIXY DIGITAL
スズキのチョイノリ
富士通のプラズマディスプレイ
ヤマハの光るギター
黒川温泉
日清の具多
松下の遠心力乾いちゃう洗濯機
ミツカンのにおわなっとう
スタジオジブリの千と千尋の神隠し
海洋堂の食玩
です
印象に残ったところ引用
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主観的な世界について、少し別な角度から見てみましょう。主観的観点は放っておくととかくくもりがちです。これをもう一度磨き直し、自分の主観を極力ありのままの現実に近づけるため、現象学ではエポケー(判断停止)という方法が用いられると、第五章のスタジオジブリの事例で述べました。エポケーとは、「カッコに入れる」こと。われわれは日常の中に埋没し、ビジネス社会で浸かって生きているうちに、直面する出来事をありのままに見たり、感じたりすることができなくなってしまいます。
そこで、ビデオを一時停止するように、今ここで行っている判断をカッコに入れる。もちろん一時停止しても意識作用そのものがなくなるわけではありません。思考や判断を停止したときに、原初的な近くの世界が自ずと立ち上がってくる。この知覚から新しい知識の創造が始まると、フッサールは唱えたのです。
フッサールはドイツのユダヤ人哲学者ですが、エポケーしてありのままに見て感じる世界は、東洋の禅の瞑想とも共通するものがあります。禅は目を閉じているように見えますが、開けるともなく開けています。目をつぶるとイマジネーションになってしまうからです。
目を開けながら、しかし、一切の価値判断を交えず、何にも汚染されずに見るともなく見ていると、ありのままの世界が浮き上がってくる。禅僧であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏は、この「意識を拡散させたまま集中している状態」を「うすらぼんやり」と表現しています。
(中略)
翻って、われわれはビジネスの世界において、どれほど顧客や市場をありのままに見ていることでしょうか。分析はツールさえあれば、誰にでも同じように行うことができます。しかし、同じような答えしか導き出すことしかできません。これに対し、現場で直接経験しながら、ありのままに見て直感する主体的な世界は、自分なりに意味を見つけて、新しい知を生み出していくことができます。
分析の奴隷と貸した傍観者の立場から自らを解き放つには、もういちど直接経験できる現場に立ち戻り、近くや身体感覚を信じ、自らの主観的光景に自信を持つことです。分析的な認識や思考を一時停止し、カッコにいれる。一切の価値判断を廃し、ありのままを見て感じる。一歩踏み出しさえすれば、新しい世界が開かれることに今すぐ気づくべきです。
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分析から生まれるのは形式知ですが、これだけではあかん。
現場体験(知覚)からうまれる暗黙知も必要。
ヒット製品を生み出した人たちは、この両方をアウフヘーベンしているよ、って話がベースにあります。
きっと形式知を極めてもこんな問題がでてくるんだろうな。
でも形式知ですらまともに得られてない現場は、その入口以前の問題なんだろうな。
こうやって分析しているのがよくないのかも。見るものを判断しないでありのまま感じれば、新しい知が生まれるかもしれない、というのが読んでいて新鮮だった。
職場で、いろんなものを分析し対案を検討し実施するというのではなく、まずはありのままその状態を感じてみよう、というのは視点としてなかったなあ。