昔ベンチャー企業にいたころ、新人~若手向けに、ビジネススキルに関する資料を作ってつかっていたことがある。
本からの引用と、体験談からなる。
こういったことを、自分の業務が終わった後に対応していた。
自分の業務を目一杯対応し売り上げを確保し、残ったお金にならない仕事は家に持ち帰り、深夜遅く(下手したら翌朝)まで対応していた。
土日も、家人を無視して対応していた時期もある。
経営者に、そういう自分を評価してほしい、という気持ちが強かったと思う。
他の部署で技術者失格の烙印を押されたメンバーも受け入れた。
それを立ち直らせることが、自分の評価につながると思ったからだ。
人員構成がいびつで、私の右腕となるメンバーがおらず、部署の経営戦略の策定から実際の細かい実務まですべてかかえこむことになってしまった。方針に関する各自のコミットメントなんか望むべくもない。
ベンチャーに入ってくる人は社長の経営思想とか哲学に共鳴してくるのでベクトルがそろっている(求めるものが似ている)ので、話せばわかる、と思っていたが、実際はそうでなかった。
あまりにも人生観がことなると、日本語が通じない。何をレクチャーしても、まともに伝わらない。”こう”だから”こう”なので”こう”という三段論法が通じない。
”こう”だから”それ”なので”あれ”になったり、”こう”だから”こう”でも”あれ”になったりする。そんなんで、自分もかなり上から目線だったように思う。
そういう体制では当然仕事がまわるべくもなく、売り上げ利益率はトップで他の部署の赤字をうめていても、経営者に「お前のところは烏合の衆。」と酷評された。
体調もおかしくなってしまった。自分も家族も、疲弊していた。
結局その企業での立身出世はあきらめて転職したが、その後烏合の衆と言われたメンバーはほとんど退職したようだ。
今から思えば、僕は、経営者の意に沿ってはいても、無駄な努力を目一杯していたようだ。
今は、そういう評価軸はない。
そこまでして得られる対価で、家族が幸せになれればいいが、そうは思えないからだ。
ちびたちと一緒にあそべて、おかあさんにおいしいパンを買ってこられて、ちびたちに使えるお金があれば、それでいい。
自分の能力に応じた適切な仕事をする場があって、適切なお給料をいただければ、それでよい。
会社に対して、過度な期待は持っていない。
どんな会社にも、いいところもあれば、悪いところもある。自分がかわると、悪いところも悪くなくなったりすることもあるし、いいところがいいところでなくなってしまうこともある。最終的には、まわりと、自分のような気がする。
これが大手、ベンチャー、現在と転職をくりかえしてわかったこと。
変な意味で自分の殻に閉じこもる意図はないので、自分の体験はいつでも若手にプレゼントしたいし、僕の分の仕事もやってくれると僕が楽になるので助かる。
会社がピンチのときは、それなりに協力しよう。落伍者がでないように、よく意をつくして説明し、ベクトルをそろえよう。(そのためには情報開示されていないと困るが。)
まあ、今でも、いろいろ講釈(考え方や体験談)をたれたりもするが、だれかが聞いていても、聞いてなくても、正直なところあまりかまわなかったりする。
その人がそういう気持ちになっていないときに何を話しても無駄だと思うからだ。そういう気持ちになって心の耳がダンボになっているときは、おおいに聞いてもらって他山の石にしてくれたらそれもまたよし。
前の会社でつくったビジネススキルの資料も、そこそこ役に立っている人もいるようだったりして、それはそれでうれしかったりする。
願わくば、本物のビジネスマン(一緒に仕事するとこっちの経験値が10くらいどばっとあがるような人)と、わくわくする仕事ができれば、うれしいと思う。
いつぞやの、
父の形見の勝負ネクタイの出番だ。
だいたい何年かに1度くらいはそういう機会があるので、それまでは、これ以上、ぐれないようにしよう。